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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

一 大教宣布運動

神仏判然令

 明治維新政府は天皇を中心とする国体の強化をはかり、敬神崇祖、祭政一致の復古政治を行おうとした。すなわち、明治元年(一八六八)正月、はじめて七科の制を立てて神祇科を最上位に置いた。しかし、これはわずか半月ほどで政府の職制変更にあい、同科は神祇事務局となった。同局は事務局の首位に置かれ、神祇・祭祀・祝部・神戸の関係事項を管理した。局の督には有栖川宮、輔には伯家の白川資訓と吉田神道家元の吉田良義が任命され、判事には津和野藩主の亀井茲監、平田神道(復古神道)家元の平田銕胤(平田篤胤の養子で伊予新谷藩出身)と大洲藩士で国学者の矢野玄道、権判事には少将植松雅言と六人部是愛・樹下茂国・谷森種松が任ぜられた。
 同年三月、神祇局の布達ならびに神祇事務局布告による、いわゆる「神仏判然令」が出された。この政令は一千余年にわたる神仏混淆の状態を打破し、神仏それぞれをして本然の姿に戻す目的の法令であって、いわゆる廃仏の政令ではなかったのであるが、曲解されて勢の赴くところ猛烈な廃仏毀釈運動を惹起するに至り、わが国宗教史上まれに見る不祥事を招来したのである。このことを重大視した政府は「神仏判然の処分は廃仏毀釈にあらざる旨」を布告するとともに実施は穏便に取り計らうよう布告した。
 本県にあっても石鎚神社の場合を代表事例とする神仏分離が行われた。これについては後述するが、本県では権現号や祇園牛頭天王の称号が廃されて神社名に名称変更する程度の改革に止まった。しかし、神仏判然令が予期せぬ廃仏毀釈にまで発展したことに驚いた政府は、明治二年九月、まず神祇官を復興して宣教使の職制を定め、いわゆる大教宣布を行わせたのである。すなわち翌三年一月三日、神祇官に天神地祇八神及び歴代の皇霊を鎮祭し、大教宣布の詔が発せられたのである。

 朕恭しく惟ふに、天神天祖極を立て統を垂れ、列皇相承け、之を継ぎ之を連ぶ。祭政一致、億兆同心、治教上に明らかに、風俗下に美なり。而るに中世以降、時に汚隆有り、道に顕晦有り、治教の洽からざるや久し。今や天運循環し、百度維れ新たなり。宜しく治教を明らかにし、以て惟新の大道を宣揚すべし。因りて新たに宣教使を命じ、以て天下に布教せよ。汝群臣衆庶、其れ斯の旨を体せよ。

 右の詔は祭政一致の精神をもって治教を明らかにし、道義をもって国政の根底たらしめようとしたもので、この詔に基づき、同年一一月には諸藩に宣教掛が置かれ、大教宣布運動がここに大々的に展開されることになったのである。しかし、この宣教使制度も現実には活動することができなかった。それは神祇伯兼宣教長官中山忠花の下で神祇少副に任ぜられた福羽美静が消極的であったためといわれる。そのため神祇官は何ら活動を見ずして廃され、神祇省となり、五年三月には教部省になるのである。

教則三条と教導職

 同年四月二五日、太政官は教導職を置くことを布告し、神官・僧侶等をこれに任じて教部省の管轄とする方針を打ち出し、「教則三箇条」を設けて教導の基本方針とした。一般に「三条の教則」「三条の教憲」と称されるものである。教導職は神官僧侶大合同によるもので、八月には神官すべてが教導職に補された。また九月には全国の教導職を東西両部に分け、教則三条に準拠して神道的教化活動が全国津々浦々にまで展開されることになるのである。なお、三条の教憲とは「第一条 敬神愛国ノ旨ヲ体スヘキ事」「第二条 天理人道ヲ明ニスヘキ事」「第三条 皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシム可キ事」というもので、神道の宗教的道徳性を端的に表明したもので、大教宣布運動の教化基準となったものである。
 同六年二月、政府は東京に大教院、全国各府県に中教院、その下に多くの小教院を置き、教導職を養成し、神官僧侶の外一般有志者をも教導職に補し、一同協力して運動に尽力させた。本県の中教院は松山市味酒の阿沼美神社に仮設された。「今般温泉郡味酒村阿沼美神社乃内玉乃井寛房宅エ中教院仮設致候条…」(愛媛県報第七九号)とある。

神社と小教院

 明治五年一一月、教部省は「天下大小神社ニ奉仕スル神官、其社頭説教所ヲ以、小教院ト心得三条ニ基キ氏子ヲ教導致ス候儀、専務ト為ス可ク候条」と、各県参事に布達している。すなわち、

 今般大教院建設有之ニ付テハ 天下大小神社奉仕スル神官、其社頭説教所ヲ以、小教院ト心得、三条ニ基キ氏子ヲ致教導候儀可為専務候条、向後氏子中無識無頼ノ徒無之様、普ク勤学致サセ、文明ノ治ヲ稗チテ祭政一致ノ本旨ヲ深ク体認可致旨、東西両部神官一同へ無洩可相達候也

                  教  部  省

                 石鉄県参事  本 山 茂 任

 右通達にあるように、各神社神官はその神社を説教所と心得て、三条の教則に基づいて氏子の教化教導を義務づけられたのである。しかし、神官たちにとってはこれまで全く経験のなかったことであったので相当戸惑った挙句、事前に学習勉学しては説教会を開いたりした。その辺の事情を『三輪田米山日記』によって見てみよう。

  ○同人教部三則弁解出来ニ付持参、少々加筆、当時ノ神官にしてよく出来し也。同人父盛併むつかしと言いたし候様ささうつけ致(明治六年一月二一日)
  ○三条弁解、日限ヲ定差シ可申ト御布達可被下(同、一月二八日)
  ○武智直幸来。教師三則弁解を直してくれ度頼、則加筆致。大西ハ過日加筆、武智保同断、天山村一月ニ一度講釈いたし度、里民申よしニ付、定日ヲ十七日、八月九月ハ二日講日ト定、俗論説教いたし、十七日初講ノ由しるし(下略)(二月九日)
  ○雪降。七ツ時終ニ地ニしき、夜大ニふり積む。当日、天山神社教部開講有之。(二月一七日)
  ○毎月十七日、八月九月二日教部講釈。
  ○大林寺十三等 三蔵院十四等教部等位ニナル二十五日大林寺小教院開講ニ付、常信寺、石手寺、カノ類五六輩十三等、其他十四等、十四等ノモノ出勤、まち高はかま着用の由也、ころも着られずトゾ。
  ○晴天。当日の一日正月ト言テ、郷ハ昼から休、三蔵院出張所へ頼、天山武智真幸へ教部説教願書返却ナリ。示達差出可申様有之ノ旨申遣ス。樋口、志津川両氏へ三則弁解才足いたし遣。僧侶、大林寺小教院トナリ(中略)一昨日大林寺にては三僧、壱人敬神、壱人愛国、壱人天理ヲトキ候由也。(二月二七日)
  ○晴天。当日僧侶大林寺をはじめ説教いたし候ニ付、神官もはじめ不申候ては、不相済故也。当日出席居相長曽我部盛勝、井門稲山宗信、大西盛激、武智盛貞、武智盛併、長曽我部弘等来。(三月六日)

 かく説教開催に当たっては事前準備及び方法等を打ち合わせて対処した。同六年六月には「神官奉務規則」が出され、第四条にも「神官は教導職ヲ兼務ス。其責タル甚重ナリ。故に国体ヲ弁へ理義ニ通シ其言行皆師表ノ任ニ勝ユべキヲ要スべシ」、また第五条には「教義ハ三条ノ御趣意ヲ遵奉シ及ヒ一般ノ教導職ト協和シ、悖戻ノ所属アルべカラズ」との示達もあって、僧侶側と相呼応して神官側でも各地で開講をしたのである。例えば久米郡鷹ノ子村の八幡社では月の一二日、同郡居相村の伊予豆比古命神社は二日を説教日と定めて説教をしていた。すなわち『米山日記』によると、

  ○四月二日 晴天(中略)説教日合定之事 宮掌
  ○居相二日、久米十二日、右郷社両度不残総出ト定候事。当日居相説教、当日説教日ニ付、伊予津彦命神社御前ニテ式ヲタツ。講師武智保、三輪田常貞、長曽我部盛勝三人也。少々氏子ノ人モ来。済て鹿末ノさかなにて酒出。久米にて十二日、いづれも出来候様申定の事。(以下略)
  ○四月十二日 晴天 当日説教、過日たて札の通、毎月十二日説教、午後二時はじめ。
  ○九月十二日 説教当社。石丸忠胤予講釈。

 さらにこの大教宣布運動に従事する教導職養成のための参考書も次々と執筆出版されるようになった。教導職自身の修養の指針とされたのは「十一兼題」と「十七兼題」であった。十一兼題とは、神徳皇恩、人魂不死、天神造化、題幽分界、愛国、神祭、鎮魂、君臣、父子、夫婦、大祓の一一をいい、十七兼題とは、皇国国体、皇政一新、道不可変、制可随時、人異禽獣、不可不敬、不可不学、外国交際、権利義務、役心役形、政体各種、文明開化、律法沿革、国法民法、富国強兵、租税賦役、産物制物の一七をいい、両者を総称して「二十八兼題」と呼んだのである。
 一方、この兼題の解説書も出版され、大教院兼題『十一説解義』とか『十七兼題畧解』などが出た。また『心学教諭録』(脇坂義堂)、『敬神説略』『神教綱領演義』(山口起業)、『告諭大意』などいろいろ出版されているので、神官たちはこれら解説書をひもとき新しい時代の波の大任を果たすべく努力した。
 しかし、すでに見てきたように、この大教宣布運動はあまりに神道的色彩が濃く、大教院も神道に主導権を奪われたかっこうになったことから、次第に神道以外の宗教、とくに仏教を圧するものと見られるに至り、仏教家の不満や社会的批判もあって、やがて内部的に瓦解することになったのである。すなわち、真宗僧島地黙雷は岩倉大使一行に随従して欧米外遊の途上にて大教院分離建白書を提出(五年一二月)した。それは政教分離を信教自由の立場から建白したものであったから、これまで大教宣布に不平反感を持っていた僧侶たちの支持を得た。それで同八年四月三〇日をもって神仏合併による布教は遂に差し止めとなり、翌五月二日には大教院も廃止され、また地方の中小教院も財政権と神官僧侶の対立をはらんだまま解体した。すなわち、神道国教化運動はここに失敗を見たのである。

石鎚神社と神仏分離

 神仏分離によって神社に祭祀する仏体を除き、神仏習合による権現号が廃止されて神社と改称されたことは先に少しく触れたが、ここでは石鎚神社の神仏分離について略述することにしたい。
 神祇官から神仏分離調査を命ぜられた西条藩は、石鉄山神社の奉斎像を仏体として屈け出たのに対し小松藩は神であると称して復命した。また別当前神寺住職大仙は官命に従って還俗し石本雪雄と改名した。横峯寺住職も同じく還俗して石井建雄と改め、両人ともに祠官・祠掌として石土神社の封祭式に神事を務めたのである。しかし、前神寺現住の大律は官命に従わず、還俗を承知しなかったので若干の紛争を生じたが、結局は末庵の医王院に退去してこの件は落着した。すなわち、明治六年六月のことである(「久門常衛宛書状」による)。
 石鎚神社神仏分離の経緯は『社寺取調類纂』によれば、明治二年四月、西条藩公用人岡八郎より政府へ神仏引き分け方について願い出たところ「神社ト相定可申事」と付紙による回答が出されたのである。

 当藩管内氷見村前神寺別当仕候、石鐵山蔵王権現之儀ハ、往古ヨリ両部習合ニ御座候処、今般奉戴朝旨神仏分別方稍々取調候処、天正之兵火ニ同寺旧記悉ク焼失、更ニ確証無之、唯役小角開山之儀ハロ碑ニ相伝リ、僧灼然上仙住止山頂精進練行等之儀文徳実録ニモ相見且現在目的ト仕候彌山安置之蔵王権現ハ仏体ニ相違無御座、旁現在之実跡ヲ以仏体ト
取極御届中上候儀ニ御座候、然ルニ右蔵王権現之儀ハ元小松藩ニモ奉祀仕来候処、今般同藩ニテハ神ト取極御届申上、且別当横峯寺トモ復飾為致候由、右ハ双方御届方齟齬仕、第一一致御趣意ニモ相碍ク、且ハ高山霊場之儀ニ付、一旦御届申上候儀ニハ御座候得共何卒以朝裁神仏引分被仰付下候様仕度旨申付越候、此段奉願候。以上。
    明治二年四月二十九日                        西条藩公用人
   岡  八 郎
      弁 官
        御 伝 達 所
    (朱書)『附紙神社ト相定可申事』

 さらに西条藩は、禰山安置の蔵王権現と常住の堂宇等の破却についても同年八月八日に政府に伺書を提出したが、これについては次のような回答があったのである。

 元西条藩石鉄山蔵王権現改称之儀、伺差出候ニ付、御間合ニ候所、右ハ石鐵神社ト相称シ可然、在来権現之像ハ別ニ不及祭祀事ト存候。右件過日従内田少弁殿福羽少副へ御欠合(掛力)之儀モ有之ニ付、此段御回答申進候也。
    明治二年(三力)閏十月二十五日                               神  祇  官
      弁 官 御 中

 以上のような経緯を経て神仏混淆の代表であった石鉄蔵王権現は分離して石鎚神社を称することになり、社地は別当前神寺の寺域をそのまま占有したのである。なお明治六年には愛媛県第六県社に認定されて石槌神社と称し、現在に至っている。