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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

5 戦時下の学校行事

 昭和六年(一九三一)の満州事変から昭和二〇年(一九四五)の太平洋戦争の敗戦に続く、いわゆる「一五年戦争」期は戦時体制、更に決戦体制下の教育である。
 学校行事では、それまで四大節中心に行れた儀式のほかに、春季皇霊祭・祈年祭・神嘗祭・新嘗祭・靖国神社祭等の国家神道的行事、神武天皇祭・大正天皇祭・地久節・皇太后御誕辰の皇室関係行事、教育勅語・戊申詔書・国民精神作興詔書の下賜記念行事、陸海軍記念日をはじめとする各種記念行事、地方祭・軍旗祭・招魂祭・郷土偉人記念行事などの地域関連行事、また端午の節句・ひな祭・義士会等が教科外における訓育の機会として積極的に取り上げられるようになった。
 更に昭和一二年(一九三七)以降は、応召・入営・出征兵士(部隊)の見送り、帰還兵士(部隊)の出迎え、更に戦没者の遺骨凱旋に学校あげて参列している。昭和一三・一四年になると戦没者の市町村葬が学校やその他の施設を会場に催され、職員児童の参列記事がどの学校沿革誌にもみられるようになった。
 昭和一四年九月一日からは毎月一日を興亜奉公日と決め、この日には特に早起き励行・時間厳守・報恩感謝・節約貯金・大和協力・心身鍛錬・勤労奉仕・物資愛護などのスローガンが掲げられ、ふさわしい行事が実施された。また、昭和一七年になると、この日にかわって毎月八日を大詔奉戴日と定めた。伊予郡郡中東国民学校では午前六・七時に集合する暁天動員を実施し、開戦の詔書奉読式・閲団分列・神社参拝・歩行会・清掃・勤労奉仕などを行った。
 昭和一六年の国民学校令施行規則第一条に「儀式・学校行事等ヲ重ンジ之ヲ教科ト併セ一体トシテ教育ノ実ヲ挙グルニカムベシ」とあるが、この前後から行事重視の傾向が顕著となる。ことに戦争完遂という至上課題の下で、戦時体制優先の教育色が深まると、行事の肥大化が促進されることとなった。
 こうした傾向に対して、例えば、

 「国民学校は行事を重視するといふので、行事に特別の教育的意義を負はせて、之を恰も、国民学校の中心的地位に据えようとしたり、或は団体訓練や集団勤労作業などに、国民学校の本質を認めやうとする事は、決して国民学校教育精神の真の体得ではないと思ふ。学校教育である以上、授業を通しての教育がその中核でなければならない」(愛媛教育一七年三月号)
 「世人往々錬成の真義を理会せず、或は流れて道徳的躾に偏し、或は走りて団体的鍛錬に過ぎるの憾なしとしない」(『愛媛教育』 一八年六月号)

といった声はあっても、どの学校も、砂採り・麦刈り・石運び・煌とり・落穂拾い・農耕・山林作業等の奉仕や強歩・水泳・強行軍などの体育錬成、更には手旗信号・防空・防火・救急などの国防訓練に明け暮れることとなる。昭和一九年からは日曜日を返上、夏休みも廃止され、いわゆる月々火水木金々の学校生活になっていった。
 この時期、奉安殿のほかに神殿・忠霊殿・英霊殿(室)などの施設が校内に造営されていることも深刻化する時局を反映している。そして昭和二〇年はまさに臨戦下の教育となる。毎日のように発せられる警報下では、始業時刻の遅延・授業中止・下校・午後授業などという変則的な学校生活が常態となり、都市部の学校では被災してついには教育機能も放棄しなければならぬ状態となった。