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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

第二節 松山藩の心学

 1 田 中 一 如

 松山心学の祖、田中一如は、明和六年(一七六九)松山藩士田中佐五兵衛利里の長男として生まれた。幼名は浅之丞、後、清五郎、また、同平、道平と改称。諱は利久。
 天明元年(一七八一)九月二七日「小性(姓)被召出。御切米七石二人扶持被下置。同年十月朔日親佐五兵衛利里 悴浅之丞被召出。扇子箱ヲ以テ御礼中上、次小性組入仰付」(「一如略歴」)
 寛政四年(一七九二)一二月二三日「浅之丞事、田中清五郎、歩行組入被仰付」(一如略歴」)
 程なく失明、家督を実弟文五郎祐命(「略歴」。墓碑では一命)に譲り、按摩、三味線に自活の道を求めたが上達せず、大阪に出て易を学ぶ。
 享和元年(一八〇一)四月二九日、藩許を得て京都に上り、心学の総本山ともいうべき明倫舎に入り、上河淇水に師事、ついで江戸に出て、参前舎に入り、中沢道二、大島有隣に学ぶ。文化七年(一八一〇)九月二三日、惣髪、同平(道平)と改称、心学の蘊奥をきわめた。(文化八年上河淇水著当年著名心学者名簿』には一如の氏名は見あたらぬ。まだ活躍期に入らなかったためか)
 文化一二年(一八一五)三舎印鑑を受け、以来、江戸諸大名、旗本等の邸内に招かれて心学を講じ、京阪、中国地方を巡講した。京都に上る度に、諸国心学世話方、沢井智明(一七五五~一八一三)の主宰する観行舎に宿泊して諸国の道友と切磋を怠らなかった。一如は、その篤実な人格、旺盛な求道の精神により、盲目の都講として全国の心学者から尊敬された。文化一四年(一八一七)二月一四日明倫舎主催の堵庵追善道話会には、上河淇水と並んで講師を務め、天保一〇年(一八三九)四月には、堵庵直系の柴田鳩翁、奥田頼杖らと観行舎において盛大な続道話会を催して講師を務めた。また、江戸参前舎主として関東心学の統率者ともいうべき中村徳水とも親交を結んで切磋するなど、ややもすれば東西対立の亀裂を生じようとする当時の心学界にあって、両派のいずれにも偏せず、融和をはかって全国心学の興隆に寄与した。
 文化一二年(一八一五)四月二四日「熟望之者有之候はば勝手次第道話可致旨御沙汰」があり、以降道後南町に居住して心学講義を続ける傍ら、松山、江戸間を頻繁に往復して修行を積むとともに道中の講舎に招かれ心学を講じ、また、京阪・兵庫・姫路・岡山方面にも巡講した。
 文政元年(一八一八)五月一五日「今治御領分ニ而心学道話聴聞致し度候ニ付、繰合セヲ以テ越境之儀、御家老中より御願之旨、郡奉行より申来候ニ付」(略歴)初めて今治領内に入り、心学を講じ、心学による庶民教化の基礎をつくった。
 文政二年二一月二六日、松山藩は「本心学相心掛篤実教諭致候趣相聞江候、三人扶持被下置」との恩典を与え、同四年二月一七日には、「郡方農事透間之時、御領分中巡村道話教導可致旨」の御沙汰があった。
 文政一〇年(一八二七)七月一日「本心学篤実教諭致候処、右道話場所差支之趣相聞江、右場所取建候ハバ猶又、引立可相成付 此度、小唐人町同心家敷跡地之内、東之端東表九関余、西拾間余 南北拾壱間余御貸被下候段」御沙汰があり、同年一一月一三日普請出来、同月二三日講義始め、京都明倫舎より「六行舎」の舎号印可、藩内帯刀卒(足軽)には毎月一六日、一七日、藩内一刀卒(中間)には毎月一八日、一九日の二回、城南市街(外側)の商人、城北市街(古町)の商人には、日は定めず毎月二回講義するよう定められた。
 天保九年(一八三八)四月一〇日には「小者召抱為入用、年米七俵宛被下置」特典を与えられ、同一五年(一八四四)五月には、今治領内を四〇日余巡講し、「老躰殊遠路之儀」褒賞、今治藩より白銀三枚、衣服料として金三〇〇疋を拝受した。
 弘化元年一二月二三日、「本心学道話場所(六行舎)江居住罷在候所、及高年候付、弟田中佐五兵衛方江引受、介抱致度旨御願叶」、天保一二年以来、一如を助け、道話代講仰せ付けられていた高弟近藤平格が同年月日付「道話場所江引移被仰付」れて入舎、交替した。             
 弘化三年(一八四六)三月一九日「及年末候迄 本心学厚相心掛 篤実教諭致候其身限大小性(姓)以上准候御取扱被成下」恩典に浴し、同年九月一二日病没した。数え年七八歳。妙清寺(松山市山田町)に葬った。
 一如は、朱子学に則り、神・仏・老荘の教えを折衷し、「性」の理を説き、「道は和合なり」とする関東心学者中沢道二の精神の復活を提唱、身を以て実践した。「具説性命之理常就談笑中醇々諭之」(梧奄撰絵像讃)高徳の老道友と慕われた。近藤平格、小田左膳、中長年、岡村兵右衛門、丹下光亮らが跡を嗣いだ。
(参照 「田中一如翁碑銘」)

 2 近 藤 平 格

 寛政一一年(一八〇〇)一〇月一一日、新居郡立川村農業近藤平五郎元悳の二男として生まれた。幼名は広吉。後、平作、さらに平格と改称。本名は元良。号は名洲・安楽閑人・安楽道人・南松山人・州南処士・二名嶋処士・藤元良と自称した。家庭は、祖父母をはじめ十数人同居して家内円満、各業に励み、地域の模範家族と称された。
 八歳の初め、「小兵にして農業の苦境堪之難きを憂え」(「先考近藤君を祭る文」)た父は、自ら農業の暇に書、筆算を教えた。ニハ歳、讃岐某家に寄宿して学問に励み、一九歳帰郷。二〇歳、松山に出て南学派儒者大高坂芝山曽孫天山(一七六六~一八三八)に師事した。天山は、延年・南海・舎人ともいい、漢詩集『竹石余花』、神、儒、仏三教は一なりと説く『有無函』の著者である。「本心に帰り、正直を心として野馬塵埃の如く動揺する雑念を去り、純一無雑の真精、これ見給へ。」蓋を開けて見せ得る「心の有無函を得よ」との教えは、平格の生涯を貫く箴言となるのである。平格の芝山及び天山を敬慕する心は極めて厚く、その著『名洲詩草』(五巻)中に天山に次韻する詩があり、また『名洲文艸』には天山を称えて「平生甘澹泊 阨窮而晏如宇宙性海清 龍歟是亀歟」と景慕している。また、芝山の著書は全部取りそろえ、心学修行の間に耽読し、墓参を欠かさなかった。
 平格は常に「伊予の国松山の儒士」(『心学要語集』)と自称し、「儒を以て身を立つ(中略)儒を張り門弟を集めて業とし、或は在野に心学を教諭す」(「先考近藤君を祭る文」)と揚言して憚らなかった。儒学に対する確信と自負は、天山によって培われたものである。
 天山に師事した平格は、また、田中一如に心学を学ぶのであるが、その具体的、直接的な動機を証明するものはない。朱子学に開眼した平格が盲目の悪条件を克服して、心学者必読の四書、小学、近思録など漢籍に通暁し、道義に通じた一如の学徳を天山を介して知り、限りない敬慕の念を懐いたのであろう。「南海の高君、一如の田中師、共に深く是を子の如く愛して各其道を伝え」(「先君近藤氏之事跡」)と限りない学恩を謝している。一如もまた、天山と同様、平格の真摯な性格と熾烈な求道心に深く期待したのである。
 文政一〇年(一八二七)三月九日 六行舎においてかねてより依頼していた江戸遊学につき、藩士河合某母堂出府に同伴することを勧められ、師天山からも「よき便りなれ、いざ思ひ立て」(『海陸日記』)と激励されて、四月七日三津浜港出船、途中風雨に難渋しつつ四月二四日京都着、同二六日観行舎に諸国心学世話係大黒屋伝兵衛こと沢井智明(二代目)を訪い、夜、明倫舎都講前田和助を私宅に訪問、田中一如よりの書簡を渡す。ついで観行舎を再訪、柴田謙蔵(鳩翁。一七八三~一八三九)に会う。
 四月二七日 明倫舎訪問、都講前田和助立ち会い、講師近本嘉兵衛より断書を受けた。

 暮合より明倫舎へ参候処、近本嘉兵衛子来り居候て、何角と咄居候中、前田氏も来り、対問の上にて近本氏より御断書受取、五ッ時分二旅宿へ帰る。(『海陸日記』)

 四月二八日 上河毅庵を五楽舎に尋ね「見聞覚知、六根の教示」を受けて、翌二九日に京都出発、五月一二百江戸着。

 つくづくと思ひぬれば、松山にて大局坂君の本(元)を立出しより、海に漂ひ、或はまた、都に足をとどめ、はるばると又遠き東の方へ趣きて、月は三ッ、日もはや半百に近くして漸々として今日は此地に来れども、我志す処の心学の高師の本へは、末だ到らざる故、それのみ心にかけて明日か、またのあすか、遠からぬうちに行きて見へなんものをとたのしみ侍りぬ(『海陸日記』)

 五月一三日、藩邸に到着届け、一如、天山両師依頼の用件をすませ、各所見物、休息している。
 五月一四日 小日向龍慶橋盍簪舎に大島有隣を訪い、一如よりの書簡、束修の扇子箱を渡し、正式に梅岩門戸と認定され、いつにしても盍簪舎に引越し自由の許可を受け、早速道話聴聞する。
 五月一四日 盍簪舎へ引越し寄宿。同舎定例道話会に参加。前講石野大閑(旗本五百石)後講大島有隣。
 心学界の宿老田中一如に啓発され、京都明倫舎を凌ぐ斯界の実力指導者大島有隣の薫陶を受け、刻苦精励、その進境は目ざましく、入舎五ヵ月にして師有隣の代講を務め諸大名・旗本の邸に講話するまでに至った。
 文政一〇年(一八二七)一二月四日 年末道話会終了後、心学修行志望者の手引者(助教授)となり得る資格認定書「善導印鑑」を受けた。そのころ既に有隣の絶大な信頼を受け、「断書渡し候人名相改め、明倫舎へ申遣す下書相認める」(『東都日記』)など舎務の重要事項も任されるようになっていた。その後も厳しい修行を積み、各地の講舎を尋ね、道友と真剣な「続道話」の切磋を試み、諸家の邸内に招かれ、人足寄場に師有隣の代講を務め、近在を回村して道話を重ね、席の暖まる暇のない修行を続けた。『中庸』を主とし、卑近な実例や豊富な読書から選んでの道話を醇々として語り諭す平格の人柄は聴衆を魅了し、文政二一年(一八二九)五月一一日より六日間、掛川蔵福寺に続道話を催した時には、毎日聴衆は三〇〇人を越えたほどであった。
 文政十二年七月二百 平格は松山六行舎に帰るのであるが、この間の動静は『初の江戸日記』(六冊)に詳しい。
 文政一三年(一八三〇)二月二四日、広島心学門徒熊野氏の迎えを受け、道友矢口来応率いる広島心学との切磋を期し六行舎出立、三津浜港より乗船、東風に難渋して興居島泊。同月二七日 広島着。矢口来応の敬信舎、奥田頼杖の歓心舎、町奉行所等に道話し、広島心学指導者林左仲太、安藤左文次、中村内蔵介、矢口仲子、萬代組子らと不眠不休の道話修業を積んだ。同月二九日には三原に到り続道話を行い、閏三月二二日には尾道で三日間の会輔修行を挙行し、船にて川之江に帰り続道話五日間、角野村を経て四月六日帰松。(『芸陽遊学日記』一巻)
 六月南利屋町へ居住。町方月波道話並びに郡方へ時々廻村道話する。(「自筆年譜」)
 八月二九日、三原藩の招請を受け、九月二日波止浜出船、翌三日に三原着。続道話を始める。一四日の「前訓」(七歳~一五歳少年のための特別心学講座)には、少年八〇名が集まる盛況であった。また、続道話挙行中は、毎席聴聞する者三五〇人余、九月二五日より一〇月三日まで尾道に滞留道話を続け、道友と切磋し、詩歌を贈答し合い、奥田頼杖の達磨讃を写し、名勝、史跡を訪い、一〇月八日松山帰着。(『三原再遊日記』)
 天保四年(一八三三)一一月二〇日「心学相心掛厚志之趣相聞候間 猶又出精可致候 且又於田中一如宅御組方之者共聴聞罷出候節 助講をも可致」の御沙汰を受けた。(「自筆略歴」)
 天保六年(一八三五)七月二三日 二度の江戸遊学修行を期し松山出立、途中大阪船場心斎橋の明誠舎に都講原田道玄を訪い、京都明倫舎、五楽舎を尋ね、柴田鳩翁、上河毅庵らの定例道話会に前講を務め、掛川に滞留して続道話一一日間挙行、掛川心学の祖菊池良貞(生没未詳)の祭祀を行い、一七名に断書を渡した。九月二〇日御殿場に着き、一か月余滞在、近在の村々に道話並びに修行手引し、一〇月一七日 江戸盍簪舎に入る。同年一一月朔日 参前舎にて「三舎印鑑」を受けた。印鑑の発行日附は、天保六年一〇月一八日であった。
 十一月朔日 当賀天気吉 伊勢屋二而朝飯食シ、夫より盍簪舎江行き、昼飯食シ、夫より参前舎に行く。前講湯川氏、後講松原宇兵衛。道話相済み、夫より亀田柏翁(参前舎都講)と小子、京都より出来之三舎印鑑并二添状頂戴いたす。都講皆々上下二而立合也(『江戸遊学掌中記』(一))

 翌天保七年一〇月二日、松山に帰るのであるが、三舎印鑑保持の梅岩門正統教授として盍簪舎、参前社を中心に各地を巡講、各講舎に後講を行い、諸大名の藩邸に招かれて道話を続け、平格の名声は嘖々として挙がった。
 さらに、門弟池田孝路をして掛川に止敬舎を、古賀兵蔵には相模に興譲舎を、中山樹徳には下総に敬親舎を創設させ、自らも天保七年六月二三日 遠江名和村に敬譲舎を興して世話役印鑑を五名に与え、同年七月一日には、同じく遠江大池村に択善舎を創立し、門弟池田孝路を兼任都講に任じ、天保末年には尾道に修安舎を興すなど、全国の心学興隆に多大の貢献をした。また、梅岩、堵庵、道二ら先師の祭祀には、常に祭主を務め、心学講舎の規定を厳にし、老友、都講、善導、輔仁、会友の別を明確に定め、道話指導者が道話講席に持参すべき資格証明書「琢麿札」を発行するなど、全国心学界の規律確保にも努力して心学修行の中核となった。
 このように斯界の高位にあっても、旧師田中一如への尊崇の念は益々強く、天保七年九月九日 上洛中の一如を観行舎に訪い、その道話を聴聞、翌日は、雨の中を一如を案内して高倉邸に伺候している。
 二度の江戸遊学状況は『江戸遊学掌中記』(三冊)に詳細述べられている。
 天保九年(一八三八)四月四日には白銀三枚、翌一〇年七月一日には米八俵下賜の恩典に浴した。
 天保一一年二月九日、周防大島郡代官所の招請により大島郡回村道話、三月二一日帰松。この間の状況は『防州大島郡廻在日記』に詳しい。
 同年五月一〇日、藩主参勤により出府する家老菅五郎左衛門良史に従って三度目の江戸遊学に向かう。途中京都明倫舎に柴田遊翁を訪い、鳥辺山に梅岩らの墓参。六月二一日江戸着。有隣の墓参を済ませ盍簪舎に入る。翌一二年六月一七日 松山に帰るのであるが、その間、関東各講舎の定例道話会には、最高指導者として後講を務め、各地の会輔席に出て指導し、諸大名家、旗本、御家人の邸内に招かれて道話を続けた。松山藩邸では、無格組付の者へは、御上屋敷で毎月四度、御中屋敷にて毎月二度、御奥には毎月道話し、褒賞として金二百疋、帰国に際しては金二両下賜された。
 天保一三年(一八四二)正月二三日には周防上ノ関代官所よりの招請で二月二六日まで、上ノ関代官所支配地及び熊宅代官所支配地を巡講、同月二八日、松山帰着。(『防州上ノ関宰判廻村日記』)
 弘化三年(一八四六)一二月二三日、一如没後の六行舎に移住、定例道話会及び近在各地の招請により出張道話を続けた。
 嘉永元年(一八四八)五月二四日 門人中長年の誘引により南予地方巡講に出発、二五日、新谷泊、二六日、卯之町泊、それぞれ道話し、二七日に宇和島和霊神社参拝、同地橋詰泊。二八日、吉田芝龍蔵方泊、道話。二九日、東多田より大洲にかえし、六月一〇日まで河野嘉平次方及び信濃屋に宿泊、昼夜道話を続けると共に龍護山(曹渓院)、興禅寺住職、漢学者水沼成蹊、新谷藩求道軒提学児玉暉山らと親交、六月一五日帰松。(『南郡遊講録』)
 なお新谷・大洲方面へは、翌二年五月二八日出立、中山宿泊、二九・三〇日新谷宿泊、道話。六月一日より六日まで大洲滞留、河野嘉平次宅、会所、八幡神社社宅にて昼夜道話している。(同右)
 さらに万延元年(一八六〇)四月二〇日、三男貢(南州。一八五〇~一九二二)、僕三之助を伴い、三人連れで出立、夜中山広田屋茂吉方宿泊。二一日新谷を経て二八日まで大洲に滞留、道話を重ね四月二九日帰松(同右)
 安政四年(一八五七)正月下旬より二月上旬まで久万地方巡講。『残雪凝々山又山』『高低遠近白皚々』と吟じつつ巡講した。安政六年にも再度久万地方を巡講している。(『久万山回村詩歌集』)
 元治元年(一八六四)尾道よりの招きにより、四月二六日 三男貢及び僕一人を建れて六行舎を立ち、五月一九日まで尾道滞在、道話を行うと共に大三島の国学者菅原長好を訪い歓談している。(『尾道講話日記』)
 平格の確固たる心学への信念は、幅広い読書からも培われたものと思われる。心学必読書の読破はもちろん、『中庸』は特に重視し、老・荘・易にも通じ、仏教では『性霊集』、『無門関』、『臨済録』、『法華経』、その他盤珪法然、親鸞、蓮如、日蓮、白隠らの語録、和讃に親しみ、『史記』、『春秋』、『孔子家語』、『傷寒録』、『芝山会稿』、『丈山詩集』、『徒然草』、『元々集』、『梧窓漫筆』、『菅家文艸』に親しみ、特に関東心学の素地を培った女性心学者慈音尼簾か(一七一六~一七七八)の『道得問答』や寛文年間、沢田源内が清原良業の名に託して神託、聖帝の箴言、公武の忠言を編さんした『和論語』を愛読し、陽朱陰王といわれた佐藤一斎(一七七二~一八五六)の『言志四録』、室鳩巣(一六五八~一七三四)の『駿毫雑話』に親しんでいることは注目に価しよう。
 良師の善導と道話修行による事上錬磨と広範囲の読書思索によって得た平格の思想は、その著書に明快に述べられている。漢詩集『洲南形声集』、『名洲詩草』(五册)、歌集『元良歌集』は、その豊かな情操を示し、多くの紀行文は丹念で詳細をきわめ、漢詩、和歌もあって興味深い。もともと平格の紀行日記は、帰郷後、両親をはじめ、家族一同に語り、団欒の資料とする孝心、家族愛のためのものであった。(『海陸日記』)心学関係の著書には、『本心学聴書』、『心学問答』、『心学要語集』、『心学資料集』、があり、特に文政一〇年(一八二七)八月、自筆の『江龍ざっ記』には、直截に平格の心学観が述べられており、随筆集『名洲文艸』の各所にもその思想を窺い得る。

 天地之間、古今只一理也。散而成万殊。貫之而帰干一者誠也。誠得此理者程朱也。誠得程朱之意、則自得孔孟之道。自得孔孟之道則通徹堯舜之道。尭舜之道則天地之大道、而万古不易者也(『名洲文艸』(学派区々)

 平格の心学思想の中核は、朱子学であった。それに我が国古来の神道を取り入れ、老、荘、仏の教えを折衷して師有隣の説を更に前進させた。
 心学は、始祖梅岩以来「朝夕に神仏を礼拝することを勧め」(『石田先生語録』)、堵庵も「朝になり候はば、手水を御つかひなされ候て、まず神様を御拝みなさるべし」(『口教』)と説き神仏道を重視してきた。平格もこれをついで「道話者は、柔和にして、神仏を粗略に致すべからず」(『心学問答』)と説き、自身、「早起、・(「輿」の「車」が「水」になる) 漱、拝諸神 直入塾中」(『名洲文艸』)を日課として厳守した。

 神者依人之敬焉増其威也 人者以敬神 則理其身也 何則敬神乃敬身也 敬身乃教神之道 而神人 元無也仏亦然 殊名而已(『名洲文艸』)
 我神道にては、正直を本として万事偽りなきをよしとし、儒には仁義礼智の名を付けて、天然の性善にしたがわしめ、仏家にては、又無欲をさとして五ツの戒を保たしむ。共に其の源を尋ぬれば、我本心を会得して天然自然のありべかかりに帰するのみ。(『江龍ざっ記』)
 神仏聖人を始め、其外数百家の教へありといへども何もみな悪を捨て善を勧むるの外なし。如何となれば、人々その本心は善の丸無垢にして少しも悪心なきものなり(『江龍ざっ記』、『心学問答』)

 すなわち、丸無垢の本心、「思案なし」、「我なし」の純粋自我を体得して日常実生活を純粋なものとすることが心学者の使命であるとした。私欲に基づく人心を捨て道心を磨き、道徳を実践することが心学なりとした。
 平格は、伊予の心学者であるのみでなく、上洲自謙舎の清水春斎、広島心学の祖矢口来応、江戸参前舎五世都講中村徳水と並び、大島有隣門の四天王と称せられ、全国の心学興隆、社会教化に測り知れぬ功績を残した。
 慶応四年(一八六八)五月一八日病没した。墓碑は龍泰寺(松山市御幸)にある。

 3 近 藤 元 弘

 弘化四年(一八四七)一一月一日 近藤名洲の二男として生まれた。字は仲毅、寿人、号は南崧、鹿州漁父、南国逸民。藤元弘と自称した。父名洲没後、六行舎を嗣ぎ、道話修行を積み、『心学道話修行録』二冊。明治元年八月九日より翌二年六月一六日までの四書・小学より道話題材抜粋解説集、『心学要語集』(一冊)がある。
 六行舎廃止後は、県立松山中学校教諭となり、漢学研究、漢詩創作に専念した。朱子学を遵守し、人格高潔、学徳共に高く、世人の尊敬を受けた。明治二九年(一八九六)一一月二〇日没した。墓碑ぱ龍泰寺にある。

 4 小田左膳・中長年・岡本兵右衛門

 平格の門弟中、小田左謄、中長年は共に天保一五年(一八四四)八月三舎印鑑を受け、六行舎にあって平格の代講を務めた。中長年は弘化二年三月二五日より同月二七日に至る風早郡道話会に平格の前講を務め、嘉永元年の平格南郡巡講の斡旋をしている。岡本兵右衛門は、嘉永二年から同五年に亘る風早地方道話会に平格の代講を務め、千余人の聴衆を集めた記録がある(『心学みち志留遍』)ほか、詳細不明である。

 5 原 田 道 玄

 生年未詳。安政五年(一八五八)五月一七日没。大阪明誠舎都講兼講師。本名戎屋惣七、後八十七と改称。奥田頼杖と親交があり、伊予、豊後、紀伊、摂津方面を巡講した。嘉永二年(一八四九)六月、松山に来り、近藤平格の心学教化活動を補助した。平格も上京の都度、明誠舎に道玄を訪い、親交を深め、切磋しあっている。

 6 金 子 義 門

 生年未詳。享和元年(一八〇一)没。松山藩京都留守居役金子敬義の長男。字は元由。通称は越智仙五郎。父の跡を嗣ぎ、後、京都留守居役となる。梅岩直門の斎藤全門の門弟で、江村北海(一七一三~一七八八)に漢詩を学び、心学界第一の漢詩人と称された磧学鎌田柳泓(一七五四~一八二一)と親交を結ぶ。柳泓の名著『朱学弁』の序文を書く。また、柳泓著『心学奥の棧』に「予が友京師の住、予州松山の留主居」と述べられて親交の篤さを示している。(同書上之巻)心学界の麒麟児と称された脇坂義堂(~一八一八)とも親しく、主として京都にあって教化運動に挺身した。

田中一如翁碑銘

田中一如翁碑銘