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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

1 戦前の視聴覚教育

教科書を主たる教材としてきた我が国の学校教育においても、絵・図一掛図などを資料として利用することは、明治五年(一八七二)の学制発布以来ずっと続けられてきている。このことは、宇和町の開明学校所蔵の博物図(明治六年刊)をはじめとして、多くの資料で知ることができる。
 そして、近代的な視聴覚教材ともいうべきスライド・映画・ラジオが、教育の場に持ちこまれた歴史もかなり古い。明治一三年に、文部省が、教育幻灯画を製作して全国の師範学校に配布したことから、同九年設置の愛媛県師範学校へも配布されたものと思われる。しかし、その後の業者による幻灯画製作が、社会教育向けに重点がおかれたので、学校教育では目立った普及がみられなかった。昭和八年(一九三三)ごろから、しばらく忘れられていた幻灯(ガラススライド)が復活の気配をみせて、同一一年ごろから教師のスライド自作も次第に行われてきた。同一六年から一八年にかけて、文部省は初めてフィルムストリップをとりあげ、その製作を活発に行って、四、八〇〇台の幻灯機とともに各府県に配布して、教材スライド利用の基盤を作った。
 昭和四年ごろから、新しい児童文化財として姿を現わし始めた街頭紙芝居は、同八年には教育紙芝居として登場し、同一二年ごろから幼稚園・小学校における利用が次第に活発になってきた。
 また、NHKのラジオ学校放送は、昭和一〇年から全国中継によって開始されたが、本県では、同一六年三月の松山放送局設置まで受信機が普及せず、その後も学校での利用はあまり行われなかった。

 映画教育の発生・推移

映画が我が国へ輸入されたのは明治二九年(一八九六)であるが、明治年代は興行的なものであって、
教育的利用は大正に入ってから考慮され始めた。
 本県での映画教育の先覚者は牧野景吉である。牧野は明治四四年一二歳の時、父に買ってもらった石油ランプ光源の幻灯機により視聴覚の世界に足をふみ入れ、大正一二年二四歳で母校八幡浜町白浜小学校の教員となった時、父に無理を言ってフクロ式無声三五ミリ手廻し映写機を買ってもらい、児童を対象に映画教育を行った。東京市の小学校で輸入の携帯用映写機を購入しはじめたのが同一〇年であるから、いかに早かったかがわかる。そして、昭和三年大毎・東日両新聞社が学校巡回映画連盟を発足させると、村田吉右衛門などとはかり、会員四百余人でこれに加入し映画会を始めた。また、教員の同志とともに校長連を説いて、小学生五、〇〇〇名から一人五銭の寄付金を集め学校フィルム・ライブラリーを設立することを提唱したが、全国でも新しいことでその企画は敬遠されてしまった。やがて、同九年に大毎・東日学校巡回映画連盟主催で、巡回映画教育研究講習会が松山市青年会館において県下教員を対象に初めて開催された。同一一年には、牧野・村田は県教育課長に、県で映画教育を取り上げるよう進言したので、県は直ちに松山・宇和島・新居浜の三か所に文部省社会教育官中田俊蔵を招いて映画教育講習会を開いた。これが、県が公に映画教育を取り上げた最初である。翌一二年県は奈良県桜井小学校の下野宗逸を招き、松山・今治・宇和島・八幡浜で映画の実際教授講習会を開催した。これが契機となって、同一四年愛媛県映画教育連盟が誕生した。そして、八幡浜・新居浜で映画教育実践発表研究会が開催された。翌一五年連盟の規約改正により牧野は主事に迎えられ、この連盟の活動も軌道にのるようになった。同一七年には松山市内の映画館との提携で、日曜の午前中、文化映画・ニュースによる小・中学生の映画教室が持たれるようになった。当時連盟には、サイレントの一六ミリ・三五ミリ映写機各一台、県下市町村には一六ミリ映写機二百数十台があって、主として学校中心に動いていた。この年、戦争の推移により連盟も大日本映画教育会愛媛県支部と改称させられたが、同一八年には愛媛県視覚教育協会と改めた。このころ、戦争の激しさにより、教材フィルムが入手難となり、映画教育の灯は消えかけていた。そして、同二一年一月アメリカ軍の進駐により、県費購入の三五ミリ・一六ミリフィルム約一五〇本は県の手で破棄処分され、協会所有の一六ミリフィルム百十数本は進駐軍に接収され、一〇年間の苦心の結晶であった戦前の映画教育に終止符がうたれた。