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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

四 南予について

 ここで南予というのは、市域をふくめて、喜多郡方面(大洲市をふくむ)以南の地域である。

 南予という受けとりかた

 人もすぐに考えがちの区分、南予という受けとりかた、これは、愛媛方言の内部分派を考えるばあいにも、すぐに採用されてよいものではないか。
 私は、大正一三年に松山に出て、当時の愛媛県師範学校の生徒になった。まずこまりいったのは、ことばの生活である。寄宿舎の自分のへやでは、私以外のものが、みんな私とはちがったものの言いかたをする。上浮穴郡から来た西田君は、「コゲ シテ」(こんなにして)「ドゲ シテ」(どのようにして)などと言う。一年上の原田さんは、南宇和郡から来た人で、「アル ゾカ。」(あるだろうか。)などと言われる。教室へ出ると、そのへんの話しあいで、人が、「どうどうシテ ヤ。」とか、「何々しテー ナ。」とか言っている。私の全然知らないことばづかいである。こまった。
 私の生地、越智郡の大三島は、方言上、広島県の安芸・備後の系統に属する。安芸弁と備後弁とのまざりあったようなものが、わが生活語、大三島方言である。(だいたいはそう言える。)四国方言系の伊予弁は、大三島方言から言うと、ひと山むこうの異風の方言である。
 師範学校には県下の各地から生徒が集まっていた。そこには、私に無縁だったことばの一大展覧場があった。
 その中に身をおいて、私がしだいに伊予ことばになじむようになって、だんだんわかってきたのは、伊予ことばの地方的相違である。私は、学問的な言いかたをすれば、客観的なたちばで、伊予ことばの観察者になり得ていたのであった。
 南予のことばが、まずとり分けられる異色のものに思われた。県下で、喜多郡以南の人々のことばが、第一に特別視された。
 爾来、今日まで、度多く愛媛県下を旅行してきて、やはり思う。愛媛方言はまず、南予方言と中東予方言とに大別される、と。
 色分けするならば、南予方言が紫色である。中東予方言はピンク色である。そのうち、中東予方言を中予方言と東予方言とに分けるとなれば、中予方言がピンク色で、東予方言は赤色である。

 南予方言

 「そうですか。」を「ソーダス カ。」と言うのは南予だけである。城辺の人はかつて私に、「そうでしょう。」のつもりで「ソーダショー。」と言った。つぎに、「ごめんください。」と、はいっていく時に、「ハーイ。」と言ってもきたのは、南予だけである。「着物を着て」の「着て」に「キーテ」の言いかたを見せてきたのも南予である。「何々してくれませんか。」「何々してくださいませんか。」の意の「何々シテ ヤンナハラン カ。」を言うのも南予だけである。「~テ ヤンナハイ。」「~テ ヤンナハイ ヤ。」もよく言われている。「あるだろうか。」を「アルロ カ。」「アル ゾカ。」などと言うのも南予である。「だろう」の「ロー」「ロ」は、「ド」音を介して「ゾ」になったか。宇和四郡方面がよくこれを見せてきた。つぎに、「やってみて」を「ヤッチ ミチ」とも言ってきたのが南予内である。かつて私は、南宇和郡一本松村でも、「行チ 来チ モンチ キチ」と言うと教えられたことがある。つぎに、「どうどうシテ オル」を「どうどうシチョル」と言うのも南予である。「難儀な」の意の「ヅツナイ」は、わずかだけれども、やはり南予内にだけ見いたされるようである。「じゃんけん」を言う「シーヤン」は、中予にもとさかんで、南予の宇和四郡方面には見いたされない。「かたつむり」を言う「カタタン」「カタタ」や「ガタタン」、「カタトー」「カタド」は、喜多郡以南の南予内のものである。「かまきり」を言う「オガメ」「オガマ」の類がまた、同南予内のものである。(伊予郡内にもあるか。)
 以上はすべて、私自身の調査によっている。昭和七年次のものが根本で、そのご今日までのしばし次の調査結果も加味されている。
 申すまでもないことながら、以下の記述にあっても、ことわりがなければ、資料はすべて私自身のものである。また、言説の根拠は、私自身の調査結果である。
 南予域の特定性を明示する事象分布はかず多い。私どもは、上掲のものの二・三によっても、ただちに、南予方面の伊予に特立するのを理解することができる。
 やはり、地理的事情によることが大きいのではないか。松山市中心に新風がおこったとしても、あるいは国の東方から文化文物が伊予に入来したとしても、受け手の南予は、山々を越えての南方の地である。ここへは、ものごとのとどくのがおそかったろう。
 やっとここへものごと(たとえば一つのことば「ダス」)がとどいたころには、松山のほうは、つぎの新しいものごとの波に洗われている。「そうダス。」などの「ダス」ことばはおこなわれなくなっている。となって、「ダス」は南予にだけ見られることになった。
 行きどまりの地域、南予、ここは、この自然地理状態の中で、受け手としてものごとを受け入れると、他からのさまたげもすくないから、そのものごとをよく温存する。かっこうの温存場所、南予は、それゆえ、いろいろのより古いことば、より古い言語習慣を温存して、方言上の特色域になった。
 地理上、他からの影響のとどきにくい所、また、影響のとどくのがおくれる所は、自然温存を見せる反面、おもしろいことに、独自の改変も見せる。さきの「ダス」ことばのばあいも、ことによると、南予だけが、その方言生活上の内部事情で、「そうデ ヤス。」といったような言いかたを、なまらせて、「~ダス」の言いかたにしたかもしれない。が、こんなばあいも、ことは、要するに、南予という地域の地域性を示すものである。

 喜多郡地方のこと

 南予のうちで、ときに喜多郡方面(喜多郡・大洲市)が、ややはなれた地位に立つことは、さきの「やってみて」の「チ」事象の分布にも見られた。中予と南予も、つねに一線できっぱりと境されるものではない。喜多郡方面が、南予のうちの、すこしくゆれている部分、宇和四郡方面(宇和島市をふくむ)は安定している部分である。ゆれている部分を、宇和四郡方面と中予との接衝地域とも見ることができようか。「じゃんけん」の「シーヤン」の分布では、喜多郡方面も「シーヤン」あるいは「チーヤン」「ヂーヤン」である。
 ことば調子、喜多郡方面のイントネーションが、南予の中でもきわだって異色であることは、よく知られていよう。もちろん、それは中予的ではない。
  ○ドコデ カイナハッタンジャロー。(どこで買いなさったんだろう?)
といったような、一本調子に高い音のつづく抑揚は、中予以東のものではない。さればといって、宇和島などなどのものでもない。ものは、南予的とも言え、しかも異風ものである。語アクセントも、大洲市のと宇和島市のとに相違がある。(三七四ページ以下の表覧を見つめていただきたい。)喜多郡方面は、やはりだいじな緩衝地帯になっていようか。この地方はもと大洲藩領で、宇和島藩領ではなかったということなどは、どれほど影響しているであろうか。
 喜多郡方面の問題はあるが、それにしても、喜多郡以南の南予は、方言上、よく特定性・特定地域性を見せているものではある。

 南予と土佐がわと

 南予の裏がわは土佐の西南部である。山地が境してはいるが、両方につづきあいもある。このため、南予内の方言を、土佐西南部のいくらかの地方の方言と合わせて一つに見る考えかたもなされてきた。
 私も、昭和九年一〇年のアクセント調査で考えさせられたことがある。当時は各県に女子師範学校があった。私は、お願いして、中国四国の(のちに近畿と九州東部とのも)各校寄宿舎生につき、語アクセント調査をさせていただいた。相手は、郡別に、それぞれたくさんの女生徒が集まってくださった。おなじ年齢層の同性の人についての、最短期間での統一調査、この理想を、当時は当時なりに、私は達成させてもらえたのであった。その結果を『国語方言アクセント地図』にしてみると、四国では西南部域ー愛媛県西南部と高知県西南部とーに、注目すべき事象が多くあらわれた。たとえば、「雨」のアクセントが、ここ四国西南部では、四国の大勢の「アメ」(香川県下では「アメー」も)に反して、「アメ」である。南予と土佐幡多郡とが一様になっている。「飲む」のアクセントが、四国西南部では、四国の大勢の「ノム」に反して「ノム」である。また、南予と幡多郡とが一様になっている。例の多いことから、両県にまたがる四国西南部の一体性が思われた。それにしても、「生まれる」のアクセントになると、幡多郡がわは「ウマレル」が主流であって、南予には、「ウマレル」「ウマレル」があってかつ「ウマレル」のかなり優勢な分布が見られる。というようなことにもなって、南予と幡多郡がわとは、一にして二とも考えられた。           
 昭和八・九年を主軸とする、「中国・四国・西近畿」対象の、調査簿依頼方式による私の方言調査、これの結果(注一)によれば、つぎのようなことも明らかである。「親類」の図によれば、高知県に広く「ルイ」という語がおこなわれていて(南宇和郡内にも上浮穴郡内にもこれがあって)、愛媛県下には「イッケ」が多く、かつ、南予には(南宇和郡の土佐境近くにも)、「ルイチュー」が見られる。(それに対して、中予に「イチルイ」が見られる。)南予の主部分は、土佐西南部に同様かのようで、しかも、「ルイ」ならぬ「ルイチュー」である。地域差の見せようがおもしろく、地域性のにおわせようがおもしろい。(注二)
 拙著『方言学』、三八四ページの「足駄」の図では、高知県下全般に「ボクリ」の分布が見られて、愛媛県下は「サシハマ」が大勢をなしている。この時、南予は別様でなく、それでいて、土佐とははっきり異なっている。なお、東宇和郡・喜多郡から中予以東にかけては、「ヒコズリ」の分布もあって、この点では、南予の異域性がうかがわれる。
 さて、さきには、南予の「やってみち」「行て来て」や「どうどうシチョル」について述べた。これらのものは、つづいて土佐にも見られる。南宇和郡内の発音の、〔TsU(「ツ」ではなくて、「トゥ」に近いもの)などというのも。土佐路の「ッ」の発音に通うものである。副詞「タカデ」は、土佐の広くで、「タカデ タマル カ。」(まったくたまったものではないよ。)などと、よくおこなわれていて、これが南宇和郡内にもある。「オットロシ ヤ。タカデ。」(やあ、たいへんだ。まったく。)、「ターカデ オットロシ ヤ。」(まあまあひじょうに〈こう教えられた。〉たいへんだ。)などと言われている。こういう点では、じっさい、南予の南宇和郡も土佐によくつれあっている。御荘の人も、「御荘からちょっとむこうへ行ったら、高知弁に近くなる。」と語った。
 ところで、御荘のむこうの城辺で、以前に聞き習った唄の文句には、「伊予の名物、かずかずあれど、ずっと南に寄ンナハイ。城辺ヨイトコ。お国自慢のウシズモー。ナシ。ミナハイ。ウシズモー。」というのがある。中の「ナシ」「~ナハイ」というのが土地弁である。が、高知県幡多郡方面の中村市のほうに行くと、「ナシ」は言わなくて「ノーシ」である。「~ナハイ」は言わなくて「~ナサイ」である。
 南宇和郡にいちばん近い宿毛市方面をたずねてみる。私がかつて宿毛湾岸の小筑紫の人から聞き得たその土地ことばは、つぎのとおりである。もの言いのおわりの訴えことばとしては「ノーシ」を言う。「お早うございます。」は「エライ ハヤイ ノーシ。」である。年上の人が「ノンシ」と言う。かんたんな言いかたには「ノン」がある。すべて「ノ」系統である。「ノン」と似たものに、「そうか。」の「か」の「カン」がある。「これはわたしのですよ。」の意の「コリャー ワシンガ ぜ。」のばあいは「ゼン」である。そろって「ン」がついている。さて、「こっちへ来なさい。」は「コッチー キナンセー。」である。「あれを見なさい。」は「アレー ミナンセー。」である。「~ナハイ」は出てこない。その他、つぎのような言いかたが注意される。
  ○ドーゾ オネガイシヤンス。(どうぞお願いいたします。)
  ○コノ テガミ ヨンデ クレマセン カノーシ。(この手紙を読んでくださいませんか。)(中村市のほうでは、「コノ テガミ ヨンデ ツカサイマセ。」である。)
  ○ゴメンナンセー。(ごめんなさい。)
 南宇和郡はどうか。西海町船越のことばをとりあげてみる。右の三者に相当する言いかたは、つぎのとおりである。
  ○ドーゾ オタノミシマス。(「~ヤンス」の言いかたはおこなわれていない。)
  ○コノ テガミ ヨンヂャンナハレ。ナハ―レ。(例の「ヤンナハル」ことばがおこなわれている・「読んでヤリナハレ」が「ヨ  ンヂャンナハレ、ナハ―レ」になっている。この言いかたは土佐にない。)
  ○マー ゴメンナセー。(こちらは「~ナセ」である。もう一つ、こちらでは、「ハイ、ゴメンナハレ。」と言っている。)
 ずいぶんちがうではないか。船越のほうでは(すなわち南宇和郡がわでは)、土佐に反して、「ナハル」ことばがさかんである。土佐の「ノーシ」「ノンシ」に対しては、こちらは「ナーシ」「ナシ」である。「ナ」系統である。「ナーシ」がより多くつかわれてきたか。「ソーダス ナーシ。」(そうですねえ。)、これはまったく南宇和郡がわのものである。こちらにまた、「か」の「カン」、「ぜ」の「ゼン」などはない。「ン」をつける習慣の有無、これも大きなちがいである。「遣りなさい」方式の言いかたの有無などは、双方(南予には広く)の方言風土の大きな相違をものがたるものではないか。土佐に「~ヤンス」の言いかたがある。これは南宇和郡がわに(また全伊予)におこなわれていなくて、南予の広くには「ダス」(でヤス)がある。「ヤス」と「ヤンス」とは同一種のものである。そんなものが、一方では「ヤンス」のすがたをそのままに見せており、他方は、「ヤス」のおもかげをそっと見せるにいたっている。やはり、双方の、方言上の土地がらにちがいのあるのが認められよう。もう一つ、土佐がわには「見マセ」(ごらんなさい)の言いかたがあって、南予がわにはこれがない。(南宇和郡でなら「見ナセ」であろう。)
 けっきょくのところ、土佐分と南宇和郡(ひいては南予)とは、方言上、いっしょにしないほうがよさそうである。
 南予、東宇和郡の東山地部の高川の人からは、「土佐地方とくに高岡郡地方に似る。(土佐人に言わすと、土佐のが伊予に似ると言います。)地理的にはちょうど隣である。婚姻関係・商売関係で、言語が混同したるならん。」との教示を受けたことがある。南宇和郡ならずとも、土佐ざかいに近いあたりは、どことも、多少は、伊予でありつつ土佐にも似ることになっているか。( 上浮穴郡の土佐近くなども同様である。)そうあっても自然のことであろう。ものはことばである。人とともにしぜんにながれる。くにざかいがことばの境とはきまらない。そんなにきちっとはいかない。それにしては、尹予ことず、愛媛方言などは、そ  の存立が、ほぼくにざかい本位に、はっきりとしているほうではないか。
 そのはっきりとしている、伊予路の愛媛方言の中に、特立して南予方言がある。
 南予に属する海島の方言もまた、まがうかたなく、南予方言のうちのものである。喜多郡長浜沖  の青島のことばも、南予方言下のものである。青島で、
   ○フロガ アイタラ イッパイ イラヒテ ヤンナハイ ヤ。(ふろがあいたら、いっぱい入らしてくださいな。)
 などと言っている。
 注一 この時の調査は、各県の男子(または女子)師範学校生徒諸氏に依頼したものである。私は、参上して、国語の先生に委細をお願いし、ことが単純な通信調査にはならないように用心した。
 この調査結果のいくらかが、つぎの二書に載せられている。
 A DIALECT-GEOGRAPHICAL STUDY OF THE JAPANESE DIALECTS (F0lklore Studies VOL.XVPublishedby the S.V. D. Research Institute in Tokyo昭和三一年一〇月)『方言学』(三省堂 昭和三七年六月)この書の三八六ページに、「親類」の図がある。三八四ページに「足駄」の図がある。
 注二 ここで(またのちのばあいにも)、例証を多くしていきたいのであるが、紙面に余裕がない。いきおい、論述がはしょられることになる。私としては、しかるべき証明作業の結果を、一・二の事例で明らかにしていこうとしているつもりである。