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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

一 中央と地方寺院

 頼朝と伊予の寺院

 源氏と伊予の関係は深く、伊予の国司に任ぜられた者も幾人かあり、それらはおおむね都にあって下向することはなかった。ところが、源頼義は下向したらしく、仏教関係の多くの足跡を残したと、伝えられていることは前述のとおりである。それは、人間を殺生することを業とする武士の宿命への反省と、死者の霊を弔うことを動機とするもので、源氏一般の仏教崇敬の心の基づくところであり、頼朝の場合もその傾向が顕著である。
 頼朝が政権を握ってまず手がけたことは奈良東大寺再建の業であった。平重衡の兵火に焼かれた東大寺は、頼朝の力によって復興、建久六年(一一九五)再建供養が行われた。その他、頼朝が創建し、あるいはその助力によって再興したと伝える寺院は全国に数多い中で、伊予における顕著な例をあげてみよう。
 興隆寺(真言宗、丹原町古田)の創建は皇極天皇の時代というが、その後の移建のことなどはすべて伝承で明らかでない。頼朝による本堂再建あたりから具体的に知られるが、これとてたしかな傍証はない。本堂脇に頼朝の墓と伝えられる宝鏡印塔があり、重要文化財の指定を受けている。また、浄土寺(真言宗、松山市鷹ノ子町)の開創は天平年間といい、建久三年(一一九二)頼朝再建と伝えるけれども、史実を裏付ける史料に欠ける。さらに、明石寺(天台宗、宇和町明石)も天平六年(七三四)の創建と伝え、建久五年(一一九四)頼朝が再建して山号を源光山と改め、ことに、恩人池禅尼の菩提を弔うため阿弥陀堂を建立、また、境内の小丘の森に供養のための五輪塔が建てられている。これらもまた伝承の域を脱しない。

 中世の社寺荘園

 頼朝は、文治元年(一一八五)、従来の国司とは別に守護を置き、国内の治安を維持するため軍事・警察を司らせた。また、主として荘園領主のために年貢を徴収することを目的に地頭を置き、諸国の公領と、私領である荘園を支配しようとしたが、荘園領主の反対によって徹底しなかった。地頭はもとからあった荘官(荘園領主の下にあって、事実上の管理権をもった)の一種で、平氏の政権下にもあったのを制度化したものであった。守護・地頭の組織は初めから徹底を欠き、鎌倉幕府の混乱から弱体化したが、承久の変後強化された。あるいは、むしろ、幕府の支配体制は、それらと表裏になった御家人組織を中軸とするものであった(景浦勉『伊予の歴史』上)。古代以来の荘園制度を複雑にしたのはこの地頭制度であった。守護とは別に、治外法権的な荘園の軍事・警察を司るほか、主として年貢徴収の仕事にあたり、加徴米を自らの得分とした。これが従来の荘官とは別に置かれたのであるから複雑化するのは当然のことで、やがて荘園崩壊の因ともなり、戦国大名の発生へと展開する。
 文永七年(一二七〇)、幕府は、実朝の菩提を弔うため、京都西八条の遍照心院(大通寺)に伊予国三か郷を荘園として寄進した(大通寺文書)。それは新居郡中の井上郷・新居郷・島山郷とみられるが、この文書には長講堂寺用を除くという割註があるだけで、具体的な郷名は記されていない。遍照心院は、実朝の後室坊門氏(出家して本覚尼、関白道隆八世の孫内大臣坊門信清の女)が、実朝の死後三年に京都へ帰り、西八条の源経基の居館跡(かつて実朝の官邸でもあった)に、実朝の菩提を弔うために建立したものである。創建にあたり、本覚尼は、伊予国新居庄を賜るよう実朝の母政子に請うて与えられたというが、政子はすでに嘉禄元年(一二二五)に没している。西条市福武、八堂山麓にある金剛院(真言宗御室派)には、実朝の遺髪塔と伝える七重石塔婆がある。この寺については、保元年間(一一五六~九)に賀茂神社の別当寺として創建され、鎌倉時代に再興とも伝えられているので、古くから西条荘の一部が賀茂神社領であって、金剛院はその別当寺であったが、のちこの地方が遍照院領となるに及んで遍照院末となり、源実朝を祀ったものとみられる(西条市誌)。
 なお、同寺の寺伝によると、鎌倉光明寺(仁治元年=一二四〇、北条経時の開創、現浄土宗)の千体仏を模して「新居千体仏」がつくられ、前記七重石塔婆のわきの如来堂に安置されたが、今は本堂内に五〇〇体が残っているということから、鎌倉との直接関係が推察される。新居庄が遍照心院領であったことは、寄進された文永七年の翌々年、この寺の本願本覚尼の置文に確認されていることにより明らかであるが、この置文にある寺規十か条の第七に、「寺領の事」として、寺領を侵すべからざること、預所以下庄官・百姓に至るまで皆寺家に従うべきことを戒めているから、あるいは初めから混乱があったのかも知れない。すなわち、鎌倉覚園寺との争奪である。そして、争奪の結果であろうか、元応二年(一三二〇)覚園寺西条庄において殺生禁断の下知が出ている(覚園寺文書)。これには「覚園寺領新居西条庄」とあり、ついで建武元年(一三三四)には南朝によって安堵されているが(同)、それは新居西条荘内の得重・福武・稲満の四村である。しかし、これにつづいて見える同文書に、「伊予国新居西条庄八箇村」のうち、「□□村□河末久村 付山一菊 菊一村靏久村為遍照心院領(中略)得重村 付山大保木池内 得恒村 付山黒瀬 福武村稲満村為覚園寺領」とあるから、新居郡西条荘八村中菊一村等四村を遍照心院領として、村数の上では折半したような結果になっている。その後も西条荘は南北朝の戦乱の中で変遷があり、貞治三年(一三六四)には河野の所領になっていて、さきに建武二年(一三三五)に竣工したとみられる善応寺に、河野通盛が、西条庄内菊壱名、光明寺如来堂および賀茂宮神田を寄進している(善応寺文書)。その後細川氏の侵攻にあった河野氏は西条地方から退き、この地は細川氏の勢力圏に入ったが、応永六年(一三九九)西条地頭職が遍照心院に寄進されているのは、あるいは元に復したのかも知れない。
 ちなみに、鎌倉覚園寺は、建保六年(一二一八)北条義時が建立、その後永仁四年(一二九六)北条貞時が再興して真言・律・禅・浄土四宗兼学の寺となり、北条氏滅亡後は一時後醍醐天皇勅願寺、さらに足利尊氏の祈願所となって以後繁栄が続いた。
 つぎに、桑村郡の二庄、周敷郡の一庄について年代順に記しておこう。まず、徳治元年(一三〇六)、泉涌寺領吉岡庄(桑村郡)が院宣によって確認されている(東南院文書)。これ以前に泉涌寺領になっていたわけである。なお、同年、この吉岡荘は亀山天皇皇女慶昭門院から後宇多院に譲渡されているから、この院が本家で、泉涌寺が領家だったのであろう。泉涌寺(京都市東山区今熊野、真言宗泉涌寺派大本山)は、古く空海創建と伝える法輪院が再興されて天台宗仙遊寺となり、さらに俊英が建保六年帰朝して再興、泉涌寺と改称して台・密・禅・律兼学の道場とし、皇室の勅願寺として後水尾天皇以後歴代の崇敬を受けた。
 ついで徳治元年、桑村郡河原荘の重延名・公文名などが六波羅蜜寺の知行地となっている(六波羅蜜寺文書)。また、嘉暦元年(一三二六)の文書によると、永嘉門院(大覚寺統)の令旨により六波羅蜜寺の荘園であったことがたしかめられる(同)。この河原荘は桑村郡河原津の地方であるとみられる。ちなみに、六波羅蜜寺(京都市東山区松原通大和大路東入、真言宗)は、天暦五年(九五一)空也の創建、もと平氏にゆかりの寺であったが、のち源氏の支配下にはいった。
 また、康安元年(一三六一)、周敷郡の越智通内は、亡父供養のため、池田郷得恒名地頭職を大徳寺に寄進している(大徳寺文書)。大徳寺(京都市北区紫野、臨済宗大徳寺派大本山)は、正中元年(一三二四)、宗峰妙超(大燈国師)の創立、後醍醐天皇により五山の第一に推されたが、足利義満により十刹に落とされた。
 前節来、古代・中世にわたる中央寺院と伊予との関係を、荘園を中心に述べたわけであるが、その寺院が本家たると領家たるとを問わず、荘官を通じて支配したわけであるから、その末寺をつくるとか、荘園領主のために祈願をするとか、何らかの宗教活動が行われたであろうが、二、三の具体的な例を知ることができるだけで、ほとんど知ることができない。なお、右の河原荘については、後の浄土教の展開に関係があるので、その項で述べることにしよう。
 こうした中央寺院の伊予における荘園は、荘園の一般的崩壊の中で消えて行き、新しい支配形態へ移行するわけであるが、地方武士による小領主化か進む中で、それらによる氏寺が建立され、寺領が寄進されるようになる。その代表的な例を南宇和郡御荘にみることができる。中世の御荘は、まず延暦寺門跡十楽院の末寺勝蓮華院の所領であったが、建武二年叡山の諸門跡が統合されて青蓮院門跡領となり、坊官が派遣されて預所を司るうち、それが土着しやがて武士化した。初め坊官として下向したのは谷氏で、観自在寺に預所を置いて荘園を支配し、神供料などを青蓮院へ上納した。坊官定尋の開創した真宝寺(城辺町、浄土宗)は天台浄土系寺院で、この寺を中心に御荘から土佐にかけて浄土教が広まり、末寺五〇か寺を数えた。下って応仁元年(一四六七)、坊官宗祐の開創した興禅寺(御荘町平城、曹洞宗)は、初め天台宗であったがのち真言宗を経て曹洞宗に転宗したとみられる。この寺を中心に御荘地方に曹洞宗が普及、末寺一〇か寺を数えた。ところで、この谷氏にとって代わっだのが勧修寺氏である。勧修寺氏は、土佐中村の領主一条家に従って土着した町氏の一族で、一条氏が永正から天文の間に武力で御荘を制圧した際町顕賢に支配させ、これが勧修寺を名のったものである。勧修寺氏の御荘支配は半世紀余りに及び、幕藩体制の成立によって終わった。この間、勧修寺氏は、観自在寺をはじめ真宝寺・興禅寺などを外護したほか、顕賢(左馬頭)は、応永五年(一三九八)に開創されていた智慧光寺(城辺町緑、浄土宗)を勧修寺家の菩提寺にした。

 免田注記

 古代の国司制度は、律令体制の弛緩にともなって次第に乱れはじめ、九世紀中ごろから国司の遥任が一般化した。国司が都にいて現地に下向しない場合、その国衙を留守所と呼んだ。そして、鎌倉時代における伊予の国衙の一部局に田所というのがあり、公領と荘園の面積や所有者を記載した帳簿を掌っていた(景浦勉『国分寺文書』)。その田所が中央に提出した控書に「伊予国神社仏閣等免田注記」(国分寺文書)がある。その末尾によると、これは、建長七年(一二五五)一〇月、田所の官吏紀木工允が社寺領の免租地を幕府に注進したときのもので、その後一五二年を経た応永一五年二月、紀良員が校正している。これによって、この時代の伊予における一部社寺の存在と神仏習合などの実態を知ることができる。免租の社寺領は、中央や地方の有力者の寄進にかかるものであって、それが公認されたことを意味しており、当時栄えていた社寺の様子がわかる。
 この免田注進記は神社と仏閣について記してあるので、そのうちの寺院について、まず「寺田」の部二〇か寺をあげ、それを現在の寺院についてたしかめ、免田に関係があると思われる事項があれば記してみょう。

国分寺 十丁二反

 現真言律宗、今治市国分。天平一三年(七四一)の国分寺建立の詔により、天平勝宝八年(七五六)までに造営を完了したとみられる金光明四天王護国の寺。つぎにあげる法花寺を尼寺とするのに対し僧寺。平安時代二度にわたる炎上と制度の弛緩で衰えていたのを河野通信が再建したと伝える。創建された当時施入された水田は十町とされるから、ほぼ維持されているとみてよい。

法花寺 二丁四反二百四歩

 現法華寺、真言律宗、今治市桜井。法華尼寺、法華滅罪之寺として天平勝宝五年(七五四)に完成した。国分寺と同様創建時に施入された水田は十町であったが、この方は著しく減少している。

八幡三昧堂 六丁寺用二丁鴨部庄仁申付由申之別当分四丁

下の細註から鴨部庄にあったことがわかる。式内社伊加奈志神社(今治市五十嵐)の別当寺にもと能寂寺があり、その後が現浄寂寺(臨済宗妙心寺派、今治市五十嵐)であるから、この前身が八幡三昧堂であろう。

佐礼寺 九丁二反二百廿四歩

寺用五丁二反二百廿四歩 同鴨部 別当分四丁
現佐礼山仙遊寺、五八番札所、真言宗、越智郡玉川町別所。天智天皇勅願により越智守興開基と伝える。

道雲寺 七丁七反二百九十二歩 寺用三丁七反二百九十二歩 別当分四丁

 現在不明

義安寺 四丁二反小

 現義安寺、曹洞宗、松山市道後姫塚。一般には、河野彦四郎義安の建立により義安寺と称すると伝えられているが、その時代を天
 文八年(一五三九)としていて免田注進の時代にあわない。

法音寺 一丁四反三百四十歩

 今治市宅間報恩寺であるという説がある。凝然の書状には報恩院尼御前と見える。(片山才一郎)

法光寺 二丁五反七十歩

 現在不明

興教寺 七反三百五十歩

 現在不明

法安寺 七反三百五十歩

 現真言宗、周桑郡小松町北川。伊予における最古の寺とみられ、奈良時代に開創して法相宗、平安時代に天台寺院として栄えた。
 推古四年(五九六)聖徳太子の命により越智益躬が建立したと伝える。

仙楽寺 七反三百五十歩

 現在不明

長隆寺 七反三百五十歩

 現真言宗、温泉郡中島町大浦。もと長竜寺、藤原道長の後裔親賢が遠流の刑を受けて忽那島に碇泊した際、千手観音の徳に感じて
 一宇を建立したと伝え(縁起)、応徳元年(一〇八四)のこととする。のち忽那氏の菩提寺。

菅生寺 五反

 現菅生山大宝寺、真言宗、上浮穴郡久万町菅生。大宝元年(七〇一)創建、開基については豊後国の兄弟の猟師の伝説があり、文武天皇勅願という。のち、後白河院の勅により保元二年(一一五七)再建とも伝える。

光林寺 一丁

 現真言宗、越智郡玉川町畑寺。文武天皇勅願により大宝元年建立、開山徳蔵上人、のも弘法大師留錫により真言宗になったと伝え
 る。

高賀茂寺(社力)神宮寺 三丁

 小松町南川に高鴨神社があり、同じこの免田注進記に、大般若会や金剛般若会の供田の記載が見える。社伝によると、雄略天皇代葛城山麓の高鴨神を勧請したものという。その別当寺がこの寺というわけであるが現在のところは不明である。

楠本寺 二反

 今治市八町に楠本神社がある。今は小社にすぎないが、貞観一七年(八七五)に神階を授けられた式内社であるから、その神宮寺であったとみられる。

法燈寺 一反半

 朝倉村に寺趾のある法隆山本道寺が法燈寺ではないか、また、凝然関係文書に出る「八十一品道場」もこの寺であろうという説がある(片山才一郎)。興国三年(一三四二)細川頼春の兵火で焼失した。

土佐寺 一反

  現在不明

浄瑠璃寺 一丁

 現真言宗、四六番札所、松山市浄瑠璃町。元明天皇勅願、養老五年(七三)越智玉澄開基、大同二年(八〇七)空海再興と伝えるが明らかでない。延久五年(一〇七三)国司源頼義の命により河野親経再建といい、史料に見えるところでは、承久変後当地を領した土岐光定から三代後の頼雄が、月峯を開山とし、京都紫野大徳寺の末寺として開創したという(大徳寺雑掌申状案)。

法厳寺 一反

 現宝厳寺、時宗、松山市道後。天智四年(六六五)、勅願により越智守興建立、開山法相宗法興律師、のち天長四年(八二七)天台別院となり、正応五年(一二九二)一遍の弟仙阿により時宗になったと伝える。

ついで、「治田」という項にあげられているもののうち、右の「寺田」の項にも出ている寺院は、道雲寺(一丁)・佐礼寺(一丁九反)・儀安寺(四反三百歩)・国分寺(八段)・法燈寺(半)の五か寺であり、他は不明なものがほとんどであるが、この項の最後に延暦寺(八丁六反三百四十歩)があるから、伊予国以外の、特に畿内の寺院の治田であったのかも知れない中で、わずかに法界寺(二反半)というのが現在地名としてある越智郡玉川町法界寺と関係があるのではないかと思われるだけである。