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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

第六節 京阪民間儒学派

 京学の祖は藤原惺窩である。鎌倉以降不振をきわめた経学界にあって漸く命脈を保ってきたのは、明経家と五山の僧侶の力であったが、これらにあきたらず、惺窩が五山から儒学を独立させたのが所謂京学である。これがやがて江戸にもたらされて、江戸幕府の政治・教育の基本となるのである。京都の近接地大阪においても社会が安定し、町人による経済発展が目ざましく生活が向上してくると大いに学問が興るようになる。学問研究のために富裕な町人は私財を抛って万巻の書籍を準備し、或いは学者を招聘して学問の場を提供する等のことがおこり、大阪各地に私塾が開設された。伊予からも好学の人が良師を求めて大阪・京都に上り、学問に励み、帰郷後、地域の指導者として文教振興に力を尽くすようになる。これら多くの私塾の中で伊予に最も密接な関係をもち、はかり知れぬ影響を与えたものに片山北海の「混沌社」及びその流れをくむ篠崎三島の「梅花社」がある。
 北海については既に述べたが、新潟の人、家は代々農業を営む。一〇歳ころ聡明たぐいなしと言われ、四書を学んで二旬、句読を誤らなかったという。一八歳、京都に出て宇野明霞(一六九八~一七四五)に遇い、従学六年、大いに学問が進んだ。明和初期、頼春水らが集まって漢詩創作のグループを作り、北海を盟主とした。多くの磧学が混沌社に集まり、詩声一時に振うといわれる程であった。
 篠崎三島(一七三七~一八一三)については頼春水が次のように述べている。

 (参照 『春水遺稿別録』巻三「師友志」)

 応道は別号郁州ともいい、内子出身、父が早くから大阪に出て商を営み、産を成し宝暦七年(一七五七)三島家をついだが、幼より頴悟、学問を好み、徂徠門菅谷甘谷(一六九六~一七六四)に蘐園の学を承け、家に万巻の書を蔵した。年四〇歳にして儒を業とし、諸生に教え、混沌社に入り、尾藤二洲・頼春水・同杏坪らと交わった。教養広く、天文・ト筮・音韻にも通じ、著書も多い。
 養子小竹は天明元年(一七八一)四月一四日大阪に生まれた。豊後医師加藤吉翁の次子、諱は弼、字は承弼、通称は長左衛門、幼名は金吾、南豊・畏堂・退庵・聶江・些翁と号し、「貞和先生」と称された。九歳三島に入門し、異才を認められて養嗣となり、一九歳、江戸に出て古賀精里に師事したが養母の訃により帰国、二三歳、九州・四国を遊歴し諸国の磧学を訪うた。(この時大洲領南黒田村庄屋で南村の父梅三郎と小竹の繋りが出来たものと思われる。)二八歳、再び江戸に上り、昌平黌に寓して古賀精里の薫陶を受けた。居ること半歳、養父の老をもって帰阪し、三代に代わって諸生を指導し、名声を博した。大阪在勤の諸侯はじめ、来り学ぶ者多く、また淡路の稲田侯の賓師として招聘された。著書に『小竹斎詩文集』、『小竹斎詩抄』(五巻)がある。

 鷲野南村

 文化二年(一八〇五)七月二五日大洲領南黒田村庄屋梅三郎(利倍)の長男として生まれた。幼名は冨貴太、長じて蕗太郎と改称した。諱は翰、字は子由または子羽。青年時代は「松隠」(『九霞楼詩文集』)とも号したが南村を常号とした。書簡では「周惟清」ともいった。
 少年時代、郡中の関口流柔術家、漢学者冲荘助に漢文の素読を受けた。幼時より性温雅、博覧強記、神童と言われ、一度学んだことは忘れず、素読の進捗、目ざましいものがあった。
 ついで親友陶惟貞(一七九九~一八七三)とともに宮内桂山(一七四二~一八三〇)に師事して経学を修めた。宮内桂山は伊予郡郡中(伊豫市)の人。学を『黄葉夕陽村舎詩』を刊行して著名な備後の朱子学者菅茶山(一七四八~一八二七)に学んだ篤学の人で別号を柳庵または子温ともいった。曽憲慎夫に次の詩がある。

   遊米湊過柳庵生 生有書癖   米湊に遊び 柳庵生を過る 生 書癖を有す
避遁楊柳庵  握手酔醇膠   邂逅す 楊柳庵  手を握りて醇醪に酔う
更羨籒斯迹  粲然煉彩毫   更に羨む 斯の迫を籒めば 粲然として彩毫溢るると

 宮内桂山(柳庵)の才徳と文筆を称えた詩である。(現在宮内家に菅茶山のふみがらが多数保存されている)
 南村は父梅三郎の勧めに従って大阪に出、篠崎小竹の梅花社に入った。学大いに進み、塾頭を務め、頼山陽一家とも親交を結び、知名の磧学を訪うて勉学に精励、塾経営を一任されるまでになったが、父病弱のため帰郷して庄屋役をついた。幕末の困難な庄屋役に誠意をもってあたるとともに、書斎を「雪月棲」と命名して読書にふけり、私塾「橙黄園」を開設して子弟を教育した。庄屋役に専念して誠実無比、篠崎小竹を通しての古賀精里の流れを汲む朱子学の造詣の深さに志ある人々は争うて南村の指導を迎いだ。伊予地区各村の庄屋はほとんど南村の薫陶を受けた。昌農内村の庄屋窪田節二郎などは、後に県会議員を務め、また松山市の市会議長を務めるなどした政治家となるのであるが一〇年余、南村の橙黄園に通い、勉学を続けている。これらの人々に南村は醇々として教えてやまず、今にその徳を偲び、称えられ続けている。これらの事情は伊豫市五色浜に建てられた頌徳碑にあきらかで、またおびただしい庄屋文書、南村読破の書籍が残されて南村の偉業を物語っている。南村の著書は、弘化三年の日記『鷲氏日乗』没後刊行された『南村翁遺稿』(第一輯)のみであるが、門弟らに書き与えた条幅などは極めて多く、各所に大切に保管されている。
 南村自戒の箴言は、清の江亀の箴言で、これを雪月楼に常掲した。
(参照 「箴言」)
 条幅等により南村の詩若干を見よう。

(参照 「南村の詩」)

 南村は公職を誠実に遂行し、子弟を教え、読書研鑽怠らず、また近藤篤山を訪ねる(篤山日誌)等、磧学を尋ねて生涯真摯な生活を送り、朱子学の精神を日常生活の中に生かした人といえる。明治一〇年(一八七七)八月一五日没した(頌徳碑)。長男密太郎は早世、二男富次郎は「藍溝」と号し、南村が期待をかけたが南村逝去の翌一一年逝去、三男紹三郎が跡をついだ。紹三郎は「舜楽」と号し、よく南村の跡を受け、庄屋役をつとめ、また「発丑吟社」同人として漢詩にも秀で、絵画にも長じ、槍術の名手としても明治維新の動乱期よく郷党の信望を得て父南村の名を恥ずかしめなかった。

 陶 惟貞

 南村莫逆の友惟貞は、寛政一一年(一七九九)八月二八日郡中(伊豫市)灘町に大深屋忠兵衛の四男として生まれた。南村に長ずること六歳であったが宮内桂山同門の友として生涯両人は互いに最も心許し合った仲であった。惟貞は本名儀三郎、広島に渡って医学の修業を積み帰郷、郡中に開業したが、人を救う道は教育にありとして私塾を開き子弟を教育した。惟貞は、漢詩・俳句・絵画等に造詣が深く、放斎・半窓・砂山・聴雨などの号を用い各方面で声価を挙げた。著書も多く『陶氏雑話』、『半窓雑録』、『半窓詩稿』、『雲烟過眠』、『壬申発句嚢』、『半窓日記抄』等が主なものである。南村・惟貞往復書簡には「周惟清(南村)より陶惟貞へ」「陶惟貞より周子由(南村)へ」等あり、両者の親密の度が窺われる。惟貞、学は頼春水系朱子学、詩は白楽天・陶渕明を特に好んだ。この面でも南村とほぼ同じ傾向といえる。山陽は『日本外史』が出来上がると、直ちに南村に贈呈している(現在鷲野家に『日本外史初版』蔵す)。
 明治六年九月惟貞は没したが、門弟等その徳を慕い 郡中五色浜に頌徳碑を建てた。
 惟貞の漢詩若干をみよう。

(参照 「惟貞の漢詩」)

 学問・文芸ともに深い教養を持つ二大文人が同時にいて私塾を開き、互いに訪問しては切嗟する、この中にこそ文化の真の創造があろう。惟貞の生涯は、その頌徳碑の銘文が端的に最も的確にあらわしている。

訓詰通塞  操觚発蒙  面牆一変  頼化育功  道雖不高  其徳斯隆  詩云 靡不有初  鮮克有終  呼 此道統  誰紹遺風

 相原 賢

 鷲野南村・陶惟貞の学術を最も忠実に継承したのが伊予郡鶴吉村(松前町鶴吉)の相原賢である。文政四年(一八二一)八月一五日生まれ、「草野散人」と号した。幼より頴悟、謹巌で向学心に富み陶惟
貞・鷲野南村両師の薫陶を受け、刻苦勉励、漢学・漢詩文を学び、生涯、野にあって地位・名声を求めることなく、私塾を開いて子弟の教育に専念した。明治二二年(一八八九)九月一四日六九歳で没するまで生涯ひたすら学問に励み続けたのであった。『十三経』を購入するために田地を売却したことはあまりにも有名で現在でも地域の語り草になっている。古賀精里・篠崎三島・同小竹・南村と伝わった学統が相原賢によって地域に実践の学問として伝わり、現在においても讃仰おかぬ教育者として称えられていることは京阪民間儒学が好ましい特異な形で現在も生き続けているといえよう。賢はまた『中庸校談』を著して独自の見解を明らかにしたが、理論的にも実践的にも朱子学を真に地域に生かした人といえる。

    惟貞画像賛        惟貞画像 賛
  学舎背市廛  風流愛文芸  学舎は市廛に背き  風流文芸を愛す
  書画好評論  詩酒忘時勢  書画は評論を好くし 詩酒  時勢を忘る
  子弟百人餘  日々楽教布  子弟 百人餘    日々教布を楽しむ
  恵料知君所  為名伝後世  恵料は君が知る所  為名 後世に伝う
                             (相原海春『歴年史』)

 惟貞には一四歳より三か年師事したのであるが、惟貞の風貌と賢の崇拝ぶりが髣髴としてくる良詩である。
 一九歳 道後義安寺の僧顕光につき経学を学び、苦学力行をつづげ、二五歳、南黒田の橙黄園に入って南村の指導を受けるのである。
(参照 『艸野相原賢略伝』)

『春水遺稿別録』巻三「師友志」

『春水遺稿別録』巻三「師友志」


箴言

箴言


南村の詩②

南村の詩②


惟貞の漢詩

惟貞の漢詩


相原賢

相原賢