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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

3 昭和期―終戦までの学校保健

 学校衛生の充実

文部省は学校衛生の振興を図るため、昭和四年三月一九日「学校医幼稚園医及青年訓練所医令」(勅令第九号)を制定した。愛媛県では同年七月二六日「学校医幼稚園医及青年訓練所医ニ関スル規程」(県報訓令第一七号)を県内教育機関に布達した。この規程によって県内教育機関は原則として学校医を設置することとなった。
 また、学校衛生のうち口腔衛生を重視した県では、同四年一一月五日「学校歯科医二関スル規程」(県報訓令第二六号)を発布した。文部省でも同六年六月二三日「学校歯科医及幼稚園歯科医令」(勅令第一四四号)、同七年二月一日「学校歯科医職務規程」(文部省令第二号)を制定して学校歯科医の設置を督促した。県内で歯科医を置いた学校は、昭和一〇年時で師範学校二、中学校七、高等女学校一二、実業学校一二、小学校五八校に過ぎなかった。
 更に県は、学校衛生に従事する看護婦について同四年一月二五日「学校看護婦設置二関スル規程」(県報訓令第一号)を公布した。それによると、学校には知事の許可を得て学校看護婦を置くことができる(第一条)とし、看護婦の資格要件、衛生事項に関する従事内容などを規定したものであった。同四年一〇月二九日に文部省から「学校看護婦二関スル件」(文部省訓令第二一号)が公布された。県では、これに基づいて翌五年三月、県の規程に若干の修正を行った。この結果、同五年には師範・中・小学校に一〇校、同一〇年には師範学校二、中学校七、小学校二五校に学校看護婦が置かれた。しかし、この数は県全体の学校からみると微々たるものであった。一方、注目すべきは、学校歯科医にしろ学校看護婦にしろ、愛媛県では国の制度以前に設置を決めており、学校衛生の整備充実に積極的に対処していることである。
 昭和一〇年代に入ると、概して伝染病の流行は下火となったが、赤痢の増加が目立ち始めた。昭和一二年四月五日に保健所法が成立し、結核対策・母子衛生・栄養改善の指導などの総合的実施機関である保健所が設置され、衛生行政が強力に推進されるようになった。
 同一二年一月には学校身体検査規程の改定が行われ、身体検査項目中に坐高・胸郭・鼻および咽頭・皮膚の四項目を加え、新たに比体重・比胸囲・比座高の欄を設けた。更に、厚生省の設置(昭和一三年)や国民体力法(昭和一五年)と対応して、同一四年二月のトラホーム、う歯の予防基準の制定、同一五年の学校給食奨励規程の制定など、学校衛生も国民体力の増強の一環として積極的な形でとりあげられるようになった。

 戦時中の学校衛生

日中戦争、第二次世界大戦と戦局が進展するに伴い学校衛生も国策に協力する措置がとられた。昭和一五年に「健民修練」の一環を荷って「学校給食奨励規程」が設けられ、栄養面から体位の向上を図ろうとしたのを始め、同一六年には養護訓導の制度を設け、児童の養護面を強化して、それを鍛錬と一体化した学童の体位向上を強力に推進しようとした。
 昭和一六年一月八日に文部省に体育局が新設され、学徒の体育行政を統一的に扱うことになった。また、同一六年の国民学校令の発足に伴い小学校は国民学校となり、体操科は体錬科と改称され「体錬科体操其の3」に新しく「衛生」の項が設けられた。このことは、明治以来体育と衛生との一本化が初めて見られるに至ったことを意味し、学校衛生史上画期的なことであり、同時に戦後の「保健体育科」実現の布石となった。
 体錬科体操に設けられた「衛生」の内容は次の通りである。
      1 身体の清潔
        ①身体の清潔  ②口腔の清潔
      2 皮膚の鍛錬
        ①薄着     ②摩擦
      3 救急看護
        ①救急看護