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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

2 戦後の商業教育

 終戦直後の商業教育

終戦を迎え、昭和二〇年(一九四五)九月から授業は再開され、翌年四月、工業学校に転換していた八
幡浜は商業学校として、宇和島は商工学校として復活し、商業教育は再建の息吹を始めた。修業年限は戦時中の特別措置によって四年制となったままであったが、同二一年四月から五年前の旧に復するようになった。同二二年八月、松山商業学校に文部省委嘱実務講座(夜間)が併設され、同年一二月、廃止された。
 昭和二三年四月、学制改革が行われ、新制の商業高等学校が発足することとなり、松山商業高等学校・八幡浜商業高等学校・宇和島商業高等学校・私立松山女子商業高等学校と改称された。新居浜市立女子商業学校は県立に移管されて新居浜商業高等学校となった。また同年九月、定時制課程が併置されることとなり、松山商業高等学校と八幡浜商業高等学校に夜間の商業科が生まれた。これまでは県下を通じて、私立松山夜間中学校のみが勤労青少年に対する唯一の夜間の中等教育機関であったので、この制度は勤労青少年には喜ばれ、相当高年齢層の入学者があった。
 発足当初文部省が示した商業高等学校の教育課程は、実習に重点をおくものであった。このころは教科と科目との区別がなく、すべて教科と称しており、教育課程も教科課程といわれていた。この当時は、わが国の教育は、すべて連合国軍最高司令部民間情報教育局(CIE)の指導監督の下に行われていたので、この教科課程もCIEの職業教育担当官モスの指導によって作成されたものである。モスは工業教育の担当官であり、CIEに商業教育の専門家がいなかったので、商業教育を兼任していたのである。この教科課程で実習を中心とするという考え方は、工業教育の在り方を、そのまま商業教育に当てはめたものにすぎず、商業教育界においては、これに対して批判的な意見が多かった。更に英語が商業科目の一種とされていることも、この教科課程の特色であるが、これは戦時中に英語教育が弾圧を受けたときに、商業学校では商業科目として英語教育を存置したためであって、これが今日に至るまで英語の単位数を商業科目の単位数として計算できるという規定の源泉となった。
 この教科課程は発足当初の同二三年度の一年間だけ実施され、翌年度からは改訂されたものが実施された。すなわち、この教科課程は戦後早々の間に作成されたものであり、批判が多かったため、直ちに改訂の作業が進められ、その骨子は同年度のうちにCIEと文部省との協議によって定められ、それによる学習指導要領が翌年から編集に着手され、同二五年版として刊行された。戦後、高等学校の商業教育に関する学習指導要領としては、これが最初のものであった。この時から商業高等学校においても単位制が採用され、すべての高等
学校を通じて、普通教科は国語・社会・数学・理科・保健体育の五教科三八単位か共通必修とされるようになったし、商業高等学校では原則として商業科目三〇単位以上を必修とするように定められた。また、
普通科高等学校等でも必要に応じて商業科目を選択履修できることとされ、高等学校全体を通じてみれば、商業科目のすべてが選択科目とされるようになった。これにより、本県でも普通科で卒業後直ちに就職する生徒の多い高等学校では商業科目を選択履修させるようになった。更に、この時から教科と科目との区分、特別教育活動の教育課程に占める位置付けも明らかにされて、教科課程は教科とともに特別教育活動を含んで、教育課程と改称されるようになった。なお、英語は普通教科の外国語として独立し、商業科目としては商業外国語として商業英語や商業中国語等が残された。ただし、従来の関連から商業科では特例として普通教科の英語を商業外国語と合わせて一〇単位までは商業科目三〇単位の中に含めて計算できることとされた。

 総合制による混乱と単独制への復帰

このようにして、教育課程も一応整備されて、新制の商業高等学校の教育は軌道に乗るようになったが、ここでまた、予期しない大きな困難に遭遇することとなった。それは当時の占領軍によって強行された高等学校の総合判を中心とする再編成の問題であった。これによって同二四年九月、県立高等学校の整理・統合が実施され、特に本県関係の米軍指導者は総合制の主張が強く、四八校の県立高等学校を二九校に統廃合させられ、県下に一校の単独校も認められなかった。文部省の調査によれば、単独制商業高等学校として残存したものは、全国でわずかに七一校であり、その大部分は東京を中心とした東日本地区であった。その反面において、総合制の実施により、従来は商業科が存在していなかった地域においても、総合制高等学校の中に商業科が設置されるようになり、総合制における商業科の数が圧倒的に多くなった。かくして、松山商業高等学校は松山東高等学校商業科、八幡浜商業高等学校は八幡浜高等学校商業科、宇和島商業高等学校は宇和島東高等学校商業科、新居浜商業高等学校は新居浜東高等学校商業科と改称され、三島高等学校・今治北高等学校・宇和高等学校に新しく商業科が設置され、翌年四月、西条北高等学校と大洲高等学校に、また翌二六年四月、新居浜西高等学校定時制と宇和島南高等学校定時制にも商業科が設置された。この総合判高等学校のねらいは、普通科高等学校における大学への進学率は全国平均で三〇%程度であったにもかかわらず、あたかもすべての生徒が大学へ進学するかのような教育が行われがちであることを是正して、生徒のそれぞれの進路と必要に応じた教育を実施するために、各高等学校にそれぞれ数種の学科を併設すべきであるということにあった。このような理念に基づいて実施されたが、現実にはこの教育的理想は実現されず、大多数の総合制高等学校においては普通科の色彩がますます強化され、商業科は微力な存在に転落するようになった。例えば、これらの商業科においては、商業科目担当教員は二、三人が普通であり、はなはだしい場合は一人だけであって、三〇単位以上の商業科目の授業を行うことは不可能に近かっか。また、施設設備も皆無に等しく、そのうえ、総合制においては、商業科の教員数や施設設備の充実強化を図ろうとする熱意も努力もほとんど見られず、商業教育の萎靡沈滞を招く状態に陥ってしまった。この総合制の強行によって受けた商業教育の被害は、戦時中の商業教育への弾圧にも相当するものであり、戦後ようやく復興の気運に際会した商業教育は、ここにまたもや深刻な受難の時期を過ごすことになった。しかし、この総合制の強行実施による混乱も、同二四・二五年が頂点で、その後はその弊害も次第に明らかになってきたので、再び単独制への復帰を要望する意見が全国的に高まってきた。もともとこの政策は占領軍の地方軍政部が強行したのであって、中央のCIEは必ずしも賛成ではなかったし、文部省もわが国の実情に照らして、この政策には賛成ではなかった。これを受けて、文部大臣の諮問機関である「職業教育及び職業指導審議会」が同二四年一一月、総合制の問題について公式の見解として、単独の高等学校を設けることを可とすることを発表し、これを契機として、単独制復帰の動向が活発化し、本県でも伝統ある産業高等学校は分離独立の機会をねらっていたが、その端を発したのは、松山東高等学校商業科で、PTAと同窓会によって独立期成同盟会が結成されて、粘り強い陳情が続けられた。生徒をこの運動に加えてはならないと固く生徒の動きを禁じていたが、生徒は関心を持たぬはずはなく内に燃えていたようである。同二七年一月二五日、ついに県下でトップを切って分離独立し、松山商業高等学校として復活した。同年四月には農業・工業の独立校も発令された。
 松山商業高等学校の独立までには、いろいろの問題があったが、当時のPTA会長であった空谷光友はビルマ戦線で鬼部隊長といわれた人で、ビルマで片足を失って不自由な義足にもかかわらず、県教育委員会に日参したのであり、教育委員は義足の音を聞くと身が縮む思いがしたと笑えない話もある。また、松山商業高等学校の校地と校舎を松山市立城東中学校に売却して松山東高等学校の方へ移転するという情報が流れ、この買収の件が松山市議会の議案として今日出されると聞いで、生徒たちは生徒大会を開いて市会へ押しかけることになったが、市会にこの議案が出されないことを知っておさまった一幕もあった。八幡浜商業学校の廃校問題とともに、商業教育の危機に際して示した生徒達の情熱に心打たれるものがある。
 昭和二八年度には、全国の公立全日制だけについて見れば、単独制は一九%、総合制八一%となり、更に同三〇年度には全国各都道府県で単独制商業高等学校が存在しない所は皆無となった。このようにして、混乱を極めた総合制の問題も次第に望ましい方向に解決され、商業教育はようやく安定した歩みを続けることができるようになった。

 産業教育振興法の成立と商業教育

昭和二六年(一九五一)六月に産業教育振興法が制定公布され、翌年度から産業教育の施設設備について国庫補助が行われるようになり、戦後、振興されるべくして実質的にはかえって萎靡沈滞した農業・工業・商業等の産業教育は、ここに初めて飛躍の転機を迎えることができた。これによって、戦後ほとんど皆無に等しかった商業科の施設設備も次第に充実されるようになり、商業教育は生気を取り戻し、軌道に乗って発展の道をたざるようになった。更に、全国商業高等学校協会が同二五年度から珠算実務検定を創始し、ついで翌年度から簿記実務検定を開始し、その後タイプライティングや商業英語の実務検定をも実施し、本県もこれらの検定に参加し、商業教育の振興発展のために多大の貢献が果たされた。同二八年一月、小松高等学校に商業科が併設された。同年愛媛県商業教育振興会が誕生し、商業教育関係教員と実業界の賛助会員によって構成され、その事業としては、研究会・講演会の開催、教員の内地見学派遣、高等学校の珠算競技会、タイプライティング競技会、加算器競技会、生徒の研究発表会、愛媛県簿記実務検定及び珠算実務検定の実施、研究誌『商業教育』の発刊等の多岐にわたるものであり、商業科目担任教員の研修や教育内容の充実にその功績を挙げている。同三〇年四月、私立新田高等学校に商業科が併設された。
 昭和三〇年代には全国的に商業科の生徒数が著しく増加したのであるが、同年度には同二四年度の生徒数の約三倍となった。これは高等学校のすべての学科を通じて最高の増加率であって、戦後いろいろと困難な道を歩みながらも商業教育は着々と発展してきたということができる。特に、本県では同二五年四月より男女共学が実施され、女子教育の伸張が目立ち、各職場への女子の進出は目覚ましく、その影響もあって商業科への入学希望者の男女比は男子一に対し、女子二の割合で、女子の進出により入学者も非常に増加した。この現象は本県だけではなく全国的な傾向であり、中等商業教育の歴史において画期的なことである。

 商業教育の改善拡充

昭和三一年度に、高等学校の学習指導要領が全面的に改訂され、同年度の第一学年から実施された。商業科においても、この時の改訂で商業科目の種類が従来の一四科目から二〇科目に増加した。商業科目の種類がこのように増加してくると、これらのすべてを生徒に履修させることは不可能であることは明らかであり、また、それは不必要であって、各生徒がそれぞれ必要とするものに重点をおいて、学習することのできるような態勢を整えなければならなくなってきた。それで、文部省は教育課程の具体的な編成例として全日制について一一例、定時制については一例を示して、各高等学校の参考に供した。これが商業科の教育課程の諸類型として発表された最初のものである。この類型の名称は、全日制商業科が、普通商業・自営・経営・販売・貿易・金融・経理・一般事務・工場事務・計算事務・文書事務であり、定時制商業科は、普通商業であった。県内の高等学校商業科は、この示された類型の中から、生徒の志望や進路状況等を考慮して、適切な類型を選定して教育課程を編成した。
 また、普通教科もこの時改訂されて、高等学校のすべての学科を通じて、その共通必修は、国語・社会・数学・理科・保健体育の五教科であることは、従来と同様であるが、その合計単位数は従来の三八単位から三九単位となった。しかし、商業科においては伝統的に英語を重視し、これを一五単位とする場合が多いので、普通教科の合計単位数は五五~六〇単位程度となるのが通例であった。なお、外国語の一〇単位までは商業科目の単位数として計算できるという特例は従来どおり認められたが、商業英語は商業科目であるから、これとは別に、この規定は普通教科の英語だけについて適用されることとなった。
 昭和三五年四月、新居浜市立商業高等学校が設立され、新居浜東高等学校商業科の募集は停止された。翌年四月、私立松山城南高等学校に商業科が併設され、翌三七年四月、新居浜西高等学校定時制と宇和島南高等学校定時制の商業科とともに、翌三八年四月、小松高等学校商業科の募集が停止され、県内の商業科の整理が行われた。
 当時、農業・工業・商業などがそれぞれ独白の教育振興会をつくり、横の連絡もなく活動していたが、同三八年これらを統合した愛媛県産業教育振興会が結成されて、中央の産業教育振興中央会につながることとなった。
 昭和三一年に改訂された学習指導要領は、その後の小・中学校の学習指導要領の改訂に伴い、更に改訂が必要となり、同三五年一〇月に第三回目の改訂学習指導要領が告示され、同三八年度の第一学年から実施された。このたびの改訂では、普通教科の問題が中心課題であり、商業科における普通教科は、国語九単位、社会九単位、数学七単位、理科六単位、保健体育九単位、芸術一単位、外国語三単位、計七教科四四単位が最低限度の共通必修とされるようになった。一方において、商業科目の必修単位数は従前の三〇単位以上から三五単位以上と改められ、事情が許す場合には四〇単位以上とすることが望ましいとされた。ただし、特例として外国語を一〇単位までその中に含めて計算できるという規定は、依然として残された。このように普通教科の共通必修も従来の三九単位から四四単位に増加し、商業科目も三〇単位以上から三五単位以上に増加したので、必修の単位数は両者で合計一〇単位増加したことになり、教育課程の弾力性は、それだけ縮小され、自由選択の余地はほとんどなくなってしまった。
 このたびの改訂では、商業科目の種類は二〇科目で従前と同じであったが、各科目の目標・内容・指導上の留意事項について、それぞれ改善修正が行われた。特にこのころから普及しはじめた事務機械の導入に伴う企業事務の改善合理化に関する問題を、商業教育においてどのように取り扱うべきかということが中心的な課題となり、これを関連する各商業科目の内容に加えて、それぞれの内容が整備された。更に、教育課程の編成についても、類型の構想が前回の改訂よりいっそう明確にされた。すなわち、従来から各高等学校商業科の教育課程は、依然としてその大部分を共通に必修とする単一の固定的なものが多かったのであるが、増加する生徒の多種多様な進路・適性・能力等の相違に応ずることのできるように、引き続いて数種の類型を設けることが望ましいとされ、全日制については、A・B・C・D・Eの五類型、定時制については、一般的な一類型が参考として示された。この全日制の五類型は、それぞれの内容から見れば、総務型・経理型・販売型・文書事務型及び女子の一般事務型というように区分することができるもので、従前の一一類型と比べて、産業分類的な色彩がなくなり、もっぱら、職務分類的な構想に基づいて整理されている点が異なっている。
 文部省では学習指導要領の公刊とともに、これを解説ふえんするため、学習指導書を編集し刊行した。これらの学習指導書は、いずれも各科目における指導上の諸問題を中心に望ましい方向を研究し、記述したものであるが、特に「商業経済関係科目編そのI」の第一章において、高等学校における商業教育の性格について述べ、商業教育はコマースの教育というよりも、ビジネスの教育であることを明らかにしている点に画期的な意義があった。
 また産業教育振興法による商業科の施設設備基準については、当初からその引き上げの要望が強かったのであるが、特に商業科目の内容に事務機械に関するものが加えられるようになってくると、その指導に必要な施設・設備の充実が強く要請されてきた。それで、学習指導要領の改訂を契機として、ようやく本格的にその基準改訂の作業が進められることとなり、同三六年二月、中央産業教育審議会は文部大臣から諮問を受けて、同三八年一〇月、「高等学校における産業教育実験実習施設設備の基準の改善について」を答申した。これに基づいて同四○年四月末、省令として細目が公布されるに至った。その新しい基準には、商業科の施設としては計算実務室・簿記実習室・簿記機械実習室・文書実務室・和文タイプライティング実習室・英文タイプライティング実習室・商品実験室・商業美術実習室・統計実務室・商業実践室の一〇室があり、学級数によって、その広さと設備金額が定められているが、いずれも旧基準に比べて著しく増加し、設備についても、品目・数量・金額ともに大いに引き上げられている。このように新基準が設定され、それによる国庫補助も同三九年度から先行して実施されたので、長い間要望されてきた施設・設備の充実の問題も、当時としては一応の解決を見るに至った。
 なお、施設・設備とともに重要なことは教員の問題である。特に事務機械の教育は従来の商業教育にはほとんど含まれていなかっただけに、これを指導する教員の現職教育が当面の急務とされた。そこで文部省は同三〇年代の後半、毎年夏期休暇に事務機械、事務管理に関する指導者養成講座や実技講習を産業能率短期大学及び協力会社と提携して開催した。これらの講習を契機として全国各地で事務機械や事務管理の教育の研究活動が極めて活発になり、それぞれの地区においても研究会や講習会がもたれるようになった。また、商業教育担当の教員数は、同三七年には大分増加したのであるが、実務的な科目の担当教員は依然として不足しており、その充実と補充は極めて困難であった。ここにおいて文部省は教職員免許法の一部改正を行い、計算実務の教員資格を付与するための認定試験を柔道・剣道とともに実施することになった。この制度は現在も継続されている。
 商業教育が発達するにつれて、都道府県教育委員会に商業教育担当の指導主事を配置するところが次第に増加してきた。新制高等学校発足以来、商業教育担当の指導主事の数は、農業・工業・家庭科担当の指導主事に比べて少なく、他の教育分野の担当者が兼任している場合が多かった。本県では同二五年二月に商業教育担当の指導主事を配置している。同四〇年代になると、ほとんど全国的に専門の指導主事が置かれるようになった。
 昭和四〇年四月、私立帝京第五高等学校に、また同四三年一月、東温高等学校に商業科が併設された。同年私立松山女子商業高等学校は聖カタリナ女子高等学校と改称された。

 職業教育の多様化と商業教育

昭和四一年(一九六六)一〇月、文部大臣から諮問を受けた「理科教育及び産業教育審議会」(理産審と略す)は同四二年八月と翌年一一月の二回にわたって、「高等学校における職業教育の多様化について」の答申を行い、商業教育については第一回の答申で、商業科以外の新しい学科として、事務科・経理科・営業科・貿易科・秘書科の五つが取り上げられ新設が決定された。この決定に基づき、本県では、同四
四年四月、従来の商業科の外に、商業教育の専門化と現代化を進めるため、松山商業高等学校には、営業科・事務科・管理科が、八幡浜高等学校商業科には事務科が、今治北高等学校商業科には事務科・管理科が新設された。翌年四月、八幡浜高等学校定時制の商業科の募集が停止された。
 情報社会化の進展に伴い、理産審は同四四年一二月に「高等学校における情報処理教育の推進について」の建議を行った。この建議により情報処理科の設置が決まったのを受けて、同四六年四月、松山商業高等学校の管理科は情報処理科と改称された。文部省は翌年三月、教職員定数法施行令の一部を改正し、情報処理科における教員及び実習助手の定数を各二名増加することとなったので、松山商業高等学校の指導教員の養成と確保、実習助手の配置が行われ、必要な施設設備の整備も国庫補助を受けて急速に行われ、情報処理教育の充実と推進が図られた。
 また、さきに学習指導要領が改訂されてから一〇年が経過し、その間、高等学校への進学率の上昇とこれに伴う生徒の能力・適性・進路の著しい多様化並びに科学技術の発達や経済・社会・文化の目覚ましい進展等、事態は変貌した。そこで文部省は同四五年一〇月、新しい学習指導要領を告示し、同四八年四月の第一学年から学年進行をもって実施することになった。商業教育に関しては、前回の改訂が小幅にとどまったこともあり、このたびは大幅な改訂がなされ、経理関係の教育の体系化と新しい内容の追加、事務関係の教育内容の明確化と、特に情報処理教育の推進、マーケティング関係の教育の拡充整備を三本柱として、学習内容の充実と指導法の現代化が図られ、科目数も従来の二〇科目から三六科目と大幅に増加した。また商業に関する学科としては、従来の商業科の外に前述のように経理科・事務科・情報処理科・秘書科・営業科・貿易科の六学科が取り上げられた。商業教育の諸学科における専門科目の最低履修単位数は、外国語一〇単位までを加える特例とともに、改訂後も三五単位と変わらず、教育課程を弾力的に編成する趣旨から、「四〇単位以上とすることが望ましい」の文言は削除された。普通教科は、国語二科目九単位・社会四科目一〇単位・数学一科目六単位・理科一ないし二科目六単位・保健体育二科目九単位・芸術一科目二単位の合計六教科四二単位、女子はこれに家庭一般四単位を加えて七教科四六単位が、すべての高等学校における最低の共通履修となった。なお外国語三単位以上が必修から除かれ、各学年一単位相当のクラブ活動が必修となった。
 なお、商業科目担当教員の研修のために、同四〇年代にはいってからも、従来からの指導者養成講座や実技講習は毎年継続して開催されてきたが、文部省が主催する新規の講習として、三か月にわたる長期の情報処理教育講座が同四五年度以降東京と大阪で開催され、年々受講者が拡大されている。また、内地留学生制度も同年度には、国立大学から初めて産業界等にまで派遣先が広げられた。
 昭和四七年一二月、三島高等学校商業科に事務科と営業科が、八幡浜高等学校商業科に営業科が、新居浜市立商業高等学校に情報処理科が併設された。これで本県の情報処理教育が一段と充実し向上することになった。しかし同五三年一二月、三島高等学校商業科と、翌年四月、八幡浜高等学校商業科の営業科が募集を停止された。
 文部省は昭和五三年八月三〇日に高等学校の新しい学習指導要領を告示し、同五七年四月から学年進行をもって実施し、同五九年四月で完全実施となった。このたびの改訂は、一つには、高等学校への進学率の著しい上昇に伴う生徒の多様な実態、一つには、従前の職業教育が産業技術などの急速な進歩に影響されて次第に高度化し、専門化し、また盛りだくさんになってきていること、更に、職業教育に対する社会的要請の変化及び生涯教育の観点などの理由に基づくものであり、商業に関する学科においても過度の専門分化は適当でなく、総合的ないし基幹的なものにとどめるという趣旨に基づき、従前の七学科のうち秘書科と貿易科が除かれ、商業科・経理科・事務科・情報処理科・営業科の五学科となった。本県には除かれた学科は設置されていないので、全く影響はなかったのである。なお、このたびの改訂の基本的な観点は、基本教育と実際的体験的な学習の重視及び教育課程の弾力化などに要約されるのであり、商業に関する教科においても、従前の三六科目を一八科目に統廃合し大幅な改訂が行われ、専門科目の最低履修単位数も、外国語一〇単位までを加える特例はそのままで三〇単位となり、また、教科・科目の特性を十分考慮して、実際的体験的な学習の機会を一層拡充するように改善が図られ、教育課程の編成についても弾力性をもたせるように改善され、これらの学習を通して生徒の働くことに対する意欲の向上を促し、望ましい勤労観と職業観を善うことが重要なねらいとなっている。それで今後は、その趣旨に添うよう、指導の改善充実に一層努力するとともに、指導方法についても、より生徒の実態に即した指導の実践と研究を進めることが必要となったのである。普通教科は、国語一科目四単位、社会一科目四単位、数学一科目四単位、理科一科目四単位、保健体育二科目九単位、芸術一科目二単位の合
計六教科七科目二七単位、女子はこれに家庭一般四単位を加えて七教科八科目三一単位が最低の共通履修となり、各教科の科目とその単位数を大幅に縮小している。
 昭和五九年度に新居浜市立商業高等学校、続いて松山商業高等学校の情報処理科の施設・設備が全国でも珍しい最新式のものに取り加えられ、情報処理室は面目を一新し、情報処理教育の充実と強化が図られた。
 なお、最近における県内高等学校商業科の卒業生の就職状況を見ると、各高等学校の地元または県内の企業などに大部分の者が就職しているようであり、昭和初期のように京阪神や県外に進出している者は極めて少数であることから、県内各地域の地場産業の育成と活性化並びに新しい企業の誘致に努力し、商業科の卒業生を大いに受け入れる必要がある。また、学歴偏重の影響を受けて、商業科の卒業生も、大学・短期大学・専修学校・各種学校などへ進学する者が次第に増加している。大学の進学先は主として私立大学であるが、国公立大学へも極めて少数ではあるが進学している。このことから、各高等学校商業科は生徒の大学進学の希望が達成されるように、学力の向上に努力するとともに、国公立大学においても、商業科の卒業生を受け入れる体制作りが望まれている。
 昭和五九年度の本県高等学校商業科の生徒数は別表2-58のとおりである。同五九年一二月、三島高等学校商業科の事務科が募集を停止された。

表2-58 愛媛県高等学校商業科生徒数

表2-58 愛媛県高等学校商業科生徒数