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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

2 青年教育の体制化と青年団の「修養機関」化

 政治運動の抑制へ

 日露戦争以来、政府は青年団体の指導と育成に取り組み、本県においても青年団体(青年会)は急速に発展してきた。風儀の矯正・智徳の啓発・体格の改良其の他各種公益事業の幇助等を目的として活発な活動を展開し、通俗教育の上からも大きな効果を及ぼしていた。しかしこうしたプラス面だけでなかった。
大正初期には青年会自体のあり方にも次第に問題が生まれはじめていたのである。例えば、「本県の青年会は、各其発達の程度を異にすると雖も、大体に於て已に勒創の時代を過ぎて、今は整頓の時代に入り、正に各自内省の時期に達したり、しかも内省自修の難きは決して外部的改良の比にあらず、奮励努力以て啓智修徳に努めずんば或は真に行詰りの姿を実現するの虞れなしとせず、最も注意を要する時期と云うべし」(大正五年三月一五日付愛媛新報)との声があがりだしたのである。というのは、特に当時の青年会が町村政に容喙したり、政治運動に関与したり、あるいは利用されたりなど政治運動的色彩を強く帯びるものとなっていたのである。大正四年五月二目付の愛媛新報には、今日の青年会は昔の若衆会にくらべると、その教育的素養において進歩し、品性が幾分向上したことを承認する、しかしなかには統率者の指導宜しきをえず、ややもするとこれを政治的補助機関に悪用するものも少なくなく、青年会の風紀も訓戒を要するものが多い、指導の任に当たる青年はこうした悪傾向をよく調査して改善の方法を講じてもらいたい、といった投稿すら見られる状況であった。
 こうした傾向は本県だけでなく、他府県にも見られる現象であった。この事態に対して、大正二年内務省地方局長は各地方長官に次のような通牒(九月三〇日、内務省秘五四六号)を発した。それは、青年団体が「智徳ノ修養風紀ノ改善共同思想ノ涵養其他農事ノ改良副業ノ興振ヨリ夜警消防等各般ノ事二依リテ活動ノ状頗ル見ルヘキモノアル」点を評価しながらも、「多数団体ノ内ニハ動モスレハ其勢力ヲ恃ミテ政治運動二干与シ或ハ之二利用セラレ若ハ濫リニ町村政二容喙スル等時二常軌ヲ逸スルノ行動二出ツルモノナキアラサル」ことを遺憾とし、地方長官が一層『匡正指導』に乗り出し、特に政治運動を抑制し、講演講話の講師、青年閲読文書の選択に留意するように指示したものであった。これが、青年団体の官製化に向かっての第一歩となるものだった。

 修養機関としての青年団へ

更に大正三年三月七日、第一次世界大戦が勃発したことを契機として、内務・文部両省が同四年九月一五日訓令「青年団体ノ指導発達二関スル件」と通牒「青年団体二関スル件」を発した。これは、青年団体の性格とその事業と活動等について以後の青年団体を方向づけるものとなった最も重視すべき訓令であり、通牒であった。本県でも、この訓令を字句の一部を補正し同年一〇月二二日に知事深町錬太郎の名
で郡市長に対して次のように伝達された。

    青年団体ノ指導発達二関スル件
   青年団体ノ設置ハ今ヤ漸ク県下二洽ク其ノ振否ハ国運ノ伸暢地方ノ開発二関スル所殊二大ナルモノアリ此ノ際一層青年団体ノ指導二努メ以テ完全ナル発達ヲ遂ゲシムルハ内外現時ノ情勢二照シ最モ喫緊ノ一要務タルヘキヲ信ス抑々青年団体ハ青年修養ノ機関タリ其ノ本旨トスル所へ青年ヲシテ健全ナル国民善良ナル公民クルノ素養ヲ得シムルニ在リ随テ団体員ヲシテ忠孝ノ本義ヲ体シ品性ノ向上ヲ図リ体カヲ増進シ実際生活二適切ナル智能ヲ研キ剛健勤勉克ク国家ノ進運ヲ扶持スルノ精神卜素質トヲ養成セシムルハ刻下最モ緊切ノ事二属ス其ノ之ヲシテ事業二当リ実務二従ヒ以テ練習ヲ積マシムルモノ亦固ヨリ修養二資セシムル所以二外ナラス若シ夫レ団体ニシテ其ノ嚮フ所ヲ誤リ施設其ノ宜シキヲ得サルコトアラムカ啻二所期ノ成績ヲ挙ゲ得サルノミナラス其ノ弊ノ及フ所測リ知ルヘカラサルモノアラム故二局二当ル者ハ須ク此二留意シ地方実際ノ状況二応シ最モ適実ナル指導ヲ与へ以テ団体ヲシテ健全ナル発達ヲ遂ケシムルコトヲ期スヘシ

 この訓令によって、青年団体は「青年修養ノ機関」と性格づけられ、更に通牒「青年団体二関スル件」によって青年団体の成員は「最高年齢ハ二十年」とされ、それの「設置区域」は原則として市町村単位と決められた。また青年団体の『指導者』としては第一に「小学校長又ハ市町村長」とされ、「協力指導の任」にあたる者として「市町村吏員・学校職員・警察官・在郷軍人・神職・僧侶」があげられた。団員の最高年齢が二〇歳とされたのは、徴兵適齢期の設置(明治六年の徴兵令)に基づくもので、軍事的見地から青年団体の組織化が計られた一面を見ることができる。ともあれ、この訓令・通牒が発せられた時から、「青年会」は「青年団」という言葉に代わり、青年団の全国的組織化・均質化が一段と進んで行くこととなったのである。

 県下青年団の組織化・均質化

本県における青年団の組織化・均質化も急速に進んでいった。県学務課は「大正六年県政事務引継書」のなかで、「青年団体ハ従来県下各町村二於テ之ヲ組織シ青年ノ指導方二努メツツアリシモ、多クハ事業本体ニシテ其組織及設置区域等区々ナリシガ、大正四年九月内務・文部両大臣ノ青年団体二関スル訓令ノ発布、並二両次官ノ設置標準ノ通牒アリ、爾来此趣旨ニヨリ各町村青年団体ノ改善指導二努メシメツツアルヲ以テ、漸次其不面目改マル」と報告している。その結果、同五年九月における県内の青年団の組織・活動状況等は、次の表3-5のようなものへと整備されていった。通牒では「義務教育ヲ了ヘタルモノ若クハ之ト同年齢以上の者ヲ以テ組織シ其ノ最高年齢ハ二十年ヲ以テ常例トスルコト」とされていたが、本県の場合は一二~一五歳から二五~三〇歳才でとされた。これは、実態からみて県が二五歳から三〇歳までの年齢拡張を認めたためである。ただし、二〇歳を基準として、それ以前を普通会員(青年部)、それ以後を特別会員(壮年部)としていた。この点、通牒と実態との間における工夫の表われであろう。また注目すべきは、三四〇団体数のうち一七〇団体において町村長が、九四団体において校長が会長として就任している点である。指導者としても、会長(団長)の他、郡長・郡視学・郡書記・教員・町村吏員・神官・僧侶・警察官等、通牒で示された者で固められている。こうした青年団の組織化・均質化の急速な進展ぶりについて、同六年四月二三日付の愛媛新報は次のよう
に報じている。「爾来二星霜未だ全く従来の面目を改めたものと言ふを得ざれども、この統一方針の影響は明らかにこれに指目する事を得べし、まずその数について言はんか、青年団の設置区域を一町村と限定したる後に多少の整理廃合がありたる結果として、青年団の数においては大正四年当時より稍々減少せしも・、その会員の数において非常なる増加を見るにいたりたり、その事業も近時著しく発達を遂ぐるにいたり、就中彼等が補習教育に努力しつつある事は親しくその実況を見る者の等しく驚嘆する所」と。そして大正五年九月時には同八年に創立される宇摩郡と周桑郡青年団を除く各郡に郡青年団ないし連合青年会が存在する程に組織化されていった。

 青年団の自主化方針

大正四年の訓令・通牒以来、青年団は「修養機関」として性格づけられ、会長にはほとんど町村長ないし小学校長が就任し、青年の修養を強調していったが、青年の修養を強調するあまり次第に青年団の活動内容が空虚なものとなっていった。この傾向を憂慮した内務・文部両省は、同七年五月三日再び訓令を発せざるを得なかった。本県でも、同年五月二一日に知事若林賚蔵の名で、これを県内の郡市長に伝達している。この訓令「青年団体修養二関スル件」は、「経営並指導亦漸ク真摯ヲ加ヘタリト雖モ組織ノ井然タルモノアルニ比シ内容往々ニシテ之二伴ハス其ノ多クハ尚点晴ヲ欠クノ憾ナシトセス」とその形式主義を戒め、特に補習教育と青年団との結合の重要性を指摘するなど、青年団の指導と統制を一層強めた内容であった。しかし逆にこうした指導と統制の強化は、青年団を一層沈澱させてしまったのである。
 この事態に対して、第三回目の訓令・通牒が大正九年一月一六日に発せられた。第一次大戦後のデモクラティックな風潮を反映し、また軍部の圧力を払い除ける意図を含みながら、「自主自立以テ大二其ノカヲ展ヘシムルハ団体ノ本旨二顧ミテ頗ル緊要ノ事二属ス、随テ其ノ組織ハ之ヲ自治的ナラシムルニ努メ、団体ノ事ヲ統フル者ハ之ヲ団体員ノ中ヨリ推挙セシムルヲ本則トス」として、青年団の「自主化」方針を打ち出したのである。通牒はこの方針を承け、「団体ノ首脳トシテ直接其ノ衝二当ル者ハ成ルヘク適材ヲ団体員ノ裡二求メシムルコト」を指示し、その最高年齢も一応「二十歳ヲ以テ常例」としながらも、二五歳までの延長を認めたのである。この訓令・通牒は、これまでの青年団対策からの転換を示すものであった。これまでの青年団の「修養機関化」による画一主義を修正する方向で、それ以後青年団の自主化・自治化の気運が一段と高まっていった。
 この点について、同一〇年一〇月二二日付の海南新聞は、「地方青年団近時の趨勢を見ると、昨年一月内務・文部両省の通牒を動機に、従来二〇歳までであった青年団員の年齢を二五歳に改め、従来団長には学校長や村長をあてていたのを青年団員中の有力者から選んで公民訓練の基礎たらしめたため、非常に好い影響をきたした。その結果団員はすべて自治的観念を強め責任を感ずるため、すべての方面に活気が横溢するにいたった」と述べ、今後青年団に望むべき方策として補習教育の改善・公民訓練の重視・実際的学科の講習・読書の奨励・共同的娯楽の採用を計られたいと報じている。
 しかしこの青年団の「自主化」ないし「自治化」の訓令によっで、政府の、県の青年団に対する指導・援助がなくなったわけではなかった。本県ではこの訓令を受けて、同九年一〇月に学務課の作成した「愛媛県社会教育案」で青年団の指導に関して、第一に「青年団員ノ自覚向上ヲ計リ自治的訓練二努ムルコト」をあげたが、「県ハ毎年一回指導者ノ講習会ヲ開クコト、郡ハ毎年一回以上中堅青年講習会及ヒ連合青年大会ヲ開クコト、町村青年団ハ毎年一回召集修養指導ヲナスコト、町村青年団毎二数日二亘レル講習ヲ開クコト」とし、従来通り青年団への指導を行うこととしていた。また青年団の指導監督に専任する者として社会教育主事が当たることになった。各郡市にも社会教育主事を任命するところが生まれ、県社会教育主事の指示のもと、各郡市社会教育主事が町村青年団の会合等に出席し、管内青年団幹部との接触を保ちながら、指導助言を行い、青年団の振興発展に努めていた。この訓令・通牒が発せられた後も、なお青年団に対する指導援助は行われ、青年団の組織の整備・拡充は続けられていたのである。

 大日本連合青年団の創設

 大正一〇年(一九二一)の文部省の調査によると、青年団体は一万四、六二〇、団員数三〇三万二、七六九人(文部省『学制五十年史』)になっていた。各道府県及び六大都市に連合青年団結成の気運が高まっていた。しかしまだ地方においては郡市府県の連合体もできあかっていないところもあり、内務・文部両省は全国的連合体組織は時期尚早との通牒を同一一年五月九日に地方長官に対して出していた。こうした状況であったが、全国的連合体結成の気運は高まっており、翌年五月に開催された第二回全国青年大会では、両省の時期尚早論を排し、大日本連合青年団の創設を決定した。その後政府の了解を得て、同創立準備委員会の名で、各府県の連合青年団に対して加盟勧誘状を発すると共に、連合青年団の設立されていない府県に対しては地方長官宛になるべく速やかに府県の連合青年団を組織し大日本青年団に加盟されたいとの文書を送っている。
 また同日、内務・文部両省からも、郡市連合青年団や府県連合青年団の組織的発展も著しくなったので、今や全国的連合青年団を組織するに適当な時期となった。ついては一一月中旬に名古屋で発団式を挙行するので府県連合青年団はそれに加盟されたし、との依命通牒「青年団ノ連携二関スル件」が各府県知事に対して発せられている。二八府県の加盟を得、同一四年四月一五日名古屋市で加盟団体代表二一六名及びその他の参加のもとで、大日本連合青年団の発団式が挙行された。ここに青年団の全国組織が誕生したのである。

 県連合青年団の設立

 大日本連合青年団が創設された当時、本県にはまだ岩手・岐阜・広島・福岡・長崎の各県と共に県単位の連合組織ができていなかった。前記の創立準備委員会と内務・文部両省からの勧告、及び大正一四年九月に知事として赴任してきた香坂昌康(後の大日本連合青年団理事長)の熱心なテコ入れもあって、県連合青年団の組織化が急速に進められていった。翌年二月二六日、三市一三郡の青年連合団から各二名の代表出席のもとに、県連合青年団組織に関する協議会が開催され、その席で満場一致で県連合青年団の設立が決せられた。そして次のような団則を定め、それに従ってこの協議会を第一回代議員会に切り替え、役員選挙を行い、総裁に県知事・団長に県内務部長・副団長に県社会教育課長と松山市青年連合団長を選んでいる。更に、大日本連合青年団への加盟を申し込れたのである。加盟が認められたのは、同一五年四月一日であった。そこで定められた愛媛県連合青年団団則は次の通りであった。

   第一章総 則
第一条 本団ハ愛媛県連合青年団卜称シ県下各郡市青年団ノ連絡統一ヲ図リ其ノ向上発展ヲ期スルヲ以テ目的トス
第二条 本団ハ県下各郡市青年団ヲ以テ組織シ事務所ヲ愛媛県庁内二置ク
   第二章 事 業
第三条 本団ハ其ノ目的ヲ達センカ為メ左ノ事業ヲ行フ
 一、講習会、講演会、体育競技会等ノ開催 二、青年団二関スル調査研究 三、視察員ノ派遣 四、印刷物ノ発刊青年団又ハ団員ノ表彰 六、其ノ他必要ナル事項
   第三章 役 員
第四条 本団二左ノ役員ヲ置ク
 総裁一名、団長一名、副団長二名、代議員三〇名、幹事長一名、幹事若干名、書記若干名
第五条 総裁ニハ本県知事ヲ推戴ス
第六条 団長並副団長ハ代議員会二於テ之ヲ選挙シ其ノ任期ヲニケ年トス
 代議員ハ各郡市青年団長及各郡市青年団二於テ選出シタルモノ各一名トス
 郡市青年団二於テ選出シタル代議員ノ任期ハ一ケ年トス
 役員二欠員ヲ生シタルトキハ必要二応シ補欠ス、此場合ノ任期ハ前任者ノ残任期間トス
 幹事長・幹事及書記ハ団長之ヲ嘱託ス
第七条 団長ハ団務ヲ統轄シ本団ヲ代表シ又ハ会議ノ議長トナル
 副団長ハ団長ヲ補佐シ団長事故アルトキハ之ヲ代理ス
第八条 本団二顧問ヲ置クコトヲ得
 顧問ハ学識名望アル者又ハ本団二功労アリト認ムル者ニツキ団長之ヲ推薦ス
   第四章 会 議
第九条 会議ヲ分チテ代議員会及幹事会トス
第十条 代議員会ハ毎年一回之ヲ開キ左ノ事項ヲ議決ス、但シ団長二於テ必要卜認メタルトキハ臨時開会スルコトアルヘシ、一、歳入歳出予算ノ議決及決算認定 二、団長ノ諮問二対スル答申 三、団則ノ改廃 四、其他必要ナル事項
第十一条 幹事会ハ臨時之ヲ開キ本団ノ事業其ノ他団長二於テ必要卜認ムル事項ニツキ調査審議シ、又八本団二関スル事務ヲ分掌ス
第十二条 代議員会ノ議事ハ出席者ノ過半数ヲ以テ之ヲ定メ可否同数ナルトキハ議長之ヲ決ス
   第五章 会 計
第十三条 本団ノ会計年度ハ毎年四月一日二始リ翌年三月三一日二終ル
第十四条 本団ノ経費ハ各郡市青年団ノ負担金、県費補助金及其ノ他ノ収入金ヲ以テ之二充ツ
   附 則
団長八本則施行ノ為メ必要ナル細則ヲ定ムルコトヲ得

ところで、この県連合青年団の発団式は、郡役所の廃止に伴う郡連合青年団の組織替えなどで遅れ、第一回大会が県公会堂で開催されたのは昭和二年四月三〇日であった。参加者二五〇名で、県諮問の市町村青年団をして一層自主的に振興させる方法如何などについて協議がもたれた(同年五月一日付「愛媛新報」)。しかし四年四月二七日に愛媛青年会館の開館式が行われた際、知事市村慶三は国家治力の源泉の柱である青年は奮励努力して、軽薄険悪な思想にまどわされることなく高尚善美な品性の修養に励み、勤倹力行の美風を築き社会生活上緊要なる共存共栄の実をあげ、もって国家の進運に貢献することを望むと告辞した(同年四月四日付「海南新聞」)。この告辞は、次の教化総動員体制への前触を示すものであった。

表3-5 大正5年9月時の郡市別青年会調査表

表3-5 大正5年9月時の郡市別青年会調査表