データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

5 教科書

 明治時代

 明治初期の工業関係図書で現在明らかなものでは、明治四年(一八七一)発行の宮崎柳條纂輯の『西洋百工新書』、同一四年発行の『工業小学』、同二七年発行の『工業新書』などがある。『西洋百工新書』
は前編、後編、外編(三編)の五冊からなり、各冊とも一〇〇頁である。『工業小学』はまだ和紙和とじの体裁であったが、『工業新書』は和とじ本ながら活版印刷となり、教科書らしくなった。しかし、序文に「近時各地漸く実業補習学校、実業徒弟学校を設立する気運に至りぬ、然るに之に用ふべき良書あるを聞かず、囚て不敏を顧みず此書を成す」とあるように、この時代の工業教育は教科書もないほど未熟な時代であった。したがって明治時代の教科書は手刷り、もしくはそれに近い体裁の、しかも数少ないものであった。

 大正から昭和の初期

第一次世界大戦を契機として、繊維工業を始め機械工業・化学工業・金属工業などの重化学工業は大いに進展し、工業教育と共に工業教科書も著しい発展が見られた。その中心的役割を果たしたのは、明治二三年(一八九〇)に開所された大阪府立商品陳列所、及び大正九年(一九二〇)に大阪府立商品陳列所の会員によって、同所内に設立された社団法人商工中心会である。
 昭和二年(一九二七)には、当時の六大都市の中等工業学校長を会員とする工業教育研究会は、商工中心会と提携して工業教育研究会商工中心会協同編輯所を、大阪府立商品陳列所内に設立し、同年事務所を東京に移して教科書の発行に当たった。これが同五年に発足した財団法人工業教育振興会の前身である。その後の工業教科書の発行は同振興会名で行われ、同会で発行された教科書は合計五七種、六三点にのぼり、工業教育上多大の業績を残した。とはいえ、昭和初期ごろまでは、生徒数が少なくて需用の少ない専門教科の教科書を、事業として印刷発行することは採算にも無理があり、教科書は必ずしも十分ではなかった。そのため学校現場では、一般の専門書を教科書として使用したり、プリントを教科書代わりに用いたり、教師の口述を筆記するいわゆるノート授業をしたりすることも少なくなかった。その場合に必要な、教科書のさしえに相当する図解は、青写真やプリントにして生徒に配布された。

 戦時体制下

工業学校の教科書のうち普通教科書に属するものは、従来文部省の検定を必要としたが、工業の教科書は検定教科書ではなく、一般の専門書ないし参考書として出版されていた経緯もあり、工業関係ということで戦時下の用紙の統制も、普通科目の教科書に比べるとゆるやかであった。
 日中戦争が長期化し、戦況が緊迫して各種物資の不足が深刻化するに従って、昭和一六年七月実業教科書株式会社創立協議会が開かれ、同年一〇月ごろには創立が決定して多数の出版業者を統合し、具体的な設立手続きに入った。ここにおいて工業教科書心急速に統制時代に入った。同一七年以降は終戦に至るまで、実業教育振興中央会編纂、実業教科書株式会社発行の教科書が、一科目について一種だけとなり、いわゆる一種検定といわれた教科書である。この制度は、戦後CIE(民間情報教育局)が教科書の検閲を始めるまで続いた。

 戦 後

戦後は用紙不足によるB六版の小形教科書時代を経て、文部省は昭和二三年教科書関係法令・規則などを発表して、教科書検定制度を実施するに至った。同二二年以降文部省から毎年教科書目録が発行されたが、この時代はまだ戦時統制の名残りをとどめておって、工業の教科書は全部、編集者、発行者とも一か所であった。実業教科書株式会社(後の実教出収)以外の教科書会社が、この目録に登場してくるのは同二九年以
降である。
 同二二年二月に発行された「昭和二二年度用目録」は縦書きで、工業の教科書は二一六点載せられており、各学年ごとに教科書が指定してあって、現在の教育課程編成の考え方とは異なった方針がとられていた。同二三年四月に発行された「昭和二三年度用目録」で、前年度用と比べて進歩している点は、教科書に対応する教科名と内容の説明が備考欄に示されたこと、及び使用学年等が追加されたことである。
 「昭和二四年度用目録」から横書きとなり、発行所番号、教科書番号も新しくつけられた。工業の教科書は、一四五点が掲載されており、発行所はすべて実教となっている。その中には、同二三年度において新編集発行予定のもので、未だ発行供給未済のものが一八点、同二三年度中に新編集発行予定で未許可のもの一二点がある。「昭和二五年度用目録」は同二四年八月に発行され、掲載点数は一三六点、同二五年四月発行の「昭和二六年度用目録」には一三六点が掲載された。同二六年五月発行の「昭和二七年度用目録」では使用学年の指定が外されて、全部一~三学年用として枠外に一括掲示され、掲載点数は九〇点である。「昭和二八年度用目録」から定価が記載されるようになり、新版・改訂版等の区別が表示され、工業八四点中「新」は一六点である。
 進展する新しい時代の要請に応じた教科書が刊行されるようになり、「昭和二九年度用目録」では、実教以外の会社が二社出現し、電気学会の「電磁事象I」、綜文館の「弱電流実験」の二点が加わって、掲載点数は八四点である。また、この年から文部省著作教科書が現れ、検定本と並べて九点が掲載された。
 「昭和三一年度用目録」では、七六点中「新」六点、他社二社の六点てある。「昭和三二年度用目録」では掲載八一点。「昭和三三年度用目録」では掲載八八点。その後大きな変化はなく推移して「昭和三八年度用目録」では、教科書が第一部・第二部・第三部の三つの部分に分けられ、使用学年が指示された。掲載点数は第一部二八点、第二部六五点、第三部四六点てある。「昭和三九年度用目録」では、わずかな変化を除号、目録の内容、組版のスタイル等はほぼ安定して現在に至っている。
 教科書は、時代の進展や技術の進歩に即応して改訂されてきたが、昭和四五年以降は学習指導要領の改訂によって新しい学科、新しい科目が示され、改訂のねらいに準拠した教科書が刊行されるようになった。
 県教育委員会は、昭和三一年法律第一六二号「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」第二三条第六号の規定に基づく「愛媛県教科書採択委員会規則」を制定し、それによる委員会が採択した教科書の、「愛媛県教科書目録」を高等学校に示し、高等学校は、その目録の中から教科書を採択して使用することになった。