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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

1 教化動員下の社会教育行政

教化総動員体制

大正末期から昭和初期にかけ、国内金融恐慌・世界恐慌による経済危機のなかで、失業者は全国で三〇〇万人を数え、国民生活は困窮していた。他方思想界においては、ファッシズム・ヒューマニズム・マルキシズムの三つの社会思想が競合対立し、特にマルキシズム思想、プロレタリア運動が次第に盛んになりはじめていた。
 こうした恐慌と思想問題に厳しく対決する形で、昭和四年(一九二九)八月文部省が打ち出したのが、「国体観念の明徴・国民精神の作興・経済生活の改善・国力の培養」を基本方針とする教化運動の推進であった。それは、特に社会教育を中心に「汎ク教化団体、青年団体、宗教団体、婦人団体等ノアラユル社会教化団体ノ活動ヲ促シ」「上下一致」の「全国教化総動員」体制を確立していこうとするものであった。この時から、社会教育が全体として国民教化の側面からファッシズムの形成と進展に深くかかわっていくことになる。昭和四年から同二〇年までを教化動員期と呼ぶことにする。
 本県でも愛媛県教化団体連合会が創立され、同五年三月県社会課と共同で「国民の教化を志し、時代の推移に順応して民心を指導し、風教を振作」する必要があるが、そのためには「諸団体又は、有志が大同団結し、或は相互の連絡提携を密接にし、或は協力戮力して始めて教の実践を十分に挙げ得る」点からして「町村教化網完成」こそ必要だということで、冊子『愛媛県教化団体一覧』(A4版一一八頁)を作成し、関係機関・団体に配布した。そこに掲載された団体は各市町村の戸主会・主婦会(婦人会)・青年団・処女会(当時はまだこの名称が残っていた)・少年団・在郷軍人会・宗教団体等、当時設立されていた団体のほとんどであった。各市町村に教化網が張りめぐらされたのである。

社会教育委員制度の発足

この教化総動員運動の担い手として、文部省は昭和七年四月「社会教育振興二関スル件」の通牒を出し、国民精神の作興と国民生活の改善に関する教化活動だけでなく、広く社会教育全般の指導にあたる社会教育委員制度を発足させた。その職務は「(一)社会教育に関スル施設ノ普及ヲ図リ其ノ利用ヲ奨励スルコト(二)社会教育機関ヲ補助シ其ノ機能ヲ発揮セシムルコト(三)社会教育二関シ市町村並各種団体其ノ他関係方面ノ連携協カヲ図ルコト聯社会教育二関スル重要ナル事項ヲ協議シ市町村並社会教育機関等ノ諮問二応又ハ進ンデ意見ヲ開陳スルコト(五)其ノ他諸種ノ方法二依リ社会教育ノ普及発達ヲ図ルコト」というものであった。
 ところで、本県の場合、同九年四月に一、五〇二名の社会教育委員が設置され、時局的教育活動の組織としての隣保常会の指導者としての活躍が期待されたが、制度上の不備と運営の不十分さから、「委員は献身的奉仕に依り其の実践見るべきものありと雖も連絡指導に就いては遺憾の点なしとせず」(昭和一五年「社会教育概要」愛媛県)と、一般的にはその制度は必ずしも十分機能し得なかったようである。

国民精神総動員化

ところで、同一二年日中戦争勃発の翌月の八月二四日「国民精神総動員実施要項」が閣議決定された。教化総動員運動から国民精神運動の段階へと進んできたのである。それは「挙国一致」「尽忠報国」の精神をもって「事態ガ如何二展開シ如何ニ長期ニ亘ルモ『堅忍持久』…所期ノ目的ヲ貫徹」する「官民一体の一大国民運動」であった。本県でも総動員運動実行委員会が設けられ、市町村に実行委員を設定し総動員運動の徹底に当たらせていった。この実行委員には社会教育委員も含まれた。同一五年四月の段階では精神総動員運動市町村実行委員は、本県では四、五〇〇人にのぼった。
 なお、同一五年度の本県における国民精神総動員運動を見ると、一、生活刷新運動ー(イ)愛媛県非常時生活運動(同一三年一〇月から実践)(ロ)節米報国運動(ハ)貯蓄報国運動(ニ)結婚改善運動(同一四年より実践) 三、資源愛護運動ー(イ)廃品回収運動 (ロ)羊毛資源回収運動が行われていた。

成人教育講座の状況

国民教化運動の流れにそって、後で見るように青年団や婦人会等の組織も動いていくことになるが、当時開設された成人教育講座や講演会も思想善導に力点を置く傾向を強めていっている。同六年度には文部省主催の成人教育講座が松山市と今治市で約一か月間開催されたが、松山市では一六八名を対象に修身公民科(一四時間)・自然科学科(一〇時間)・産業経済科(一〇時間)・科外講義(六時間)が開講され、今治市では二四〇名を対象に修身公民科(一六時間)・自然科学科(一六時間)・産業経済科(一五時間)が開催された。修身公民科が講座のなかで大きな比重を占めている。これと並んで県主催の成人教育講座が県下五か所で平均一週間開設されたが、そこではより明確に「時局二鑑ミ国民精神ノ作興、経済生活ノ改善二カムル為、修身公民科ヲ必須科目トシ其ノ他ハ土地ノ事情二応ジ、或ハ科学知識ノ普及、衛生知識ノ収得等、日常生活二必要ナル教科目ヲ加ヘテ開設」(昭和七年度『社会教育概要』、愛媛県)とあるように、修身公民科が必須になっていた。
 更に、国民精神総動員運動が活発化してきた同一四年度になると、この傾向がより強まってきた。この年本県中等学校成人教育講座・公民教育指導者講習会・家庭教育講座・家庭教育指導者協議会・勤労成人学校の五つの講座が開設されたが、それらの講義題目からそのことを伺うことができよう。例えば、公民教育指導者講習会では、今後における国民精神総動員運動について、国体の本義、統制経済と国民の覚悟、新支那中央政権の成立と国際連盟、帝国憲法の真精神、今議会に提出せらるる税制改革の諸問題、の講義が各二時間ずつ行われていた。また五八〇名の参加者を集めた家庭教育講座でも、家庭における訓練と養護の諸問題・興亜生活運動に就いて・時局と家庭教育の諸問題等が講義内容であった。講座・講習会にしても、国民精神総動員運動の展開の一つとし実施されていったようである。

映画による情宣活動

戦局が進むにつれ、民衆の教養・娯楽としての映画に対する国家政策が進められ、昭和一四年四月四日、映画を思想善導・国民精神涵養の手段として、また戦時下における思想戦・情報宣伝戦・文化政策の展開に利用すべく、「映画法」が制定された。本県には当時常設映画館二一館、有料興行観覧者数六一一万八、七三七名で、映画の普及は著しいものがあった。県庁内の各課及び関係団体で映画を利用しているところが一二課に及んでいたし、市町村で同一四年度に映画会を開催した回数は五二三回に及んでいた。社会教育課では、社会教育の立場からまた娯楽の適正を期するという点から、巡回映画班を組織し各地に巡回する一方、映画フィルムの無料貸与等を行っていた。映画法の制定に伴って、国民精神総動員巡回映画班を設けて、映面を通して総動員運動の徹底を図る一方、文官の映画臨検査を任命し、県内映画館に対して積極的指導に乗り出し、映画の指定上映を命ずる等、映画興行に対しても指導統制を強めていったのである。参考までに当時指定上映された映画をあげると、「屑は原料」「銃後の人々」等があった。