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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

第二節 「愛媛の方言」今昔

伊予弁をさかのぼる

 伊予に、歴史上の大変化はなかったらしい。伊予弁も、伊予の土地で、ほぼ順調に推移してきたのではないか。ことばのアクセントが、「山」は「ヤマ」、「雨」は「アメ」とある。こういう伊予弁の調子は、おお昔から、このとおりだったらしい。四国・近畿がっれあって、古くから、こういうことば調子を保ってきたようである。こんな調子は、今の東京弁(あるいは共通語)の調子の「ヤマ」「アメ」などというのとはまったくちがうけれども、過去の長い京都中心の時代には、伊予弁ふうのが、国の標準的な調子であった。
 「子」の「コー」、「蚊」の「カー」など、一音語を長める言いかたも、ずいぶん古くからの発音習慣らしい。やはり近畿内にもこれがおこなわれてきた。伊予弁の、一つのこの発音習慣も、変わらぬ伊予弁の長い歴史をものがたっている。今日、少年層の人たちにもなお、「テー」(手)などの発音が聞かれるありさまである。(『瀬戸内海言語図巻』(注2)の上巻に、「手」の発音の図がある。老年層の図と少年層の図とが、上下に並べられている。)
 上浮穴郡の土佐寄りの地域では、たとえば「子ども」も、「コンドモ」と発音されている。北宇和郡内でも、かつて、「コンドモ」が聞かれ、「ソレマンデ」(それまで)などが聞かれた。南宇和郡で聞いたことばには、ひどくなぐることを言う「ドンヅク」がある。「ドヅク」がこう発音されているのは、「コンドモ」式の発音を見せたものである。喜多郡長浜町櫛生では、「ただ、その」などという「ただ」の「タンダ」が聞かれた。東予の旧新居郡下で聞かれるものには、「ヒナンドリ」(ひなどり)「ソレンデ」(それで)などがある。こうして県下だどられる、「ン」「ン」のはいる発音は、さかのぼって、室町時代の京都などにもおこなわれていた。伊予路にも、古い発音が残ったものである。南宇和郡の西奥、土佐ざかいに近いあたりでは、「水」を言う「ミドゥ」が聞かれるという。これも、室町時代の中央語に聞かれたものである。「ド」や「デ」などの、いわゆるダ行音の前ばかりではなく。ガ行音の前にも、「ン」の音がはいっている。宇摩郡の古老は、駅名の「中萩」を、「ナカンハギ」と発音していた。県下に、「かご」を「カンゴ」と言ってもいる所があろう。(「せど」の「センド」などとともに。)「マンゴマッダイまで」(孫末代まで)とか「ヤンガテ」(やがて)とか言われてもいよう。こうしたガ行音のものも、やはりさかのぼって、室町時代におこなわれていたようである。「つみ」「とが」の「とが」も、都びとが、「トンガ」と発音してもいたらしい。バ行音の前に「ン」音を入れる習慣も、やはり室町時代にあった。そのながれにさおさすものであろう。今日の伊予ことばの中にも、鳥の「とび」を言う「トンビ」が聞かれる。「蛇」を「ヘンビ」と言う地点は、下図のとおりである。これは、昭和七年秋に、私か県下五十三地点を調査(注2)した結果によるものである。
 私どもがなにげなくつかっていることばの発音にも、ずいぶん来歴がある。変な発音だなどと思っているものが、かえって、いわれ深い古音であったりする。
 では、ことばづかいのほうに目を移してみよう。南予には「ダス」ことばがある。東宇和郡内の北部での一例は、「ソーダス ナー。」(そうですねえ。)である。「ソーダス」は、「ソーデヤス」のつづまったものではないか。「ヤス」は、「おいでヤス。」(おいでなさい。)などの「ヤス」で、近世に国内広くおこなわれたことばである。南予地方は、徳川時代にすぐさかのぼって来歴をしらべることのできることばづかいを持っている。愛媛師範学校での私の先輩、北宇和出身の松末通信氏は、先生に、「何々ダス。」と答えたそうである。先生は、「君は南予か。」と言われた。松末氏は、〝ハイ、ソーダス。〟と答えた。氏はこの時、「はじめて方言を自覚した。」という。「方言」自覚とはいうが、これは、「ダス」ことばの歴史にはっきりと生きたということでもあった。
 その南予に、東宇和郡内でなど、「こける」(倒れる)を言う「コクル」がある。人はこのことをとらえて、〝まちがったことをよく言う。〟と言ったりしている。まちがったことどころか、この言いかたは、由緒正しい動詞活用を見せたものである。今の人は、「受ケル」「起キル」などの言いかたをしているが、日本語の歴史の古いところでは、国の中心、京都方面も、「受クル」「起クル」であった。その、室町時代ごろまで優勢であったものが、南予のうちに、れっきとしたなごりを見せているわけである。じつは近畿地方のうちにも、和歌山県下の日高郡などに、おなじ「コクル」がある。
 ○ヒダカノ ウマワ、コクルホド カクル。(日高の馬は、倒れるほど駆ける。)
との言いぐさがある。九州地方に広く「コクル」式の言いかたがおこなわれていて、東に、和歌山県下のかなり広い「コクル」地域があり、南予内に同種のものがある。南予は、地理的な事情もあってか、さいわいにして、このめずらしい言いかたを残し伝えることができた。(今やそれが、消えようとしているか。)他の語例をあげるなら、「たいらげる」の「タイラグル」、「叱られる」の「ヒカラルル」などがある。
 気づいてみると、南予のほかでも、「明日」のことが「アクルヒ」と言われたりもしている。古い人が、あらたまった場席などで、「ござりマスル」と言っていたのを聞きおぼえていられるかたもおありだろう。(「マスル」は、形が、「アクル」や「コクル」に似ている。)
 「息づむ」ということばは、多くの人がつかっていよう。言うまでもなく、息をつめることである。「いきヅメル」とは言わないで、「息ヅム」と言っている。この「ツム」は、古い形である。むかしながらの文語の言いかたである。
 北宇和郡内などには、「お早う。」のあいさつことば、「オヒナリマシタ カ。」がある。(もう、なくなっているか?)
老女たちにこれが聞かれたようである。この古風な言いかたは、じつに「お昼なりましたか。」との言いかたをしたものである。『新潮国語辞典』を見ると、「おひなる」があがっていて、

  〔(御(昼成る〕(動)(文ラ四)(「御昼(ヒ)になる」の転か)「起きる」の敬語。おめざめになる。両矢印およんなる「―る

  より先にと急ぎ参りたれば〔中務内待日記〕」

とある。『中務内侍日記』といえば鎌倉時代のもの、伊予弁の一つのあいさつことばの系脈が、ずいぶんおお昔までだどられる。殿さま時代の吉田藩などでも、こうした優雅なあいさつことばがおこなわれていたのではないか。いわゆる御殿奉公の女性たちは、家に帰住しても、こういうよいあいさつことばを子孫に伝えたであろう。(全国の諸県内で、すこしずつ、「オヒンナリ。」その他の民間語を聞くことができる。「お昼になる」「お昼なる」の言いかたが、近世末ごろには、全国にかなりよく存在したのではないか。)
 南予のうちに、また、一種の尊敬の言いかた、「死ネた」などがある。武智正人氏は、『愛媛の方言―語法と語彙』(愛媛大学地域社会総合研究所 昭和三二年五月)で、「寝レた」「死ネた」「オレマス」の南予分布を表示していられる。「死なレた」というように、「レ」敬語をつかった言いかたをして、やがて人々は、「死なレた」→「死ネた」というように、ことばをなまらせた。(「読まレル」を「読メル」としているようにである。)この敬語法が、また、古くさかのぼられる。慶長九~一三年刊の『日本大文典』(日本耶蘇会士通事伴天連ジョアン・ロドリゲス著 土井忠生先生訳 三省堂 昭和三〇年三月)に、「死ねた」が見えている。さほど高くはない敬意を示すものであったらしい。今日、中国路のうちなどにも、「死ネた」や「行ケた」を見いだすことができる。
 室町時代、都びとたちが、尊敬の「オ……アル」式の言いかた、「オ行きャル」のようなのを、よく口にしていたようである。中予・東予にいちじるしい「オ行キル」といったようなものは、なにほどか、「オ行きャル」の類に近いことはないか。松山弁の「オイタンデス ナー。」(お言いになったんですねえ。)の「オ言た」、「タルト オカイルンダッタラ」(タルトをお買いになるんだったら)の「お買いル」、「オコリャ オシンシ」(おこりはおしにならないし)の「オ為ん」のようなのが、むかしからのことばである。「キーテ オミナサイ ヤ。」(聞いてごらんなさいよ。)の「オ見ナサイ」の言いかたともなると、これは、「お……なさるる」という、室町時代ごろの高い敬意の表現法を引くものである。
 長浜の沖あいの青島の人々からは、昭和三四年五月、その土地ことばの「ハヨ コソセ ヤー。」(早くおいでなさいよ。)、「コレ タベンセ ヤー。」(これをたべなさいよ。)、「クレンセー。」(下さい。)などというのが聞かれた。「ンセ」ことばがめずらしい。県下にあまり聞かれないものではないか。私の郷里、越智郡大三島北端(注三)には、これがあった。私の租父も、「ハヨ コサンセ。」(早くおいでよ。)、「アッチー イカンセ。」(あっちへお行きよ。)などと言っていて、近世語法の「ンス・サンス」ことばが明白であった。青島の「コンセ」は「来サンセ」に相当するもの、「タベンセ」は「食ベサンセ」に相当するものである。形が、「行かンセ」などに類するものになっている。多少の変形であるが、ものがこうなりながら、古いものが、よく、沖の孤島、青島にも伝承された。
 大三島には、「めだか」を言う「イサザ」というのが見いたされる。これもまた、ややへんぴな所にしぜんにとり残された、たいへんな古語である。「細小」の意の「いささ」というのが万葉の昔からあって、これが今日も、小さなめたかを言うことばになっている。そういえば、「いささか」などということばも、今日、通用している。
 宇摩郡の古いことばには、「ク」というのがある。「宗太郎さんのうち」というのが、「ムーンク」と言われている。「千恵子さんのうち」は「チーンク」である。「だれそれちゃんのうち」は「だれそれチャンク」である。(「ク」は「キ」ともなっている。)今日は、「~ガタ」とか「~タ」とかがよくおこなわれてぃようか。宇摩郡の「ク」とおなじものが、広く高知県下にもおこなわれてぃる。「そこのところ」が、「ソコナク」と言われている。香川県下にも「ク」「キ」がある。さて、古く万葉集に、「こもりくの」というまくらことばがあり、「こもりく」は「こもった(籠った)所」の意である。伊予宇摩郡などの「ク」が、日本語のおお昔までたどられる。
 松山方面から今治方面にかけての地方によく聞かれる「アニ(あそこに)などというのも、古くさかのぼられるものである。道後で聞きとめた「アニ」の例には、
  ○アニ センセ、クルマガ ハシリョルデショー。(あそこに、先生、車が走ってるでしょう?)
というのがある。この話し手の女性は、「~でしょう」などと共通語をつかいながらも、「あそこに」は、依然として、古語調で、「アニ」と言いあらわしている。
 「ク」とか「ア」とかは一音語である。日本語のはじめのころには、一音語が多くおこなわれた。「ワが思うとおりにする」などと今も言っている「ワ」もまた、古い一音語にほかならない。もちろん、「ナ」(名)も「テ」(手)も「コ」(子)も、同類のものである。「ナ」からは「ナマエ」という語ができた。「テ」からは「テブシ」などというのができた。「コ」からは「コドモ」ができた。

 ナモシ今昔

 伊予ことばの代表格の一語、「ナモシ」というのは、「ナ」に「モシ」がついたものである。「ナ」が、やはり古く日本語にうまれた感動詞である。その「ナ」をつかっているうちに、人は、よびかけの気もちをつよめて、「申します」の「モシ(申し)」をつけそえた。「ナー、モシ」と言ってみると、これは、相手の注意をよく引きつけることばである。「ナーモシ」が「ナモシ」につづまった。
 「ナ」のとなりの「ノ」にも「モシ」がついて、「ノモシ」ができた。
 「ネ」は、伊予にはあまりおこなわれなかったから、「ネモシ」はできなかった。
 全国を見ると、「ナモシ」類と「ノモシ類」と「ネモシ類」とが、あい寄って広くおこなわれてきたことがわかる。かなり前ころには、全国に(と言っても、中国地方は別として)(また北海道ものげて)、この種のことばが、よくおこなわれたらしい。今日では、「ナモシ」ことばが、愛媛県下と愛知県下とにいちじるしい。
 以下には、「ナモシ」ことばと「ノモシ」ことばとをまとめて、その、伊予での今昔をたどってみよう。
 有名なのは、漱石の『坊っちゃん』に出てくる話しである。

 「バッタたこれだ、大きなずう体をして、バッタを知らないた、なんのことだ」と言うと、いちばん左のほうにいた顔の丸いやつが「そりゃ、イナゴぞな、もし」と生意気におれをやり込めた。「べらぼうめ、イナゴもバッタも同じもんだ。第一先生をつらまえてなもしたなんだ。菜飯は田楽の時よりほかに食うもんじゃない」とあべこべにやり込めてやったら「なもしと菜飯とは違うぞな、もし」と言った。いつまで行ってもなもしを使うやつだ。

とある。漱石も、東京から松山に来て、「ナモシ」ことばにはおどろいたらしい。そのはずであろう。東京方面には、かなりむかしから、「ナモシ」ことばはなかったらしいからである。(それでも、埼玉県の秩父地方ともなると、今日でも、「ナモシ」「ノモシ」の「モシ」に近い「ムシ」が聞かれる。)
 松山地方の「ナモシ」は、郡中(伊豫市)方面にもさかんだったのか。道後の人から聞いた言いぐさに、「郡中ナモシ」(グンチューナモシ)というのがある。「オサム ゴザイマス ナモシ。」(お寒うございますね。)は、その一例である。
 さきの世代の人たちは、松山地方で、「ナモシ」もはいった「イヨコトバ」(伊予ことば)を、「イヨエドッコ」(伊予江戸っ子=「伊予の東京弁」)と言って自負したりもしていたか。
 中予を出はなれると、南予の東宇和郡以南は「ナーシ」または「ナシ」である。(喜多郡方面や西宇和郡方面は、なぜ「ナーシ」などを見せないのか。ほかのことばづかいのおこなわれる関係で、「ナーシ」などはつかわれないできたのか。)「ナーシ」が「ナモシ」に近いことは、明らかであろう。「ナーシ」がつづまれば「ナシ」である。
 ところで、東予となると、これは大部分が「ノモシ」や「ノーシ」の地域である。地かたには「ノンシ」もいくらかある。「ナ」というよびかけことばよりも「ノ」というよびかけことばをつかう所は、しぜん、「ノモシ」などと言うわけである。
 もし、「モシ」ことばという考えかたに立てば、県下が広く一体視されることになる。
 「モシ」ことばの今日はどうか。吉田裕久氏主宰の『愛媛県言語地図集』(愛媛大学方言ゼミナール 昭和五六年四月)に見える「ナモシ・ノモシ」の県下分布状況は、つぎの図3のとおりである。これが、
  昭和五五年の七月から八月にかけて。一部分は昭和五六年一月。
に調査されたものであるから、まずはこれが最新の情報とされる。
 図4は、武智正人氏の『愛媛の方言』に見えるものである。これは、昭和三一年春から三二年夏にかけておこなった調査によるものである。
 私の調査結果(注二)の図表、図5は、昭和七年秋に作業のおこなわれたものによっている。(これは、二〇・二一歳ころの男教員氏を煩わしたものなので、女ことば的なものでもある「ナモシ・ノモシ」の採取には、いくらか手の及びかねたところもあったことを示すものになってもいるか。しかしながら、同一のたちばの、同似年輩の人々の一斉作業であった点では、調査結果の均質性が、ここによく出ているであろうと考えられる。)
 今、図3・4・5の三図をくらべてみる。元来は、三図に条件差があり性質差があるので、これらをさっそくに比較することはできないわけであるけれども、かりにくらべてみることとする。やはり、だいたいのところ、ここに、「ナモシ」ことば・「ノモシ」ことばの類の歴史的推移は、想察することができるのではないか。ことがらは、しだいにおこなわれなくなってきているようである。かんたんな見かたをしても、図5の、県東隅の「ノーシ」は、図4には見えない。図4にいちじるしい「ノモシ」の分布は、図3では、劣勢化が認められるようである。大三島のことなら、私もその劣勢化→衰退→消滅の証人になることができる。
 「ナモシ」ことば・「ノモシ」ことばの類の衰退傾向は、県人各位、あるいは読者各位が、すでに感知していられるのではないか。衰退・消滅の事実を、身辺に見ていられるでもあろう。
 ことは自然のなりゆきか。
  ○ドコイ オイキル ンゾナモシ。(どこへお行きるんぞナモシ。)
などと言うと(「ノモシ)にしても)、「ナモシ」(ノモシ)が、もはや場にそぐわなくなった。あたりへのうつりがわるくなった。せっかくのよいことばであるけれども、道具だてがもう古風になった。右の例だと、「ドコイ オイキル ンゾナ。」と言った程度のところがちょうどよくなっている。

 昭和三四年の一会話

 三四年一一月のことである。私は道後で、当時四五歳の竹林夫人と六一歳の紀伊国屋夫人との会話を聞いた。このごろにして、この人たちの所感はつぎのとおりである。
   
 〔竹林夫人〕ナモシワ ナー。トーラナイ。コノゴロ ナー。(「ナモシ」はねえ。通らないわ。このごろねえ。)ナモシ ノ カワリガ 「ナー」  ヨ。(「ナモシ」の代わりが「ナー」よ。)
   
 〔紀伊国屋夫人〕ニジューネン サンジューネン シタラ、モー イヨコトバジャノ ユーノワ キケンヨーン ナロ ゾイ。(二〇年三〇年したら、もう、伊予ことばなんていうのは、聞かれないようになるだろうよ。)
  
 〔竹林夫人〕 ユー ヒトガ オラマイ ゾイナー。(言う人がいまいよねえ。)

この人たちは、「ナモシ」ことばの衰退を話題にして、やがて「伊予ことば」を問題にしている。「ナモシ」が伊予ことばを象徴するものとも見られていよう。ともあれ、人々も言うとおり、伊予ことばも変わっていく。

 世代推移

 伊予ことばの移りゆきを、親の代→子の代→孫の代というように、世代をたどって見ていこう。松山弁の一部についてみる。老年層の女性、たとえばさきの竹林夫人の、今日の言語生活では、およそつぎのことが見られる。
  ① 「ナモシ」もときにはつかう。
  ② 「あ、そう。」の音ぞ「ホー ケー。」を言う。
  ③話しのおわりに「ゾナ」をよくつげる。「ナン ゾナ。」(なあに?)など。
  ④ 「どうどうシテ ヤ。」とよく言う。「アレ シテ ヤー。」(あれしてちょうだい。)など
  ⑤ 「ミトーミ。」(見てお見。)などの言いかたをよくする。
  ⑥ 「オイキン カ。」(お行きんか。)などの言いかたをよくする。
  ⑦ 「しちゃだめよ。」の意で「セラレン。」と言う。
  ⑧ 「おなじだ。」の意で「ツイジャ ガナー。」と言う。「ツイヤ ガナー。」とは言わない。「「ヤ」は言いません。」という。
 さて、中年層の、おなじく道後に住む人(竹林夫人の息女さん)には、前条の八項目についての、つぎのありさまが見られる。
  ① 「ナモシ」は全然つかねない。たまにしか聞かない。(「オイデル」はつかう。)
  ② 「ホー ケー。」はつかわない。「アー、ソー。」と言う。ときに、子どもに対して、ちょっとおどけて、「ア、ホー ケー。」などと言わなくはない。
  ③ 「ゾナ」は、怒る時に、あるいは子に言って聞かせる時につかう。「ホー ゾナ。ワカッタ カナ。」など。目下に、つよく「ゾナ」と言う。
  ④ 「て ヤ」はしょっちゅう言う。したしい人に、なれた人に。(夫君へは「て ヤ」ではなくて、「コレ シテー。」)「アレ シテ ヤー。」、「シテ ヤー。」(してちょうだい。)。「シテー ヤー。」のように「テ」をのばすことはない。「ヤー」とあってやわらか。
  ⑤ 「ミトーミ。」はふつうにつかっている。(「イットイデナサイ ヤ。」なども言う。)
  ⑥ 「オイキン カ。」は言わない。「オシメン カ。」も言わない。「オイキタンデス カ。」は言う。「オシメヤ。」「オシメナサイ。」は言う。
  ⑦ 「しちゃだめよ。」の意で「シラレン。」と言う。夫君の母御は「セラレン ガネー。」などと言っていられるという。
  ⑧ 「おなじだ。」の意で「ツイジャ ガネー。」とも「ツイヤ ガネー。」とも言う。「ヤ」を言うよりも「ジャ」を言うほうが多い。別に「オンナジヤー ネー。」との言いかたもしている。
 松山市西部に育った一女子大学生(一八歳)―若年層―の言うところは、つぎのとおりである。
  ① 「ナモシ」はつかわない。聞いたこともない。
  ② 「ホー ケー。」は言わない。友人に「ホー。」と言う。「ホー ケー。」を聞いたことはある。
  ③ 「ソナ」はめったにつかわない。ほとんどつかわない。
  ④ 「て ヤ」はよくつかう。「シテ ヤ。」などと言って、「シテー ヤ。」などとは言わない。
  ⑤ 「シトーミー。」(してごらん。)など、よくつかう。
  ⑥ 「オイキン カ。」は言わない。「オシメン カ。」も言わない。友人をさそうのには「イカン。」と言う。「オシメ ヤ。」は言う。
  ⑦ 「ソンナ コト シラレン ヨ。」などと言う。
  ⑧ 「イジャ(ヤ) ガネー。」と言う。最近、どっちかというと、「ヤ」をつかいだした。「ソーヤ ガネー。」などと言う。
 以上の比照で、世代を追っての推移が明らかであろう。時代の移りゆきとともに、生活百般も種々に移り変わっていく。生活のことばも推移していくのが当然であろう。が、その推移変貌は、急速のようでもあるし、緩慢のようでもある。「ナモシ」ことばにしても、さきの一四ページの会話もあったが、昭和三四年から二〇年以上たった今日、なお、古い人たちが、「ナモシ」を言ってもいる。ことばは、ことに生活の中心部にあるものともなると、変わりそうで変わらないものでもある。

 不変の相

 このあいだは南予をたずねた。四泊五日の伊予路の旅のしめくくりがこちらであった。久しぶりに聞く南予ことば、その中に「ナーシ」があった。宇和島の一老男は言う。
  ○ソレカラ ドー ユー カナーシ。(それからどう言いますかねえ。)
この人は頻繁に「ナーシ」をつかっていた。しかしご自身は、「私もときどき「ナーシ」を言う。」と語られた。その時に言ってくださった例は「サムイ ナーシ。」である。前掲の図6にも見られるとおり、今も南予の広くに、「ナーシ」がどの程度にか聞かれるか。「ナーシ」が「ナシ」ともなっている。
 宇和島での方言勉強のあと、御荘で車に乗せてもらった時のことである。その若い男性運転手さん(二〇歳代?)が、しきりに「ナーシ」を言った。
  ○カイガンバタデ ナーシ。(海岸ばたでナーシ。)
  ○ソーヤ ナシ。(そうですねえ。)
「ナーシ」とともに「ナシ」も出た。しぜんに、二つがまじりあって出た。おなじものであることはよくわかる。
  ○コーベノ ホーデ ナシ。(神戸のほうでねえ。)
「ナシ」をこのように「ねえ」と言いかえると、「ナシ」の気分がよく伝わらない。「ナーシ」は「なもし(申し)」である。「ナシ」も、「ねえあなた」とでも言いかえないと、うつりがわるい。この若い運転手さんは、私どもをやさしくあっかってくれて、しぜんに「ナーシ」「ナシ」ことばを出したのだった。「ナーシ」よりは「ナシ」のほうが多かったか。運転手さんに、「土地のおかたですか?」と妻がたずねると、そうだとのことだった。「ナシ」について、「ナンヨノ コトバ ヨナシ。」(南予のことばですよねえ。)と妻に語った。
 ここで注意されるのは、この男性に、土地ことばの、ひとり「ナシ」「ナーシ」だけが、頻出したことである。御荘あたりの土地弁として、方言色の濃いものが、他にもあるだろうに、この人には、そんなものが出なかった。職業がらからもか、若いせいもあってか、この人は共通語にもなれている。「そうジャ。」は言わなくて、「そうヤ。」を言うようにもなっている。そんなふうであるのに、「ナシ」「ナーシ」は、そびえ立つように、この人にのこりとどまっているのである。のこりとは言うが、この人は、「ナシ」「ナーシ」を、現在ぜひつかわないではいられないものとして持っているのである。「ナモシ」ことばの生存力は、ここにまことにつよいさまがうかがわれる。 「ナモシ」が「ナーシ」になったのは、一つの変化であったけれども、「ナーシ」「ナシ」は、安定形として、よくその生命を保っている。ことばは、なかなか根づよいものである。
 南予の「ナーシ」にくらべれば、東予の「ノーシ」は、その勢力のよわまりがややいちじるしいか。これは、あたまのことば、「ナ」と「ノ」の実質差にもよることであろう。今日では、「ナ」よりも「ノ」が、いくらか卑語めいたものになっている。
 「ナモシ」ことばではないけれども、このたび、八幡浜で、私は、その方言生活の全体相をしばらく聞いて、方言はなかなか変わらないものだと痛感した。板坂政雄氏の恩恵によることである。氏の教え子さん、井上藤雄氏(七六歳)・井上秀雄氏(六五歳)のご両名が、板坂氏のお宅で歓談してくださった。そこに現出された言語状況は、じつに、私の過去経験ー大正一三年から昭和三年の間に、愛媛県師範学校生徒として、松山の学校内で、多くの南予出身学友から南予ことばを聞いた経験ーの思い出そのままのものであった。こんなにも、あの当時のままが聞かれるのかと、おどろきつつ書きとめたのが(一部分をあげると)、つぎのものである。
  ナンチャ(なんにも ちっとも)
  コ―エイデスライ(光栄ですよ。)
  シットンナスケン (知ってらっしやるから)
  ナンボデスロ ナー。(いくらでしょうねえ。)
  イケナンダガデ(いけなかったので)
  センセ ナオシテ ヤンナハイ ヤ。(先生、直してくださいよね。)
  ソガイナ コト シタチ イケンガジャガ(そんなことをしたっていけないんだが)
  ユタチ イケル カイ。オマイ。(言ったっていけないよ。あんた。)
  マコト ソーユ コト キータ コト アライ。(ほんとに、そういうことを聞いたことがあるよ。)
 大正一三年の寄宿舎で、一年生の私か、西宇和郡や喜多郡の同僚諸君から聞いたのも、まったくこういう「マコト」などであった。私の郷里、瀬戸内海の大三島北端でなら、「マコト二 ホ二ホニ」(ほんとにまあまあ)というの、があって、これは老人の嘆きのことばに出るものであった。これしか知らない私か、若い人の「マコト」というのを聞いて、どんなに異様に思ったことか。が、若い大が言うので、これがかえって美しくも思えた。副詞「マコト」が、ちっとも変わらないで、南予に息づいている。
 私か出あったのは六〇歳代のかたがたである。学童たちはどうであるか。右の二人のかたは、ご自分たちのことばを話題にして、「イマノ コドモニワ トーラナイ。」(今の子どもには通らないよ。)と言われることがあった。が、それも、多くは、「蛙」の「オンビキ」、「蛇」の「ナガイ」「ナガ」のようなもののことであったか。
 今治駅から普通列車に乗って川之江に行く。乗り降りする人の東予弁を車中に聞く。今日も、旧に変わらないものがいくらでも聞かれる。女性が、「ソリャ ドー ナライ。」(それはこまったことね。)と言う。宇摩郡の男性が「コタ ナイ。」(ことはない。だいじょうぶだ。)と言う。むかしのままである。方言の地盤は固い。

 伊予弁の将来

 伊予弁健在。なかなか変わらない。といっても、世代ごとの推移もあることは、すでに述べた。この推移が、今後はだんだんはげしくもなろう。テレビ・ラジオなどでの共通語の影響もつよいからである。子どもたちは、日に日に新しいことばをおぼえていく。(おとなの世界にも、たとえば西洋語が、なんともさかんに流れこんでくる。)毎日の学校教育も、子どもたちの言語生活を、話すことと書くことの両面にわたって、順次、変えていくであろう。
 かとおもうと、若い先生が、ずぶの郷土弁でやっていたりもするから、ことは単純一様にも進むまい。児童・生徒も、伊予弁を聞く耳はじゅうぶんに持っている。家庭に帰れば伊予弁も多い。周囲にそれが多く、自分にもかなり多い。
 方言の生活というものは、まこと強靭なものである。そのはずである。方言は生活語だからである。血のことば、母のことばだからである。人の心の基礎的にやしなわれたことばだからである。
 将来、伊予の人々に、共通語的な生活が広まってくること、深まってくることはたしかであろう。時勢のながれがそうさせよう。しかし、同時に、伊予ことばの根、方言の根もまた、その生命を長く保ちつづけるであろう。愛媛県下に伊予的な地方性があり、県下に、各地域の地域性があるかぎり、伊予のことばは、将来ともに、その時々の伊予ことば色を見せ、また、県下の地域に、伊予ことばの、なんらかの地域色を見せるであろう。
 それはともあれ、私どもは、今、現在、愛媛県下に住するものである。私どもには、今よく現在の伊予ことばの生活を認識する責務がある。この趣旨にしたがって、私は、以下の諸節の記述にしたがう。

  注一 『瀬戸内海言語図巻』上下二巻 藤原与一著 昭和四九年三月上巻刊 同一一月下巻刊 東京大学出版会 これのための現地調査は、昭和三五年から四〇年にかけての五ヵ年でおこなわれた。
  注二 昭和七年秋の愛媛県下調査 藤原与一実施 調査項目一〇六(語詞・発音・文法にわたる。) 調査地点五三 各地ごとに、当時二〇・二一歳ころの男性小学校教育氏を煩わした。知友の諸兄の、うちそろっての好意あるご教示に、今、あらためて、深い謝意を表してやまない。
  注三 私の郷里、越智郡大三島北端は、当時、鏡村大字肥海である。今日は大三島町肥海である。

「蛇」の「ヘンビ」

「蛇」の「ヘンビ」


小説『坊っちゃん』

小説『坊っちゃん』


ナモシ・ノモシ分布図 ノモシ、ノーシ、ノンシ、ナモシ、ナーシ、ナシ、ナンシ 分布図

ナモシ・ノモシ分布図 ノモシ、ノーシ、ノンシ、ナモシ、ナーシ、ナシ、ナンシ 分布図


図5「ね」の意の「ナモシ」「ノモシ」などの分布図

図5「ね」の意の「ナモシ」「ノモシ」などの分布図