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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

2 戦時意識の徹底と青少年団体の統合

青年団の組織状況と指導綱領

昭和六年(一九三一)度における本県の男女青年団の組織状況は、表3ー8のとおりであった。ある程度各地の男女青年を網羅しだ体制球できていたといえる。ところで、この年の九月一八日に満州事変が勃発し、「今ヤワガ国未曽有ノ非常時二際会シ真二皇国ノ危局二直面ス」(大日本連合青年団第八回大会宣言)という程の衝撃を青年に与えた。同八年三月二七日、わが国は国際連盟を脱退。こうした内外情勢の推移に伴って、本県においても、青年団の指導強化、その組織と事業の画一化が一層進められていくこととなった。
 昭和一一年度の愛媛県社会教育概要を見ると、青年団指導綱領として「一、国体観念を明徴し、質実剛健の気運を振作すること 一、実生活に適切なる智能を研磨し、自主創造勤労愛好の精神を作興すること 一、体育を奨励し、強健なる体力と気力の養成に努むること 一、公共生活の真義を体得し、社会の福祉増進に寄与すること 一、青年学校の就学出席を督励し、青年教育更張の実を挙げること」を挙げている。また女子青年団指導綱領としては「温良貞淑なる婦徳と高尚優雅なる思想の涵養に努め、質実勤勉の慣習を養成すること 一、社会生活の真義を知らしめ、公共奉仕の指導誘掖に努めること 一、土曜又は日曜講座の開催を奨励し生活上必須なる知識技能を修得せしむること 一、体育奨励と相俟って婦人衛生に関する知識を附与し、体位の向上に留意せしむること 一、女子青年学校の就学出席を督励し、青年教育更張の実を挙げること」を掲げて、指導の徹底化が図られていった。

青年団の中央集権化

次第に高度国防国家体制運動が全国的に展開するなかで、同一三年九月、県連合青年団の上位団体である大日本連合青年団は、次のような綱領を新たに定め、一段と国家主義化を進めていった。それは「我等ハ大日本青年ナリ、肇国ノ皇謨二則リ忠孝ノ精神ヲ発揮シ、同心団結以テ国運ノ進展ヲ期ス、一、我等ハ大日本青年ナリ、養正大和ノ精神ヲ一貫シテ、隣保協同ノ実ヲ挙ゲ、共励切磋道義世界ノ建設ヲ期ス、一、我等ハ大日本青年ナリ、心身ヲ鍛練シテ進取明達カヲ研究創造二致シ、勤労奉公各自職分ノ遂行ヲ期ス」というものであった。こうした気運のなかで、翌一四年四月一日には、大日本連合青年団は大日本青年団に改称された。それは、従来の連合体を廃し、団長に有馬良橘海軍大将を迎え、「全国青年団ヲ指揮統制シ其ノ進歩発展ヲ図ル」という団体に変わったのである。ここにおいて、青年団の中央集権体制は徹底したものとなった。
 この影響を受けて、本県でも翌年四月八日県連合青年団は県青年団に、更に同年四月三日に県連合女子青年団も県女子青年団と名称を改め、それぞれ新しい団則を定めたのである。その団則によれば、本部の総裁には県知事、団長には県学務部長、副団長中一名は社会教育課長があたり、「団長ハ本団ヲ代表シ団務ヲ総理シ各青年団正副団長並二郡市青年団長ヲ任免ス」というもので、県青年団も県女子青年団も中央集権体制のもとにおかれることとなったのである。
 こうした体制のもとで、県は、青年団及び女子青年団の事業計画として、青年団新体制強化拡充・青年団指導網の充実・興亜青年運動の展開(拓植運動の徹底・大陸建設奉仕)・経済報国運動の徹底・銃後奉公態勢の強化・国防訓練体制の増強等を掲げ、青年団及び女子青年団に対して徹底した指導を行っていった。例えば同一五年の活動記録を見ると、県女子青年団は興亜運動の一つとして、満蒙開拓青少年義勇軍に九八一の激励袋を送ったり、廃古レコード四万七、六七〇枚を回収し、これを売却した代金で義勇軍に激励レコードを贈る運動を展開している。また生産拡充運動の一つとして、上浮穴郡仕七川村など県下一二か所で、郡内各町村男女青年団員が一週間ずつ週番に宿泊して作業する木炭増産集団訓練道場をそれぞれ四八日間開くといった、木炭増産勤労報国活動を展開している。

教化動員運動期の少年団

ところで、少年団の組織や活動はどうなっていたか。昭和四年九月二三日に少年団愛媛県連合団は設置され、同七年には団体数四四、団員数一、〇三三人で、このうち県連合団に加盟しているのは二三団体、日本連盟に加盟しているのが二四団体という状況であった。それが、満州事変の勃発後、国民精神の徹底と体位の向上をねらいとして、昭和七年一二月一七日文部大臣訓令「児童生徒二対スル校外生活指導二関スル件」が発せられたことを契機として、本県でも急速に少年団の組織化が進められていった。表3ー9
は、同一〇年度における県内の少年団数及び団員数である。この表に見るように、当時少年団と総称された団体には、学校少年団、少年赤十字団・大日本少年団連盟系・宗教団体系少年団・各種団体組合所属少年団・防火少年団・その他があった。その他を分類した二三団体の内訳をみると、通学自治団・少年読書会・無名会・児童自治団・少年同志会・子供会等があった。活動の内容は種別によって異なってはいたが、教化総動
員体制の影響を強く受けるようになっていた。例えば、伊予郡佐礼谷尋常高等小学校少年団の規則を見ると、「本校児童二対シテ校外生活ヲ指導シ、進ンデ社会公共ノ生活二関スル訓練ヲ施シ、以テ児ノ心身ヲ
鍛練シ健全ナル国民ノ素地ヲ培フト共二学校教育ノ効果ヲ全カラシムルヲモッテ目的」(第一条)とし、「本団ハ教育勅語ノ御聖旨ヲ奉載シテ我ガ国体観念、国民精神ヲ体得セシタ、皇国ノ少年少女タルノ信念ヲ把持セシメ、忠良ナル臣民、健全ナル公民トシテ克クソノ責務ヲ全ウシ得ベキ人格及能カノ基礎ヲ啓培スベク、児童ノ社会生活二即シタル実際的訓練ヲ施ス」(第三条)との方針で、次のような指導を行っていた。「一、精神ノ陶冶ー校外二於ケル社会生活ノ間二実際的訓練ニヨリ『日本ノ少年少女ナリ』ノ堅キ信念ノ下二奉公ノ精神ヲ養ヒ、自治体二人格ノ陶治ヲ期ス 二、能カノ訓練ー健全ナル公民トシテ社会生活二必要ナル各種ノ能カヲ養フ為、校外二於ケル実際生活ノ間二鋭敏ナル観察力、工夫創造ノ才能等ノ錬磨二努メ、各人ノ天賦ノ才能ヲ啓発シ、之ヲ適正二伸長セシムルコト 三、団体訓練ー団結的本態ヲ利用シ、協同一致ノ精神ヲ養ヒ、規律節制ヲ重ンジ、相互二切磋砥礪ヲナサシメ、同時二団体ヲ通シテ個人ノ訓練ヲ行ヒ、之二依リ将来健全ナル公民トシテノ和衷協同社会奉仕ノ精神ノ培養二カムルコト四、本能ノ陶冶 五、自発的訓練ー団員ノ自発的活動ヲ促シ、自啓自発ニヨリ訓練ノ目的ヲ達スル様啓発指導スル 六、品性ノ陶治 七、生活ヲ楽シム訓練 八、閑時ノ利用」(第四条)
 そして団員の心得として、「一、忠孝ヲハゲミマスニ、マゴコロヲミガキ人ノ為メ世ノ為メ国ノ為メ尽シマス三、目上ヲ敬ヒ、目下ヲイタハリ、我が儘ヲシマセン 四、礼儀正シクシマス五、家事の手伝ヒヲヨクシマス 六、常二親切、動植物ヲ愛シマス 七、快活、笑テ困難二当リマス」(第五条)を定めていた。この規則からして、当時の少年団が、どんな性格のものになっていたか、ある程度うかがうことができるであろう。

青少年団体の統合

ところで、国民精神総動員運動が展開されていくなかで、青少年団体の統合や青年運動に対する国家統制を策する動きが活発化してきた。文部省は、昭和一五年九月、大日本青年団・大日本連合女子青年団・大日本少年団連盟並びに帝国少年団協会の幹部たちと協議の結果、青少年団体を統合して「大日本青少年団」とすることとし、翌年一月一六日それの結成式を日本青年館で挙行したのである。同年三月一四日文部省は「大日本青少年団二関スル件」の訓令を出したが、それによれば高度国防国家体制建設の要請に即応して、青少年団体を統合して学校教育と不離一体のもとに強力な訓練体制を確立するために統合しようというものであった。その組織は、文部大臣統轄のもとに地方長官を道府県青少年団の団長とし、青年学校長及び小学校長を各単位団の団長とするというものであった。
 本県でも同年二月二八日に「本団ハ皇国ノ道二則リ男女青年二対シ団体的実践鍛錬を施シ共励切磋確固不抜ノ国民的性格ヲ錬成シ、以テ負荷ノ大任ヲ全クセシムルヲ目的」とする「愛媛県青少年団則」と地方青少年団準則を発し、県青少年団の結成にとりかかっている。そして三月一日、県会議事堂で関係者三五〇名を集め、県青少年団結成式が挙行された。
 この時点から、青少年団体は、一層銃後奉公態勢を強化し、次のような活動を行っていった。例えば、同一七年には、一八郡市より青少年団員各一〇〇名を一〇日間ずつ動員、一日二交代で、一隊は作業、一隊は講義演練と、軍役奉仕に従事している。また同年九月には、休閑地・空地利用・夜間の製茸・共同作業によって戦時貯蓄報国に団員一致の実をあげたということで、東宇和郡宇和町東宇和青少年団が総理大臣官邸で大蔵大臣賞を、西宇和郡日土男女青年団が国民奨励長官表彰を受けている。同一八年の五月~一〇月には北海道食糧増産勤労奉仕部隊のメンバーとして、県青少年団員三〇名が北海道での作業に従事している。同年一〇月には、県内各地での青少年団員が住友化学・住友機械・別子鉱業所等への勤労奉仕を開始している。また同一九年四月には、県青少年団は、増産活動の実施として、水害による流失埋失埋没田畑面積の復旧と土地改良、作付転換、裏作可能地の作付、野菜の採取と病害虫の一斉防除、自給肥料の増産等を期するように郡市青年団に通達を出している。また同年四月二四日~二九日を、県下の青少年団は、軍人援護強調運動の行事として暁天動員・参拝武運長久祈願・食糧運搬・戦没軍人の墓地清掃、遺家族傷痍軍人帰郷軍人に対する支援協力・出征軍人に対する慰問激励等を実施しか。主たる行事を抜き出しただけでも以上のようである。教育はむろん、教化的、訓練的な要素も全く無視され、青少年団員は、青少年団勤労報国隊、女子挺身隊として、軍需物質や食糧増産のために動員されていったのである。

表3-8 昭和6年度愛媛県内郡市別青年団と女子青年団の状況

表3-8 昭和6年度愛媛県内郡市別青年団と女子青年団の状況


表3-9 昭和10年度愛媛県内の少年団体と団員数

表3-9 昭和10年度愛媛県内の少年団体と団員数