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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

三 肢体不自由教育の歩み

 障害の比較的軽度の者は、一般の小・中・高校に就学し、教育を受けていたが、障害の重い者については、昭和二七年一二月今治市に愛媛整肢療護園が設立されてからのことである。
 その後、この教育は幾多の教育者、行政及び地域社会の方々の理解、情熱、努力によって、県立養護学校及びその分校の設置となり、今日へと発展していった。

 愛媛整肢療護園

 この療護園は、故高木憲治博士の高弟であった今治市の医学博士三木仁の熱意と努力で開設されたものである。初代園長は医学博士局橋純で、入園治療施設である。三五床の小規模ではあったが関西では、初めての施設で、これが契機となって、全国各地にこの種の施設が開設されるようになり、更に肢体不自由児施設長会は施設内学級設置の要望書を文部省に提出し、同省を動かすに至った。
 文部省は、昭和二八年四月療護園内に今治市立別宮小学校分校設置を認可し、本県の肢体不自由教育の基盤ができたのである。といっても開設当初の教員は、ただ一名で、日吉小学校長渡部孝雄が指導に当たった。「明るく、正しく、辛抱強く」を校訓として不備な、不便な環境の中での苦闘が続いた。同三〇年に近見中学校の分校として中学鄙が認可され、小・中学校一貫性の教育が行われ、内容も次第に整えられた。
 「肢体不自由でも、心まで不自由であってはならない」という大方針のもとに環境整備・体験学習・歩行訓練と社会見学等に重点を置いて、肢体不自由教育への基礎は次第に築かれていった。

 愛媛整肢療護園施設内分校

 〈複々式学級〉 昭和三四年当時の教員数は、小学校三、中学校一で合計四名。生徒数は七二名。そして学級は、一年~三年を一学級に、四年~六年を一学級に。中学校はまとめて一学級に編成されていた。それを四名で教科担任制で指導していた。その上、生徒の質は脊髄カリエス・関節結核等いろいろで、更に手狭の教室の使用上の工夫を要したのだから、復々式の指導は、様々な問題を抱えながら同三六年まで続いた。
 〈複式学級〉 昭和三八年から複式授業となった。教員数は、小学校五名から六名に、中学校三名から五名へと順次増加してはいったが、相変わらすの手狭さ。同四四年ころには生徒数は一〇〇名を超え、手狭さは一層厳しくなった。でも教員の熱心な創意工夫によって、諸行事、見学などを巧みに利用し、機能訓練を消化して楽しい学習ができたようである。
 〈単級〉 このころには、教員数も小学校は六~七名、中学校は五名となり、一つの学級として指導ができ始めた。それでも一学級一七名の学級があり、教室不足もあって、思うような経営はむずかしかっか。しかし教員も生徒も一丸となって不便を乗り越え、前向きで学習に取り組んでいった。

 愛媛県立愛媛養護学校

 昭和三一年、「公立養護学校整備特別措置法」が制定され、国の措置や社会的な背景を受けて、重信町に県立愛媛養護学校が開設されたのは、同四〇年四月で、初代校長朝比奈健吉は、「児童生徒の全人的発展をめざすとともに、自己の障害を正しく認識し、それを克服して民主的社会の一員として生活できる人間を育成する」ことを教育方針とし、「明るく、正しく、たくましく」と校訓を決め、根性を特に強調して経営した。
 新設校だったが、校地は石ころだらけの川原跡で、それを普通の校地にするには、並大抵の労力ではなかった。その上、井戸水の不足、下水道の問題等筆舌には尽くし難い日々が続いた。そんな中で、校内を教育的な環境に整え、教育課程を整備し、更に疾患の研究、機能訓練その他指導法の開発等が次々と待ち受け、それを教員の意欲で克服、実践していった。教師と生徒の一体化によって無から有が生まれたともいえる。そうした学校づくりの中で生徒は、自分の障害を克服し、人間的な成長へと前進していった。

 愛媛県立第一養護学校

 県立第二養護学校の開設に伴い、昭和四七年四月一日に愛媛養護学校は改称して県立第一養護学校となった。そして同四八年度には、全国に先がけて幼稚部が設置され、更に翌年には、高等部が設置され、校舎施設等の充実によって、名実ともに早期教育から後期中等教育までの一貫性のある教育の場となった。現在の教職員一〇〇名、生徒数二三〇名、学級数三二で、全国屈指の大規模校となっている。
 教育内容も歴代校長及び教職員の熱心な研究・実践・反省等の繰り返しと、不断の研修・努力によって大きく改善され、児童生徒一人一人を入念に見つめ、理解し、指導を積み上げ、きめ細かな教育が行われている。

 愛媛県立第一養護学校整肢療護園分校

 先に述べた愛媛整肢療護園(今治市に開設)は、昭和四九年四月、松山市本町に新築移転されることになり、併設されていた別宮小学校分校・近見中学校分校の両分校は、県立校に移管され、「愛媛県立第一養護学校整肢療護園分校」となった。
 この校地は、元県立松山聾学校の跡地で、そこに療護園及び分校は、建設されたのである。ここでは、医療と教育の両面が行われ、医療並びに訓練を受けながら、療護園から分校に通学して教育を受けたり、通学できない者には、ベッドで学習できるよう療護園と分校の協力によって工夫され、着々と教育成果を上げている。