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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

一 陽明学のおこり

 1 王  陽  明

 中国明代の初期、中国思想界は、朱子(一一三〇~一二〇〇)によって主張された朱子学一色であった。従来の漢唐訓話注釈から脱皮して直ちに聖人の道に参入し、その精神を明らかにするために「敬」と「格物致知」を説き、宇宙の本源から人生・道徳を論ずる広大・整然たる朱子学の哲学は、儒教に新しい生命を付与し、学界を魅了して、中国全土の思想界を風靡した。王陽明(一四七二~一五二九)も朱子学を学んだのであるが、その「性即理」を説く主知主義、末流に及んで陥る煩瑣な形式主義に対し、「心即理」を説き、「格物致知」に対して「知行合一」を、「静坐」に対しては「事上磨錬」を、さらに「致良知」を説き、「万物一体の仁」を述べ、「聖人に至る道」を説いた。王陽明の思想は、きわめて唯心論的である。約言すると、朱子学の欠陥は「心」と「理」を分離し、内を捨てて理を外に求めるところにありとし、あわせて科挙に合格するための目的をはき違えた当時の儒学研究への反省から生まれたものといえよう。王陽明は、生涯を通じて修行工夫をならなかった真摯な学究の人で、その学問・思想は絶えず進歩した。『伝習録』によってその本質を理解することができるが、中核は「良知」である。「良知の二字は実に千古聖賢相伝の一点滴」とする陽明学は、やがて朱子学を凌駕する勢いで中国全土に普及浸透する。

2 日本への陽明学の伝播

了篭桂悟

 (一四二五~一五一四)五山文学者。初め朱子学を学び、文明年中伊勢安養寺住職、ついで京都の東福寺住職となる。後土御門天皇の信認厚く、永正三年(一五〇六)仏日禅師の称号を受く。翌年足利義澄の命を受け渡明、八三歳の高齢であった。王陽明に会っだのは永正一〇年(中国正徳八年、一五一三)王陽明四二歳、了菴八九歳であった。このころ陽明は「心即理」の確信、「知行合」を主張して、実践を通して「知」が成立し、実践の中にのみ「理」が顕現することを強調していた。了菴は王陽明の学問・人格に直接触れた人として重要な存在である。了菴は禅学に精通し、程朱学に深い研鑽を積んだ学僧であったから、朱子学を否定して独自の陽明学を樹立まもない王陽明と丁々発止の論争があったものと思われるが、その著『壬中入明記』には明らかにしていない。以後、当時、武宗の勅により明州育王山寺に住し、道俗詩客の来訪絶えず、学名大いに上っていたといわれる。陽明に会った永正一〇年六月寧波を発って帰国の途につくのであるが、翌永正一一年九月示寂する。了菴が日本に帰国するに際し、早くから年長の了菴の人物・学問に敬服していた陽明は一文を贈って別れを惜しんだ。
   送日東正使了菴和尚帰国序
(参照「送日東正使了菴和尚帰国序」)
 士大夫たちは詩章を贈って別れを惜しんだ。

    贈了菴帰国     盧希玉         了菴の国に帰るに贈る
  明発行嚢暁払塵  豈辞霜鬢苦吟身  明に行嚢を発して暁に塵を払う 豈辞せんや霜鬢 苦吟の身を
  調高不是陽関唱  杯泛何妨麴米春  調は高きも是陽関の唱ならず 杯は泛ぶも何ぞ妨げん麴米の春
  水闊帆飛風力順  華紅葉緑雁声細  水は闊く帆は飛びて風力順う 華は紅に葉は緑にして雁声細し
  至家解知詩笥重  為報賢王謝紫宸  家に至り解て知る詩笥の重きを 為に賢王に報じて紫宸に謝せ
   広平府知府前都給事中九十叟月湖廬希玉

 陽明は、了菴の人物学問に敬意をあらわし、了菴も漸く円熟期にある陽明に、はるかに年齢が下とはいえ敬愛の念をいだき、また、陽明と学をともにする人々と互いに親愛の念を持ちながら交わりを結んだことが窺われる。帰国後、一年余にして了菴は没するのであるが、その間、陽明学をわが国の人々に伝えたかどうかは明らかではない。元来、程朱学を中心とする五山の中にあって南禅寺の再建に晩年の努力を傾注した了菴の語録にも陽明に関する記録は見あたらない。しかし、深い感銘を受けた陽明に関し、日常会話の中にしばしば登場したであろう。

藤原惺窩

 (一五六一~一六一九)惺窩は五山出身の朱子学派であり、慶長の役後、問答を重ねて学を聞いた朝鮮の儒者姜沆は、朝鮮最大の朱子学者李退渓の学統をつぐ純正の朱子学徒であった。しかし、惺窩の学問に対する態度は、弟子の林羅山と異なり、きわめて包括的で他学派についても長所はとり入れようとした。
 江戸時代初期に日本に渡来した『王陽明全書』についても羅山らとともに学習して、取るべきは取り、学問工夫の一助にすべきことを述べ、程朱を信奉するとともに陸王も尊崇すべきことを論じている。
(参照「答林秀才」)
 諸学を極めてその長を取り、孔孟の本心に迫ろうとする惺窩の折衷的な姿勢があらわれている。
 朝鮮における朱子の再来と仰がれる李退渓に私淑する姜沆も惺窩の朱子学を核としながらも諸学を学んで学問の真髄を体得しようとする点に驚歎して次のように述べている。
(参照「惺窩著『文章達徳綱領』姜沆序文」)
 林羅山は惺窩に従って陸王学を学んだが朱子学と峻別した。『羅山先生文集』に「先生(惺窩)曰 陽明出而后皇明之学(明朝の学)大乱矣」とあるに対し、惺窩は「非以陽明為乱以天下学者為乱」と評している。

送日東正使了菴和尚帰国序

送日東正使了菴和尚帰国序


「答林秀才」

「答林秀才」


惺窩著『文章達徳綱領』姜沆序文

惺窩著『文章達徳綱領』姜沆序文