データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

一 和算

 和算は江戸時代に日本で発達した独特の数学である。明治維新以降、西洋の数学、いわゆる洋算が取り入れられたので、それと区別するためこれまでの算学あるいは算法と呼ばれていたものを和算と呼ぶようになった。
 日本の数学の源流は中国にある。六世紀半ばごろ朝鮮経由でもたらされたが、あまり発達をみなかった。奈良時代から平安時代初期には大学で数学が教えられたが、しかし律令政治の衰退にあってそれも行われなくなり、その後は算道として一、二の家で世襲された。
 平安時代末から鎌倉、室町時代にかけては日常生活に心要な計算だけほそぼそとつづけられていたが、室町時代末に商工業の発達により、計算の心要から中国の算盤が導入され、はじめ長崎、堺で用いられたが、やがて全国へ広まった。
 江戸時代初期に算盤の計算法を説明した書物が出版された。元和八年(一六二二)、毛利重能が『割算書』を著わし、つづいて吉田光由が『塵劫記』(一六二七)を出した。後者は初学者の独習書として実用的な例題をとりあげ、わかり易かったので大いに世に用いられ、江戸時代を通じて数学入門書としてあらゆる階級に浸透し、ついには『塵劫記』といえば数学書の代名詞となるまでに至った。要するに、日本の数学は平安、鎌倉、室町時代を経て江戸初期に至る約九〇〇年間は、ほとんどその発展の跡が認め得られないのである。
 さて和算の発展にもっとも大きな影響を与えたのは中国算書『算学啓蒙』(一二九九年来世傑著)である。これは算木と算盤を使って解く用器代数学の書で、この算法を〈天元術〉と称した。すなわち、算木を使って高次方程式をつくり、これによって問題を解く方法である。天元術は従来の算盤算法とはまったくちがった方式であったため、はじめ和算家には理解しぬくかったが、京都の沢口一之が出て、これを平易に説明した『古今算法記』(寛文一一年=一六七一)を著わした。
 このあと、元禄期に天才関孝和が出て研究水準が一段と高まった。孝和は甲府の徳川綱豊に仕え、のち幕吏となったが、独学で暦学・数学を研究し、三二~三三歳のころ『発微算法』を出版し、筆算代数学を発明した。同書は廷宝二年(一六七四)の著で、さきに出版した沢口一之の古今算法記の天元術を示した遺題一五題に答えた書で、孝和はこの解法として算木を用いない〈点京術〉(タテ書の代数)を発明し、二次方程式といったものなども導いた。この書ののち孝和は行列式や円の解法なども考案した。
 孝和の死後、弟子たちによって「括要算法」があまれたが、そこには級数や不定方程式などをはじめ、円の面積や円周率の計算など独創的なものがもりこまれている。しかし、西洋の微分・積分学に匹敵する円理の発見までには至らなかった。
 その後、和算のすぐれた教科書が出版されて、和算の独習もできるようになり、和算はひじょうな普及をみ、中央の数学家のほか、地方にも有力な数学家が多く出た。また、なかには地方を遊歴して教授する数学家も出てくるようになった。
 要するに和算は江戸時代になって極度の発達を遂げたのであるが、現代の数式と異なり、不便な数字記号を用い、しかも毛筆縦書表記(漢文)にもかかわらず、りっぱな業績を残したことは驚歎に値する。さてその研究発表には二つの方法があった。一つは普通の書籍出版か写本で残す方法(遣題)であり、いま一つは研究物を板書し額面に仕立て、神社・仏閣に奉納して衆人に示す方法であった。すなわち算額である。