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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

三 藤樹門弟

 1 中 川 謙 叔

生い立ち

 寛永元年(一六二四)大洲藩士中川孫兵衛治良(一五七五~一六五一)の二男として生まれた。兄は藩鉄砲組御預、三〇〇石中川善兵衛貞良(一六〇四~一六七〇)で、邸宅が藤樹と相隣りのため、兄弟ともに幼時より相親しみ、ともに藤樹に師事した。幼名は熊。後、権左衛門を称し、兼叔ともいった。寛永一六年(一六三九)近江に行く。同一九年、一度帰省したが再び藤樹の下に帰り、学業大いに進んで藤樹の信頼がきわめて篤かった。慶安三年(一六五〇)秋、備前池田光政につかえて二百石、よく藩主に諌言、『孝経』の『昔者天子有争臣七人』との箴言の実践者として信認された。夫人は藤樹の姪である。万治元年(一六五八)一一月一八日「於御国病死」(嫡男来助「御奉公書」)した。三五歳であった。寛永一九年、郷里に帰省する謙叔を送る藤樹の詩がある。

中川子志学翌年 以父兄之命 遠来草廬 入心学之門 其志篤其学強 孜々以終日焚膏油以継晷 既四年 於是矣 壬午之春末 孝経中庸之講終焉 於是夏之孟 帰省父母於豫方 臨別賦全孝心法 以望其聴於無声 視於無形之愛敬 云爾
  躬行惟幸      中江原拝書   躬行、惟れ幸いなり
孝徳以中為身體  无偏无倚至誠神  孝徳は中を以て身體と為す 偏无く、倚无し 至誠の神
一毫意必三千罪  努力戒懼不顕真  一毫の意必は三千の罪 努力・戒懼は不顕の真

全人

 著作年月未詳。『藤樹先生全人論』ともいう。中川謙叔が理気合一を説く陽明学から出発した藤樹の教える「愛」と「敬」に立脚して全人即ち聖人・君子に至る道を二六項の問答形式にまとめ、平易に述べて、「万物一体の心」を得るこそ全人の真面目なりとするもので、藤樹晩年著の『中庸続解』の中核「仁者人也」(『中庸』第三段、第二小段、第三節の藤樹解釈)と趣旨において全く同じである。謙叔の聴明と学の進歩は藤樹をこの上なく悦ばせたのである。謙叔ぱ死に臨み「一技一芸に達せざる者、吾が子孫に非ず」と遺言したと伝えられているが、謙叔が良師を得て刻苦精励した三〇余年の生涯を象徴した美しい逸話である。
 謙叔の兄貞良も優れた求道者であった。寛永四年(一六二七)藤樹二〇歳、まだ朱子学を崇で、格套を受用していたころであったが、初めて大学を講じた時、四歳年長であったが、藤樹の講義を聞いた。寛永一五年(一六三八)近江に来り、藤樹に師事、正保三年(一六四六)帰郷して家を嗣いだ。藤樹に送行の詩歌がある。

    送中川氏 貞良也                             中江原拝書
 中川氏遠訪于陋巷 而講論大学之心法 其情深 其心篤 臨別賦一絶以庶機体認自脩之一助云
  畏天尊性莫懐居  世事紛紛以己憂  天を畏れ性を尊び居を懐う事莫かれ 世事の紛々たるは己を以て憂う
  誠意工夫純不已  孔顔至楽自茲求  誠意工夫、純にして已まざれば 孔顔の至楽、茲より求むべし

 また「文王いまさぬ世に興りて、外議をはばからざる志、誠に希代の豪傑なり」とその人となりを称揚し、激励する前詞をつけ一八首の和歌を贈って「醇儒」たるべく大成を期待している。
 貞良・謙叔の母も敬虔な人で、邸宅が隣合っていたこともあり、藤樹の祖父母とも親しく、好学の藤樹を好もしくも思い、我が子の師として尊敬もして開悟の道なども尋ねたのであろう。正保三年(一六四六)と翌四年の両度、送った書簡がある。

  后生の事一大事と思召由御尤二存候。后生一大事なれば、今生猶一大事にて御座候。いかんとなれバ、今生の心まよひぬれバ、后生悪趣にをもむく理ある故ニテ候。仰の如く后生一大事と仏の教へ玉ふも、今生の心を明にせん為ニテ御座候。大乗の法門ハ皆この心得ニテ御座候。あしたゆふべをはかり難き浮世ニテ御座候ヘバ、心の中の如来を拝したまはん事何より以テ切なる御事ニ御座候。御取入の書物の事心得存候。あとより下し可申候。其内善兵衛殿へも御尋なさるべく候。(正保三年)

    答中川子老母
かがみ草御覧、御なぐさみ被成候由大慶ニ存奉候。仰下され候ごとく御生一大事に御座候。うかうかと御ねがひなされ候ぶんにてハ、一大事はづれ可申候。今生后生一大事ハ、ただ心に御座候。よくよく御聞とどけなさるべく候。このことはり権左衛門どのよく御心得ニ候ままくわしく御たづねなさるべく候。(正保四年)

 『翁問答』においては、仏教に批判的だったが、『鑑草』においては、明徳を明らかにする教えなりとして受容している。「先生母堂信仏学。先生一日為之講仏書。出而言諸生。某頃日見仏書。其奥旨亦悉包于吾儒教中。彼教若別有好意志学之亦可也(『藤樹先生事状』)と述べて格套に拘泥し、圭角の甚だしかった藤樹が『性理会通』に親しみ『王龍溪語録』を繙いて、儒・仏・道三教一致を説く王龍溪の思想が、実は王陽明に胚胎し、その展開であることを正確に読み取ったのであろう。「良知」は、「心の中の如来」と断言するほど寛容となり、格套から脱却していた。もともと藤樹には「陰騭」の論があって「因果応報」の思想に基づく敬虔な修行の念があった。

  2 西 川 季 格

 大洲藩士二〇〇石中小姓、三生又右衛門の三男。通称、十兵衛。生没年月日未詳。初め清水姓。清水士ともいう。『藤樹先生年譜』によると、藤樹大洲を去りて後、思慕して止まず、藩侯に告げ、禄を致し「寛永二十年癸未(一六四三)冬、清水氏、来テ業ヲ受ク」とある。正保二年(一六四五)に藤樹の「書清水子巻」と題して懇に『孝経』に基づく「孝」の理論を諭し、慶安元年(一六四八)には、「答清水十」と題して「一念入微の処に意根を断絶して良知の誠に帰り、格物致知・誠意工夫の要諦」を喩し、中川兄弟らと合点がゆくまで討論追求する様、誠意をこめて教えている。

集義和書顕非

 元禄四年(一六九一)春三月中旬「序文」上下二巻。板行は元禄十龍集丁丑年林鐘辛酉日とある。熊沢蕃山(一六一九~一六九一)の名著として洛陽の紙価を貴からしめた『集義和書』に対し、かつての同門なれども「己レガ分量ヲ不知、師ノ学脉二背キ、高満、名ヲ好ムノ心」誠に許し難しと、上巻三一項目、下巻二八項目、計五九項目を挙げ、「中江氏藤樹先生之門人」として糾弾したものである。
 熊沢蕃山は、元和五年、京都の稲荷近くで生まれた。父野尻一利は加藤嘉明の浪人で、寛永一四年(一六三七)島原の乱には、鍋島勝茂の陣に加わり、傷を負った勇士であった。父一利の浪籠による生活の窮乏のため、八歳の時、母の父で水戸頼房家臣三〇〇石熊沢守久に引きとられ、豪放な外祖父の薫陶を受け、その養子となった。
 蕃山は弱年のため、養父の職掌をつげず、遠族板倉重昌に頼り、その友京極高通の推挙で備前池田光政に仕え児小姓役を命ぜられた。宝永六年(一七〇九)刊行された『集義外書』によると、青年時代の蕃山は、厳しい禁欲生活と激しい武道修行に明け暮れたようである。蕃山の学問は、父一利から兵書を学んだのが最初で、二二歳初めて朱子集註によって『四書』を独学した。二四歳にして藤樹をたずねた。『藤樹先生年譜』寛永一八年の項に「冬、熊沢伯継、来テ業ヲ受ク」とある。なかなか入門を許されなかったが、懇請して動かず、漸く許されて約八か月滞留、『孝経』・『大学』・『中庸』を学び「ソノ疑ハシキ」を問い、「真性活溌」の心法を受用することができた。このころの藤樹は『孝経』を重視して『啓蒙』を著そうとしており、『翁問答』を著し、『陽明全集』を心読し、また、伊勢大廟に参拝して我が国古有の神道にめざめ、『王龍溪語録』に親しんで、朱子学の格套から脱皮して「藤樹学」が大成されようとしていた。この進んで止まぬ求道精神に充ち溢れた活発々地の斬新な藤樹の学問に触れた悦びを後年、次のようにのべている。「日新の学者は、今日は昨日の非を知るといへり。愚は先生の志と、徳行を見て、其時の学を常とせず、其時の学問を常とする者は、先生の非を認めて是とするなり。先生の志は本しからず。先生いへることあり。朱子俟後之君子の語を卑下の辞と講ずる者あり。卑下にはあらず、真実也と」(『集義外書』巻二)藤樹高弟二山と並び称される淵岡山(一六一七~一六八六)からも藤樹の学問の進歩を聞き、ますます景慕の念を深めるのである。藤樹もまた、蕃山に限りない期待を寄せた。
    送熊沢子 壬午之夏                          中江原拝書
(参照 「送熊沢子」) 
   淵鑑惟幸      中江原 
    淵く鑑みれば惟れ幸なり
  動而無動静無静  無倚円神未発中  動にして動なく静にして静なし 倚ることなく円神は未発の中なり
  慎独玄機必於是  上天之載自融通  独りを慎むの玄機は必ず是においてす 上天の載は自ら融通す

 蕃山は、藤樹に親炙し、この上なく先師として崇敬しながら、思想においてとらわれることはなかった。この日に月に新たなるこそ師藤樹の学問求道の通を継承するものとした。「愚は朱子にもとらず、陽明にもとらず、ただ古の聖人に取て用ひ侍るなり。道統の伝より来ること朱・王共に同じ」(『集義和書』(義論之一)と断じて陽明に偏せず、「中江氏は生付て気質に君子の風あり、徳行を備へたる所ある人なりき。学は未熟にて、異学のついゑもありき。五年命のびたらましかば、学も至所に至るべき所ありしなり。中江氏存生の時は、予を始として皆粗学の者どもなれば、ゆるさるべき者一人もなかりしに、中江氏の名によって、江西の学者の、名の実にすぎたること十百倍なれば、つい之もまた大なり」(『集義外書』巻六「脱論」)と往時を厳しく反省し、「心友問。先生は先師中江氏の言を用ひずして、自らの是を立給へるは高慢也と申者あり。云。予が先師に受けてたがはざるものは実義なり。学術言行の未熟なると、時・所・位に応ずるとは、日を重ねて熟し、時に当たりて変通すべし(中略)先師と予と一毛もたがふことなし」(『集義和書』「義論之六」)と自信をもって喝破している。
 季格が反論、非難してやまなかった根本は、この点である。そうして、より根源的には、藤樹の「理気説」をどのように把握したかにある。蕃山は『集義和書』「巻三」の冒頭に「性・心・気、いかが見侍るべきや」の来書に答えて「吾人の身にとりていへば、流行するものは気なり。気の霊明なる所を心といふ。霊明の中に仁義礼智の徳あるを性といふ。霊明と云て気中別にあるにあらず」と説に対し、『集義和書顕非』八項におりて「不可ナリ」と断じ、「天命則我ガ性ナリ。天命ハ理ナリ。神ナリ。気トハ云ヒガタシ。性心ハ一物ナリ。気ニハ霊明知覚ナシ。理気ハ合一ナリト雖モ、性心気ヲ分テ云フトキハ、性ニ仁義礼智ノ徳備ハリテ、知覚霊明ナル事不言シテ明ラカナリ」と反論する。また、蕃山は自身知行三千石の番頭として藩政に参与しながら「政」と「学」を分離して「今の世に学問する人は、天下国家の政道にあづかり度思ふ者多く候。学者に仕置をさせ候はば、国やすく、世静かなるべく候や」との質問に対して、「博学有徳にても人情・時変に達する才なき人は政はなりがたく」と教えている。(『集義和書』巻一「二条」)季格は「此説不然」と反論する。「学問ハ修身ヨリ家国天下ヲ可治タメノ道ナリ」(『集義和書顕非』「冒頭」)と『大学』を挙げて「君子人」の政を提唱する。また、『集義和書』巻八「第五条」に「格物致知」を子思の心法とし、『大学』を「径」と「伝」に分けることが述べられているが季格は『集義和書顕非』二二項において「此説不然」と反論を加えて「格物致知ハ聖学ノ眼ノ語ナリ。然ルニ聖人ニ不出シテ、子思ニ出ンヤ。大ヒニ不是々々」と批難し、『大学』を王陽明は、孔子の御作にて一篇の書とのたまいたりとして、朱子の経・伝分離に加担する蕃山に反対する。藤樹の学恩をしのび、景慕して、師藤樹の学説を純粋に継承、後に止善書院安置の聖像を譲渡されるほどの季格には到底容認できなかった。(琴卿「告同志」)

 3 そ  の  他

 近江時代の藤樹門人のなかで、大洲・新谷両藩士は三二名に及ぶといわれている。それらの人々は帰藩後、それぞれ重用されたから、藤樹学は両藩に根強く浸透し、藩学の基礎を培った。また、大野了佐のように藤樹から医学を学んだ門人も出た。藤樹自身、「学」と「芸」両者を兼備することが「君子」と確信し、実際の技術的学問に興味を有していたと思われる。精神のみの空論は陽明学の本質でないことを身を以て示したものといえる。

「送熊沢子」

「送熊沢子」