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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

四 病弱教育の歩み

 日本の病弱教育は、二〇世紀当初から結核対策の一環として始められた。それから、市立白野江養護学校が、我が国最初の公立の病弱養護学校として、門司市に創立されたのは、昭和二五年四月であった。
 本県の病弱教育は、国立愛媛療養所から始まっている。

 「つみ木の会」時代

 国立愛媛療養所には、昭和三〇年当初、大人に混じって、二四名の結核の児童生徒が療養していた。療養中の患者のうち、教員は、児童生徒の性格が数年間も療養生活を続け、ゆがんでいく姿を憂慮して、所内での教育を試みようとした。そして比較的軽い病状の教員二一名で話し合い、同三一年九月に第一回の「つみ木の会総会」がもたれた。それは、善意に満ちた奉仕的な教育行為であった。翌三二年四月には、小児病棟が設けられ、大人との混在からくる日常生活上の問題点も解消し、望ましい集団づくりがすすめられた。
 「つみ木の会」での学習は、その後も続けられたが、どこまでも私的なもので、公的教育の場ではなかった。そのうちに「ぜひ公教育の場を」と療友会や父兄の間に強い願望が起こり、関係各方面への陳情、療友会による街頭での署名運動などによって、日に日に公的教育の場への動きが高まっていった。

 分校時代

 重信町立北吉井小学校及び重信中学校の東分校が国立愛媛療養所内に開校したのは、昭和三三年四月で、公的教育の場への願いが達せられた。この分校は、それ以来、昭和四七年まで続くのである。開校当初は、この東分校は、小学校一学級で八名、中学校一学級で八名。それに教員各一名ずつで指導に当たっていた。
 この分校時代、研究組織としては四国四県養護学級教育研究協議会に属していたが、発展的に四国地区病弱教育研究連盟になり、全国の会へとつながっていった。
 病弱教育の対象児童生徒の病類が大きく変わったのもこの時期である。初め多かった結核は次第に減少し、代わって溶血性連鎖状球菌などの感染症が増加し、慢性じん炎、リュウマチ性疾患など長期にわたり、無自覚のうちに病状が徐々に進行するものが増えてきた。ぜん息などアレルギー疾患については、素質的なものの上に外的条件も考慮しなければならなくなってきた。その上、先天性疾患・先天性代謝異常・血友病・内分泌疾患などの慢性疾患児も教育の対象となってくるなど病弱教育対象児の多様化・重複化・ひいては難治化傾向が見られるようになってきた。
 こうしたむずかしい状況下で分校から養護学校へと志向されるようになった。

 愛媛県立第二養護学校時代

 県当局をはじめ関係者の熱心な努力が実を結んで、四国地区では、初めての県立の病弱養護学校が昭和四七年四月に「愛媛県立第二養護学校」として創設され、病弱教育へと歩み始めた。
 当時の病類は多岐にわたっていた。児童生徒の状況は次のとおりである。
  気管支ぜん息・胃腸病・腸結核症・心臓病・慢性じん炎・ネフローゼ症候群(当時はこれが最も多かった)・糖尿病・骨関節カリエス・色素性乾皮症・魚鱗癬、てんかん・筋ジストロフィー・ノイローゼ・自閉症・情緒障害・発育不全等
 教員の病弱教育経験者は、分校からの二名だけで、他の二(名は未経験者であり、その上校内の整備も不十分なこともあり、苦労が多かった。
 校訓は、「明るく、強く、正しく」として、情緒の安定に基盤を置き、「子どものために」をモットーに教員は協力一致で教育の前進に努力したが、まったく暗中模索の日々であった。
 昭和五〇年一月には、CCTV(閉回路テレビ)が完成した。登校が許されないで、ベッドの上で不安と焦燥の日々を過ごしている児童生徒に、教員の病棟訪問によるベッドサイド学習に加え、学校での授業の様子をベッドサイドの受像機に送り、間接ながら共に学習ができるように工夫されたのである。
 児童生徒の入院費・医療費等は、「小児慢性特定疾患治療研究事業」により全額公費で負担してもらっていた。
 特殊教育の学習の中で、養護・訓練の領域は重要なものであるが、特に病弱教育では、積極的に鍛練を必要とするものと、安静を優先にしなければならない疾患群とがあり、それが児童生徒の一人一人の状況に対応して教育を進めていかなければ成果は実を結ばないことになる。その点、児童生徒一人一人の心身の状態と能力の理解につとめ、その上にだっての指導のあり方について不断の研修と創意工夫が必要である。
 なお北宇和郡松野町立松野西小学校に病虚弱教育学級を設置したのは昭和二九年四月一日である。
 同二八年度、春の定期健康診断でツ反陽転者が前年度の六倍という激増のため、宇和島保健所で検診を受けた結果、休養二名、要注意九名が発見され、更に一二月の経過検診では、休養二〇名、要注意三四名となった重大事態が、松野西小学校の特殊学級設置となったのである。