データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

2 新制高等学校時代

 新制度の発足

戦争の終結とともに、昭和二一年、新憲法が公布され、翌二二年に制定された教育基本法及び学校教育法に基づいて、学制の大改革が実施された。その結果、新制度の中学校・高等学校・大学が誕生し、県下では同二四年の高等学校再編成によって、高校への進学者が急激に増加するようになった。
 新制度の発足とともに公布された学校教育法では、高等学校における教育目標として、第四二条の二に「社会において果さなければならない使命の自覚に基づき、個性に応じて将来の進路を決定させ、一般教養を高め、専門的な技能に習熟させること」と明記され、進路指導が初めて高校教育の主たる目標の一つとして位置づけされた。しかしながら、当時は敗戦による世情の混乱の影響等もあって、具体化するには至らず、戦前のままの指導体制が続けられた。ようやく昭和二五年になって、県下の各学校の校務分掌の中に、進路指導に関する事項が採り上げられるようになってきた。けれども、まだ現在のように進路課として独立し九分掌課ではなく、従来の教務課あるいは厚生課などの課内分掌の一つであったり、やや進んだものとしては、委員会組織のものであった。
 一・二の例を挙げれば、次のようである。

○大洲高等学校昭和二六年度設置の委員会(大洲高校学校要覧より)
 (A) 就職あっせん委員会
   1 目的 本校三年生並に卒業生の就職あっせんをする。
   2 組織 委員長・委員若干名・幹事六名を以て組織する。
    (イ)委員長 学校長之に任じ、委員会一切の活動を統裁する。
    (ロ)委員  教頭・総務課長(又は課員)生徒課長(又は課員)農業科主任・定時制主事・商業科主任・普農商各科の三年学年主任及ルーム主任を以って組織する。委員は委員長を補佐して当該年度の就職あっせんに関する方針を決定し、就職希望者の状況、求人側の状況等の調査の結果を持寄り協議の上、具体的あっせん事項を決定し幹事に必要事項を指示する。
    (ハ)幹事  委員の互選により六名を置く。幹事は委員会に関する事務を取扱うとともに、委員会の指示により求人側、職業紹介所、その他必要方面との交渉連絡に当たり三年ルーム主任の協力を得て就職に関する一切の事務を取扱う。(以下省略)
    (B) 進学委員会
      1 目的 生徒の大学その他進学に関する指導及之にともなう必要事項を処理する。
      2 構成 校長、教頭、教務課長、三年生主任、及生徒課・体育課より一名宛、内三名を常任委員とする。
      3 仕事の内容 (1) 各大学の内容、入試状況等の調査
              (2) 生徒の志望校決定に対する指導
              (3) 模試、課外授業の立案
              (4) 入試に関する事務(調査書、履歴書)の処理
      4 執行 常任委員が企画・立案し、必要の都度委員会において審議執行する。

 戦前から実施され、戦時中、中断されていた補習授業・模擬試験等も、新制度発足とともにいち早く学力向上策の一つとして復活し、戦後の混乱が治まるにつれて教務課等を中心に企画実施されるようになった。一方、就職指導では、海外からの引揚げ者等による人口急増と、それに伴って失業者が二〇〇万人を越えるといった厳しい社会情勢に対処するため、昭和二四年、職業安定法の改定が行われ、新法第二五条の三、第三三条の二によって高等学校が現在のように直接安定所に代わって職業紹介業務を遂行し得ることになり、高等学校における職業指導は大きな転換を迫られることとなった。更に、昭和二八年「学校教育法施行規則の一部を改正する省令」によって、高等学校及び中学校に職業指導主事(後に進路指導王事)を置くことが制度化されることとなり、県下の各学校では進路指導の組織の整備と学校内外の協力体制の確立が当面の急務となってきた。

 進路課の独立と指導体制の充実

世情が安定し、景気が向上するにつれて、全国的に高学歴志向が高まり、昭和二〇年代の後半より大学入試は激化の傾向を示すようになった。三〇年代になって、進学志望者の増加に伴って、県下では東・中・南各地区とも、自校だけではなく近隣の数校が合同で模擬試験を実施し、互いに学力の向上を競いあう風潮が生じてきた。例えば、新居浜西条地区の三校模試(後に五校とな)、松山地区三校共通模試、喜多郡内四校学力コンクール、南予模試などがそれである。また、これらと平行して、県下全域では、英・数・国三教科の研究会が中心になって模擬試験を実施する計画が生まれ、県下高校教員の自主運営による県内模試が昭和三二年より、希望校の参加を得て、出題当番地区を定め、自校採点二部当番校採点)の形式で実施され、後年の県下模試の基盤となった。県教育委員会でも昭和三〇年代に入って各学校の進路指導充実のために、職業指導実験校(後に進路指導研究指定校)の指定を開始した。このような情勢の中で、各学校では校内の進路指導体制の確立を急ぎ、校務分掌の中に進路指導課あるいは職業指導課等を設置するとともに、進路相談室を開設するなど、進路指導の必要性に対する認識が一挙に高まってきた。更に昭和三二年六月、県教育委員会・愛媛大学などの協力によって愛媛県職業指導研究協議会が結成され、中・高校一貫の進路指導を目指し、県教育委員会・県商工労働部・職業安定所等の指導助言を得ながら研究協議を開始、後に愛媛県進路指導研究会と名称を改め、中・高校一体の研究会として現在に至っている。このように校内外の指導体制が整うに従って、進路指導の内容も従来の進学・就職の指導あっせんのみにとどまらず、正しい職業観の育成や個性適性の発見・伸長を目指す方向に指導分野を拡充するとともに、進路指導が高校教育の重要な柱の一つであるとの認識が内外ともに深まってきた。
 教育課程の面でも、新制度発足当時の教科の自主選択制から次第にコース制に移行し、同三〇年代に入ってからは、ほとんどの学校で進学・就職による志望別類型や能力別あるいは文理別等、進路を考慮した教育課程が研究実施されるようになってきた。また進路相談室は進路指導室となり、県下では昭和三五年ころから急速に整備されて、進路に関する情報量も飛躍的に増大し、進路相談はもちろん、進路指導全般について広く活用され始めた。また進路担当の教師も他校や他県の進路指導の実状を視察研究するようになり、各校独自の「進路の手びき」あるいは「就職の手びき」等を作成し、生徒に提供する学校が増えてきた。

 県内学力テスト委員会の発足

昭和四〇年代になると、中学から高校への進学率は更に上昇し、生徒の質の多様化が問題視され始めた。また上級学校を目指す進学志向がますます強くなり、同四一年には、ついに県内の進学率は全国平均を越えるに至った。大学進学熱の高まりに呼応し、昭和三二年以来県内高校で実施されてきた県内模試を組織化し、より充実させるために、同三九年度の愛媛県進路指導研究会の決議を得て、愛媛県高等学校学力テスト委員会が同年発足し、翌四〇年度より県高校一斉模試及び二年生一斉実力テストが実施されることとなった。年間三年生対象は三回、二年生対象一回、自校採点の上事務局が集計資料を配布という形式で、初年度から参加校は五○校に及んだ。以来参加校は年を追って増加し、県内公私立高校のほとんどが参加し進学指導の重要な資料となっている。また昭和四三年から同五三年まで、高知県の一部の高校も参加するなど愛媛県模試として定着し現在に至っている。模試発足後の昭和四二・三年ころから松山市内校等でコンピューターによる資料の分析が研究され始め、このころから偏差値などの導入も行われるようになってきた。県内の進路指導が充実し活性化してくるに従って、指導の必要性に着目した県教育委員会でも、県内高校の教員を対象とする『進路指導の手びき』の刊行を計画し、昭和四五年に就職編を、同四七年には進学編を相次いで発行し配布した。
 就職指導の分野では、高校進学率の上昇につれて、若年労働力確保のねらいが、中卒者から次第に高卒者に移り、折からの経済の高度成長と相まって、いわゆる「青田刈り」が問題化してきた。このため従来野放しに近い状態にあった就職あっせんの開始期日を全国的に統一することとなり、文部省・労働省の指導によって、同四五年から八月一日以降に規制することとなった(同四七年より一〇月一日以降となる) また、翌四六年からは就職用調査書が全国統一形式になるなど、就職指導も全国的視野での改善工夫が行われる時代となってきた。
 進路指導の拡充とともに、文部省でも、現場からの要求もあって、同四六年一二月、省令第三一号を公布し、従来の職業指導主事の名称を改めて、進路指導主事とし、その職務内容を職業指導にとどまらず、その他の進路の指導に関する事項にまで拡大することとした。
 昭和四八年からの石油危機これに続く経済の低成長は、その後の進路指導にも影響し、進学・就職の地元志向の増加、Uターン現象などとなって現れ始めた。

 大学入試の改革共通一次始まる

昭和四〇年代後半から、進路指導の全国組織を望む気運が高まり、同五〇年、遂に全国高等学校進路指導研究協議会が結成されるに至った。四国四県でも、これに応じて同五〇年六月、関係者が松山市で協議の結果、同五一年一月に四国高等学校進路指導協議会が発足し、丸亀市において初の会議を行った。これによって全国的な研究協議体制が確立されることとなった。
 また、昭和四〇年ころから、大学入試の改善を要求する社会の要請が強くなり、文部省や国立大学協会(国大協)でも、それぞれ本格的な検討を開始した。同四六年、中央教育審議会及び文部省入試改善会議が相次いで意見を発表、翌四七年文部省はこの基本構想をもって国大協に研究を委託、国大協は同四八年、入試改善調査委員会を設置して検討を始めることとなった。大学入試については過去に進学適性検査・能研テスト等の方法が試みられたが、いずれも短期間で廃止となっている。国大協の答申により文部省は同五二年、大学入試センターを設立し、同五四年度より、国立大学入試を大幅に改めて、共通一次試験制度を導入することにした。この改善のねらいは、①難問奇問を排し、正常な高校教育に寄与すること②二期校コンプレックスを無くすること③自己採点によって、志望校の再選択を可能にすることなどであった。県内では、この改善に対して、指導計画を見直し、早くから生徒への指導や情報提供を徹底するなど万全を期した。そのため県内では比較的混乱もなく対処することを得た。しかし、これを契機として、高学歴志向は次第に鈍化のきざしを見せ、本県の大学進学率もようやく横ばいの状況となってきた。就職率もまた昭和五〇年ころから五〇%を割って漸次減少傾向となってきたが、代わって専修学校・各種学校等への進学者が増加し、県内生徒の進路に対する意識も徐々に変化しつつあるように思われる。同五八年に設置された臨教審でも入試制度の見直しが問題となっており、戦後順調に成長発展してきた県下の進路指導も、今や一つの反省期を迎えていると言えるのではなかろうか。
 最後に、前頁の表2-77によって進路別卒業者の動向を見てみよう。
  1 この表は国・公・私立の合計を示す。
  2 「進学者」とは、大学・短期大学等への進学者を示す。(通信制や各種学校の進学者は含まない。)
  3 「就職進学者」とは、就職しつつ進学した者をいう。(昭和五三年以後は進学者及び就職者に含まれ、内数として示す。)
  4 「その他」とは、死亡者や卒業後の進路不明の者等である。
  5 「進学率」とは、卒業者のうち進学者および就職進学者の占める割合である。
  6 「就職率」とは、卒業者のうち就職者および就職進学者の占める割合である。

松山東高校分掌

松山東高校分掌


表2-77 進路別卒業者数1

表2-77 進路別卒業者数1


表2-77 進路別卒業者数2

表2-77 進路別卒業者数2