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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

二 中江藤樹

生い立ち

 慶長一三年(一六〇八)三月七日、近江国高島郡小川村(現滋賀県安曇川町上小川)に生まれた。父は、中江吉次(一五七四~一六二五)、母、市(一五七八~一六六五)の長男である。本名は原、通称は与右衛門、字は惟命、号は顧軒、嘿軒。別に「不能叟」(保積正厚『藤樹先生別伝』文化一二年稿)「天君」(『翁問答』中の師儒)「江西」(藤樹第三子常省、対馬藩儒を辞して帰京、「江西文内」と仮称したため後人の仮託か)「頤軒」(顧と頤を通用させたか)とも称された。字は「男子二十、冠而字」(『礼記』)とあり、藤樹が宋学を崇んで格套に泥んでいたころで『書経』の「康浩篇」中に「惟命不于常 汝念哉」とあるによった。藤樹は『大学』を最も重視したが、朱子著 『大学章句』(伝十章)にも「康誥曰 惟命不干常 道善則得之 不善則失之矣」とあり、藤樹の好んだ句であろう。「顧軒」は、やはり『書経』「太甲篇」「先生顧諟天之明命」に依る。「嘿軒」の号は、『藤樹先生年譜』「三十四歳」の条に「一日門人ニ語テ曰、昨夜夢ニ人アリテ吾ニ光嘿軒ト云号ヲ授ク。光嘿ノ号吾ニ過ギタリ、只嘿軒可ナリト云テ此ヨリ自ラ嘿軒ト称ス」とある。「嘿」は『菊子』「不萄篇(第三)」に「君子至徳アレバ 嘿然而トシテ喩ラル」から得たものである。「藤樹」の号は『藤樹先生年譜』・『藤樹先生事状』等に「藤樹ノ下ニ生ズ」「庭前ニ古藤樹アリ」等書記されており、藤樹生前より藤の樹があったのであろう。ちなみに中江家の紋所は「下り藤」である。
 少年時代の藤樹は「先生僻壌ニ生長ストイヘドモ野鄙ノ習ニ染ム事ナシ。タマタマ隣家ノ児童ト馴アソブトイヘドモ、毎ニ静ニシテ、カレニ相移ル事ナシ」とあるように八歳にして犯すべがらざる気品を備え、後、近江聖人と呼ばれるようになる素質を生来持ちあわせていたということができよう。元和二年(一六一六)九歳にして、祖父吉長(一五四八~一六二二)に養われて伯者国に至り、元和三年(一六一七)藩主加藤貞泰の大洲転封により、祖父と共に大洲に移る。祖父風早郡の宰となり、藤樹従って風早に移り、柳原に住む。このころ文字を習い「期年(満一年)ニシテ殆ド能クス」といわれ、『庭訓往来』(書簡文例集)『貞永式目』(五一か条法令集)を学び、「コレヲ記得スルコト甚ダ速ニシテ一字トシテ忘ル事ナシ」と天粟の程を示し、祖父を悦ばせ、その代筆をして称誉されたが、藤樹は「ヒソカニオモヘラク吾コレノミニ止ルベカラズ」と期する所があった。
 一一歳、初めて『大学』を読み、「自天子以至於庶民 壹是皆以修身為本」(第一段第二節)に至って「嘆曰聖人可学 於戯 吾何幸従事于斯 感涙屢湿袖従此心日篤学日新」(『藤樹先生事状』)
 以後、『大学」を心読し、陽明学を知り、藤樹学を開くに至る。
 一二歳「一日食スル時ニツラツラオモヘラク、此食ハ誰ガ恩ゾヤ」と思いをめぐらし、藤樹独得の報本反始の「孝論」か芽ばえるのである。
 しかし、藤樹は、無気力従順な読書人ではなく、内面に溌刺たる気力溢れる武人であり、剛気で圭角のある人であった。一三歳で祖父とともに須卜を討ったこと。一四歳、大洲へ帰り、家老等血級藩士の会話を「終夜コレヲ聞クニ何ノ取用ユペキコトナシ」と断じ、一二歳、児玉邸において荒木某より「孔子殿来り玉ふ」と郷楡され、「汝、酒ヲクラヒ酔フカ」と大喝し「奴僕ナリ」と罵言叱咤するところなど自己に対する強い自信の程がうかがえる。この自信と気迫が、後に「安昌殺玄同論」・「林氏剃髪受位弁」となって林羅山及びその学派の批判となってあらわれるのである。元和七年(一六二一)藤樹一四歳の八月七日祖母没、翌八年九月二二日、祖父吉長没、寛永二年(一六二五)藤樹一八歳の正月四日父吉次が五二歳で没した。僅か五年の間に「親」とかしづく三人に相ついで死別しては、残された母への想いがつのるのは当然であろう。祖父没後百石の家督をつぎ、郡奉行を勤仕し、また、初学同志に大学を講じ、寛永九年(一六三二)二五歳では、新谷藩に分付、孤独となった母を想うて江州に帰省、母を大洲に迎えようとして果たさず、翌一〇年元旦「皐魚伝」(『韓詩外伝』皐魚之泣)を読み、悲しみに耐えず、詩をつくった。

   葵酉之歳旦

葵酉之元旦 参神事畢 而独坐有郷思 屈指羈旅既十有八年于此 偶然憶得皐魚之事而読其伝 至樹欲静而風不止 子欲養而親不待 而三復之 而悔悟昨非焉 於是賦曹鄶之一絶 以聊言志 枉非費精神於無用 所謂不得其平則鳴者也故不泥詩法  而只用二十八字而已

  羈旅逢春遠耐哀  緡蠻黄鳥止斯梅  羈旅春に逢う  て遠く哀むに耐えたり緡蠻たる黄鳥は斯の梅に止まる
  樹欲静兮風不止  来者可追帰去来  樹静かならんと欲して風止まず 来者追うべし 帰りなん いざ

 「母ヲ江州ニ帰省」して果たさず、帰路船中にて初めて哮喘(ぜんそく)を患い、これが命取りの病となる。
 寛永一一年(一六三四)三月七日、藤樹二七歳、江戸家老佃氏に帰国の願書を提出したが、なかなか許されず同年一〇月、遂に脱藩、近江に帰った。漸く思いがかなえられた心境は、後の陽明学に安心立命する萌芽である。

    甲戌之冬舟中見月有感    甲戌の冬、舟中に月を見て感有り

  念慮一毫差  酬応千里訛    念慮に一毫も差えば  酬応は 千里も訛る

  人心宜主静  明月不沈波    人心は宜しく静を主とすべく 明月は波に沈まず

 漸く母の懐に帰って気分が暢び、武士としての格式になずんだ「支撐衿持」に拘攣する非を悟るのである。

遊宦在於他邦有年于此 帰逢郷党乙亥之春 而和楽且耽 以足知羈旅十有九年之非 是以綴側体一絶以抒卑志云
 郷党元旦会九族  和気油然相親睦  郷党 元旦 九族を会す  和気 油然として相親睦す
 昔日雖知非真知  舟可行水車則陸  昔日 知ると雖も 真知に非ず 舟は水に行るべく 車は則ち陸に

寛永一三年(一六三六)藤樹二九歳 希望に満ちた年を迎える。

丙子之歳鶏旦 偶逢立春之節 囚有感 賦小詩 以庶幾工夫之一助云爾  
格致誠脩貫日新  易難先后不彬彬  格致誠脩 日新を貴ぶ  易難先后 彬々たらざらんや
  料知聖学成功地  気朔今朝共是春  料り知る 聖学成功の地 気朔 今朝 共にこれ春と

 翌一四年、藤樹三○歳にして伊勢亀山藩士局橋少平太の女久子(一六二一~一六四六)一七歳を娶った。格法になずみ『礼記』の「三十而有室」によったものである。久子は「容貌甚ダ醜シ。先生ノ母コレヲ憂ヘテ出サント欲」したが『大戴礼記』「本命篇」の「婦有七去 不順父母去 無子去 淫去 妬去 有悪疾去 口名言去 窃盗去」の何れにも該当せず、これだけは母の命に従わなかった。藤樹の誠実と格法を遵守する姿を窺い得る。
 このころ「孝経」を心読、『論語』を講じ、独白の陽明学を樹立して確信にみち、門弟を教育し、著書を世に送り、来り学ぶ者多く、学徳ともに称されるに至った。

    戊寅之鶏旦読孝経偶成        戊寅の鶏旦 孝経を読みて偶々成す
  心地収春当践形  於人細柳眼先青  心地 春を収む 当に形を践むべし 人に於て細柳 眼まず青し
  元為老和気為子  充塞両間惟孝経  元は老いたり 和気は子たり 両間に充塞す 惟れ孝経
    送吉田子             
  吉田子を送る
  一貫心法勿他求  郷党全篇聖所裁
  一貫の心法 他に求むることなかれ 郷党の全篇 聖の裁する所
  動静云為宜止善  山梁雌雉亦時哉  動静 云為宜しく善にに止まるべし 山梁の雌雉また時なるかな

『論語』の「郷党篇」は孔子の声音・容貌・衣食住等日常生活の外面の種々な動きの記録である。藤樹には、『論語郷党啓蒙翼伝』の吝かあり、『論語』の中で、非常な感銘をもってこの編を熟読重視している。聖人の日常生活の規範を学び、格套として受容し、やがてその格套から脱却する過程であろう。
 正保三年(一六四六)四月三〇日、夫人久子が二六歳の若さで産後の日立ちが悪く没し、翌年、大溝藩主分部伊賀守嘉治の命で藩士別所弥次兵衛友武の女布里を継室に迎えた。慶安元年(一六四八)八月二五日朝卯時(六時)四一歳で没するのであるが、晩年は陽明学により安心立命の境地にあった。

    与晦養軒              晦養軒に与う
  触波不散碧潭月  就手漸馴朱蹄駒  波に触れて散ぜず 碧潭の月 手に就て漸く馴る朱蹄の駒
  経歴人間多少険  老来始得出天衢   経歴す 人間多少の険 老来、はじめて得たり天衢に出づるを 幾多の辛酸を歴て、初めて大成之至り得る心境の披瀝である。

学問

 藤樹が寛永一九年(一六四二)の夏、「淵鑑惟幸」題詩前詞中、「今吾於熊沢氏 似以性命相友愛(中略)心々相通融 而甚喜得輔仁之益、莫逆之寄越」と述べるほど相許した門弟熊沢蕃山が「先師(藤樹)、存生の時、変ぜざるものは志ばかりにて、学術は、日々月々に進みて一所に固滞せざりき」(『集義和書』「義論之六」)と評したように昨の非は直ちに破ることに躊躇せず、日に就り月に将んでやまなかった。藤樹の学問は、『藤樹先生年譜』・『藤樹先生行状』『藤樹先生事状』及びその著書等から見ると、一代四一年の生涯中、大別して三変していることがわかる。(一)朱子学時代、三三歳『王龍渓語録』を得るまで、(二)全孝説時代、三七歳『陽明全集』を得るまで、(三)陽明学時代、没年まで。即ち年齢的には初年、中年、晩年と大別する事もでき『藤樹先生行状』によると「十一歳ニシテ始テ大学ノ書ヲ読ム。自天子以至庶民壹是皆以修身為本ト云ニ至リテ書ヲ恭敬シ嘆ジテ曰ク、聖人学デ至ルベシ。生民ノタメニ此経ヲ遺セルハ何ノ幸ゾヤ。ココニヲイテ感涙袖ヲウルヲシテヤマズ。是ヨリ聖賢ヲ期待スルノ志アリ。一度書ヲ読デ必諳ス。イマダナラハザル文字トイヘドモ、皆通暁ス。人皆奇異ナリトス。」とある。一六歳にして『十三経』を通習し、すべて諸子百家の文、倭国の書にいたるまで読まずということなしという多読主義で、先哲の威儀にならい礼書のうち箴言となるものは所々の壁間にしるし日用の則とした。しかし、これは、聖人の教うる道、外儀によるべからずとして中止し、群儒の論を深く考えることに改めている。一七歳、京都より来た禅師の『論語』の講義があり、文学を習うは惰弱なりとする一般の風潮を排して独り聴講した。上編を講じて禅師が帰郷したため、就いて学ぶべき師がなく『四書大全』を求めて、昼間は人々の誹謗を憚り、夜間、一夜二〇枚を学ぶ計画をたてて独習した。まず『大学大全』からぱじめ、読むことはほとんど亘遍に及び、ついで『論語・孟子』の大全を読破したのである。『四書大全』は三六巻、明の胡広等の奉勅選で、朱子選の『四書集註』を更に詳しく注したもの。義理を説くこと最も詳しい朱注に関する宋明の諸儒者の諸説を集めたもので永楽一三年(応永二二年一四一五)成ったものである。『四書大全』が日本において、初めて『官板四書大全』として訓点刊行されたのは、寛永一二年(一六三五)高松の僧自乾によるのであるから、藤樹は一一年も前に既に一七歳で白文を読解しているわけである。驚くべき漢文読解力と聡明さというほかはない。つまり、藤樹の勉学は、全く朱子学的伝統により、朱子が「学間ぱすべからく大学を以て先となすべし。次いで論語、ついで孟子、ついで中庸」(『朱子語類』巻十四)と教えた読書の順序を忠実に実行した。「読四書法」で 「要人先読大学以定其規模 次読論語以定其根本 次読孟子以観其発越 次読中庸以求古人之徹妙」と門弟らにも教えている。二〇歳のころには「専ラ朱学ヲ崇ソデ格套ヲ以テ受用」し、後には全く聖学を阻害するものとして忌避するのであるが、日常の生活態度を規定した『小学』的な礼法、居敬窮理のための修養法、経書の固定的な注釈法等の「格套」に泥み、言動に極めて圭角あらしめる結果を生じていた。初学の者に『大学』を講じ、『大学啓蒙』を著し、脱藩して江州に帰ることになるのである。
 寛永一五年(一六三八)藤樹三一歳、年譜によると夏、『持敬図説』并ニ『原人』を著している。四書を心読して堅く格套を守り、聖人の「典要格式」一切を厳しく受容しようとした。『持敬図説』は朱子学に基づき「敬」の哲学的意味を追求して「持敬」の修養法を図解説明し、『原人』においては、人の人たるゆえんを原ねて天意に従い道徳を実践するところにありとし、純粋至善の上帝、太極の命のままに日々行ずべしと主張した。
 しかし、両書の趣旨を「行フコト数年、然レドモ行ハレザル処多クシテ甚ダ人情に戻り、物理ニ逆フ。故ニ疑止ムコトアタワズ」格套に拘泥しては聖人の道に遠ざかることを自覚するに至る。
 ここに至って眼を向けたのが五経であった。年譜三一歳の項に「是ニ於テ、五経ヲ取テ熟読スルニ触発感得アリ」と悟る。『大学』を中心にして『四書』を重視し、読書研究の順序を規定したのは朱子の合理主義、学問の論理的構成を喜ぶ考え方から出発したものである。格物・致知・誠意・正心・修身・治国・平天下と儒教の修己・治人の道を整理し、『大学章句』を著して「即物窮理」の論理を展開し『四書』を体系づけたわけである。寛永一二年(一六三五)の年譜をみると、藤樹は『易』を学び「筮儀」に通じたとある。「易ノ理ニ於テハ、心ヲ尽クサバ或ハ其万一ヲ得ン」と期待して朱子の『易学啓蒙』を購入し、独習した。格套からの脱却を期して『易』を学び、『五経』を熟読したわけである。『翁問答』「下巻之本」に「体充」の『十三経』の質問に答えて師の「天君」が「本来、易経一部をおしひろめたる十三経なれば、易経をよくまなびたるがよろし」と教えているように藤樹は、古聖賢の格法を守ろうとすれば、甚だ人情に戻り……疑ひ止むことなき苦悩の解決を易に求めたのである。
 寛永一六年(一六三九)藤樹は、朱子の「白鹿洞書院掲示」に倣い「藤樹規」をつくり、学生心得として「学舎坐右戒」を書院に掲げた。最初に『大学』三綱領を挙げ、天命を恐れ、徳性をみがくことを説き、「坐右戒」では、 「毎日清晨に孝経を拝誦するよう」に諭しているのが特徴で、この心が後、寛永一九年著『孝経啓蒙』の書となり、「毎日清晨焚香天拝 持誦孝経及感応篇 及晩年黙誦不発声 以謂発則(後欠)」(『藤樹先生事状』)と尊崇するに至る。
 寛永一七年、三三歳の藤樹は『性理会通』を読み、『王龍渓語録』を読んで思想上の転機を迎えた。『性理会通』は『性理大全』七〇巻に続編四二巻を付し、陽明学を基潮とし、易学を中心とした理気心性の学の集大成で、宋・明の諸儒の一大著作集である。また、王龍渓(一四九八~一五八三)は、王陽明の思想を最もよく継承した人で儒仏道三教の混一融合を唱えた人である。この年「予陽ノ同志ノ求ニ依テ『翁問答』ヲ著ス」のであるが、これら書物の影響がきわめて強い。
 『孝経』を読んでいよいよ味わいの深長なるを知り、易を学んで「発明」に感じ、中年の藤樹の思想は、きわめて宗教的になっていった。その一つは「大乙神」の信仰である。年譜に「夏、『大乙神経』ヲ撰バントシテ稿半ニ及ブ、病ヲ以テ終ニ成書ニ及ハズ」とある。「稿」は伝わっていないが「大上天尊大乙神経序」に毎月一日斎戒して祀るとある。「大乙」は「太乙」「太一」とも書き、大一元神で宇宙の根元、最高の上帝である。
 藤樹は、深く儒学を信じたから、仮葬していた祖父をあらためて儒式で改葬するほどであった。しかし、篤く神道をも信じ「神ニ詣ズルコトモナクンバアルベカラズ」とし、寛永一八年、門弟と伊勢大神宮に参詣した。

    参拝 太神宮準祝詞
辛巳之歳 夏之中参拝太神宮 以綴野詩
抒卑志 誠恐誠惶 謹述卑懐 以準祝詞云爾
辛巳の歳、夏の中、太神宮に参拝し以て野詩を綴り
卑志を抒ぶ誠恐誠惶謹んで卑懐を述べ以て祝詞に準う
  光華孝徳続無窮  正与犠皇業亦同  光華孝徳、続いて窮りなし 正に犠皇と業もまた同じ
  黙禱聖人神道教  照臨六合太神宮  黙禱す 聖人 神道の教 六合を照覧したまへ太神宮

 正保元年(一六四四)三七歳、『陽明全書』を得て藤樹の思想は三転した。年譜に「是年始テ陽明全書ヲ求得タリ。コレヲ読テ甚ダ触発印証スルコトノ多キヲ悦ブ。其学、弥々進ム」とあり、また慶安元年(一六四八)三月一九日、(逝去五か月前)筑州の門弟池田与兵あての書簡に、近況など尋ね、妻久子が死亡し、布理を迎えたことなど報じ「天道のめぐみにや陽明全書と申ス書わたり、買取り熟読仕候ヘバ、拙子疑の如く発明ども御座候て憤ひらけ、ちと入徳の欛柄手ニ入申様に覚え、一生の大幸、言語道断に侯。此一助無御座侯はば、此生をむなしく可仕にと有難奉存候。面上二委く御物語仕度とのみ存ジ暮シ候。百年已前に王陽明と申先覚出世、朱学の非を指点し、孔門嫡派ノ学術を発明めされ候。大学古本を信じ、致知ノ知を良知と解しめされ候。この発明によって開悟の様に覚え由候」とよろこびの声をあげ、『性理会通』等によって徐々に培われてきた陽明学的思想が開花して日本陽明学の始祖となるのである。この心境を藤樹は次のように述べている。

  戊子夏与諸生見月偶成    戊子の夏、諸生と月を見て、偶成
清風満座忘炎蒸  明月当天絶世塵  同志偶然乗興処  不知不識唐虞民
 清風 座に満つれば 炎蒸を忘れ 明月 天に当れば世塵を絶つ
 同志 偶然 興に乗ずる処 知らず識らず 唐虞の民あるらん

翁問答

 『藤樹先生年譜』寛永一七年(一六四〇)に「秋、予陽ノ同志ノ求ニ依テ翁問答ヲ著ス。已ニシテ後、其書心ニカナワザル処多シ。故ニコレヲ改メント欲シテ、同志トイヘドモ博クコレヲ示サズ」とあり、跋文には、門弟中川氏の筆にて(『藤樹先生行状』)「師是に於て終に此問答上下を著したまふ。時に寛永十八年辛巳の歳」とある。藤樹三三、四歳の時の著作である。最初の原稿に不満があり、改正したいと考えていたところ寛永二〇年に「梓人の手にもれて既に梓にちりばめしを幸に早く知て是をやぶりぬ」ということがあり、慶安二年(一六四九)出版された。是を更に改訂して慶安三年(一六五〇)出版した。
 『翁問答』は「天君」という師と「体充」という門人との問答形式をとり、藤樹の考え方をかな交じり文で平易に述べたものである。「天君」とは『孟子』告子章句上「公都子問」の条の朱注、范俊、「心腹」に「君子存誠、克念克敏 天君泰然 百体従令」、『伝習録』「巻上」一〇五条「天君泰然百体従令」また『葡子』「天論篇十七」に「心居中虚以治五官 夫是之謂天君」から引用して、「理」(心)を意味したものである。
 「体充」とは『孟子』「公孫丑上」の「夫レ志ハ 気之帥也 気ハ 体之充也」から引用したもので「気」(体)を意味する。陽明の中心思想である「致良知」の語は出ないが、『翁問答』上巻之末四六条に「愚癡不肖といへども良知良能あり。その良知良能をうしなわざれば愚癡不肖も善人の徒なり」とあり、「良知を致し」「良知に至る」道を説いている。藤樹がくりかえし言う「霊宝」「太虚」は、「良知」におきかえることができる。『四書大全』を読み『五経』を学び『孝経』に感動し、『性理会通』を心得して得た王陽明的思想を咀嚼して樹立した藤樹独得の哲学の表明である。

孝経啓蒙

 一三経の一経、『孝経』の注解書。藤樹、三五歳、寛永一九年成る。年譜同一九年の条に「秋『孝経啓蒙』ヲ著ント欲ス。疾ニ依テ又成ラズ。明年、終ニ『啓蒙』ヲナス。後、其説、趣旨ニカナワズトシテ、改メント欲ス。然レドモ終ニ果ズ」とある。『孝経』は我が国に早くから伝わり、『養老律令』のうち「学令」に大学で教授すべき「経」として取りあげられ、「考課令」においても『孝経』を通過しなければ「皆不第と為よ」と重視されている。一〇歳、「庭訓」・『式目』等を学んだころには親しんでいたであろうし、一二歳、父母、祖父母の恩を思い、江州の母を想い、長じては『孝経』を心読してその意味の深長なるを覚え、香を焚き、礼拝をくりかえすほどであったから『孝経』は真の座右の書であった。『藤樹先生行状』によるとこの書が成った後「先生渕氏ニ告テ曰、此経ノ精義、啓蒙ニ於テ未尽トイヘドモ、学者句読ニヨリテ大意ヲ見ルニ便リスト云ク」とある。渕氏は、藤樹門の二大磧儒の一人、遺教をついで「江西学」を興した淵岡山である。幼い時からなじみ、身を以て孝を実践し「太虚」の生命力を維持して正しく生きる事こそ「孝」の本質と思索を深めた藤樹の信念に溢れた『孝経』の理解の表明である。藤樹の『孝経』解釈は『今文孝経』を用い、「孝」は父母によく奉仕することだけを意味するのではなく、祖先に尽くすこと、祖先を崇敬すること、その上に「太虚の皇上帝を拝することを、広く含んでいる。門弟中村所左衛門筆録の『孝経講釈聞書』に「孝ハ天君・太虚・円神・皇上帝・無始・無終・廓然・大公・無双ノ霊宝、此主徳ヲ至徳要道ト云。道心の体、四海万物ノ大父母、父母ノ心体ヲ孝卜名ク。孝ハ内ニ主トシテ光明正大純懿ノ称、経ハ常也。典也。至徳ノ万古不易、常住不滅、妙用無量ノ処ヲ経ト名ク。至誠無息トイヘル恒也。愛敬ノ妙用、日用常行ノ内ヲ不離、渾敦未判ノ前ト異ル事ナキ理リヲ明サン為ニ一ケノ経ノ字ヲ添テ、愛敬ノ道ハ日用平常ノ外ニナキ事ヲ示シ、神妙高遠ニ求ル惑ヲ解く。孝ナル故ニ経、経ナル故ニ孝、孝ハ上ミ天ニ通ジ、下モ人事ニ通ジ、生ニ通ジ、死ニ通ジ、順ニ通ジ、逆ニ通ジ、昼ニ通ジ、夜ニ通ジ、不通ト云事ナシ」とその宗教的な性格を述べている。「致孝乎鬼神」(『論語』「泰伯第八末尾」)純粋原始儒教の再認識であろう。
 藤樹の著書は多い。だが藤樹の偉大さはその実践力にある。聖人と仰がれ、日本陽明学の祖と称えられるゆえんはここにある。