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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

2 大正期の農業教育

 私・郡・県立農業学校の設立

 第一次世界大戦の影響で、我が国の産業経済が発展し、明治末期に発足した農業教育が普及し、学校設立の要望がにわかに高まった。
 〈私立伊方実践農業学校創立〉 西宇和郡伊方村に、地元の先覚者佐々木長治が大正三年二月一〇日、財団法人佐々木愛郷会の事業として私財を投じ、伊方実践農業学校を創立した。初代校長として大分県立農業学校長小島喜作を招聘した。「本校ハ輓近漸ク興隆セル農業教育ノ時弊二鑑ミ真二徹底シタル農民教育ヲ達成セン為二設立セラレタルモノニシテ……」と校誌にあるように、農学校を卒業しても就農せず、役人や教員・技術者になる者が多く、この現状を憂えてのことであった。当校は授業料も徴収せず、また教科書・実習服等も貸与し、校長・教師が率先垂範の実践教育を行い、地域社会から注目された。川之石高等学校園芸科の前身である。
 〈伊予郡立実業学校設立〉 郡長山脇一次は、郡中町に男女共学の乙種の農業学校設立が急務であるとして、大正七年(一九一八)五月三日設立の認可を得て、郡長自ら校長事務取扱となり開校した。まず、女子部二か年、定員五〇名を五月一四日に入学させ、郡中小学校の一室で授業を開始した。男子部二か年、定員一〇〇名は一二月一五日開校した。創立当時、施設・設備が不備で、同九年一月三一日の郡会に同校の廃止問題が上程され、議員三井浅吉の弁護でことなきを得たと伝えられているが、郡立校の苦しい側面をうかがい知ることができる。
 〈県立農業学校の増設と郡立農業学校の県立移管問題〉 大正三年一一月一八日の県会において、議員緒方陸朗(東宇和郡)外一〇名からなる「郡立実業学校整理二関スル建議案」が提出された。これは、東宇和郡立農蚕学校と東予における郡立農業学校三校のうち一校を県立に移管し、その経営の刷新を図るべきであるとの主張である。これが可決され、さらに大正四年一二月の県会でも、議員清家吉次郎(北宇和郡)が、南宇和郡立農業学校(大正二年改称)の県立移管に関する建議案を提出し、郡立校の県立移管を主張し採択された。このような動向下、知事若林賚蔵は、大正六年一一月二四日の県会で、東予と南予に県立農業学校を設立することを公表し、大正七年四月、県立宇和農業学校が誕生した。東予においては、県の原議案である西条設置に対して、周桑郡側が猛反対し、県会は二派に分かれて紛糾したが、結局、知事の決断によって県立西条農業学校が大正七年六月設立されることになった。その結果、明治三四年四月創立の伝統のある周桑郡立農蚕学校は残念にも廃校となり、また、甲種の郡立宇摩農林学校は乙種の学校に格下げとなったのである。かくして、県立農業学校が、東・中・南予に各一校ずつ設立されたことになり、愛媛県立農業学校は大正七年七月、県立松山農業学校と改称された。

 農業学校規程改正

 大正八年(一九一九)には、全国で農業学校が三〇〇校となり、工業・商業学校も増設されたので、実業学校令が大正九年一二月一六日改正された。これに伴い、翌一〇年一月一五日、農業学校規程が改
正され、教育内容及び方法が刷新された。改正事項は「(1)甲種と乙種の区別を廃止し一つの制度とした。(2)学科制度を設け、農業・養蚕・園芸・畜産・林業の五学科とした。(3)一学年につき二か月以内の長期実習を認め、高学年には更に一か月以上延長できるようにした」ことである。

 郡立校の県立移管と松農の学科分科

大正一〇年三月、原敬内閣の時、郡制廃止法案が可決されたので、これに伴って、大正一一年四月一日付で、郡立校の伊予実業学校・新居農学校・南宇和農業学校がそれぞれ県立に移管され、郡立宇摩実業学校は県立移管条件整備の関係で、翌年四月一日付で県立に移管された。更に、県は大正九年一二月改正の農業学校規程に基づいて、同一五年四月一日、県立松山農業学校の学科を分科し、農業科・林業科・蚕業科の三学科とした。こうして、愛媛の農業教育は大正期にその基盤を確立したのである。

表2-54 東宇和郡立農蚕学校学科課程表

表2-54 東宇和郡立農蚕学校学科課程表