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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

5 地域婦人団体の組織化

地域婦人団体の結成

大正年間の特色として、本県の場合愛国婦人会とは別に、地域の婦人を網羅する形での主婦会、婦人会等の名称の地域婦人団体の組織化が急速に進められていった点があげられる。昭和五年発行の『愛媛県教化団体一覧』よりそれらの結成時を整理してみると、明治二七年設立の内子婦人会をはじめとして明治期には九つの地域婦人団体が存在していただけであったが、大正期に入って急速に各地域で結成されていった。つまり大正元年から同五年までの間に新居浜橘婦女会・八幡浜婦人会等の八つの婦人団体が新たに誕生し、大正六年から同一〇年の間に西宇和郡喜須来村主婦会・宇和町婦人会等の一七の婦人団体が、そして大正一一年から同一五年の間に小松村婦人会・松前町主婦会等の八七の婦人団体が新たに結成されていったのである。
 これは、大正一〇年前後にかけて、内務省が地域婦人層の組織化に直接乗り出してきた結果の表れでもあった。では、なぜ内務省がこの時期に地域婦人層の組織化に乗り出したのか。『全国処女会、婦人会の概況』(大正六年六月)によれは、(1)家庭生活、社会生活の改善を図らんが為なること。(2)時代の趨勢、世態の推移に伴い婦人の団体的活動の必要を認めたること(3)団体的活動に依り自己修養と社会奉仕的事業とに尽さんとすること(4)婦徳の修養を為すと同時に日常生活に関する実際的知識の習得を為さんが為なることという理由で婦人層の組織化に乗り出していったという。

県婦人連合大会の開催

婦人層の組織化が進むなかで、大正一二年一一月一〇日、第四回愛媛県婦人連合大会が、大阪朝日新聞松山通信部主催、松山市の各婦人会や女教員団・女学校同窓会等の後援のもと、松山高等女学校で開催された。
 翌日付の愛媛新報によれば、大会に先立って同日午後、県内の婦人団体の代表者会が開かれ、愛国婦人会・勝山婦人会・篤志看護婦人会・松山矯風会・各教会婦人会・仏教婦人会・女教員団・温泉郡処女会・三津浜小富土会・八幡浜婦人会等各代表五〇余名が出席し、船田ミサヲを座長として「女中夜学の設立」「大震災記念貯金の実行」「新暦を励行して二重の費用を節約すること」「虚礼(年末年始中元の贈答など)廃止」「離婚率上昇の対策」「流行を追いかけることをやめること」等を協議決定したとある。そして午後七時から、愛媛県連合婦人大会が開催され、関西婦人連合大会に出席した船田ミサヲの報告、代表者会議の協議報告のあと、朝日新聞本社の村上某の講演「婦人文化の追撃戦」が行われた。なお、会場の壁には、大震災の写真三六〇枚が展示されていた。
 以上、大正期における本県の婦人界の動向の特徴的な事項を挙げてみたが、これからも分るようにこの時期は地域婦人団体の組織化が進んで行く一方、県内の各婦人団体がそれぞれ自主的に活動を展開しながらも、相互に連携を保ちながらの活動を進めつつあったといえる。