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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

一 朱子学の興隆

 ― 朱子学のおこり

 朱子学は、中国宋代に起こった儒学のうち、朱子(一一三〇~一二〇〇)によって集大成された学派である。朱子は青年時代、老荘・仏教より相当の影響を受けたが、後、「虚」・「無」を主張する仏教・道教の否定的・消極的な面を排除し、明確に孔子を始祖とする教学の体系を樹立した。道徳的規範としては、修身=斉家=治国=平天下の図式を確立し「君子篤恭而天下平」(『中庸』「第二節」)の趣旨を強調し、個人の完成こそが政治そのものであるとし、「聖人学んで至るべし」との理想主義を主張した。そして、その根底として「理気説」を唱えた。即ち存在するものはすべて「気」からなる。「気」は動的な「陽」静的な「陰」があり、それが相互に入り組み、木火土金水の五行となり、多種多様に組み合って万物を形成する。人間における精神状態も万物万事すべて気の作用に還元される。ところで万物万事は単にあるものではない。あるべきようにあらしめている「理」があって存在する。
(参照『朱文公文集』巻五八「答黄道夫」)
 「理」・「気」は常に共存して離れず、「気」は形のもと、「理」は性のもとで先後ぱ元来ないのであるが、来る処を求むれば、先ず「理」があるとする。理一元論的な「理気二元論」である。そして宇宙存在の根源の「理」は「太極」と呼ばれるが、その「理」はそれぞれに賦与せられている万物の理と同一であるとする「理一分殊」の哲学体系を樹立した。また、人間に内在する理は、特に「性」と呼ばれ「性即理」を主張する。人間の心は。「性」と「情」との統一体で、賦与された「本然の性」即ち「理」と「気」によって動かされ、逸脱して欲に流されようとする「気質の性」があるとする。学問修行とは「気質の性」が「本然の性」へと復帰を促す行持であるとする。そのための方法が「居敬」「窮理」であり「格物致知」である。
 さらに儒学の道統を明らかにし、尭・舜以来うけつがれた道(理)が孟子の死とともに失われたとし、これを明らかにする歴史観に立ち、自己の朱子学の歴史的正当性を主張し、また『四書』を中心とし『小学』、『近思録』を重視、『四書集注』を著して従来の「五経」中心の儒学を改め、『資治通鑑綱目』を編さん、名分を正した。
 日本への朱子学の伝来は、鎌倉時代、五山の禅僧によってもたらされ、研究された。昔の大学寮時代には、菅家と大江家が紀伝道、即ち文章道家となって世襲し、清原家と中原家が明経道家となって、これも世襲し、これらは師行家と称され、勅許によらなければ、自家の学問を他に伝授したり、別の学派を研究することができなかったから、きわめて保守的で、鎌倉時代、宋や元との交通によって伝わってくる新しい学問の書を読むことができなかった。
(参照「一条兼良『尺素往来』・『群書類従』巻第百四十一」)
 これらの記事により玄恵(一二六九~一三五〇)は既に司馬光の『資治通鑑』を読み、後醍醐天皇の侍読となって進講していたことがわかる。また一条兼良(一四〇二~一四八一)は南禅寺主五山文学者岐陽方秀(一三六三~一四二四)の門弟で既に新儒学に親しみ、特に北畠親房はその蘊奥を得て、『神皇正統記』を著したことをうかがうことができる。
 従来の師行家の学問が保守的消極的で、沈滞する傾向にある時、五山の禅僧たちは次々と新しい儒学を取り入れた。特に桂庵玄樹(一四二七~一五〇八)は、山口大内氏に招かれて程朱学を講じ、いわゆる「西学」派朱子学を起こし、さらに鹿児島に移って文明一三年(一四八一)に『大学章句』を刊行した。それが後にこの地を訪れた藤原惺窩によって京都に持ち帰られ、京学として普及するのである。
 また、桂庵玄樹に学んだ周防の南村梅軒(名字・生没共に未詳)が大内氏滅亡後、土佐に渡って程朱子学を講じた。これが「西学」に対する「南学」である。梅軒門に真宗僧天室があり、天室に学んだ谷時中(一五九八~一六四九)が出て『語孟集注』・『学庸章句』・『朱子文集』を得てこれを読み「慈仲」と称する僧籍から還俗し、儒と医を以て高知に南学を講じ、野中兼山・小倉三省・山崎闇斎らの俊秀を育てた。

『朱文公文集』巻五八「答黄道夫」

『朱文公文集』巻五八「答黄道夫」


一条兼良『尺素往来』・『群書類従』巻第百四十一

一条兼良『尺素往来』・『群書類従』巻第百四十一