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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

第一節 洋学の興隆

 洋学とは、江戸時代末期から明治初期に至る西欧の学問すべてを指すのであるが、最初は、蘭学として受容された。「蘭学トハ、和蘭ノ学問ト云フコトニテ阿蘭陀ノ学問ヲスルコトナリ」(大槻玄沢『蘭学階梯』)とあるようにオランダ語による学問研究であった。我が国とオランダとの交渉は、慶長五年(一六〇〇)四月一一日(新暦四月二九日)オランダが派遣した東洋探険艦隊五般のうちのリーフデ号(一六〇トン、一一〇人乗り)が豊後(現大分県)臼杵に近い佐志生の海岸に漂着、わずかに歩行可能の者数名を含む二四名を救助し、航海士ヤン=ヨーステン(蘭人一五五七カラ一六二三)、主席航海士、水先案内者、ウィリアム=アダムズ(英人、オランダ東印度会社傭航海士、一五六四~一六二〇)をとどめて外交・貿易の顧問としたことに始まる。ヤン=ヨーステンは現八重洲地区に居住地を給され(ヤエスは彼の名の訛といわれる)平戸商館に協力して手広く南方貿易を営んだが、コーチシナから日本に帰る途中難船死亡した。アダムズは、相模三浦郡逸見村(現横須賀市)に采地二五〇石を給され、地名をとって三浦姓とし、水先案内者の漢語彙「按針」をとって三浦按針と日本名を名のり、約二〇年間日本に滞在して幕府に西洋事情を伝え、数学・幾何学を教え、二隻のイギリス型帆船を建造するなどして幕府の要請にこたえ、蘭学研究の端緒を開いた。
 これより前、新井白石(一六五七~一七二五)は、宝永五年(一七〇八)八月屋久島に漂着したローマの宣教師ジョヴァンニ=バッティスタ=シドッチを訊問して聞き得たことをもとにして『采覧異言』(一七一三)『西洋紀聞』(一七一五)を著わし、西川如見(一六四八~一七二四)は、『長崎夜話草』(刊年未詳)・『華夷通商考』(一六九五)・『天文義論』(一七一二)等を著わして蘭学研究の先鞭をつけている。
 蘭学研究に画期的な影響を与えたのは、『解体新書』の翻訳刊行であった。同書は、ドイツ人クルムス著『ターヘル=アナトミア』の蘭訳本を和訳したものである。前野良沢(中津藩、一七二三~一八〇三)の指導により杉田玄白(若狭藩、一七三三~一八一七)、中川淳庵(若狭藩、一七三九~一七八六)、桂川甫周(幕府奥医師、一七五一~一八〇九)、嶺春泰(高崎藩、生没未詳)、石川玄常(一橋家侍医、一七四四~一八一五)、桐山正哲(弘前藩、生没未詳)、鳥山松園(庄内藩、生没未詳)らが稿を改めること一一回、四年の歳月を費して安永三年(一七七四)刊行した・(訳者の中に良沢の名が記されていないのは自身の名を出すことを固辞したためという)
 蘭学研究は、医学・天文学・西欧事情研究等、広範囲に亘るが、実用主義的で理論的側面や思想には深い関心を寄せなかった。医学研究からは、植物学(本草学)・薬学・化学等に細分深化し、天文暦学は、物理的分野の研究に進み、西洋事情研究からは、歴史・地誌・人文科学へと発展していった。また、相次ぐ諸外国の接近により、兵学研究も盛んとなり、特に砲術・航海術・築城術の研究にまで発展する。本来ならば、新しく入ってきた蘭学は、伝統的なものへの批判になるべき新知識でありながら却て幕藩体制の維持強化策として取り入れられた。
 平戸から出島へと来日したオランダ商館医等は、シーボルトをはじめ約一五〇人、これらの人々が医学を通しオランダ語を通して日本文化の発展に及ぼした影響は測り知れぬ。しかし、相つぐ諸外国との接触により、やがて米・英・仏・露・独の国々の学問へと発展し、蘭学は、名実ともに「洋学」となるのである。