データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

2 戦後の視聴覚教育

 視聴覚教育の組織と施設

 アメリカ進駐軍は視聴覚教育の重要性を強調し、県に視聴覚ライブラリーの設置を強要したので、昭和二三年一〇月一九目県庁の一室に愛媛県視聴覚ライブラリーが誕生した。職員は七名で、映写機・幻灯機の整備貸出、映写技術者の養成、映画・スライド・紙芝居の貸出などに当たった。
 その受け入れ体制機構として同二三年四月二〇日に視聴覚教育委員会が組織された。これは県・郡市・町村と三段階の組織で、行政機構と塞畏一体の役員で運営した。アメリカ大使館から貸与された一六ミリ発声ナトコ映写機二〇台(県三台・郡市一七台)ベスラー幻灯機一五台(県一台・郡市一四台)を配置し、毎週一本県ライブラリーへ配布されるCIE映画(同二八年からはUSIS映画)と県費購入の邦画フィルム数本を教材として発足した。この視聴覚教育委員会の活動は主として社会教育の場であった。
 そこで、学校教育面の振興のため、教員組合の文化部の事業として、郡市単位に学校巡回映画会が持たれるようになった。そして、昭和二九年七月一七日松山で協議会が開かれ、九月一一日に宇摩・越智・伊予・上浮穴・喜多・西宇和・北宇和の七郡に地区ライブラリーが生まれ、その連合体として愛媛県視聴覚地区ライブラリー協議会が結成された。後に東宇和郡・八幡浜市を加えて九地区となり、借用・購入フィルムの巡回映画会・映写技術講習会・研修会などの事業を活発に行い、視聴覚教育委員会と緊密に連絡して運営していた。また、周桑郡・北条市でも独自に学校巡回映画会を実施した。
 同三三年三月三一日学・社両団体の統貪が議決され、新しく愛媛県視聴覚教育協会が誕生した。
 県視聴覚ライブラリーはその後県立図書館内へ、次に県議会議事堂内へと所在を移した。同五〇年一〇月には堀之内に新築の教育文化会館内の県立図書館業務課視聴覚係として位置づけられたが、同五七年上野町に県総合教育センターが新設された際その中へ移管し、愛媛県視聴覚センターとなり、各種の最新の機器を備え、教材・機材の供給・助言・相談・研修・教材制作にと、中央の情報センターとしての活動を活発に行っている。
 昭和三〇年代の地域視聴覚ライブラリーは、任意設置の学校共同立で、巡回映画を主としたものであったが、同四〇年に入って公立化への努力が進められた。そして、同四四年松山市、四七年宇和島市、四八年大洲市・伊予三島市、四九年今治市、五〇年東予市・久万町、五一年広見町、五二年川内町、五三年八幡浜市・宇和町・伊方町、五五年西条市・北条市と相次いで国・県の補助を受けて設置され、地域に密着した教材・機材の整備と運営に努力している。
 また、高校の視聴覚ライブラリーも、昭和三〇年代からの自主的な活動が認められ、県の単独事業として順次整備が進められて、工業・商業・農業についで、同五一年には念願の普通科(五校)もスタートし、併せて八校に県立高等学校視聴覚センターの名称で完備された。

 視聴覚教育研究の推進

文部省は、昭和二七年『視聴覚教材利用の手引』を、同二九年『学校における視聴覚教材の設備』を刊行して積極的な動きを見せ始めた。県教育委員会では社会教育課が学校視聴覚教育も所管していたが、このころから毎年、小・中・へき地・高校などの数校を選び、視聴覚教育研究指定校に指定し、一か年の研究の成果を発表する研究会を開催してきた。その研究は、映写機が全国最低の所有率であり、教材映画の
所有が僅少なことなとがら、各学校・学級での映画の教材的利用は困難で、次第に放送利用が重点となっていった。
 文部省が、同三三年の学習指導要領の改訂に伴い、同三五年『小学校・中学校視聴覚教材利用の手引』同三六年『学校における視聴覚教材の設備と施設』同四一年『学校放送の利用』などを刊行し、視聴覚教材利用の規準を作ったが、愛教研でも同四〇年から視聴覚委員会を設け、同四一年からの愛教研大会には視聴覚分科会ができ、同四二・四四・四五・四六・四八年と、教科別研究がなくなるまでの間、各会場校で研究された。
 また、県教育委員会でも学校視聴覚教育の所管が義務教育課と高校教育課に移され、県教育委員会主催の県視聴覚教育指導者研究会が、同四二年から四六年まで毎年、夏季に宿泊して開催された。特に、四四年からは学習指導の近代化の気運の高まりで、東京工大坂元昂教授を三か年にわたって招き、教育工学的発想による授業のシステム化の研究を行った。同四五・四六年には学習指導近代化研究推進校が一〇校指定され、専任研究要員が東京工大および国立教育研究所で派遣研修を受けることも初めて実施された。
 昭和四八半には、文部省から『視聴覚教育研修カリキュラムの標準』が示され、県内での研修もそれにそって進められるようになった。同五七年からは新設の県総合教育センターで、毎年小・中・高校別に、各三〇名が視聴覚教育指導者研修講座を受講している。
 また、愛教研視聴覚委員会が主催する夏季研究会が、同四七年から毎年開催され、自主的に参加した小・中教員が、VTRやOHPなどの機器操作や教材づくり・番組づくりなどに熱心に取り組んでいる。

 放送教育の発展

ラジオ学校放送も戦後いち早く開始されたが、これを組織的に利用したのは、同二四年松山市立内宮中学校で開催された第一回学校放送研究協議会四国大会が最初である。この大会を契機に、県内学校単位で加入する愛媛県放送教育研究会が結成され、四国放送教育連盟もでき、初代理事長には温泉郡粟井小学校長有馬明が選ばれ、以後九年間にわたってその重責を果たした。テープレコーダーが出現したのがこのころであり、同三〇年代後半までラジオによる学校放送利用全盛の時代となった。同二〇年代研究成果をあげたのは、温泉郡粟井小・松山市立内宮中・宇摩郡松柏小・松山市立清水小などの各学校であった。
 昭和三〇年はNHK学校放送開始二〇周年であったが、本県のラジオ受信施設は小学校九〇%、中学校九五%に及んでいた。その活用のため県教育委員会とNHKは共催で毎年放送教育研究委嘱校を設け、発表会を行って、その成果を公開してきた。また、高校でも初めて同三〇年に長浜高校で研究会を開催し、高校視聴覚教育研究会を結成した。以後各高校での放送教育が急速に伸展しか。
 テレビが学校に設置されたのは、同三二年松山市和気小学校での愛媛県視聴覚教育研究発表会並びにテレビジョン教育講習会のときである。その後、テレビの設置校は急増し、一校一台から数台へ、更に全学級へとの運動が次第に高まり、また同五〇年代のVTRの出現によって、時代はテレビ放送利用の全盛時代を迎えた。
 大きい研究会としては、四国地区放送教育特別研修会が、昭和二九年愛媛大学、同三四年松山市立道後小、同三六年松山市立御幸中、翌三七年御幸中と開かれ、以後は県放送教育特別研修会として、同三九年県立青年の家、四〇年喜多郡鹿野川荘、続いて四一年松山市潮見観光ホテルで開かれ、そして同四二年以後は前述の視聴覚教育指導者研修会の中で放送教育の研修を深めてきた。
 放送教育研究会四国大会は、同二八年第五回が松山市立東雲小学校で、同三二年第九回が松山市拓川幼・愛犬附属幼・清水小・御幸中・松山東高・松山盲・松山ろうの各学校で、同四〇年第一七回が新居浜市立金栄小・角野小・大生院中・東中の各学校で、同四三年第二〇回が宇和島市立鶴島小・城北中の各学校で開かれ、この二〇回で一時休会となった。以後一二年を経て五四年再開され、同五六年には松山市立三津浜幼・垣生小・城東中・聖カタリナ高校の各学校で第二三回を開催しか。
 第一三回放送教育研究会全国大会が、同三七年一一月八・九日に「学習の近代化をはかる放送教育はどうすればよいか」を研究主題として松山市で開かれ、参加者延八、〇〇〇人と空前の盛会となった。会場校は愛媛大学附属幼・親愛幼・道後聖母幼・清水小・八坂小・御幸中・松山商業高校の各学校と番町小・城東中の特殊学級で、その研究と実践の質の高いことが認められた。県民館での全体会で、初めて近代的機器のアイドホールを使用したことも注目をひいた。

 視聴覚教材の自作

全校放送設備が整えられるようになって、校内放送の研究が盛んになってきた。小・中学生を対象として、臨海夏のラジオ学校が同二六年から開設され、一〇年にわたって学校放送への理解、校内ダー研修会と改め、番組制作・アナウンス・収録技術などの研修に励み三二回を数えている。高校では、この研修の後、毎年高校放送コンテストを実施し、その優秀者を全国コンテストに参加させているが、その水準は高く、好成績を収めてきた。
 同三〇年代は毎日のプログラムを編成して校内放送をするところも多かったが、同四〇年代からは学校運営上の伝達が主体となって、児童生徒の表現活動の放送は少なくなってきた。同五〇年代からはテレビによる全校放送設備をもつ学校も出現して、再び校内放送が見直されてきた。
 また視聴覚教材の自作については、同二〇年代後半から関心が高まり、県から四国へとつながる四国四県自作幻灯画紙芝居コンテストが、同二七年から開始された。そして年を経るにつれて紙芝居の応募がなくなったので、代わって八ミリ映画が加わった。しか七、四県の共催も困難となり、同五〇年から県単独で、自作視聴覚教材コンテストとしてスライド・八ミリ・VTR録画の三部門で開始した。以後一〇年間、スライド・八ミリは漸次減少の傾向で、VTR録画が次第に増加してきている。

 視聴覚教材の普及状況

古い統計資料は部分的であるので、一応まとまって調べた県教育委員会の昭和三二・三九・四四年度のものと、愛教研の同四九年度の四回の調査を使って、小・中学校での主要な教材の普及状況は次の図2-12のとおりである。
 三二年には八ミリ・OHP・VTRは調べていないので、あとの三回分となる。同四九年のテレビ・OHPは学校としての保有は一〇〇%を超しているので、望ましい「学級」での保有率に変更している。 
 五〇年代の調査が得られなかったが、同六〇年の普及率はコハミリ映写機を除いて、ほとんど二〇〇%であろうと予測される。

 マスコミの悪影響対策

昭和二五年ごろから製作上映されだした性典映画の青少年に及ぼす悪影響が問題となり、不良映画を排撃する世論も強くなってきた。香川県では同二六年から青少年保護育成条例を設けて不良文化財から青少年を守ろうとし、映画倫理規程管理委員会でも同三〇年に青少年映画委員会を設けて、成人映画の指定や青少年向映画の推選などの方策を実施した。同三一年太陽族映画が現れるに及んで、本県教育委員会では青少年映画対策委員会を設けて審議した結果、規制よりは批判力の養成を重点に決めた。そこで、推選映画と成人映画について教育広報や文書で周知を図り、同三三年には松山市内の小・中学生を対象として日曜映画教室を毎月二回実施し、高校生には高校映画問題協議会で審議した優良興行映画の団体観覧などを行い、鑑賞力を高めることに努めた。特に特記すべき事業は、県連合婦人会による母と子球よい映画をみる運動であった。同三三年婦人会員による一戸一〇円募金運動が県下に展開され、一八九万三、九〇五円の募金を得て、一六ミリ映画三六本を購入し、児童劇・学校教材・社会教育教材・動画の四本を一組とし、九番組を編成し、同三四・三五年に三回にわたって全県下を巡回した。延ベ一七六市町村、上映回数一、二八七回、延べ四〇万四、五五五人が観賞し、全国でもまれな運動であった。同三六年以降も青少年がよい映画をみる会、へ台地巡回映画会など、一六ミリによる本県独自の対策が実施された。
 また、同三一年NHKテレビが松山から放送され始め、続いて民放局の新設により、各家庭にテレビが急速に普及し、子供だもの家庭視聴による学習・健康・生活などに及ぼす悪影響を豪慮するようになった。そこで多くの学校・PTAでは、テレビ視聴の実態を調査したり、番組の研究を行って、子供たちの視聴態度をよくする適切な対策をとることに努めた。やがてこの問題も、家族ぐるみでテレビ番組の選択力・批判力を高めていくことで収まっていった。

 ニューメディアへの対応

産業界の急速な技術革新は、「視聴覚」の概念では覆いつくぜない媒体までも視聴覚教育の領域に導入させるようになってきた。
 アメリカで研究開発されたティーチングマシンをきっかけに、反応分析装置、ランゲージラボラトリー、シュミレーター、マイクロコンピューター等も視聴覚教育の一環であるかのように進められてきている。
 更に近い将来、教育現場に導入されるであろうマイクロコンピューター(パーソナルコンピューター)、ビデオテックス(キャプテンシステム)、ビデオ(VTR・ビデオディスク)、CATV(リクエスト対話方式)、テレビ多重放送(音声多重・文字多重・静止・ファクシミリ)等のニューメディアにどう対応するのか、大きな課題である。
 県教育委員会では、昭和四六年度から情報教育に取り組み始めたが、ニューメディア時代の到来に備えて同六〇年度から推進委員会の設置・研修の拡充・設備の充実等情報教育にいっそう力を入れることになった。同六二年度には県内全局等学校にパソコンが完備されることになる。全国に先駆けて導入したニューメディアを活用できるかどうかは教師の研修と力量にかかっていると言えよう。

図2-12 視聴覚教材の普及状況

図2-12 視聴覚教材の普及状況