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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

六 禅宗の展開

 鎌倉時代に移入されたわが国の禅宗には、中国に渡った日本人僧によってもたらされたものと、来朝の中国人僧によってもたらされたものがあり、前者には、栄西・円爾・無本・南浦を祖とする臨済宗の諸派と、道元を派祖とする曹洞宗があり、後者には、蘭渓・無学等を派祖とする臨済諸派と、東明によって伝えられた曹洞宗宏智派がある。また、別のとらえ方をすると、南北朝以後、幕府の宗教統制のもとに、無学の法系から出た夢窓派と、円爾の法系である東福寺派を中心に形成された五山派(叢林)に対し、永平寺・総持寺によった曹洞宗、大徳寺・妙心寺によった臨済宗大応派など地方布教を主とした林下(山林)に分けられる。そして、まず五山派が栄えたあと、室町時代後半から林下が盛んになった。ちなみに、主として中国人僧によって請来された黄檗宗がわが国に入ったのは近世のことに属する。
 右のうち、中世の伊予における禅宗の展開の主なものは、臨済宗では、聖一国師円爾を派祖とする東福寺派と、建長寺南浦紹明を派祖とする大応派中の妙心寺派であり、曹洞宗では、徹通を派祖とする能登総持寺派である。

臨済宗東福寺派

 栄西・行勇・栄朝ら鎌倉時代初期以降の禅宗は、禅密兼修が濃厚であって、のちの臨済のいわゆる純粋禅とは少し性格を異にした・栄朝門の円爾(弁円、聖一国師、一二〇二~一二八〇)は、鎌倉寿福寺の行勇に参禅、入宋し径山に投じて印可を受け、藤原道家建立の東福寺に開山となり、また、寿福寺・建長寺にも歴住した。特に東福寺に拠って臨済宗東福寺派の祖となり、その門流による布教は伊予に及んだ。その法系を伊予関係のものについて摘記すると次のとおりである。
(参照 「臨済宗東福寺派 伊予関係系譜」)
 右のうち、山叟恵雲(一二三一~一三〇一)は、正嘉二年(一二五八)入宋、円爾門十禅師の一人で、正覚門派派祖、東福寺五世。宇摩郡土居町関川大福寺(東福寺派)は、弘安三年(一二八〇)恵雲による開創と伝える。同じく円爾の高弟擬兀大慧(一二二~一三一二)は、平等と号して勢州の人、平清盛の遠孫と伝える。東福寺九世となり、没後三三年仏通禅師の号を賜った。この禅師を中興開山とする寺に保国寺(西条市中野、東福寺派)があり、重要文化財指定の坐像がある。保国寺五三世九峰礼淵の「万年山保国禅寺歴代略記」に、仏通禅師の来錫を具体的に記しているけれども、禅師関係の諸種の伝記には全く記載されていないから、これは単なる伝承に過ぎず、また、同禅師坐像も、明治三〇年ごろ、観念寺の大典梵器のあっせんによって東福寺からもらい受けたということである。同寺の創建は古く、初め聖武天皇勅願寺で金光院といい、のち天台寺院であったと伝える。永仁二年(三九四)、時の住職叔瓊が伊予に巡錫した禅師を迎えて開山としたというのは誤りで、開山仏通禅師、二世嶺翁寂雲とも伝えるから、仏通禅師は勧請開山で、事実上の開山は嶺翁寂雲だったのであろう。
 つぎに、円爾の法孫に鉄牛景(継)印(~一三五一)があり、観念寺(東予市上市、東福寺派)の開山とされる。しかし、越智盛氏により文永年中(一二六四~一二七四)の開創とみられる同寺は、開創当時より数代は念仏道場で、時衆の寺院であった。その後盛氏より三代目の盛康代、元弘二年(一三三二)元から帰朝して間もない鉄牛を迎え、臨済寺院として再興したものとみられる。鉄牛は諱を継印、河内出身の菅氏といい、その河内の処在は不明であるが、越智郡・周桑郡あたりといわれている。鉄牛は、晩年の師円爾に直接参究したあと無為昭元に嗣法、元亨三年(一三二三)渡元して雪峯・古林その他の諸師に学び、在元一〇年にして帰朝したのであった。なお、同寺の伝承に、鉄牛以前に南溟殊鵬が入寺していたという説があり、現に本堂裏の開山堂には鉄牛像とともに南溟像が祀られている。いずれにしても短期間の住持だったとみられる。ちなみに、南溟の法系は、仏光国師-仏国国師-玉峯妙圭―南溟殊鵬であって、鉄牛との間に直接の関係はない。
 同じく円爾の法孫悟庵智徹(~一三六七)は近江の人、豊後を中心に九州布教後伊予に来たり、西江寺(宇和島市丸穂、臨済宗妙心寺派)を開創したのが正平二〇年(一三六五)、この寺はもと現竜光院の地にあり、仏教文化の後進地である同地では最古の寺院とされる。のち寛永三年(一六二六)現在地に再興、中興開山的堂によって妙心寺末となったが、それ以前は東福寺派であった。また、西光寺(宇和島市大浦、臨済宗妙心寺派)も、悟庵を開山とする東福寺派寺院で、開創年代も全く同じ、さらに中興開山的堂によって妙心寺派になったと伝えることまで同一である。
 つぎに、伊予に最も深い関係をもつのは円爾の弟子南山士雲(一二五四~一三三五)およびその法系である。南山上雲は、東福寺・円覚寺・建長寺に歴住して北条・足利両氏の帰依を受げた。落魄の河野通盛が、遊行上人安国のすすめで建長寺南山土雲の下に剃髪して善恵と号し、士雲を通じて足利尊氏の知遇を得、通信以来の旧領を安堵されたという予章記以下の伝承がある。史実の上からは、この時はじめて伊予一国の守護となったわけで、河野氏の歴史にとっては最大級のできごとであるが、こうした仏縁もあって、通盛の仏教崇敬の念は厚く、自己の居館を寺院とし、南山士雲の法恩を重んじ、その弟子正堂士顕(~一三七三)を長福寺(東予市北条、臨済宗妙心寺派)から迎えて善応寺(北条市善応寺、東福寺派)を開創した、建武三年(一三三六)のことである。通盛は貞和三年(一三四七)置文をつくり、正堂士顕門下をこの寺の住持職にあてることを決めた。二世南宗土綱はその弟子である。ちなみに、正堂士顕は、渡元して無見に参じ、その印可を受けて帰国、はじめ長州長福寺に住し、のも伊予長福寺にいたとき善応寺に請ぜられた。
 正堂士顕が長福寺に住していたことは『予章記』にも記すところであるが、他にたしかな記録はない。長福寺は、河野通有が、弘安の役に戦死した将兵を弔うため、正堂士顕の弟子雲心善洞を開山として弘安四年(一二八一)に開創したと伝えるが、弘安四年という開創年に問題はないものとすると、雲心善洞の没年とされる応永二八年(一四二一)との間に大きい矛盾を生じる。いずれにしても、これらは、南明による再興以前のたしかな記録のない長福寺の伝承のあいまいさからくるものである。一方、同寺の縁起を記す明治二年の『奉書記』は、開基河野通有の法号「長福寺殿天心紹普大居士」をあげ、墓所が同寺にあることを記し、この寺の開創を弘安四年とするところまでは問題がない。そのあと開山南山土雲、二世正堂士顕とするあたりから善応寺との関係になり、つづいて朴奄士敦のあと雲心善洞の名が出て来る。したがって、開創年をそのままとし、開山を雲心善洞とするのをやめるとあまり矛盾はなくなり、この場合、南山士雲は勧請開山に相違ないから、開山を正堂上顕とし、正堂士顕が善応寺へ去ったあと、二世が朴奄土敦、三世雲心善洞ということになるがいかがなものであろうか。ともかく、この寺は初め東福寺派であったが、のち寛永一四年(一六三七)長福寺に入った南明東湖を中興開山とし、この時から妙心寺派の寺院としての歴史は明らかである。
 同じく正堂士顕を開山として応永二一年(一四一四)に中興したといわれる宗泉寺(上浮穴郡美川村大川、東福寺派)がある。もと真言宗であったという。正堂士顕の没年は一三七三年であるから、没後の招請開山であり、二世三峯を事実上の中興開山とみなければならぬが、その没年を元禄一〇年(二元七)としているからここにも矛盾がある。この寺は、かつては浮穴郡全域にわたって末寺六か寺を有し、小本寺の寺格を有する大寺で、今も古寺の面影を残している。
 ついで、南山土雲の弟子中渓一玄(~一三四九)は、足利尊氏の麾下にあった鳥生又三郎貞実(河野の門流)が、南北朝の争乱に倒れた将兵を弔うため、観応二年(一三五一)に建立を終えた仏城寺(今治市四村、東福寺派)の開山になった。なお、中渓一玄は、西明寺(今治市神宮、東福寺派、もと浄土宗の寺)に隠棲してここに示寂した。ちなみに、仏城寺は、江戸時代末期に末寺六か寺を持ち、中本寺の寺格を与えられていたが、現在も準別格地の格式をもっている。
 さらに、西念寺(今治市中寺、東福寺派)は、古く天治二年(一一二五)に建立されて天台宗であったと伝えられるが、河野通盛が元弘元年(一三三一)に中興、尊氏の恩に報いるため南山士雲を勧請開山としたが、事実上の開山は、その法孫枢浴玄機であった。善応寺の開創に先立つこと五年である。また、河野通朝の女婿西園寺公俊を中興開基として文中元年(一三七二)に開創したと伝える願成寺(周桑郡丹原町北田野、東福寺派)も、士雲の法孫古心士遵(~一四一四)を開山とする。ちなみに、同寺は、延慶元年(一三〇八)源行上人による開創で天台宗寺門派に属し、天門山護国院と称していたという。もう一つこの近くにある本願寺(同町長野、東福寺派)は、右の願成寺よりさらに古く、開創を天慶五年(九四二)まで遡り、純友の乱に功績のあった越智好方を開基と伝える真言の寺院であったが、中世末期南山士雲を中興開山として臨済宗東福寺派に改宗したと伝える。ただし、南山士雲は勧請開山であろうから、願成寺と同時期のことと思われる。
 最後に、円爾の高弟東山湛照の弟子に、『元亨釈書』の著者として有名な虎関師錬があり、その弟子回塘重淵(~一三九二)が開山となり、応永年間(一三九四~一四二七)に創建した常定寺(東宇和郡宇和町常定寺、東福寺派)は、西園寺氏の外護で栄え、一二坊を有する大寺で、永禄五年(一五六二)室町幕府により諸山に列せられた。また、右の東山湛照を開山とする大安楽寺(同町伊延、東福寺派)は、宇都宮永綱によって嘉暦元年(一三二六)創建とせられるが、湛照は勧請開山で、二世とされる月浦湛環が事実上の開山とみられる。

その他の臨済寺院

 一方、鎌倉建長寺の南浦紹明(大応国師、~一三〇八)は、鎌倉で蘭渓道隆に参禅後入宋、帰朝後大宰府崇福寺、京都万寿寺を経て建長寺に止住、その門から宗峰妙超などの高僧を輩出し、大応派の祖となった。この法系に伊予に関係のある高僧が多い。
南浦紹明(大応国帥)―峰翁祖一(大暁禅師)―大虫宗岑(大証禅師)―月奄宗光(大祖禅師)
 である。これら偉僧の足跡は、備前・備中を経て風早郡に集中してトる。
 安楽山人通寺(北条市下難波、現曹洞宗)には、平安前期開創の前身があったという説があるが、やや明らかになってくるのは貞和年中(一三四五~一三四九)峰翁祖一(~一三五七)を開山として迎え、河野通朝が七堂伽藍を創建して以来のことである。開墓通朝の法号は「大通寺殿光山道恵大居士」、墓所が寺域にある。開山峰翁祖一(大暁禅師)は、かつて大宰府崇福寺にあった際、河野通有とともに師大応国師に参じたことがあると伝えられるから、その縁もあってこの寺に迎えられたのかも知れなト。芙濃大円寺(現在廃寺)その他数か寺を開創、岐阜県関市大通寺(現在小庵)に示寂した。その後室町期に入って衰退していたのを、河野通宣が備中華光寺より玄室守えきを迎えて明応年間(一四九二~一五〇〇)に再興、この時より曹洞宗人通山安楽寺となった。
 大暁の法嗣大虫宗岑(一二七五~一三六二)は、諸国遍歴の後伊予に来て、宗昌寺(北条市八反地、現黄檗宗)に開山として迎えられた。元弘元年(一三三一)河野の支族越智経孝が建立、妻宗昌禅尼を開基とするところからこの寺名となった。大虫が観応元年(一三五〇)に制定した「大通・宗昌二禅寺定置規式」は宗昌寺と大通寺の規式であり、両寺の関係を示している。大虫の薫陶はきびしかったため、それに耐えて奥義を継承することのできたのは月菴宗光だけで、この寺を継承して二世となったが、のち最明寺を再興して中興開山となった。宗昌寺は二五世まで大応派の法系を継承して臨済宗であったが、松山藩主松平定長・定直が再興後の貞享元年黄檗宗に転じた。
 月菴宗光(一三二六~一三八九)は、美濃の大江氏、美濃大円寺の峯翁祖一に入門、京都等持院の古先印元、天竜寺の夢窓疎石、さらに宋より来朝の竺仙梵僊(南禅寺)などに従い、師峰翁の示寂(延文二年=一三五七)後その法嗣大虫の宗昌寺に投じたのであった。大虫の没後宗昌寺二世になったが、その後、紀伊・伊勢・山城・但馬などを巡錫したあと、最明寺(北条市上難波、現臨済宗妙心寺派)を再興したのは応安七年(一三七四)ごろとみられている。この寺は、寺名最明寺から推察されるように、弘長元年(一二六一)北条時頼(最明寺入道)諸国巡錫の際創建したと伝えるが、やがて荒廃していたものである。月菴は、伊予に来る前の正平二二年(一三六七)に開創した但馬大明寺(兵庫県朝来郡生野町)に帰り、康応元年(一三八九)ここで示寂した。なお、最明寺は、その後長く衰退の後、慶長八年(一六〇三)松山天徳寺開山南源によって中興している。
 月菴宗光の著作には、『月菴和尚語録』(明徳二年=一三九一)、『月菴和尚法語』(応永一〇年=一四〇三)があり、共に開板されたが、特に後者は仮名法語で読みやすく、禅の普及に貢献するところが大きい。鎌倉時代に入るとすぐれた仮名交じり文が出ていることは、道元や親鸞の著作によって明らかであるが、臨済宗における仮名法語は、東福寺派の祖円爾弁円を初めとし、それから約一〇〇年後二つのすぐれた仮名法語があらわれた。孤峯覚明の法嗣で塩山向岳寺開山抜隊得勝の『塩山仮名法語』と、同じく孤峯にも参じたことのある月菴宗光のこの仮名法語である。右にあげたように、月菴の仮名法語は室町時代に出版され、江戸時代になってもたびたび改版されて、俗人に対してまで禅の普及に大きい役割を果たした。『月菴和尚法語』は、「示宗如禅屋」をはじめ二六篇から成り。
 「示慈雲禅尼」というように、個々の具体的な人に示し与えた形をとっているが、書簡としてしたためたものでもないから、こうした形を借りて一般に示すため、最初から著作を意識して書かれたことは明らかである。そして、対象とした人は、禅門の僧尼をはじめとし、上は宰相中将から予州大守、下は宗通居士・了仁居士といった在家の居士をはじめ「示在家人」というような一般の在家人、そして「示信女慶明」、「示在家女人」といった在家の女人までさまざまである。このように、全く平等の立場で教化しようとした点にこの書の第一の意義がある。ちなみに、法語中に見える「示予州大守」の予州大守がだれであるかは明らかでないが、河野氏中のだれかはまちがいのないところで、あるいは通盛かその子通朝のいずれかと推察される。
 その内容は、全篇中でも長い方で、しかも全巻を通じて最大の眼目である「即心是仏」を説く重要な篇でもあるので、この内容を取上げてみたい。昌頭まず、「即心是仏」「即心是法、別ニ更ニナンノ法ヲカモトメン」と結論を述べる。しかるに、鈍根の者は、「今生ニテ直ニ悟ルヘキコトヲハヲモヒモヨラス、偏ニ後世ノ成仏ヲ希望スルノミナリ」と、この世における難行苦行のすえ後世に成仏することを願う世間普通の見解を戒める。また、外に「有相ノ仏」を求めてはならない、「我心スナハチ仏ナリト信スルハカリナリ」と言っている。これはすなわち、即心成仏ではなく、即心是仏、即心即仏という仏法の道理を喝破したもので、道元が『正法眼蔵』で説くところと全く同じであり、この仮名法語の趣意はこれに尽きる。
 なお、本書の内容は、最明寺の所蔵刊本によって愛媛県史『資料編学問・宗教』に収載している。世阿弥の能楽論を代表する『花鏡』に、この法語から月菴の偈が引用され、世阿弥の能楽論に影響を与えた。すなわち、法語の第三に出ている「示宗三禅閤」の最後に示した。
  生死去来 棚頭傀儡 一線断時 落々磊々
という偈を『花鏡』の「万能一心をつなぐ」の項に引いているわけである。その意は、「棚の上のあやつり人形は、糸がきれると崩れ落ちて、一切が無に帰してしまう。物まね芸能も、あやっりなので、これをつないで芸を生かすのは、演者の心が大切だ」ということである(和田茂樹)。法語で月庵が説いているのは、大道にはこれといった特別なところがあるわけではない、目前をはなれず、物に即して真理があるとともに、心法には形があるわけではない、一念不生(のちの盤珪の不生禅に通ずる)で、生なく死なく、無生の理を得ればたちどころに脱躰顕露するというようなことである。
 こうして、北条市の大通寺・宗昌寺・最明寺の三寺は、臨済宗大応派(建長寺派)の法系にある峰翁-大虫-月奄の三師にゆかりの寺院であるが、右に記したように、大通寺は曹洞宗に、宗昌寺は同じ臨済系ながら黄槃宗に改宗、ひとり最明寺だけ古来を通じて臨済を通している。なお、大通寺には大暁座像、宗昌寺には大虫座像、最明寺には月奄画像と、伝承三師の面影をとどめているのはうれしい。
 同じ南浦紹明の法系(大応派)が地方への積極的な布教をするにあたり、その中心の役割を果たしたのは大徳寺と妙心寺である。大徳寺がまず栄え、これが一時衰えると、末寺であった妙心寺が盛んになった。大徳寺派は大応の弟子宗峰妙超(大燈国師)を開山とするが、七世言外宗忠(一三一五~一三九〇)は伊予の越智氏の出、同じく一〇七世笑嶺宗訴(一四八九~一五六八)は河野氏の一族高田氏の出身といい宗昌寺に住持した。
 円覚寺派仏国国師の法系を嗣ぐ真空妙応(~一三五一)は、康永二年(一三四三)開創の西禅寺(大洲市手成、現東福寺派)の開山とされる。妙応は奥州塩松の人、那須雲岩寺仏国禅師の弟子となり、のちこの寺に嗣席した。喜多郡地頭職となった宇都宮貞泰の部将津々喜谷行胤は、横松の地に築城、菩提寺としてこの寺を建立した。というが、一説では、建立したのは宇都宮の興禅寺で、この寺の場合、妙応は勧請開山で、二世定室祖定を実質上の開山とする。地方には稀な大寺で、歴代住持がこの地方一円に寺院を開創し、喜多郡を中心に一八か寺の末寺を有したほどである。
 同じ臨済宗ながら、初期の禅密兼修的色彩を濃くし、さらに禅浄双修的傾向の強いのが心地覚心(法燈国師、言七~一二九八)であり、覚心を祖師とする法燈派の影響が浮穴郡以南にみられる。覚心は高野にあって高野聖の一派萱堂聖の祖、また、源実朝の菩提を弔った紀州由良興国寺(法燈派本山)の開祖であり、一遍上人の師ともいわれる。
 久万定徳寺は、正応二年(一二八九)、覚心の弟子円祖子鏡による開創と伝え、覚心に始まる普化尺八を継承してきたというが今は廃寺である。中山町盛景寺(現臨済宗妙心寺派)は、伊予に巡錫した法燈国師による弘長二年(三八二)の開創と伝えるが、伊予への巡錫は明らかでなく、おそらく覚心系の高野聖によるものであろう。同町佐礼谷誓明寺(現臨済妙心寺派)も、もと法燈国師の道場であったと伝えるから、盛景寺と同じ時代、同様の開創であろう。宇和島来応寺(現臨済宗妙心寺派)は、至徳二年(一三八五)の開創、開山は法燈国師の法孫首宗賢禅と伝える。また、松野町豊岡照源寺(現臨済宗妙心寺派、江戸時代は宇和島市選仏寺末)は、応永元年(一三四九)ごろ法燈派慧燈虚明による開創と伝え、法燈派下四道場のうちの南方道場で、この地方布教の中心となり、多くの末寺を有する地方屈指の大寺であった。
 なお、法燈派の寺院であったとみられるものに、城川町報恩寺(現曹洞宗)、宇和島市選仏寺(現臨済宗妙心寺派)、同仏海寺(同)、三間町竜泉寺(同)などがある。報恩寺は、紀貫之の後裔紀実平が、領主としてこの地にあり、応永二二年(一四一五)、崇敬する法燈国師(一二九八年寂)を名目上の開山とし、無端(~一四三〇)を開山として開創、のち天文二一年(一五五二)甲之森城主長山伯耆守が再建、寛永年間(一六二四~一六四三)竜沢寺末として曹洞宗に改宗した。したがって、それ以前は、法燈国師の流れを汲む臨済宗で、開祖無端は夢想国師の弟子であった(大雲山報恩寺旧記)。つぎに、宇和島市選仏寺は、宇和郡地方で法燈派の中心寺院であった照源寺十二世愚叔(~一六二九)が竜泉寺(現三間町土居中)に隠棲していたのを、宇和島城主富田信濃守が招請して慶長年間(一五九六~一六一四)に「肱枕奄」を開創。したがって初めは照源寺末であったが、四世達道宗黙(~一白ハ)が専門道場を開き弟子を養成して寺勢興隆、選仏寺と改称した。おそらくこの時代から照源寺との間が本末顛倒し、選仏寺が本寺になったとみられる。ちなみに、達道は金剛山大隆寺(宇和島市野川、臨済宗妙心寺派)第四世節巌禅悦の四神足の一人であり、また、選仏寺十世寛堂宗恕はその弟子晦巌とともに大隆寺に入る、というぐあいに大隆寺との関係は深い。三間町竜泉寺は、前記のように、照源寺一二世で、のちに選仏寺開山となった愚叔が開創して隠棲した寺で、のち文政一〇年(一八二七)、観蔵寺(現仏海寺)淵室を中興開山として土居与兵衛が再興した。最後に、宇和島市仏海寺は、この寺から出た誠拙(大用国師)があまりにも有名で、その陰にかくれたわけではないが、昭和四六年の火災ですべてを焼失してしまったこともあって、縁起が明らかでない。慶長(一五九六~一六一四)以前の建立で開山実乗、もと祝森にあって観蔵寺といった。『宇和旧記』によると、由良法澄国師と西園寺氏の位牌が祀られていたというから、板島殿西園寺氏の開基とも考えられるといわれ(『愛媛県の地名』)、いずれにしても法澄派の流れを汲むことはまちがいない。のち伊達秀宗の外護を受け、寛永一三年(一六三六)、羅漢寺・清太寺を併せて現在地に仏海寺として再興、中興開山桃林の跡を継いだ霊谷が妙心寺派淵室(三間竜泉寺中興)の法系だったので妙心寺末となったとみられる。
 つぎに、伊予の臨済宗で圧倒的に多いのは妙心寺派であるが、これらの中心寺院はほとんど近世の開創になるので、ここでは取り上げない。

安国寺と幕府の宗教統制

 南北朝時代、尊氏にすすめて天龍寺を開いたことで知られる夢窓疎石は、尊氏・直義に重く用いられた。その夢窓のすすめで、元弘以来の戦没者の霊を弔うため、尊氏・直義は各国に一寺一塔を建立することを発願した。そして、建武五年(一三三八)から貞和年間(一三四五~一三五〇)にかけてほとんどの国に設置、康永四年(一三四五)二月六日、光厳上皇の院宣により安国寺・利生塔という称号が与えられた。利生塔の一部は足利氏と関係の深い五山派の禅寺にも設けられたが、ほとんどは真言・天台・律など旧仏教の有力寺院に造立され、安国寺は各国守護の菩提寺など多く五山派の禅院が指定され、おおむね旧寺院を安国寺としたが、新設されたものもあった。安国寺は北宋の天寧禅寺や南宋の報恩光孝禅寺に、利生塔は阿育王塔や隋の舎利塔などにならったものと言われる。その目的は、表向きは戦没者の慰霊のためであったが、民心を収めて社会秩序を保ち、あわせて各国における五山派の拠点とし、守護勢力の維持を図ろうとするものであった。そして、その企画と推進は、文化人であり宗教的資質にすぐれた直義によって行われたので、直義が兄尊氏との不和で失脚したことがきっかけになり、各国の守護勢力と、ひいては足利幕府の基礎がかたまるにっれて次第に有名無実なものになった。
 伊予の安国寺(温泉郡川内町則之内、臨済宗妙心寺派)は、暦応二年(一三三九)、足利尊氏を名目上の開基、夢窓国師の法嗣普明妙葩(~一三八八)を開山として、守護河野通盛が建立したもので、寺地はもと保免にあり、旧寺院の跡といわれ、現在地への移建は元禄六年(一六九三)とみられる。当初はもちろん天竜寺の末寺であったが、長福寺 (東予市北条)中興南明(一六一六~一六八四)による中興以来妙心寺末となった。全国の安国寺が多く廃絶した中にあって、大檀那河野氏の滅亡があったにもかかわらず、ともかく今日まで存続したのにっいては、松山城主の外護によるところが大きかったであろう。
 こうして、安国寺が無力化するにつれ、幕府が力を入れたのは五山・十刹・諸山という官寺機構による統制であった。それは、寺院の格付けとともに、南宋の制度を禅宗に取り入れて僧侶の位階を決めたもので、侍者・書記を経て首座に達したあと、公府から公帖を得て諸山に出世し、十刹・五山へと昇住する制度であった。
 五山は初め鎌倉に限られていたが、建武中興後、後醍醐天皇との特別な関係から大徳寺が加えられ、以来京都の諸寺が五山に列せられ、鎌倉五山と合わせて五階級の序位が定められたもので、五か寺に限るものではなく、また、将軍がかおるごとにたびたび位次が変わった。十刹制度の起源は不明であるが、鎌倉末期にはすでに存在し、幾たびの変遷を経て、至徳三年(一三八六)には京刹と関東十刹が決められたあと次第に増加、中世末には六〇数か寺に達した。もちろん伊予では十刹に入る寺はなかった。
 諸山が設置されたのも鎌倉末期で、その後各国に増設され、中世末期には二三〇か寺にもなっていた。伊予で諸山に列せられたのは、安国寺のほか、善応寺(北条市善応寺、臨済宗東福寺派)・観念寺(東予市上市、臨済宗東福寺派)・保国寺(西条市中野、臨済宗東福寺派)の四か寺であったが(嘉慶元年、一三八七、諸山甲刹位)、のち永禄七年(一五六四)ごろ、乾室による中興に際し常定寺(東宇和郡宇和町常定寺、臨済宗東福寺派)が一時諸山に加えられた。
 こうした組織によって禅宗の中央集権を図り、あわせて、これらの官寺約三〇〇か寺から、その格式に応じて毎年官銭が徴収されるほか、原則として任期を三年二夏とした官寺役僧の交替に際しても課せられ、後には期間が短縮され、また、室町中期以後は、官銭を納入するだけで上級の寺院に入寺しない名誉職的な住持位を得る坐公文という制度までできたから、幕府の財政収入をうるおした。
 しかし、同じ禅宗でも、曹洞宗は初め幕府の権威に近づかず、統制の埓外にあった。

曹洞禅の展開

 伊予の曹洞宗は、ほとんど能登総持寺派に属したので、総持寺派禅寺の展開について述べることにする。
 道元没後の永平寺教団は、かたくななまでに道元の遺風を固守しようとする義演などの旧派と、教団の発展を強力に推進しようとする徹通などの新派が対立、徹通派は加賀大乗寺に移って独立、能登に進出した。その法嗣けい山紹瑾は能登に永光・総持の両寺を開創(もとそれぞれ真言・律の寺院)、以上の三寺を拠点に地方進出を図り、宗勢は永平寺を圧倒した。けい山のあと峨山-通幻-石屋の法系を主流として発展するが、特に各国守護や地方豪族の外護を得て基礎を固め、また、旧仏教ならびに修験道の遺跡を復興して改宗、それらと融合を図りながら飛躍をとげた。そして、次第に峨山派の能登総持寺が中心になっていった。
 石屋真梁(一三四五~一四二三)は、島津忠国の子で総持寺にあったが、島津元久に招かれて薩摩に福昌寺を開創したあと、大内氏の帰依を受けて周防泰雲寺などを開き、ついで開創した周防龍文寺とあわせて、これら三寺を拠点に九州・中国・中国へ教線を伸ばした。
 石屋の法弟仲翁守邦(一三七九~一四四五)は、島津元久の長子、一五歳で石屋の福昌寺に投じ、総持寺に出世した後帰郷して常珠寺などを開創、のち嘉吉三年(一四四三)伊予路を修行中魚成に留錫、元亨三年(一三二三)徳翁によって開かれた龍天寺を再興、薩摩の福昌寺の末寺にした。仲翁が魚成の地に留錫したのは永享五年(一四三三)、したがって、この年をもって龍沢寺の開創とする。その後同九年には二世星文守昌に後事を託して薩摩に帰り、なお諸処を巡歴の後、文安二年(一四四五)伊集院の地に示寂した(仲翁和尚行状記)。このあと四世蒲庵のとき、康正元年(一四五五)龍ヶ森城主魚成通親の協力により、現在地奈良谷に移して禹門山龍沢寺(現曹洞宗、東宇和郡城川町魚成)とし、文明年中まで三〇年を要して大伽藍を完成した。その後、歴代住持の積極的な布教活動により、宇和郡を中心に、大洲・松山・土佐・伊勢にまで及ぶ六〇余か寺の末寺をもつ大寺になった。
 その末寺中特に有力なものに興禅寺(南宇和郡御荘町平城、曹洞宗総持寺派)がある。応仁元年(一四六七)開創、開山直心宗柏、開基赤岸殿(のち興禅寺殿)宗祐。宗祐は叡山から下向した預り僧であるから、この寺はもと天台宗であったという説があるが、開山直心宗柏が、当地に巡錫した周防泰雲寺(曹洞宗)の栄本の教化を受け、栄本を勧請開山として開創したとみられるので、曹洞宗泰雲寺末であったのが、のち龍沢寺末になったのであろう。大永(一五二一~一五二七)のころから勧修寺氏を檀那として外護を受け、歴代住持が子院を開創、南宇和郡内に末寺一〇余か寺を有する大寺であった。
 同じく、石屋の開いた周防泰雲寺の流れを汲む寺に高昌寺(喜多郡内子町城廻、曹洞宗総持寺派)がある。すなわち、石屋の法孫大功円虫(~一四七三)がこの地を巡錫中、嘉吉元年(一四四一)に浄久寺を建立(この地名を現在浄久寺という)、四世益応のとき、天文二年(一五三三)、この地方の領主曽根高昌が現在地に移して菩提寺とし、さらに弘治二年(一五五六)高昌寺と改称した。これまで、この地の寺院には、願成寺を本寺とする時宗寺院が多かったが、願成寺を除いてすべて高昌寺末となり、その数二四か寺に及ぶ大寺になった。
 同じ泰雲寺系で、安芸勝運寺末の大仙寺(今治市本町、曹洞宗)は、勝雲寺開山以天圭穆(~一五九一)の開創になり、もと安芸国豊田郡矢野村にあった新興寺を、天文初年(一五三二~)ごろ、同寺五世代に現在地へ移して大泉寺とし、江戸時代に入って元文(一七三六~一七四〇)ごろ大仙寺に改めたという。
 また、同じ泰雲寺系で、豊後安楽寺末とされる(『総持寺史』)大通寺(北条市下難波、曹洞宗)は、さきに記したように、貞和年中(一三四五~一三四九)大暁禅師によって開創された臨済寺院であったが、中興開山玄室守えき(~一五一四)、開基河野通宣によって曹洞宗に改宗、その後、通宣の資通直の女婿来島通康を経て、その子鹿島城主来島通総により菩提寺として大通山安楽寺と称したが、通総が久留島氏と称して豊後森に移封となるに伴い、その系統を移して安楽寺を開創、大通寺七世大室永廓の弟子が開山となった。したがって、伽藍系からはむしろ大通寺の方が本寺である。ちなみに、玄室守えきは伊予源氏の出、闇雲寺英巌に従って華光寺(備中)にあり、文明六年(一四七一)総持寺に出世後郷里に帰って大通寺を再興、延徳三年(一四九一)華光寺に嗣席’さらに開雲寺にもあったが、永正一一年(一五一四)七〇歳で華光寺に没した。その出自を伊予の源氏としているのは、あるいは河野の一族の意味かもわからない。
 右にあげた大通寺七世大室永廓(~六〇五)は、慶長元年(一五九六)、(小松邑志には元亀三年=一五七二)、郷里に帰り、天福寺(周桑郡小松町大頭、臨済宗妙心寺派)を再興して宇野氏の菩提寺とした。大室永廓は、妙口村剣山城主黒河氏の配下宇野氏(獅子ヶ鼻城主)の嫡系宇野家綱、幼名小太郎、母は河野氏、本来武将として家を嗣ぐべきところ、家督を弟為綱(識弘)に譲って出家した。大龍寺を経て安楽寺(大通寺)に嗣席、郷里に天福寺を創建した。なお、豊後森の安楽寺の開山ともいわれるが、弟子が開山となったとみられる。
 つぎに、泰雲寺と同様薩摩福昌寺末の周防龍文寺の大奄須益(~一四七三)を開山として招請、その弟子月湖契初(~一五二四)を実質の開山として、河野通直(竜隠寺殿海岸希清大和尚)がその隠棲地に開創(開創年不詳)したのが竜穏寺(松山市御幸、曹洞宗)であり、もと道後竜穏寺台にあった。住持大仙のとき加藤嘉明により天徳寺に合併されたが、のち寺領を得て現在地に復興、目下戦災で焼失したままである。河野氏滅亡後の変遷にもかかわらず江戸時代には中本寺の寺格をもち、末寺一三か寺を有してこの地方曹洞宗の中心寺院であった。
 同じく龍文寺四世大奄須益を開山とし、文明五年(一四七三)に玉川町法界寺に建立した大雄寺(今治市室屋町、曹洞宗)は、藤堂高虎の養子高吉が、実父大雄院殿と母瑞光院殿の供養のため現在地に移建した。また、同じ大奄須益を開山として文明一一年(一四七九)に建立された隆慶寺(今治市米屋町、曹洞宗)は、慶長年間(一五九六~一六一四)大浜から現在地に移された。両者共に大奄須益を開山とするが、前記龍穏寺同様勧請開山であろう。なお、峨山の法系にある茂林芝繁(一三九三~一四八七)は興雲寺(小松町明穂、曹洞宗)の開山とされ、この寺は福島長源寺の末寺という。
 総持寺の基礎を確立した峨山は、貞治三年(一三六四)、「嗣法の次第を守り五箇寺住持すべし」と遺誠した。その五箇寺とは、峨山の直嗣太源・通幻・無端・大徹・実峰が、総持寺山内にそれぞれ開創した普蔵・妙高・洞川・伝法・如意の五院である。さらに、名院にはつぎっぎと塔頭が建てられ、その数は二二か寺にも達した。ここで特筆すべきことは、総持寺の僧団組織が、この派が全国に展開して大宗派になる根源になったことである。その秘密は、開祖けい山、二祖峨山と継承された輪住制度にある。
 それは、まず五院の住持が嗣法の順位によって輪番で本山に出仕することから始まった。その後は、五院が三年を一期に順番に輪住者を出し、その期間は、さらに一年、半年、三か月、七五日と短縮された。これまでを五院による輪住時代とするが、天正一五年(一五八七)の改革で五院それぞれに輪番地が設けられ、地方の輪番地寺院が出仕することになった。そして、それらの輪番地寺院はあわせて三三九か寺に達した。改革後の輪住任期は一年となり、輪番地からそれぞれの五院に出仕常住し、その間七五日間を本山当住とした。すなわち、地方輪番地の住持が、短期間とはいえ本山総持寺の貌座に登る光栄に浴するわけで、ここに輪住制度のもつ効果の秘密がある。
 ところで、伊予における輪番地は、五院のうち第四院(開祖大徹の伝法院)の輪番地四九か寺中の渓寿寺(大洲市菅田町宇津とか寺のみであり、輪番出仕が五回に及んでいる。これを渓寿寺作成の年表にっいてみても、宝永元年(一七〇四)以降の五回が確認され、大洲藩の援助によってこの大任を果たした様子をしのぼせる輪番用の遺品を伝えている。渓寿寺は、大徹宗令の法嗣春巌祖東(~一四一四)が応永元年(三九四)に開創した。祖東は大洲地方の出身者とみられるが、俗姓は伴氏、大野村の人というだけで、しかもこの大野がどこであるかわからない。大徹に参じて曹洞の奥旨をきわめ、渓寿寺開創後、応永一八年(一四一一)総持寺の首座となり、応永二一年(一四一四)大隅瑞光寺(応永九年祖東による開創、現廃寺)で没したとみられる。ちなみに、江戸時代末期の渓寿寺末寺は七か寺、この地方曹洞宗の中心寺院として栄えた。
 そのほか、中世末期に開創した曹洞宗寺院が幾つかある。その最たるものは瑞応寺(新居浜市角野)で、文安五年(一四四八)、生子山城主松木越前守景村が、鎌倉から月担を招請して開創、父母の菩提を弔ったと伝える。天正一三年(一五八五)小早川の兵火に焼かれ、万治三年(一六六〇)、当地の河端神野の二庄屋等によって再建、広島県比婆郡東城町徳雲寺九世白翁長伝の法孫分外恩・(金へんにつくりが出)(・(言へんにつくりが出)カ)(~一七二〇)を中興開山に迎えた。しかし、位牌堂に祀るのは、開山白翁長伝、二世呼鑑鷹代、三世分外・(金へんにつくりが出)大(恩・(金へんにつくりが出))であるから、祖父師二代を招請開山とし、自らは三世となったわけで、これまでの臨済を曹洞宗徳雲寺末とした。明治三一年に開設した専門道場は今もなお盛んである。
 また、同じ新居浜市の真光寺(中村、永平寺末)は、延徳年間(一四八九~九一)の開創というが、天正一三年の兵火に焼け、万治二年(一六五九)、今治大雄寺嘯室宗虎(~一六六〇)を迎えて再興、延宝五年(一六七七)堂舎完成という。瑞応寺に近いが、この方は、大雄寺が周防龍文寺系であるから、系流上の関係はない。また、聞き書きに従い永平寺末としたが、龍文寺系とすれば総持寺末である。さらに、越智郡岩城村長法寺(曹洞宗、松山市龍泰寺末)は、貞和三年(一三四七)河内国藤井寺の合戦に敗死した佐々木六郎光綱の遺子光丸が、諸国行脚中来島、城主村上敬吉の懇請によりこの寺を建立、開山は梵海徹再(~一四〇六)。かつての本寺が松山市龍泰寺とすると、龍泰寺はもと魚成龍沢寺の末寺であるから、総持寺末薩摩福昌寺系の寺院ということになる。
 中予では秀禅寺(伊予郡広田村総津)が総持寺派備中横谷洞松寺系の寺である。もと長蓮寺といって真言宗、景市谷にあって、立花山城城主大野直周の創建、天正二年(一五七四)大野ケ原における長宗我部との戦いに戦死した直周を祀る(長蓮寺殿前金吾太夫清質浄翁(雄)大居士)。のち天正一五年(一五八七)の兵火に焼亡後現地に移して周善寺、さらに元文中(一七三六~四〇)再建して秀禅寺、備中洞松寺七世玄休を招請して開山としたが、事実上の開山はその弟子本隆(~一七六一)である。南予には八幡浜市五反田の保安寺がある。もと保仙寺という旧趾があり、古代の開創で天台宗であったというが明らかでない。永禄年間(一五五八~六九)、もと城主南方摂津守親安が建立、開山独峯存雄というが、これよりさき、文明一〇年(一四七八)大船若経を書写して岩木安養寺に納め、同一一年『八幡愚童記』を書写して東多田八幡宮へ寄進したことで有名な妙せん(号致海)が、舌間南泉軒(善正寺か、現廃寺か)に隠棲する前、この保安寺に住したという説(西園寺源透「僧妙せん小伝」、『伊予史談』九八号)があり、そうとすれば、永禄年間開創というのを、文明一〇年以前に改めなければならないし、妙せんは、鎌倉円覚寺開山祖元無学(仏光禅師、宋僧)七世の法孫というから、その当時は臨済宗であったはずである。しかし、その後天正一三年(一五八五)、龍沢寺十六世久岳宗真によって中興、曹洞宗龍沢寺末となった。

臨済宗東福寺派伊予関係系譜

臨済宗東福寺派伊予関係系譜