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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

3 婦人団体の一元的組織化

 大日本婦人会の創立

満州事変・日中戦争勃発以後、すでに設立されていた内務省ー厚生省の管下にある愛国婦人会は組織拡充を進めていったが、それとは別に文部省所管のもとに主婦会等の地域婦人会を網羅的な形で組織した大日本連合婦人会が昭和五年一二月二三日に設立されたし、また陸・海軍省の所管のもとに大日本国防婦人会が同七年一〇月に創設された。全国的な組織をもつ婦人団体が三つ生まれたのである。ところで、その構成員においても、その活動内容においても、重複する点があっただけでなく、互に対立抗争する場合が少なくなかった。
 同一五年一〇月一二日に結成された大政翼賛会の主導のもとで、万民翼賛の国民組織づくりが展開してきたこと、それと共にこれら婦人団体への二重、三重の重複加入による負担過剰に悩んでいた地方婦人の間からの婦人団体統合への要望が強くなってきたことなどを背景として、同一六年六月新婦人団体結成要綱が閣議決定された。そして翌年二月三日、三団体を統合し九大日本婦人会が九段軍人会館で結成式を挙げたのである。以後、大日本婦人会は、主として軍事援護事業を重点としながら、貯蓄奨励運動・戦時生活確立運動・健民運動・国防訓練・次代国民の育成等の活動を行っていくこととなった。なお、大日本婦人会も同一七年六月青少年団等と共に大政翼賛会の傘下におかれた。

地域婦人会の活動状況

ところで、昭和五年大日本連合婦人会が設立された当時、本県には愛国婦人会と並んで、地域婦人会が各地に結成され、一六五の地域婦人会が存在していた。その事業としては、社会教化・無産者救済孤独者の慰安・乳児審査・思想善導・団体擁護・婦徳修養・児童愛護・生活改善・風俗の矯正強化・簡易講習・託児所・共同毎月貯金・家政料理の講習・敬老会の開催等が主であった。
 なかでも、農繁期に臨時託児所を開設した婦人会が数多く見られた。例えば「昭和二年以来上林、下林、上村デ農繁託児所ヲ開設シ極メテ優良ナリ」と同六年五月に県知事より表彰を受け、また朝日新聞社から助成金と慈愛旗を贈られた温泉郡拝志婦人会(会長森岸子)の託児所風景を見ると、次のようであった。

 下林では幼児は両方で一五〇人程度でした。別府と宮之段と二ヵ所に開設されました。日数は田植の忙しい最中四、五日でありました。別府の方は学校で、宮之段の方は池じりの会堂であったと思います。
 食事はお米やその時の野菜を、有志の方がたやお世話の方、子供のご家族の皆さんが、お持ちよりくださいまして、色いろ子供の好むお料理をなさいました。かな粉の三角むすびや、まぜご飯のおにぎりや、おやつにはお菓子やかまぼこなど、おかずも色いろと子供本位の心のこもったよいお料理で、おまかないをなさいました。その大勢の食事の煮焚は本当に大役であったと思います。……幼児の中にお乳のほしいお子さんも何人もいましたから、お昼のご飯の時にはお母さんが田圃からお乳を呑ませに来ていました。ご飯がすむと昼寝をさせたり歌をうたったり、遊戯も教えたりして、とても楽しそうな託児所風景でした。(『拝志婦人のあゆみ』)

 教化総動員運動が開始されてはいたが、婦人会の活動にはまだなごやかさが残っていた時期であった。

国防婦人会の組織拡大と活動

昭和七年大日本国防婦人会が創設され、本県でも国防婦人会の組織拡大が急速に進められていった。同一一年の『愛媛県社会教育概要』によると、「地域(系統)婦人会の設置は県下に普く其の組織も亦漸次に整ひ隠健着実なる進歩を遂げつつある」が、「近時軍部の督励に依り県下各町村に国防婦人会の設置を見、今や会員数一二万二千人の多数」にのぼり、「其の目的使命に於て両者の間に多少の相違」があるが、「婦人の自覚をして倍々強化し互に連絡協同を図っている」と述べる程に国防婦人会の勢力が強大なものとなってきた。
 この国防婦人会愛媛地方本部(会長烏谷とみ)は、昭和一二年六月に機関誌『愛媛銃後の華』を創刊、以後毎月刊行し、婦人の国防意識を昂揚させ、統後婦人の活動の在り方を徹底させていった。また同一四年には、各自から五銭以上を集め、九、二〇〇円で松山市の御幸寺山麓愛媛県護国神社の大鳥居を建設したりしていった。その他、国防婦人会は、入退営兵士の歓送迎、武運長久祈願神社参り、防空訓練、物質愛護華美追放運動、足袋コハゼ、折針、蓄音機古針等の廃品回収、勤労奉仕と慰問袋の発送、千人針、節米、貯蓄報国、あるいは子宝表彰(産めよふやせよ)、フロの隣組利用、空地利用による増産活動等を積極的に進めていった。
 国防婦人会の組織拡大によって、各地の婦人は、昨日は愛国婦人会の会員として、今日は地域婦人会の会員として、明日は国防婦人会の会員として、駆り出されるという状態が起こってきていた。
 こうした状況のなかで、先に述べたように同一七年二月に三つの婦人団体を統合した大日本婦人会が結成され、本県でも、同年三月にその県支部の結成をみた。四月には市町村支部が相次いで発足していった。