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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

五 東予について

 南予と中東予

 つぎの図を見ると、中東予の一体化がよくわかる。横線模様をごらんいただきたい。この図は、杉山正世先生の作られたものである。ご論文「愛媛県方言の甲種系統アクセント」(「愛媛国文研究」第四号 昭和三〇年三月)の中に見える。
 南予は「イケン」(いけない)をよく言う。中東予は「イカン」である。この様子は、吉田裕久氏主宰の『愛媛県言語地図集』の第一〇二図にも明白である。なお、同言語地図集第一二三図では、相手にものを言ってしめくくることば、訴えかけの「ソヤ」の、中東予に分布するありさまが見られる。また、第八〇図では、「里いも」を言う「タイモ」の、中東予に分布するのが見られる。また、第一三図では、「ふくらはぎ」を言う「フクラハギ」の、だいたい中東予に分布するありさまが見られる。(南予の全般はほとんど「コムラ」や「コモラ」であって、これが中予にもかかっている。)また、第一三五図と第一三六図とを見るのに、「火事」を「クワジ」と言ったり、「西瓜」を「スイクワ」と言ったりするのは、おもに中東予である。第三五図には「さわる」が出ている。これを「マガル」と言うのが中東予である。(喜多郡内にもすこしく分布が見える。)
 松山の道後で聞いた話しに、ある時、大阪のほうから来た人が、道後平野のたんぼ道を歩いていた。おりしもみごとに実った稲穂を、彼は左手でなでながら、小道を曲がろうとしていた。その時、稲田の農夫さんが、「マガラレン。マガラレン。」と言うではないか。彼は、どうしてこの道が曲がられないのかと、途方にくれたという。
 その「マガラレン。」、また「セ(シ)ラレン。」(してはいけない。)など、「ラレン」で禁止を表現するのが中東予である。そしてまた、中東予は、「そうじゃネヤ。」など、「ネヤ」を言うことが多い。
 なお、私の作った分布図で、中予・東予のきれいなまとまりの見られるものをここに引くなら、第一に「さわぐ」の図がある。これでは、「ヒロク」というのが、きれいな中東予分布を見せている。つぎに、「来なさい」の図では、「来ナハイ」を言わないという点で、中東予が、きれいなまとまりを見せている。つぎには、「どうどうしてください。」の図で、中東予が、「ヤンナハイ」を言わぬまとまりを見せている。
 では、いつまでも中東予を一括視しておいてよいかというと、そうはいかないので、ことがめんどうになってくる。そのさまは、すでに、杉山正世先生のアクセント図にもうかがわれた。

 私の経験(今治地方と松山地方)

 私は東予の島の産である。小学校以前から、今治地方のことばを経験し、やがて松山地方のことばを経験した。そのころに、もう、私には、今治地方ひいては東予と、松山地方ひいては中予との、ことばのちがいが思われた。小学校にはいる前から、村で、今治出身の若い女先生に聞かされたことばの一つは、「イヤタイ」(いやらしい)である。松山の師範学校にはいって松山ことばになじんだが、「イヤタイ」は聞かれなかった。
 今治方面の人は、「アロン。」(あれをお見。)「コロン」(これをお見。)をよく言う。松山方面の人は、こんなのをあまり言っていない。
 松山に住んで、生徒の私が異様に思ったことばの一つは、「ホー ケー。」(そうかい。そうかね。)などの「ケー」ことばである。故郷大三島では、むろんこれを言わない。今治方面は「ホー カ。」であろう。松山では「ホー ケヤ。」を聞いたおぼえがある。(今日、松山で人々に聞くと、「ケー」だと言って、「ケヤ」は言わないと言いがちである。)若い男性が「ケヤ」を言っていたか。今治方面にはもちろん「ケヤ」もない。「ホー カ。」を言う今治方面に、「ホー カン。」もさかんである。「ン」のついたほうがやさしい。(「ゾ」にも「ゾン」がある。)こういう「カン」などの習慣は、松山方面にない。
 「ソージャ ノー。」(そうだねえ。)などと、男性が「ノー」をよく口にするのは今治のほうである。松山のほうは「ナー」である。私も「ノー」で育った。(山陽路に「ノー」はつよい。)松山に住んで、「ナー」になじむのには、ずいぶんほねがおれた。しかし、「そう カナ。」などと言わないと、松山ことばにはならないのだと思って、しきりに「カナ」に心を用いた。(ことばからはいっていって、と、松山への順応に心をくだいたおぼえがある。)
 「どうどうシテ ヤ。」とたのむのは、松山方面のことばの習慣ではないか。「どうどうシテー ナ。」というのもあって、これらがまた私には初耳の難物であった。しかし、「~テ ヤ」や「~テー ナ」を言わなくては、日常生活を遂行することができないのであるから、入来者は苦労する。今治方面では、「~テ ヤ」は、言うとしても、松山方面よりもすくないのではないか。「~テー ナ」は言っていないであろう。
 今治方面では、男性の気がるな会話に「ヨイ」がよく出る。「ナンボニモ ヨイ。カサワ カエン ゾヨ。」(どうにもねえ。傘は買えないぞ。)、「コーマイ ヨイ。コドモノ ヨイ。………。」(小さい、ねえ。子どものねえ。………。)と、「ヨイ」が頻出する。こういう語り調子は、松山方面ではどうなのだろう。私どもの若いころの松山経験では、「ヨイ」の頻用がとらえられていない。
 今治方面から島に来られた先生には、「ゴーゴー」ということばがあった。「どんどん」「どしどし」の意の副詞である。「ゴーゴー ダショル ガネヤ。」(どんどん出してるがねえ。)といったようなつかいかたがなされる。「出る」とか「出ていく」とかについて、「ゴ―ゴー」が言われがちでもあるか。松山に住んで、二〇歳たらずまで、「ゴーゴー」は聞かれなかった。
 要するに、若いころの私の経験では、今治方面のことばと松山方面のことばとが、かなりちがったものに思えた。私は両方に質の差をも感じたようである。
 当時、松山のことばは、温泉郡方面のことばの中心をなすもののように思われた。同僚・先輩の、温泉郡・松山市の多くの人々のことばを聞いては、この範囲が、さらには伊予郡方面までもが、ほぼ同様のことばであるようにも思われた。
 したがってまた、広く温泉郡伊予郡方面と、今治市中心の越智郡方面とが、ことばのうえで、どのようにか区別されるだろうとも、私は考えた。

 中予方言と東予方言

 右は私の早期の経験である。しかしながら、既説の諸事項は、今日も認められることのようである。中予地方と、東予の越智郡方面とは、方言上、見おけることができる。
 越智郡方面のことばは、その東の周桑郡方面以東のことばによくつづいている。したがって、中東予方言と言われるような方言状態は、中予方言と、越智郡以東の「東予」の方言状態とに見わけられることになる。そのありさまを、以下にたしかめていこう。
 吉田裕久氏主宰の『愛媛県言語地図集』を見ると、つぎのようなものが注目される。第一二九図で、「そいでノーエ。」などという「ノーエ」の分布が東予的である。第一二六図で、「ほいでノモシ。」などという「ノモシ」の分布が東予的である。第一〇五図で、「行かなかった」の「イカザッタ」「イカダッタ」などの分布が東予的である。第五〇図で、「すりばち」を言う「カガツ」の分布がきれいに東予的である。(中予本位には「カガス」がある。)第七六図で、「めだか」を言う「メメンジャコ」「ミミンジャコ」「シミンジャコ」一類のものの分布が東予的である。第六図で、「あざ」を言う「アオジ」などの分布が東予的である。(中予内の特別のものには「クロニエ」などがある。)第二一図で、「女の不精者」を言う「ショータレ」の分布が東予的である。
 つぎには私の作った分布図を見よう。「ください」や「おくれ」に相当する「ツカー」が、きれいな東予分布を見せている。「どうどうしてください(おくれ)。」は「どうどうシテ ツカー。」である。東予の東のほうでは、「どうどうシテッカー。」ともなる。(山陽系の島々には「ツカイ」がある。)これらのことばのもとは、「遣わされ」であろう。その「ツカーサレ」が「ツカー」「ツカイ」になった。なお、「遣(ツカー)サイ」は、南予方面の「遣ンナハイ」に類するものである。
 私の分布図、「すりばち」の図では、より古い時期での調査ながら、「カガツ」のきれいな東予分布が、前記の、吉田裕久氏の第五〇図の「カガツ」分布によく一致している。(中予以南の一カガス)の分布も、吉圧氏のに似てしる。)
 私の分布図ではまた、「たくさん」を言う「ヨーケ」が、だいたいは東予的によく分布している。「馬鈴薯」の図では、「ホドイモ」が、まずは東予的な分布である。「めだか」の図では、「メメンジャコ」「ミミンジャコ」の二語のあい寄る分布が、越智郡下を除いて東予的である。
 さて、例の「ホー ケー。」にほぼ等しいもののような「ホー デー。」あるいは「ホー デ。」、つまり「デ」を用いる言いかたは、かなりきれいに東予に分布していよう。
 以上のような東予分布が、中東予方言を、中予方言と東予方言とに分けさせる。

 東予方言の西限

 東予方言の範囲を、いわゆる東予(越智郡以東)にとるとしても、越智郡下は、その西はしまで、きれいに東予方言にはいるのかどうか。(島嶼部のことは、あとで細論する。)言いかえれば、中予方言と東予方言との境は、北部で言うと、温泉郡・松山市・北条市と越智郡との境にあるのかどうか。私は、人も思われるとおり、越智郡西境が方言境界になっていると思う。
 中予方言と東予方言とは、ながらかにつづく。大きい方言差で接するのではない。それでいて、差異は差異であり、その差異線が、北部では、右の郡境に引かれる。
 私は、従来の調査によって、自分がこう解釈しているのを、現地の人にもたしかめてみたいと思って、先般は、伊予北条駅に下車した。駅の人たちにおたずねしてみると、「越智郡の菊間とこの北条とで、ことばはあまりちがわない。」とのことであった。このへんのことばぱ松山弁に似ていますかと問うと、「そうだ。みんな松山へ通っているから。」ともあった。
 私どもが待合室に出たとたん、「菊間と北条とでは、………」という、男の人のことばが聞こえてきた。。エッ?、とばかりふりむくと、駅の売店で、初老の人と売店の女性とが会話していた。私はかけ足でそこへ出むいて、ぶしつけをわびながら、北条と菊間とでは何がちがうのでしょうかとおたずねした。最初に説明されたのは、呉服屋についてのことである。私はすぐにことばのことをおたずねした。さいわいなことに、答えてくださった、売店の人は、今のつとめの前、菊間駅の売店につとめていたよし、出身は小松であるという。そうだとしたら、この、孫女もある女性の、「菊間ことば・北条ことば」比較の話しは、中立のたちばでのよい話しである。要点はつぎのようなものであった。

   「北条と菊間とでは、ちょっとちがう」
   「北条のほうがちょっと荒っぽい。菊間のほうがていねい。」
   「北条弁は「ホージャロ ゲー。」(そうだろう?) 菊間では「ゲー」を聞かなかった。」
   「「ホジャケンド」(だけど)は北条も菊間も。」
   「菊間はネーネーことば。北条はナーナーことば。松山はナーことば。」
   「北条では「ノー」はあまり聞かぬ。今治には「ノ」がある。」
   「ホージャ ゲー。」(そうだよ。)は北条独特。」

 この人も、北条と菊間とに、なんらかの方言差を認めていられる。
 私どもは、このあと、ふたたび汽車に乗って、菊間に向かった。八度、トンネルをぬけて、菊間駅についた。トンネルの多い山地、海にせまったこの山地に、郡境(越智郡と北条市との境)がある。東予方言が越智郡からはじまる時、越智郡での東予方言の西限は、たしかにこの郡境であろう。
 周桑郡と温泉郡・上浮穴郡との境、西条市と上浮穴郡との境については、東予方言の限界状況を、たしかめ得ていない。

 東予方言の中み

 ところで、このようにとり定められる東予方言も、中みはけっして単純一様ではない。そのはずであろう。方言の存在する土地がらー地域性ーが単純一様ではないからである。地域にしたがって人が住み、そこの人々が、地域社会にしたがって言語生活をいとなむ。
 東予方言の中には、まず、越智郡方面から新居浜市域までをおおう方言のまとまりがある。三五二ページにもとりあげた「イヤタイ」ということばが、島嶼部にはないけれども、越智郡から新居浜市にわたって見
いたされる。「さがす」の意の「タンネル」もまた同様である。「そうですか。」「そうかね。」の「ホー カン。」「ソー カン。」もまた同様である。「たくさん」の意の「ゴーゲニ」がまた、越智郡から西条市にわたって見いだされる。以上は、私のつくった分布図によって言うものである。
 つぎには、越智郡方面と周桑郡方面との、方言上の同一性が認められる。また私の分布図によるのに、さきの「ホー カン。」が、この地域でよくおこなわれている。「いたどり」を言う「イタズリ」が、この地
域におこなわれている。(島にもあり、中予地方にもあるが。)杉山正世先生の「愛媛県方言アクセント分布図」(三五一ぺージ)にも、越智郡方面・周桑方面と西条市以東との別が見られる。
 さて、西条市以東のまとまりについては、私のつくった分布図にあっても、さきの「いたどり」の図で、この地域の「タシッポ」「タシッポン」「タシンポ」の分布を見ることができる。「叱られる」の図で、この地域の「オンカレル」の分布を見ることができる。「山頂」の図で、この地域の「テンコツ」の分布を見ることができる。(ただし島嶼部にもこれがある。)「何々だから」の図で、この地域の「キニ」「キン」を見ることができる。本土部での、東予内のこの区ぎり、すなわち、西条市以東で、「から」が「ケニ」や「ケン」でなくて「キニ」または「キン」であるのは、この地域の方言地質をよく反映しているようで注視される。
 もし、越智郡方面のことばの、連接する中予路のことばへの近似を大きく見るとすれば、東予方言の東予らしさは、いよいよ周桑郡方面からはじまるとも、言えるのであろうか。今治市の一古老男性は、「周桑はひと山越えてむこうで、ことばがちょっとちがう。」とも語った。

 宇摩郡

 東予方言の中みを見て、とりわけ問題視されるのは、宇摩郡方面(伊予三島市・川之江市をふくむ)
の方言状態である。
 上来すでに、私どもは、方言事象分布上、宇摩郡方面が疎外され分立するのを見た。東予方言下にあっても、宇摩郡方面は別格の地位に立つ。
 私のつくった分布図にしたがって言って、宇摩郡下および伊予三島市・川之江市は、「いたずら」を言うことば「イケズ」(県下によくおこなわれているもの)を持たない。別風である。「どうどうしてください。」「どうどうしておくれ。」を言う「どうどうシテッカー。」を持つのが宇摩郡方面だけである。「お茶をちょうだい。」も「オチャッカー。」と言う。
 私はかねがね、旧新居郡から宇摩郡へと、汽車が、長いトンネルをぬけてはいっていくのを経験するたびに、これでは宇摩郡も新居郡とはことばが変わっているはずだなと思ってきた。今の新居浜市から言えば、宇摩郡は山のかなたである。
  とはいいながら、地方行政上の区分で。山のこなたに、宇摩郡の土居町に属する一集落がある。
 宇摩郡方面の大体では、従来、「オイデマヘ。」(おいでなさい。)、「オフロア ワキマシタキニ 、オツカリマヘ。」(おふろがわきましたから、おはいりなさい。)などの「マヘ」(ませ)ことばがよく聞かれたものである。新居浜市以西にはこの言いかたがない。宇摩郡方面は、この点でも別天地である。
 じつは、「マヘ」ことばは、香川県下でよく聞かれる。「……… 見マセ。」「見マヘ」「来マエ」「しっかり シマイ。」などとある。宇摩郡方面は、さすがに、讃岐との連接地で、ことばの通いが、このようにできてもいる。こういう事情からも、宇摩郡方面の、方言上の地位は、特定化しがちであったろう。
 宇摩郡方面に、「オイデマヘ。」などの言いかたもおこなわれてきたせいであろうか、以前、新居浜市の人が、私に、宇摩郡はことばがおとなしい。やわらかだ。新居郡は荒い。」と語った。先般、宇摩郡から新居浜市域に歩いてみた時も、また、土地の人の、つぎのようなことばに接することができた。
 宇摩郡がわの初老女(新居浜から来嫁)の言 「ことばが チゴ―テ キタ ナー。」「こちらのほ うが ユックリ シトル。」「ここは「ナー」。新居浜は「ネ―」。」
 新居浜市域にはいってすぐの家の老女(宇摩郡から来嫁)の言「宇摩郡は「ナー」で、新居浜は「ネー」。」「宇摩郡はことばがやわらかい。」「新居浜市とでは、すべての面で、ふんいきがちがう。」宇摩郡は「オイデー。」、新居浜市は「オイデン。」」
 ことばのちがいがあっても、それが、そんなに大きいものでないことは、当然であろう。それにしても、宇摩郡方面での、「おまえのうち」の「オマイン ク(あるいはキ)」のような言いかたは、新居浜市域にはおこなわれてこなかったであろう。(三二四ページ)「たまに」の意の「マンガニ」も、宇摩郡方面におこなわれて、新居浜市方面にはおこなわれていないのではないか。ことにはまた、
  ○ンダ、ヒャクショーチュー モノワ、………。(ほら、百姓というものは、………。)
  ○ンダー、ソノ トーリ ヨ。(ほら、そのとおりだよ。)
といったような、感動詞「ンダ」の使用となると、これは新居浜市方面にないことかと思われる。
 つぎには、吉田裕久氏主宰の『愛媛県言語地図集』を見よう。第八図の「舌」では、「ベーロ」が宇摩郡方面内にだけある。第一三図の「ふくらはぎ」では、「スボ」または「スボタ」が、宇摩郡方面内にだけある。第一三八図の「井戸」では、「イズミ」が宇摩郡方面内にだけある。第九九図の「雨が降っている(進行)」では、「フンリョル」「フッリョル」が、宇摩郡方面内にだけある。第一〇六図の「きれいであった」では、「ケッコカッタ」などが、宇摩郡方面内にだけある。第一一五図の「あげるから」では、「から」の「キン」または「キニ」が、主として宇摩郡方面内にある。(他地方はほとんど「ケン」または「ケレ」である。)
 宇摩郡方面に、土佐との系脈も考えられることは、さきにふれた。(三二四ページ)
 東予の東端部は、それなりの性質を持っており、それなりの地位に立っている。

 東予の島々

 では島々はどうか。新居浜市に属する大島は、そのことばも、すぐ近い本土部のに近いものである。
 問題になるのが、越智郡下に属する、芸予叢島の中の島々である。このうち、今治市に近い大島と、その属島は、そうとうにはっきりと、今治系のことばを見せている。四坂島のことばも、伊予本土系に近いものであろう。大島北隣の伯方島のとりあつかいがやっかいである。それよりも北にある大三島・大下島・小大下島・岡村島・岩城島・生名島・佐島・弓削島・豊島・高井神島・魚島は、およそ、中国山陽路系の方言色を見せている。
 ところで、山陽系としうる岩城島にも、たとえば「ネヤ」(「暑い ネヤ。」など)があって、これは伊予路の「ネヤ」に通じるものである。「山陽路には「ネヤ」がない。)例の「ノモシ」や「ノーシ」も、大三島などにあって、これがまた伊予路系であり、山陽路にはこんなのがない。やはり当地方も、松山藩下であっただけのことはある。
 ことばしだいでは、右の島々が、大様、愛媛模様を示しもするのを、今、県史のたちばでは、重くとりあげたい。一概に山陽路系とばかりは見ないでおきたいのが、これらの島々である。
 今は、北部島嶼も、すべて、県境本位に、東予方一言範囲内のものと考えとっておく。
  越智郡下の島嶼は東予方言内のものと見、温泉郡方面の島嶼は中予方言下のものと見る。このたてわけについては、つぎの「六 中予について」の中で述べる。

 伯方島について

 ここは従来、南方系とも北方系とも見られてきた。また、両方の方言状態の接衝する所とも見られてきた。
 じっさい、生活文化の全般で、伯方島には、南北両系の接衝が見られよう。その接衝ぶりが、時のながれとともに、変化してきているのではないか。そのような、うごく伯方島について、人は、そのおりおりの方言を調査してきた。それゆえ、研究の年次にしたがって、人の所説にも、異同がおこったしだいであろう。
 伯方島は、本来、南方的だったかもしれない。アクセント上では、いわゆる共通語とそのアクセント(中国アクセントもこの系統)との流布・浸潤によって、ここに、北方色(中国色)と見られるものがつよまってきたかに思われる。
 私は、昭和四二年八月八日~一八日の一一日間に、伯方島について、語アクセントの精密調査を実施した。調査者は私ほか一〇名、調査語は四五一語、全島全集落にわたって、つぎの諸階層の女・男を対象にした。
  小学六年 中学三年 二〇歳前後 三〇歳前後 四〇歳前後 五〇歳前後 六〇歳前後 幼稚園児
調査上では、調査語排列順序の組みかえを二様におこなって、作業を改めることもした。同一対象者について、A調査者に代わるB調査者が作業することもした。考えられるかぎりの方法をつくしての、詳密な調査がおこなわれた。その全成果は、『方言研究年報』第一一・一二巻にまとめられている。(昭和四五年一月)これには、七人の諸君の、「伯方島アクセントは結局中国系か四国系か」という論文も付載されている。
 これらの論文の大勢は、この時、中国系であることを認めようとするものである。(諸論に、こまかな限定や推論のあることは言うまでもない。)
 『瀬戸内海言語図巻』によると、「馬鈴薯」のことを、老年者が、南の大島では「ジャガイモ」と言い、北の大三島では「コーボーイモ」と言って、中の伯方島では「カントイモ」と言っている。この図巻に、伯方島の緩衝地のありさまが見える。それでいて、また、この島が南方系である様子も見え、かつ、北方系である様子も見える。どちらかというと、北方系のありさまが、いくらか多く見えるか。一例、「財産家」を言う老年者のことばでは、大島がおもに「ダンナシュ」で、伯方島・大三島が「グベンシャ」である。

愛媛県方言アクセント分布図

愛媛県方言アクセント分布図