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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

三 浄土教の布教

 浄土教は、中国唐代浄土教の師善導の影響を強く受けて、わが国で浄土宗として成立して以来、日本的仏教として発展したものである。しかも、初めは死後の極楽世界を美しく描いて、荘厳な極楽往生を願う貴族の観想的な仏教であったが、平安時代末期以後、特に中世に入って、末世の苦悩をのがれ、阿弥陀仏にすがろうとする庶民の仏教へと展開した。そのためもあって、浄土教の受容を平安末期以後のことと考えがちであるけれども、阿弥陀仏とその依拠である浄土三部経(大無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)は、仏教伝来の初期からわが国に入っていた。

 阿弥陀如来

 無量光仏・無量寿仏、無量覚者の意で、その愛は無限である。十劫の昔、王位を捨てて仏門に入った法蔵比丘は、四八願を発し、衆生と共に成仏せんことを願って(第一八願)功徳を積み、願行成就して阿弥陀仏になった。したがって、浄土宗(特に西山派)では、法蔵菩薩と衆生の同時成仏の立場から、法蔵菩薩が阿弥陀仏に成ったということは、念仏を唱えると衆生も成仏するに決まっていると説く。それはともかく、この阿弥陀仏は、具象化されて阿弥陀三尊像として祀られ、来迎図として描かれることが多い。信仰上わけて有名なのは善光寺の本尊である阿弥陀如来で、その特色は「一光三尊」と呼ばれる形式にある。本尊そのものは三国伝来の秘仏とされ、その「前立本尊」と呼ばれる一光三尊の阿弥陀仏でさえ七年に一度開帳されるだけであるというほど、一光三尊もこの前立本尊によって知るしかないが、それは大きい舟形光背を背に、中央に阿弥陀如来、両側にその脇侍である観音・勢至の二菩薩を伴っている、それがいわゆる阿弥陀三尊である。阿弥陀如来が推古朝までにわが国にはいっていたことは、この善光寺本尊のほかにも四天王寺本尊、法隆寺玉虫厨子本尊、法隆寺金堂阿弥陀仏などがあることでわかる。また、初期には弥勒・観音・薬師・釈迦の各仏の方が多かったものが、奈良時代後半からこの仏が圧倒的に多くなったことからだけでも、平安時代にかけて阿弥陀信仰が盛んだったことが知れる。
 伊予に現存する古仏は、伝承を信ずるとしても奈良時代にさかのぼるものはほとんどなく、平安時代以後のものであるが、それらとても実際の造像は鎌倉時代のものが多いであろう。初期には観音像が多いのに対し、平安以後とされる古仏には阿弥陀如来が多くなってくる。
 どういう理由によるものか、八幡浜の平氏に関係のある寺院に阿弥陀の古仏があるのが印象に残るが、当地がもと平氏の荘園であったためであることはいうまでもない。八幡浜市徳雲坊の梅の堂は、現在はもと忠光寺の本尊であった三尊仏を土地の人々が守っているだけの仏堂である。もとの忠光寺は七堂伽藍と塔頭一二坊をもつ大寺で、その一坊であった徳雲坊の名がこの地の地名に残っている。かつて、嘉慶二年(一三八八)地頭平忠清が再建した当時の棟札があったがいっか失われ、今は『宇和旧記』に残された写しによるしかない。それによると、後白河法皇の時代(一一五八~一一七九、一一八一~一一九二)、平忠光が創建、のち衰退したのを院主誓賢代に忠清が再建したというものであり、その子とみられる七歳の熊王丸の名も記されている。ここでまず、一部には忠清を忠光の子とする説があるが、後白河法皇院政の最後は建久三年、その時までに忠光寺が建立されていたとすると、忠清による再建の嘉慶二年まで一九六年もあり、両者を父子とすることはできないし、まして再建者平忠清を『東鑑』に見える平氏の家人上総介忠清とするわけにはいかない。ただ、同様の根拠をもって忠光を平家の家人上総介五郎兵衛忠光とし、建久二年武蔵国で処刑される以前に忠光寺を建立していたとすれば矛盾はない。平忠清は平氏の荘園であった矢野荘(領家平頼盛)の代官としてこの地にあったとき忠光寺を建立した。その後平氏が破れ荘園は取り上げられて没官となり、忠光寺も衰退したが、池禅尼から受けた恩に報いるため、源頼朝が頼盛に再び矢野荘を与え、のちこの荘園に忠清が地頭としてあったと考えられる。
 ところで、この寺の廃退により、本尊阿弥陀如来と脇侍四躯のあわせて五仏は最後まで残った塔顕徳雲坊にあったが、それも荒廃にまかせているのを、宇和島藩二代藩主伊達宗利の命により、天和三年(一六八三)、薩雲和尚が宇和島竜華山等覚寺(臨済宗)に阿弥陀三尊(阿弥陀と脇侍観音・勢至)を移して安置、残る竜樹・地蔵の二菩薩像を汐音寺(同)に移してその本尊観音の脇侍にした(宇和旧記)。のち明治五年、八幡浜からの返還要求や、八幡浜出身で宇和島藩儒者であった左氏珠山の説得により阿弥陀三尊は返還されたが、汐音寺の二仏は返されなかった。その後、寺と地元との間に金銭による譲渡交渉があったが成立せず、昭和四七年東京の古美術商の手に渡り、五四年文化庁によって買い上げられ、五八年四、五月の間、梅の堂三尊と合わせてもとのとおりの五尊が、奈良国立博物館の特別展で公開された。阿弥陀三尊というのが普通であり、阿弥陀五尊というのは珍しいという。この阿弥陀三尊は、八幡浜に返還後、五反田の保安寺(曹洞宗)に保管されていたが、昭和四一年現在の梅の堂が現地に建立され、ここに移された。阿弥陀三尊は国指定重要文化財、中尊阿弥陀如来像は、像高一三八、五cmの坐像、脇侍の観音・勢至両菩薩坐像とともに桧材の寄木造りで藤原時代末期の仏師定朝の作といわれる。
 つぎに、八幡浜市日土の了月院能忠寺(浄土宗)にも平氏一族が造立したといわれる阿弥陀三尊像がある。小野左兵衛尉平能忠は、喜木村磯岡に隠栖、平家一門の霊を弔うため、仏師興阿弥陀仏による弥陀三尊像を持仏堂に安置したのが文永六年(一二六九、仏像足裏の銘)、その死後小野堂として祀った。のち、出海城主兵頭石見守直正の二男喜右衛門(元和五年卒)は、萩森城主に仕えていたが、落城後の天正一三年(一五八五)日土村庄官となり、慶長年間に今の了月院の地にあった小庵を改めて一寺を建立、小野堂にあった阿弥陀三尊像を移して本尊とし、能忠寺とした。開山念誉竜鉄(寛文一七年寂)は日土村の人、大洲市寿永寺より転じてこの寺の住持となり、のち本寺である宇和島市大超寺に転じた。ちなみに、平能忠とさきの平忠光とは、平氏の荘園に関係し、同じ平氏の一族には相違ないが、どのような関係にあったかは不明である。能忠寺は、のち明治二二年に院号を了月院とした。本尊阿弥陀三尊仏は八幡浜市指定文化財、中尊の阿弥陀仏は像高七九cmの立像で漆箔が施されている。なお、同じ日土の医王寺(曹洞宗)は、寺名からもわかるように本尊は薬師如来で、中興開山を竜沢寺二四世吉山存道とするが、もと養老元年(七一七)創建と伝えられる古寺で、阿弥陀の古仏があったのを万治三年(一六六〇)宇和島市大超寺へ移管、現在は廃寺同様になっている。この阿弥陀仏の評価については聞くところがない。
 伊予の阿弥陀如来像で梅の堂阿弥陀三尊仏とならんで評されるのが大宝寺(松山市)の本尊である。本尊は、この寺の院号を薬王院ということからもわかるように長く薬師如来と信じられてきたが、実は藤原期の阿弥陀如来で、もう一躯の阿弥陀仏ならびに釈迦仏とともに重要文化財である。西条市福武金剛院(真言宗)にも阿弥陀如来の古仏がある。この寺は、賀茂神社の別当寺として、保元年間(一一五六~一一五八)八堂山に創建、のち覚鑁がこの地に巡錫した際、さらに不動堂を建てて不動尊を安置、のち天正一三年の兵火に焼亡した際不動堂だけが残り、これを現地に移したと伝える。本尊は不動尊であるが、源信作と伝える弥陀の古仏があり、秘仏とするためかまだ評価がなされていない。覚鑁は真言念仏、源信は天台念仏の師として浄土教に関係が深い。

 浄土教の流れ

 奈良時代の浄土教については、経典では無量寿経、教学としては唐の善導の影響が顕著であり、奈良六宗のうちでは、わが国への伝来も早かった三論宗が浄土教に深い関係をもつ。三論宗の恵隠は、推古天皇一六年(六〇八)隋に渡り、およそ三〇年後帰国、はじめて無量寿経の講経をしたが、これが講経のはじめとみられている。また、下って平安時代には東大寺における三論宗に永観以下浄土教の念仏僧を輩出、ことに同寺の別所光明山寺(山城国)は永観によって南都浄土教の中心となり、その後に出た明遍は、長く光明山に隠棲の後高野山に入り、蓮花谷三昧院で念仏にはげみ、蓮華谷聖のもとを開いた。そして、念仏の聖たちは、明遍のように、都に近い光明山を捨て、高野のような山深い地に隠棲を求めたため、光明山を中心とする三論宗系の浄土教はこれ以後衰退した。
 一方、明遍が蓮華谷の別所に入って蓮華谷聖のもとを開いた高野山の浄土教は、その他いろいろの出自の念仏聖によって形成されていった。明遍より前、興福寺の別所小田原(山城国久世郡)から高野の小田原谷に入った小田原聖教懐、ついで萱堂聖の祖となった心地覚心(法澄国師)、下って、著名な熊谷直実や西行も、東大寺再建で知られている重源も高野の別所に住んだ高野聖である。明遍の蓮華谷聖のあと、萱堂聖と関係の深い千手院谷聖が成立してこれらが高野の三大聖集団とみられるが、その成立は鎌倉末期から南北朝期にかけてであり、それが一遍の高野参寵を契機に、覚心の萱堂聖と関連をもちながら、時衆系の念仏聖が次第に集まり、これが中心になって、室町時代に入ると高野聖はほとんど時衆化したとみられている(五来重『高野聖』)。伊予への高野聖の影響としては、覚鑁の真言念仏系の聖と、時衆系の高野聖によるものがあると考えられる (以上、井上光貞『日本浄土教成立史の研究』)。
 わが国における浄土教成立の主流をなしたものはやはり天台系念仏である。その発端となったのは、第三代座主となった円仁による常行三昧堂の建立で、以来、叡山において不断念仏が行われ、念仏者の中から座主が生ままれるなど念仏者の数を増し、念仏門に関する著作が生まれた。円仁による常行三昧堂は東塔にあったが、後には西塔に移されて念仏の中心になり、さらに念仏者は横川に移って念仏集団を形成、そこから源信の『往生要集』が生まれて浄土教成立の決定的要因となった。以後の成立史は著名なことであるので述べない。

 楠本寺勧学会

 天台浄土教は貴族社会に影響を及ぼし、文人の間に念仏がひろまっていった。その一拠点になったのが勧学会で、その運動は康保元年(九六四)に始まる。本来、勧学会は、朝は僧侶による法華の講経を聞き(法華会)、夜は経中に出てくる句をとって詩をつくる(詩会)ものであるが、その間にくりかえし行なわれる念仏が重視されるようになり、一種の念仏結社になったとみてよい。すなわち、『日本往生極楽記』(九八五)の著者である文人慶滋保胤を中心に、大学寮の学生を発起人として、康保元年に始まったもので、三月と九月の二回、ともに一五日に開かれ、法華経の講経に始まり、経中の句による詩会を経て、徹夜で口唱念仏を行うものであった。この勧学会に参加した者の中に大江以言があり、以言が伊予国司に任ぜられて赴任すると、国府に近い楠本寺で同じような勧学会を催している。
 現在、今治市八町に楠本神社(樟本とも)という小社があり、須佐之男命を祭神とする。かつての延喜式内社で、古代の大社には例外なく神宮寺があったと推定されるので、国府に近いこともあり、楠本寺はこの神社の神宮寺であったとみてまちがいなかろう。なお、建長七年の「免田注記」に、楠本寺に二段歩の免田が記され、また、金剛般若経講会のための免田がこの神社に認められていることとあわせて、右のことはたしかである。以言は九月一五日の勧学会にあたり、「ああ、土地異なりといえども、時日なお同じ。時なるかな、時あに空しく過ごすべけんや」と、都での勧学会を偲び、法華経講経を聞いたあとの詩に、「寿命の量るべからざること」を賦した(本朝文粋)。この勧学会は都の勧学会に擬したということであるから、不断念仏の行が熱っぽく行なわれたであろう。長保二年(一〇〇〇)のことで、伊予において念仏が行われた確かな記録である。
 それから一一年後の寛弘八年一月一日、『拾遺往生伝』に載っている伊予法楽寺の安楽尼が没した。安楽尼は、出家後の二五年間、毎日の勤行の一部として弥陀の名号五万遍、のちには百万遍を唱えて数々の霊験を示していたという。この老尼が住んだ法楽寺がどこにあったかはわからない。このほか一連の仏教説話集に見える念仏者には、越智益躬(推古朝ごろの人)、伊予国司源頼義(伊予国司に任ぜられたのは康平六年=一〇六三)、伊予国府の官人橘守輔(永長元年=一〇九六没)、久米郡長村里に住む僧円観(康平五年=一〇六二寂)らがある。このうち、越智益躬は多分に伝説的人物でそのまま信ずるわけにいかぬけれども、古くから伊予で念仏を行う者がいたことは推察できるが、他の人物は右の楠本寺における勧学会につづく時代の実在の人で、平安末期までに、伊予における念仏者の多かったことを示している。

 念仏僧の回国

 平安時代に四国に下向して回国した僧に空也・性空・西行・重源があったことはさきに記した。このうち重源が伊予に来たかどうかは全く不明であるが、西行には川之江と松山天徳寺に来錫したという伝えがあり、空也と性空ははっきりとした跡を残している。彼らはいずれも念仏僧であった。西行(~一一九〇)は吉野の奥千本のあたりの西行庵に跡を残して有名であるが、治承四年(一一八〇)までの三〇余年間は高野に本拠地をもつ高野聖で、その間全国を遊行して念仏をすすめた。また、俊乗房重源(~一二〇六)は、東大寺再建のため十余年間諸国を勧進したことで有名であるが、一七歳の保延三年(一一三七)四国の辺地を修行しているものの、後の勧進の際もあわせて伊予に来たかどうかは不明である。重源が東大寺再建の勧進役に任ぜられたのは、法然の推挙によるもので、重源はもともと法然の弟子であって東大寺系念仏僧というべきであろうが、一方、高野に専修往生院を中心とする新別所をひらいた高野聖でもあり、建久八年(一一九七)から一〇か年ばかりは高野山にいたことはたしかという。
 さて、空也(~九七二)は阿弥陀聖・市聖として、京都市屋道場を中心に念仏をすすめ、ひろく全国を遊行して庶民に念仏勧進を行なったことは知られているが、全国を遊行したことについてはあまり具体的な事蹟を残していない。松山市の浄土寺に約三年間留錫し、その草庵の跡を空也谷といい、枝が広く寺庭をおおった大きな松の下で踊り念仏をしただろうと推察させた空也松という名を残したが、何よりもたしかなのは同寺の空也上人木像(重要文化財)である。この木像の仏師はたしかなことがわからないものの、京都六波羅蜜寺の像と瓜二つで、そのロから吐き出している小仏六体はロ称念仏を具象化したものである。浄土寺はそれ以来浄土教寺院で、のちに聖光によって浄土宗となり、郷土における一遍が空也を憬慕するについてもこの寺の存在が影響している。この空也は、叡山で受戒しているから、強いて言えば天台系の念仏僧であるが、一般の天台浄土教者が別所に隠栖して念仏を行い、貴族への浄土信仰布教に特色があったのに比し、空也は庶民に浄土教をひろめた者として、庶民仏教への転回点に立つという評価が与えられる。
 つぎに、性空(九一〇~一〇〇七)が、永観二年(九八四)、叡山の湛延とともに三島の神に詣って桜会の贄をとどめたことは『一遍聖絵』の伝えるところである。性空も源信と同時代の天台系念仏僧で、一遍の敬仰してやまない聖であった。

 浄土宗の寺院

 伊予における初期の浄土教の寺院の一つに川之江市仏法寺(浄土宗)がある。伝えによると、天平一三年(七四一)、諸国に国分寺を創建する際、行基が草庵を結んで自刻の阿弥陀如来を安置したのに始まり、のち寛和三年(九八七)、源信が堂宇を建立して鷲尾山恵心院仏法寺と号したという。院号恵心は源信の号であって、源信との関係を示しているが、源信が伊予に下ったとは思われないから、名目上の勧請開山であろう。もと城山にあって不便のため、永禄二年(一五五九)叡山の自戒が海浜に移建、その後天正五年以後相つづく戦乱に荒廃していたところ、寛永三年(一六二六)の大海嘯に流失、本尊阿弥陀如来は海中から拾い上げることができた。翌四年、松山市長建寺の客僧廓誉悟念が現在地(城山山麓)に移建、これまで天台系念仏寺院であっだのを改めて浄土宗にした。また、吉田町福厳寺(臨済宗)も長和五年(一〇一六)以前に源信を開山として創建、本尊阿弥陀如来は源信の自刻と伝え、長く天台の寺院であったが、天文初年(一五三二ごろ)五山派の僧海竜によって中興、臨済宗になった。なお、天正六年(一五七八)の再興棟札には、その外護者であった法華津清原朝臣弥八郎前延(西園寺旗下)の名があったという(愛媛面影)。したがって、この寺は浄土宗の寺であったことはなく、ただその開創から天台浄土系の寺院であったとみられるというのであるが、源信が伊予に下ったとは考えられないから、これも勧請によるものであろう。
 ついで寿永年間(一一八二~一一八四)、義円による開創と伝えられる大洲市寿永寺(浄土宗)がある。平家の落人が讃岐に創立、のち当地に移建したといい、その具体的事実はわからない。のち、曉蓮社天誉上人秀公大和尚(寛永元年一六二四寂)により再興、中興開山とする。近世には小本山という寺格をもち、有名な安西寺は末寺である。また中山町浄光寺(浄土宗)は、寿永二年「寺の成」という地に創建して豊国山寿永寺といい、大洲市寿永寺末であったというから、あるいは両寺とも同様の開創であるのかも知れない。のち寛永元年、深誉等察によって現在地に再興したという。
 下って鎌倉時代の建久九年(一一九八)八月、師法然の命を受げて伊予に下った聖光(弁長・弁阿、浄土宗鎮西派の祖)は、一〇月までの三か月間滞在、その化に従う者数を知らずというありさまだったという。かつて空也が三年間留錫した久米浄土寺(現真言宗)に滞在、この地方での布教にっとめた。同寺は天平年中孝謙天皇勅願により行基建立、もと法相宗でそのころは天台宗、のち源願朝が再興したと伝える。したがって、聖光がここに留錫したのは再興後間もないころであったろう。そして、浄土宗になったのは鎌倉末期のことという。もと三蔵院といい、その後院号として残っているが、三蔵というのは経・論・律の三蔵のことである。ところで、この寺には、浄土宗に改宗以来、一世法然、二世聖光、三世良忠の三木像が祀られていた。ところが、元禄一五年(一七〇ニ)、藩主の懇望によりその菩提寺大林寺に移譲、大破の状態にあった伽藍再建の資をその見返りに得た(元禄一五年文書)。惜しいことに、この三木像は太平洋戦争末期の松山空襲に焼失してしまった。
 聖光の道後地方布教の結果浄土宗に改宗した寺に正法寺(浄土宗、松山市御幸)がある。同寺はもと風早郡河野郷にあって高縄山光明院神宮寺といい天台宗、越智玉興が神亀五年(七二八)創建、阿弥陀仏を本尊とし、のち貞観五年(八六三)正法寺に改めたと伝える。以後河野氏と関係が深く、河野通清によって温泉郡橘郷小島里に移建、河野通信が父を弔って建塔というが、これらのこともまた明らかではない。建久九年おりから下向中の聖光を中興開山として再興、浄土宗となり、河野氏の外護を得て盛時には末寺二〇を擁する大寺院であった。しかし、河野氏の滅亡とともに衰退、江戸時代には弘願寺末になっていた。その弘願寺(松山市御幸、浄土宗)にも聖光を開山とする説があるが明らかでない。また、元弘四年(一三三四)河野通治再建、寛永一一年(一六三四)まで正法寺末であったが、同寺の衰退により離れ、延宝四年(一六七六)より小本寺の寺格が与えられ(延享五年「御領分寺院」)、かえって正法寺を末寺とした(弘化二年「松山藩寺院録」)。長建寺(松山市御幸、浄土宗)にも建久九年開山聖光とする説があり、また、河野通信を開基とする伝えがあるが(御領分寺院)明らかでなく、天正一一年(一五八三)真誉了吟(慶長一二年寂)を開山として伊予郡松前町に開創、加藤嘉明の松山築城とともに現木屋町二丁目付近に移建、重臣佃十成の帰信を受けたというのは確かであろう。のち現在地に移り、江戸時代には中本寺の寺格をもち、末寺一〇か寺があったという。さらに、不論院(松山市高砂町、浄土宗)は通称田中観音、もと森田寺と言ったが、この寺にも、長建寺と同様、建久九年、これまで持統四年建立の寺を再興、開山聖光、開基河野通信とする伝えもあるが(御領分寺院)明らかでない。よりたしかと思われるのは、森田寺という寺名にかかわりのある伝承である。
 ついで、久万町法然寺(浄土宗)は、承元元年(一二〇七)、法然の弟子瑞運(瑞蓮とも)による開創と伝える。すなわち、建永二年(一二〇七)二月、法然は土佐に流刑されたが、実際は讃岐にとどまり、代わって土佐に下った瑞運は、同承元元年(一〇月改元)二一月、許されて帰洛の途中この地に留錫して一宇を建立したという。寺地はもと古寺という地名で現在の町中にあったが、焼失のため天和二年(一六八二)現地に移った。また、今治市来迎寺も、もと桜井国分山にあって天台宗であったが、承元元年(一二〇七)法然が讃岐に流されたとき留錫して浄土宗に改宗したと伝える。
 さらに下って永仁三年(一二九五)より前、開山を心寂(永仁三年没)とする城辺町真宝寺(浄土宗)がある。開創年代が不明のため、開山の没年以前の開創としたわけである。青蓮院門跡の荘園であったこの地に派遣された定尋が、巡錫の心寂を招請して開創、御荘を治めた勧修寺氏の外護を受けて繁栄、この地方一帯から土佐にわたって末寺五〇余か寺を擁していたという、いわば御荘浄土宗の本寺である。その末寺であった代表的なものに来迎寺(御荘町平城、開創年は不明であるが開山弥阿は康永三年=一三四四寂)、智慧光寺(城辺町緑、応永五年=一三九八創建、開山秀誉、勧修寺氏祈願所)などがある。
 以上にあげた寺院のほか、中世末期に成立した浄土宗の寺院には、今治市西蓮寺(文亀五年=一五〇一)、松山市来迎寺(天文一一年=一五四二改宗)、同浄福寺(元亀三年=一五七二)、今治市正法寺(天文一〇年=一五八二)、同市西方寺、同円浄寺(文禄三年=一五九四)、岩城村浄光寺(文禄年間=一五九二~一五九六)などがある。

 浄土宗西山派

 以上は、法然ならびに聖光、そして聖光を派祖として浄土宗の主流をなした鎮西派の寺院をあげたわけであるが、少し下った時代に、同じ法然の弟子証空に始まる浄土宗西山派の流れが伊予に認められる。
 永和四年(一三七八)、西山派深草流の静見(深草流の顕意の孫弟子)の勘録になる『法水分流記』の中から、伊予に関係のある法系を摘記するとつぎのとおりである。
(参照 「浄土宗西山派の系譜」)
 ここに一遍が登場するが、このことについては次の項で述べることにする。その師聖達は、もと伊予に住み、川野一遍の場合も川野と書いているから河野にまちがいない)執行の未亡人を後妻にした妻帯僧で、実子聖観と後妻の連れ子顕意(道教)があった。顕意は養父聖達にも学んだであろうが、のち円空の弟子となり、西山派深草流の教学を成した学僧で、一遍とも互いに交渉があり、その深草義が一遍の教学にも取入れられている。一遍の弟仙阿は、一遍なきあと道後宝厳寺に時衆奥谷派を立て、もう一人の弟聖戒は、内子町願成寺に止住、のち京都六条道場歓喜光寺の開山で『一遍聖絵』を作った。ちなみに、聖戒という名の聖は、聖達とその子聖観の聖と同じだから、師聖達からもらったものであろう。
 一向、名は俊聖、暦仁二年(一二三九)正月、筑後国竹野庄の生まれ、この翌月改元して延応元年、同月一遍が生まれているから、一遍よりわずか一か月の年長である。右の法系には師を顕性としているが、最も長く教えを受けたのは鎌倉にいた良忠で、師事一五年の後、文永一〇年(一二七三)、三五歳のときから諸国に遊行を始めた。一遍はこの年窪寺の閑室で十一不二頌の悟りに至り、ついで岩屋に参龍、遊行に出る直前である。一向の場合も、その衆団を時衆と呼び、生涯を遊行に終わり、踊り念仏によって念仏を庶民にすすめたことなど、賦算をしなかったことを除いてほとんど一遍と同じである。一遍が豊後を遊行していた建治二年(一二七六)秋、一向は伊予国桑村郡を遊行していた。すなわち、元年八月ごろ薩摩から便船を得て讃岐の州崎浦に上陸、翌年春には阿波国板野地方を行化したあと伊予に来錫したもので、翌三年夏には備中国吉備津宮にいるから、一向の四国遊行はおよそ二か年に及んでいる。一向は桑村で俊阿(はじめ観心房)という弟子を得ているが、聖道門の僧で、念仏を疑い、踊躍念仏を嘲り、むしろ一向を忌み嫌っていたのが、説得によって弟子になったことを詳しく述べてあるから、一向にとって重要な弟子だったのであろう。これによって、俊阿が桑村(東予市桑村)の人だったことがわかるだけで、他に何もわかっていない。
 なお、右の法系によると、一遍と同世代に蓮宿、次の世代に聖入・成信、さらに快善と、伊予から西山派の僧を輩出しているが、その出自や住んだ寺院のことは全くわからない。また、伊予に住んだことのあるという聖達の伊予における活動なども不明である。

浄土宗西山派の系譜

浄土宗西山派の系譜