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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

3 女子青年団体の組織化

 処女会発足の二つの流れ

女子青年の修養機関とされた処女会が、いつごろから普及しはじめたのか必ずしも明らかではない。本県では明治四二年に上浮穴郡石山村(現在、小田町)、温泉郡余土村(現在、松山市)に、同四三年に宇摩郡土居村の小田井に、また同四五年に宇摩郡野田村及び小富上村(現土居町)に処女会が発足したとの記録が残ってはいるか、県下に処女会が普及しはじめたのは大正期に入ってからであろう。特に大正四年(一九一五)に発せられた青年団に関する内務・文部両大臣による共同訓令を契機として処女会組織の気運が次第に高まっていったといえる。同五年四月一九日付の愛媛新報の論説「処女団の発達」には、青年会の組織に比べて処女会は「遅々たるものがあり」「青年会に付帯された事業」に過ぎず、「婦女子の社会的地位が漸次認識されつつある今日、処女会の独立と発達を期することは刻下の急務である」と述べている。この記事と並んで、政府が全国女子青年団体の組織状況調査を実施したのが同五年から翌年であったこと、また全国処女会の連絡機関としての処女会中央部が設立されたのが同七年四月一三日であったこと等を考え合わせる時、処女会が本格的に普及しはじめたのは、本県においても一応この前後であったとみていいであろう。同九年の本県の「社会教育主事職務規程」には「青年団処女会並補習教育二関スル事項」と処女会示あげられているので、このころにはある程度処女会は普及していたといえる。
 ところで、各地に当初発足した処女会には二つのタイプがあった。一つは大洲村処女会のように「会員各自教育勅語・戊申詔書の聖旨を奉体して知能を錬磨し徳操を涵養し良妻賢母たる素質を養成する」ことを目的に掲げ、「規律を貴び節制を重んじ諸々の集合に必ず定刻に出席して修養に努むること」、「節素を旨とし節約に努め本会の事業にたづさわる場合、絹布衣服華美な髪飾等を用ひざること」といった実践要目を掲げた、国家的観点を前面に出すよりも良妻賢母の素質の養成をねらった処女会である。それに対して天神村(現在、五十崎町)処女会のように「尊王愛国の赤心を盡しましょう。三大節(紀元節・天長節・四方拝)儀式に参列し、祝祭日には国旗を掲ぐ。自己修養(会には必ず出席し読書に心掛けます。嫉妬より同情、虚栄より謙虚な女となりましょう)。家庭愛護(神仏は一週一度掃除しましょう。長上には敬服、弟妹には親切にしましょう。不平より労働にいそしみましょう)。社会・同胞相愛心を以て交りましょう(先輩を敬ひ長老をいたわりましょう。表裏なく不足を忍び忠告を喜んで受けましょう)」といった実践要目を掲げた、どちらかといえば女子青年に国民的自覚を促す方向で組織された処女会であった。

 良妻賢母の素地を養成する処女会へ

これらの二つの傾向を持った処女会が並存していたが、次第に前者の良妻賢母の素地の養成を目的とする方向に傾斜して行った。当初処女会は内務省の主導権のもとに進められていたが、文部省もその組織化に乗り出したことが、その傾向を一層強めるものとなったといえる。大正九年第二回全国女教員大会に文部省は「処女会ノ指導上女教員ノ特二尽クスヘキ事項並其ノ方法如何」という諮問を行い、①実際の生活に必要な知識・技能の補習(修身・作法・家事・裁縫・手芸) ②体育奨励 ③処世上の指導 ④風紀の改善 ⑤地方貢献(産業の幇助・公益事業・慈善事業の援助) ⑥趣味の向上などの答申を得ている。これが最初のものであったが、更に同一一年に開かれた社会教育主事会議に対しても「処女会振興二関シ最モ適切ナル施設如何」を諮問し、十一項目の答申をえている。そこでは処女会の事業内容として、(1)智徳及ヒ体育衛生二関スル講話会 (2)料理・裁縫・作法・育児・看護・副業・家政婦・手芸等二関スル講話会講習会 (3)補習教育ノ施設及ヒ奨励 (4)製作品其ノ他ノ展覧会 (5)図書ノ購読・文庫ノ設置・雑報ノ発行 (6)風紀改善・生活改善・敬老慈善・其ノ他社会奉仕二関スル事項 (7)高尚ナル娯楽 (8)見学旅行・遠足・運動 (9)其ノ他必要ナル事項があげられている。これらの答申からみでも、処女会に次第に大正九年ごろから良妻賢母の素地を養成することを目的とする傾向を強めはじめたようである。
 本県においても同様であった。大正一〇年二月二二日付の愛媛新報の論説は、処女会は「単に団体数・団員数が増加したような形式的なことばかり」で、「その実質や精神的方向はじゅうぶんな発達がみられない」「内面的進歩をはかるためには団員各自の人格の修養に向かって主力を注ぐ必要」があり、そのためには「国や県は補助金を与え」、「勤労に費やす時間を人格の修養にあてさせるべきであろう」と述べている。また同年一一月六日付の海南新聞は論説「処女の訓育」を掲載し、処女会の発達段階が青年会に比べてきわめて低い状況にあることを指摘し、処女会の目的は処女相互の智徳を進め体力を練り共同一致の精神を涵養し良妻賢母たる素地を作ること、国家の妻であり母であることの観念を徹底させることにあるのだから、その面の拡充をはからなければならないと論じている。どちらかといえば、国家的観点を前面に出すよりも、まず第一に良妻賢母の素地の養成を目的とする考えが強く打ち出されてき、各地の処女会もその線にそった活動を展開していった。
 例えば、同一一年三月に設立された庄内村(現在、東予市)処女会の年中行事を見ると、四月ー雛祭・身体検査と新入会員挨拶・本年度事業打合せ・役員選挙、五月ー遠足・生花講習会三回、六月ー洗濯講習・地久節講話と生花講習、七月ー田植実習二回、八月ー同窓会・七夕祭・幹部講習・衛生講話・簡易農業講習会二回、九月ー講習報告と生花講習、一〇月ー料理講習会二回・運動会手伝い、一一月ー手芸講習会(編物)・生花講習、一二月ー茶の湯会二回・疏菜品評会と簡易家事講習会二回、一月ー音楽会・生花実習、二月ー社会見学(会社・工場の視察と一般婦人の生活状態)・娯楽会・敬老会・生活改善講習会、三月ー手芸品講習会(袋物)・短期裁縫講習会・養蚕講習と退会員報告・本年度事業及会計報告となっている。良妻賢母の素地の養成をねらった活動であった。

 郡市連合処女会の結成

 大正一一年には、表3ー6にみるように、県内二九〇市町村のうち二四九市町村に二六六の処女会が設立され、会員は二万二、六二〇人になっている。こうした処女会の急速な結成に伴って、連合組織としての郡連合処女会が結成されだした。温泉郡処女会・周桑郡連合処女会は同一〇年に、南宇和郡連合処女会は一一年に、新居郡・上浮穴郡・喜多郡・西宇和郡・東宇和郡に郡連合処女会が同一二年に設立されている。処女会の組織化の遅れていた松山市や今治市でも同一三年一月の「皇太子殿下御成婚」を契機にして結成されはじめ、最も遅かった今治市にも同一五年五月に連合処女会が結成された。これらの連合処女会の発会式はどのように行われたか。発会式は、温泉郡連合処女会を例にとってみれば、次のように行われた。大正一〇年五月一日、県公会堂に一、六〇〇人の処女を集めて、午前一〇時一〇分から始められた。「君が代」斉唱・教育勅語奉読に続いて幹事橘千枝子が次のような式辞を述べた。「残花の名残りようやくっきんとします今日をトして、私ども本郡処女会の発会式をあげることになりました。郡内五千の処女は互いに相睦びまして楽しい団体を組織しました。そして団体生活の内に相互に智徳を進め体力を練り、益々親しみを厚ふし、共同一致の心得を以て他日良妻賢母となる素養を修養しようとしているのであります。世界の戦争は私どもに強い刺戟と深い感激を与えました。女子青年の奮起すべき時代が来たように思います。……着実に国家の要望と云ふべく女性(の刀)を発揮すべく処女会を中心として野の幸を高らかに歌いながら進みます」(大正一〇年五月二日付愛媛新報)。ついで優良処女会の表彰状伝達(垣生・南吉井・五明・久枝・浅海)、会長訓示、知事告辞、松山高等学校長由比質などの祝辞があって発会式を閉じている。午後は、松山高等学校教授今村完道の「婦人と社会奉仕」、県社会教育主事宇都宮益次の「現代婦人の自覚」と題する講演が行われた。
 この発会式に関して、愛媛新報は当日「女子の解放」と題する論説を載せ、次のように論じている。「処女会の起源は青年会」より遅れたが、それは「我国旧来の道徳習慣が男子に緩に女子に厳しく」、家庭に「蟄居」させ、「経済的・政治的・また教育的」にも「束縛して活動の余地を与えず、意志の自由すら之を拘束し」、発表の場さえ許さなかった結果である。「旧来の道徳習慣が権威を失墜するにつれ、女子に対する各種束縛も次第に緩んだ」とはいえ、社会的活動や処女会連合会の計画に対し批判する向きもある。「今、温泉郡当局の斡旋と処女会員各自の眼覚めの結果として」処女会連合会が発会した。「政治的・経済的・社会的乃至教育的因襲より女子の解放の準備手段として女子を益々自覚させる」ための「重要機関」なので、「当初の目的を達せん事を希望する」と講じている。
 こうした世論の支えもあって、連合処女会の活動も軌道に乗り、温泉郡連合会の第三回総会(大正一二年五月六日)には、次のような演題で七名の会員が一、六〇〇名の会員の前で意見発表を行い、その様子について愛媛新報(同一二年五月七日付)は「各処女は女性文化の為に最も真摯な思想を熱烈にその改造の急務を説いて紅唇に火を吐くの慨」あり、参加者に大いなる感動を与えたと報じている。演題と発表者は次の通りであった。「私どもの前途」ー余上村(現松山市)処女会員森郁子、「生活改善について」ー久米村(現松山市)処女会員仙波シゲオ、「女子と体育」ー川上村(現川内町)処女会員渡部正子、「処女会の使命」ー南吉井村(現重信町)処女会員牧文子、「結婚に対する希望」ー河野村(現北条市)処女会員正岡伊都子、「処女会員としての覚悟」ー道後湯之町(現松山市)処女会員原精子、「売店について」ー三内村(現川内町)処女会員近藤嘉代であった。

 処女講習会の開催状況

この郡市連合処女会が力を注いだ事業で、総会以外に処女講習会・処女幹部講習会がある。各郡市において、「処女修養の目的に合致し且又中堅処女を養成するを目的」とする講習会が、四泊五日程度にあたる講習会を開催している。例えば先の温泉郡連合処女会では、同一二年八月八日~一二日の五日間、道後湯築小学校を会場に朝五時起床、夜一〇時一〇分消燈の共同生活をなし、午前・午後に次の講義を開講している。一、修養に関するものー女子と宗教・婦人と修養・人生幸福の源泉 二、処女会の経営に関するものー処女会の施設径営 三、実科に関するものー手芸裁縫佛蘭西刺繍と子供服・割烹・音楽。
 また、周桑郡処女会も同一二年八月七日~一一日の五日間第二回幹部講習会を県立周桑高等女学校で開催している。処女会経営及修養、婦人道徳、家事・作法、裁縫、唱歌の講義があり、講習生は五四名を数えた。「第一日は午前八時集合、九時開講式を挙行、午前中は講習員の組分けをなし各居室を配当した。午後は講義・入浴・休憩・夕食・音楽・運動・娯楽の順序で、九時半に静座・寝礼・就床となる。静座と寝礼は敬礼・静座反省・誓詞・遥拝礼拝などで、誓詞は『わたしども本日の仕事を反省しますとまだまだ足らぬことがいろいろあります。明日はもっともっと真剣に努力いたします』というものであった。朝礼は校庭に一の組から順次後方に各横隊に整列し、敬礼・君が代・遥拝礼拝・誓詞の順序で行い、誓詞は『わたしどもは本日も元気に愉快に真面目に仕事に励みましよう』。そして毎朝会長から朝訓として印刷物を講習員一同に配布した。その朝訓の題目は、第一日は人生に目覚めよ、第二日は女性のつとめ、第三日は修養にはげめ、第四日は終始一貫たれ、第五日は午前一〇時から終了式を挙行した。最後の食事は炊事係が特別の献立をして昼食会が催された。なお第一日の娯楽会には講話、第二日の娯楽会には活動写真、第三日の娯楽会は会員の意見発表や琴三味線の合奏などのかくし芸、第四日の最終の夜は矢野老人の三味線尺八の合奏などがあった。本講習中西滓郡長夫人をはじめ丹原町長・郡農会長如き有志から多大の厚志をよせられた」とある。

 機関誌『青年と処女』の発刊

ところで、郡市連合処女会が組織され、各地域での処女会の活動が活発化するにっれて、大正一二年ごろには、処女会と青年団との連合による活動も盛んになってきた。同年の記録によれば、佐礼谷村(現中山町)では処女会青年団連合総会が開催され、桑原村(現松山市)では共同で敬老会を催し、処女会員が御馳走をつくり青年団員が余興をしており、また北宇和郡下の青年団や処女会の場合は、大正二一年起こった関東大震災による罹災民救護のための義捐運動を協力して行うなど、処女会と青年団との交流も盛んになっていた。
 こうした状況のなかで、県社会教育主事中矢清七郎と曽我鍛が中心になって、同一二年に「青年並に処女の伴侶となり青年団処女会の向上発展」を目的とする愛媛青年処女協会が設立された。そこを発行所として『青年と処女』という雑誌(A4版、九六頁)が同年一一月二五日に創刊され、以後毎月一回青年団・処女会の機関雑誌として発刊された。創刊号の目次をあげると、次の通りである。
 創刊の辞、現代の日本と青年ー松山高等学校教授高木武、青年処女の心理を論じ切にその自覚を望むー松山高等女学校長高橋勝一、都会と村落いづれが幸福かー帝国農会幹事岡田温、文学かぶれの青年処女を戒かー周桑高等女学校長水谷同、青年処女を無邪気に純真に縦横無碍に生長せしめよー伊予鉄道電気会社長井上要、囚はれたる者の為にー農学士末光積、世界の大勢と我国の地位(一)ー法学博士末広重雄、世界の現状に就て(一)ー文学博士新見吉次、伊予の国(一)ー松山高等女学校教諭景浦直孝、帝国憲法(一)ー松山高等学校教授ー北川淳一郎、俳句は何うして作るか(一)ー阿部里雪、青年と処女発刊に就て私の感想ー陸軍歩兵中佐野中保教、松山城から見ゆる山々の印象兼案内記(一)ー法学士北川淳一郎、野球の話(一)ー伊予新報記者宮崎芳孝、烈女松江ーー晩村、鶏卵の話ー松山高等女学校教諭仙波すま、衣服洗濯法ー周桑高等女学校教諭田坂てる、洋服仕立ての研究ー愛媛女子師範学校教諭瀧川伎美、長者物語(尾崎伊右衛門)ー伊予史談会幹事富永道人、親愛なる青年処女諸君にー中年清七郎、時事、青年処女文芸、誌友倶楽部、青年団と処女会、編集を了りて。
 この内容からみて、『青年と処女』が当時の青年処女にとって娯楽誌・教養誌としての役割を、また各青年団・処女会の情報交換としての役割を担っていたと同時に、以後県下の青年処女の思想統一の上に大きな役割を演じて行くことになった。

処女会の組織化

ところで、大正一四年には本県における処女会は三一三、会員数三万一、二七〇人にまで普及していたが、同年の全国での普及状況を見ると会数一万三、二〇〇、会員数一三一万人になっていた。こうした処女会の普及をふまえ、翌年一一月一一日、次のような内務・文部両大臣の連名による訓令が出された。この訓令「女子青年団体ノ振興並其指導二関スル件」は、政府がはじめて女子青年層の全面的掌握に乗りたしかものとして意味を持つもので、内容は「人格ヲ高メ国民タルノ資質を養ヒ」という点での国民的自覚の強調と、「公共的精神ヲ養ヒ社会ノ福祉二寄与スルコト」と国策協力への必要性を喚起すると共に、「婦徳ノ涵養二努ムルコト」といった方向で伝統的婦人観を強調したものであった。具体的には、忠孝の本義を体し婦徳の涵養に努めること、実生活に適切な智能を研磨し勤倹質実の風を興すこと、体育を重んじ健康の増進を期すること、情操を陶冶し趣味の向上を図ること、公共精神を養い社会の福祉に寄与することを要請したものであった。
 この訓令と同時に、社会局長官と文部次官からも通牒「女子青年団体施設要項」が発せられた。これによると、女子青年団体の設置は、土地の情況を参酌し市町村・小学校通学区域等を単位に設置し、必要に応じて支部あるいは連合会を組織すること、工場・商店等にも設置を奨励することとした。団体員の年齢は義務教育修了から結婚または年齢二五歳までとし、その指導には学校長・市町村長の外、学識徳望のあるものとし、特に学校職員・篤志の婦人等の協力を求めること、団体の経費は会費と勤労による収入によるなどとされた。また事業の留意点として、(一)家事職業に関する智徳の涵養、公共生活に必要な素養の習得、特に実業補習学校への就学奨励 (二)学校図書館其の他の教育施設及婦人会等との連係の密接化 (三)講演会・講習会・娯楽会等の開催、健全な読物の選択指導 (四)女子に適切な体操競技等の選定、保健衛生思想の涵養 (五)地方の良風美俗の維持発達、生活改善があげられた。
 この訓令・通牒を受けて、本県では女子青年団の指導を徹底させるために大正一五年一一月二六日知事香坂昌康の名で市町村に対し、「宜シク局二当ル者ハ内務文部両大臣訓令ノ趣旨ヲ体シテ鋭意団体ノ刷新振興ヲ企図シ、以テ女子青年団体ノ目的達成二努カセラルヘシ」と訓令した。この時に女子青年団体の名称も処女会を改めて女子青年団に統一されることとなったのである。

県連合女子青年団結成

昭和二年(一九二七)四月二九日、大日本連合女子青年団が設立され、同年一〇月発団式を挙げており、また県連合青年団も結成されたこともあって、同三年一一月一二日に開かれた県下女子青年団長会議において県連合女子青年団の設立が決定された。同会議は、「本団ハ愛媛県連合女子青年団ト称シ、事務所ヲ愛媛県庁内二置ク」(第一条)、「本団ハ県下女子青年団相互ノ連絡提携ヲ図リ、其ノ進歩発達ヲ期スルヲ以テ目的」(第二条)とし、県下各郡市連合女子青年団で組織(第三条)し、事業としては女子青年団の調査研究・講習会・講演会・展覧会等の開催、団報その他印刷物の発行、団体及団長の表彰等を行う(第四条)こととし、役員には県知事を総裁(第六条)、県学務部長を団長に推戴し、副団長は代議会員で選挙、代議員は各郡市女子連合青年団長をあてる(第七条)といった団則を定めたのである。
 そして同年一二月一日、県立松山高等女学校講堂で愛媛県女子連合青年団発団式が挙行され、先の「愛媛県連合女子青年団団則」等が決議され、愛媛県女子連合青年団が正式に発足したのである。

表3-6 大正11年県内処女会数及び会員数

表3-6 大正11年県内処女会数及び会員数