データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

4 戦後(平和条約発効まで)の農業教育

 昭和二〇年(一九四五)八月一五日終戦となり、農業学校は、日本再建のための食糧確保という新しい使命感を当座の教育目標として、農業教育を再開した。

 終戦早々農業学校創立

〈学校組合立野村農業学校創立〉 明治四一年・東宇和郡立農蚕学校の設立当時、野村町設立案をもって西部一〇か町村と対立し敗れた東部一〇か町村が、戦後早々雌伏四○年の執念をもって、野村町に学校組合立で農業学校を設立する計画をたて、昭和二一年五月一五日、文部省の認可を得て、六月二〇日宿願の開校を果たしたのである。生徒定員男子三年制一五〇名、女子二年制一○○名・初代校長坂本徳。この
学校の設立については、野村町長渡辺百三が、終戦後直ちに地元村長らの説得から県令文部省との折衝等、戦後の虚脱混乱の時期に献身的な努力をしたことを忘れてはならない。また、開校当時は、旧隔離病舎跡の仮校舎一棟だけで、何もなく、教育が軌道に乗るまでは、教師も生徒も苦労の連続であった。特に、一回生は運動場・実習地、その他校地の造成から校舎建築等の作業に至るまで従事せねばならなかった。その休憩時に大太鼓をたたいて歌った野農建設の歌「蜿々につづく四方の山、終戦の鐘本魂して、父子相伝の願い今、新生日本と共に成る、嗚呼開校のわが野農」は今も忘れ得ないという。
 〈町村組合立周桑農業学校創立〉 大正八月、東予における県立農業学校設立をめぐって、その誘致運動に敗れ、廃校となった周桑農蚕学校の地元では、戦後早々農業学校設立に要望が高まり、壬生川町外一五か町村組合立周桑農業学校設立運動を行い昭和二三年三月二五日設立が認可され、五月五日開校した。生徒定員男子三年制一五〇名、初代校長渡辺親雄、この学校の設立については、郡農業会指導会長大亀悦三郎、同総務課長岡田精次郎が中心となって奔走し、周桑郡選出の県会議員黒河順三郎を会長とする周桑農業学校創立期成同盟会を結成し、廃校後三〇年の怨念をこめて、県当局や文部省と折衝し、その再興を果たしたのである。
 〈愛媛県立松山農業学校誕生〉 温泉郡正岡村に昭和一九年三月設立された組合立風早青年学校が、同二一年に実業学校となり、更に翌年三月三一日松山農業学校と改名し、県立に移管された。園芸科生徒定員一五〇名、畜産科定員一五〇名、初代校長佐伯進。(松山市樽味にあった県立松山農業学校が県立農林専門学校に昇格していた時期のことである)

 新制高等学校の農業教育発足

昭和二二年(一九四七)四月一日、学制改革による六・三制の小・中学校が発足し、同年一二月に文部省は「新制高等学校実施準備の手引」を配布し、新制高校設置の基本方針「総合制高校が望ましいこと。男女共学制をとること。現在の中等学校を無理なく高校に移行させるための暫定基準を設けること」を示した。ついで、翌二三年一月二七日文部省令第一号をもって高校設置基準が公布された。続いて同年二月一〇日、新制高校実施に関する件「①新制高校は昭和二三年度から実施すること。②新制高校の設置認可に際して旧制中等学校がおおむね無理なくこれに転換し得るよう措置を講ずること。③勤労青年のため四年制で昼間・夜間あるいは昼夜間授業形式による定時制の課程を設置すること」を知事に通達した。県当局は、これに基づき、同二三年四月一日「愛媛県立高等学校設置規程」を告示した。続いて同年九月二一目、「愛媛県立高等学校定時制課程設置規程」を告示した。農業教育関係は次のとおり設置された。「全日制独立農業高校八校暫定的に設置(宇摩・新居・西条・松山・伊予・大洲・宇和・松山農林専門附属)、全日制総合制高校の農業科六校設置(周桑・上浮穴・川之石・野村・北宇和・南宇和)、定時制農業科を併設する高校及び定時制分校では中心校五校・分校七校設置、独立定時制高校三校設置」、定時制農業科の設置状況は表2-55を参照するとよい。

 新制農業高校の教科課程

昭和二二年四月七日付「新制高等学校の教科課程に関する件通牒」によって、新しい教科課程が示された。これによると、実習を中心教科として、これに関係教科として農業の専門科目を配し、更に普通科目を配する仕組みであった。農業科目としては、従来の科目の上に新科目として「農業総説・農業工作」が新設され、この外に「選択教科・自由研究」があった。CIEの指導によって、アメリカ式の農業教育がいきなり導入されることになったので、当時の重要問題であった農業高校の統廃合問題と絡んで、いささか現場教師の間には混乱があったのである。昭和二三年一月二七日公布の「高等学校設置基準」によって、農業に関する学科として「農業・林業・蚕業・園芸・畜産・農業土木・農産製造・造園・女子農業科」の九学科が示され、農業高校の新しい教育目標として、農業自営者および初級技術者の養成が示された。しかし、本県では農業に関する学科は、農業科一学科に絞られてしまったのである。

 高等学校再編成

昭和二三年(一九四八)四月一日告示の「愛媛県立高等学校設置規程」は、従来の中等学校を暫定基準によって高等学校に移行させるものであって、同二六年三月末までに恒久基準に適合させるため、高等学校の再編成が行われることになった。愛媛県教育委員会は、まず「愛媛県立高等学校再編成要項」を発表し、全日制・定時制課程の適正配置と通信制教育の普及を図ろうとした。要項で示した四つの基本方針(就学の機会均等・学区制・総合制・男女共学制)に基づいて、翌年八月三〇日「愛媛県立高等学校設置規則」を制定、九月一日より施行した。これが俗に言う高校再編成である。その結果、独立農業高校七校は、強権をもって一斉に普通高校に統合されたのである。再編成実施前の伊予農業高校の実状を例示することにする。
 昭和二四年七月二一日、アメリカ軍政部係官伊予農業高校に再編成の件で来校。校長事務取扱い戸田判次応待す。「あなたは、この学校を総合高校にする考えはないか」「日本では単独の農業高校の方が教育上よいと考える。また、地域の人もそれを望んでいる」「総合高校にしない以上、アメリカの一農家の設備ほどにも足りないこの学校は、廃校もやむを得ぬ」「他の軍政部では、単独の女子高校や農業高校が許されるのに、四国管内のみ認められないのはなぜか」「それは、それぞれの管区の方針で仕方がない」「どうしても許されないとすれば、松山方面の高校と合併、分校としてでも存置願いたい」「考えてみよう」。かくして、伊予農業高校は松山南高等学校の分校となったのである。

 教育課程の改訂とHP・FFJ教育の発足

文部省は、昭和二二年四月七日通牒の「教科課程」を改めて、同二四年二月九日「学習指導要領高校農業編(暫定試案)昭和二四年度用」を発行。ついで「昭和二七年度改訂高等学校学習指導要領と教育課程」を同二七年一〇月発行した。
 〈改訂の要旨〉 新しい農業教育の方法として、CIEの職業教育官ネルソンの指導のもとに、ホームプロジェクト(HP)と学校農業クラブ(FFJ)が導入された。教科目については、①多数の教科目を整理統合して、その数を減じ、一五科目とした。②実習という教科を廃し、教科の理論と実際の一本化を図った。③大教科の総合農業を新設した。④単位制を採用し、教科目の単位数に幅をもたせた。「総合農業」は自営するものに履習させることが望ましいとした。なお、総合農業の六分の一以内をHPで与えることができるとした。
 〈FFJとHP〉 CIE職業教育官ネルソンの指導によって、文部省は、HPとFFJの実験学校を全国に一二校指定し、本県では昭和二三年一一月、松山南高校伊予分校(伊予農業高校)が文部省からその指定を受けた。翌二四年度からHPとFFJの研究を始めることになり、同二四年一月一日伊予分校学校農業クラブが結成された。これに準じて、翌二五年九月までに、県下各学校別の学校農業クラブが結成され、同年一〇月二〇日に県の連盟、更に一一月二日に、日本学校農業クラブ連盟が結成された。FFJの目標は、FFJ活動を通して「指導性・社会性・科学性」を体得することを目的としている。そしてこの活動は、農業の科目や学校行事等に位置づけされて、学習領域の中で活動することになっており、更にこの活動は、「単位クラブ(各学校)のみならず、県連盟・四国連盟・全国連盟の段階で、農業技術競技会(測量・家畜審査・農業鑑定)各種発表会(プロジェクト・クラブ活動・レクリエーション・意見)等の会が開催され、その中でFFJ(明日の農業者・関連産業従事者)としての資質を善うようになっている。同二五年二月「学校農業クラブの手引」が発行された。
 なお、「昭和四四年(一九六九)一一月一七~二一日、愛媛県民館外八会場で、第二〇回FFJ全国犬会(松山大会)が盛大に開催され、参会者(FFJ会員・顧問教師、その他関係者)約八、〇〇〇人に及んだ。