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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

1 明治期の体育

 学制期の体育

学校教育の第一歩は、明治五年(一八七二)九月五日の「学制」に始まる。その中で体育は「体術」として公に指定されたものの、具体的な方法に関する指示は見当たらず、事実上は空文にとどまっている。しかし、翌六年に改正された小学校教則において、小学校で毎級一日一・二時間体操を実施すべきことが具体的に示された。ところが、毎日一・二時間の体操実施を定めた規定は、当時の社会状況から推して実施できる段階ではなかった。
 愛媛県では、明治九年「愛媛県小学校規則」を制定公布している。小学校規則の教則に示された体操の内容をみると、下等小学校第八級から第五級には「適宜遊戯」を、第四級から第一級には「容易なる筋節運動」をさせ、上等小学校第八級から第一級には「体操書」によって教えるとしている。
 当時、本県で小学校教則に示された体操がどの程度実施されたかは不明であるが、本県小学校教則の参考にしたとされている東京師範学校附属小学校の「下等小学校教則」(明治六年)によると、「体操時間定リナシト雖モ五・六分宛一日両三度スヘシ」と実施の程度が示されている。また、この教則を参考に作成したとされる明治九年の久万小学校下等小学校の課業時間表に示された遊戯の時間が一〇分であることからみて、本県における頭初の体操時間は一〇分程度であったと推察される。
 このころの体操の内容は、必ずしも文字通りの体操に限定されていたわけではなく、授業時間の合間、すなわち休憩時間に位置づけられていたことからみると、「遊戯」や「遊歩」が体操と同一視されていたことは明らかである。

 教育令期の体育

明治一二年(一八七九)九月、学制を廃止して「教育令」が制定された。これによって、小学校の最低修学年限は四年となり、教科も読書・習字・算術・地理・歴史・修身の六科目に重点が置かれ、体操は上地の状況によって加えることができる随意科目に後退した。新制度は、就学率の低下、学校経営の悪化など実効を挙げるに至らなかった。これに対して政府は普通教育の退廃を挽回するため翌一三年教育令を改正、翌一四年五月制定の「小学校教則綱領」によって修学年限を初等科三年、中等科三年、高等科二年と定めた。また、随意科目であった体操が正科に返り咲き「毎日凡ソニ○分間適宜課スヘシ」と定められた。
 この綱領に基づいて作成され、明治一五年(一八八二)一月一三日に公布された「愛媛県小学校教則」では、体操は正科の位置を与えられ、次のように規定されている。

  体操ハ初等科ノ初二在テハ適宜ノ遊戯ヲ以テ之二換へ、漸次徒手運動ヨリ器械体操二及ホシ、応分二身体ヲ運動セシメ、生徒ヲシテ精神ヲ活発ナラシメ課業ヲ倦厭セシメサラソコトヲ要ス、但村落ハ遊戯ノミニ止マルモ妨ケナシト雖モ教師コレヲ監督スルハ勿論トス

 この時期、体操伝習所が本邦適当の体操法として採用した軽体操がようやく軌道にのり始めている。愛媛県における体操教授は、本県師範学校沿革史によると、明治一四年九月体操伝習所卒業生佐久間鉄次郎が学務課御用係として赴任し、師範学校兼務を命ぜられ、体操科を教授したとある。従って、本県において本格的に体操が教授されるようになったのは、これ以後のことである。

 小学校令期の体育

明治一八年(一八八五)初代文部大臣森有禮は、教育制度の国家的体制化を意図して全般的な教育改革
に着手した。その一環として翌一九年四月「小学校令」を公布した。これに基づいて同年五月二五日に公布された「小学校ノ学科及其程度」において、小学校を尋常小学校と高等小学校の二段階に分け修業年限はそれぞれ四年と定めた。体操は、尋常・高等のいずれの小学校にも必修となり、唱歌と一緒に時間配当がなされ、尋常小学校では毎週六時間、高等小学校では毎週五時間となっている。
 明治一九年(一八八六)一二月三日の「愛媛県小学校教則」では、要旨と順序について次のように明記し、その程度については、尋常小学校第一・二学年遊戯、第三・四学年矯正術、高等小学校第一・二学年唖鈴・球竿、第三・四学年行列運動とし、各学年とも毎週六回三時間行うこととした。

 要旨 児童ヲシテ躯幹四肢ノ動作ヲ敏捷ニシ、心身機能ノ強健ヲ得セシムルニ在リ
 順序 児童協同シテ相楽ムヘキ良方卜安全ナル玩具トヲ用ヰテ諸種ノ遊戯ヲナサシメ、普通体操ハ先ツ姿勢ヲ整へ然ル後十分二其技ヲ演セシメ、身体ノ発育ヲ平等ニシ健康ヲ全カラシメソコトヲ主トスルカ故二矯正術ヲ先キニシ、之二次テ徒手、唖鈴、球竿ノ諸技二及ホシ、尚進ソテハ行列運動ノ法ヲ演セシムヘシ

 地方自治制の実施、憲法の制定、教育勅語の発布に伴い、教育制度をこれに適応させるため、同二三年一〇月七日に小学校令が全文改正された。この「小学校令(全改)」(明治二三年一〇月七日勅令二一五)では、修業年限を尋常小学校は三年または四年とし、高等小学校は二年、三年または四年とした。教科についてみると、尋常小学校では、体操は土地の状況によって欠くことができる随意科目に格下げとなっている。
 小学校令の改正に基づいて同二四年一一月一七日「小学校教則大綱」が定められた。それによって、体操科の指導要旨とその順序は次のように明確に示された。愛媛県では同二五年八月に定めた「小学校教則」でこれを踏襲した。

  体操ハ身体ノ成長ヲ均斉テシテ健康ナラシメ精神ヲ快活ニシテ剛毅ナラシメ兼ネテ規律ヲ守ルノ習慣ヲ養フヲ以テ要旨トス
  尋常小学校二於テハ初ハ適宜二遊戯ヲ為サシメ、漸ク普通体操ヲ加へ授クヘシ
  高等小学校二於テハ男児ニハ主トシテ兵式体操ヲ授ケ女児ニハ普通体操若クハ遊戯ヲ授クヘシ
  土地ノ情況二依リテハ体操ノ授業時間ノ一部若クハ教授時間ノ外二於テ適宜ノ戸外運動ヲナサシメ又夏季二於テハ水泳ヲ授クルコトアルヘシ
  体操ノ教授二依リテ習成シタル姿勢ハ常二之ヲ保タシメンコトヲ要ス

 この教則で注目すべきは、兵式体操が普通体操と並んで学校体育の中に取り入れられるようになったことである。兵式体操は初代文部大臣森有禮の教育政策の重要な一環として強力に推進され、明治一九年の小学校令によって制度的に確立し、以後、普通体操と並んで学校体育の二大主流となった。
 ところで、明治二五年(一八九二)八月に定められた愛媛県小学校教則の体操科要旨は、土地の状況によって水泳を授けることができるとした。松山高等小学校では、体操科の中で水泳を行うこととし、「水泳術実施に関する要項」と「水泳演習細則」を作成し、同三〇年知事の認可を得ている。要項によると、水泳場は温泉郡道後村大字持田御囲池(現在の松山市青少年センター)、対象は男生徒中の志願者、期日は七月一〇日から八月三一日となっている。また演習細則には、志願者は保護者の願出を差し出すこと、授業時間は二〇分ずつ三度に区分し、毎度一〇分の休憩時間を置くこと、水泳術の進度を計って三班に分けて指導すること、毎年一回大演習会を実施し、技術優等者に証明書を授与すること、などが示されている。このような計画のもとに同三〇年七月二八日から水泳術を開始した。同じころ、宇和島高等小学校・宇和島尋常小学校でも北宇和郡来村大字下新築出口で水泳術を始めている。

 改正小学校令期の体育

明治三三年(一九〇〇)八月に「改正小学校令」が公布された。これによって、尋常小学校は四年制に統一され、義務教育四年制という全国民に共通な基礎教育の課程が形成された。小学校令の改正によって、従来、随意科目であった体操は、尋常・高等小学校とも必修の科目となった。明治三四年四月には文部省から「小学校体操科課程及教授時間割」が通牒されたので愛媛県では同年四月一二日にこれを県内の小
学校に伝達した。
 改正小学校令以後、女子体育の推進が教育的関心事となり、愛媛教育協会は、明治三四年「女子体育振作方法ノ調査」を決議し、翌三五年「愛媛教育」一八三号に「女子体育振作方法」を論説している。そのうち、学校において改良すべきこととして

 一、設備に関する事項 (一)女子用腰掛を特に設備すること。(二)女子に適当なる遊戯機械を備ふること。
 二、課業に関する事項 (一)女子に適当なる体操及び遊戯を課すること。
 三、女児に奨励すべき事項 (一)努めて筒袖を用いしめ、且着袴せしむること。(二)辨当の分量を増さしむること。
              (三)運動を好むの習慣を養成し、常に快活なる精神をもたしむること。

を提言している。このうち、服装は体操の内容と大きな関連性があった。明治一〇年代から優位を占めていた保健体操的な性格が強い普通体操が後退し、スエーデン体操・ダンス・遊戯・スポーツなどがとって変わろうとする中で非活動的な着物の改良に目が向けられたのは当然の成り行きであった。また、このころ本県では、愛媛教育協会主催による体操の夏期講習会が盛んに行われている。小学校教則の改正に伴う新しい体操法の導入による伝達講習や、体操の振興という社会的要請を反映してのことであろう。
 義務教育の就学率は明治三五年(一九〇二)に初めて九〇%を突破した。就学率の飛躍的な拡大に促されて、同四〇年三月小学校令を再度改正、尋常小学校の修業年限を六年とし、義務教育六年制が確立した。この改正によって尋常小学校の体操は、一・二年は唱歌と体操とを合わせて週四時間、三年以上は各三時間、五・六年に兵式体操が加えられた。
 明治も後期になると、永年学校体操の中核を独占していた普通体操の地位が、新たに流入してきたスエーデン体操・ダンス・遊戯・スポーツなどによってゆるぎはじめ、体操の統一が議論されるようになる。

 遠足運動会

 兵式体操の確立と期を同じくして遊戯に対する関心が芽生えてきたのが注目される。当時、学校体育は遠足・行軍・旅行・運動会等行事的形態で行われるのが一般的傾向であった。明治二〇年代の遠足は文字通り遠距離を歩くことによって、心身を鍛練するのを第一目的としており、徒歩で数里離れた目的地に向かい、その地で遊戯や競技を行うことを慣わしとしており、遠足と運動会は同義語として併用されていた。
 愛媛県における運動会は、明治二〇年一〇月二一日に行われた越智郡今治高等小学校の記録が最も古い。それによると、桜井村に隊列運動を行い、神社で昼食をとった後、対抗運動をしている。その後、海浜に出て漁夫に命じて網を引かせ尺余の鯛一尾を得、而して再び社前に帰りて綱引きをし、暮色がせまったので隊を整えて帰路に就いた、とある。当時の遠足が遠足運動会と称せられるゆえんである。
 これが明治三〇年代になると、河原や神社の境内に赴いて遊戯競技を行う運動会と社会見学などを折り込んで遠出する遠足とを次第に区別するようになる。例えば、明治三〇年に温泉郡志津川尋常小学校が実施した遠足運動会の記録によると、春季は同村の重信川河原で旗奪い競争等諸種の遊戯を中心に行っている。河原で実施しだのは、整地された適当な広場がなかったためであろう。秋季は伊予鉄道を利用して三津浜に遠出し、海浜で遊んだ後、帰途古町駅に下車し、本県尋常師範学校・県庁・裁判所・松山郵便電信局等を見学している。
 遠足運動会が体操科の学習成果の意味を持って実施される今日的運動会に脱皮するのは、明治三五・三六年ころからである。その後運動会は年々盛大となり、明治四〇年代には学校の一大行事として児童生徒・父兄・地域住民の人気を集める年中行事となった。県下一の大規模校松山高等小学校では、運動会の見物者を校内運動場に収容しきれなくなったので明治四一年三月一七日の運動会を道後公園東トラックにおいて実施し、知事・市会議長などの来賓や一般父兄が立錐の余地がないすでに参観する中で、同校一、五〇〇余名の生徒による熱心な演技が展開された。
 しかし、一方では運動会が盛んになるにつれて、父兄はいたずらに勝ちを強い、新奇を喜び、快楽を求めるなど娯楽物のような傾向を呈し始めた。また、学校側も人気取りのため、会場の装飾に大金を投ずるなどの弊害が目立つようになり、明治四〇年代には運動会の改良をうながす提言が、愛媛教育協会の機関誌「愛媛教育」に度々登載されている。

 中学校の体育

 中学校の教科に初めて体操科が現れたのは、明治一四年(一八八一)の中学校教則大綱であった。この教則では、体操は教科目に取り上げられているが、毎週授業時数表には時間の配当がなく、「体操は適宜これを授くべし」と指示されたのみで実施時間をはじめ詳細は何一つ示されていない。しかし、愛媛県では、大綱に基づいて作成し、同一五年二月に布達した中学校教則の中で体操を正科に加え、その要旨と順序を次のように示し、第一・二年前期に徒手運動、第二年後期から第六年に徒手運動と器械体操を課している。


  体操ハ心身ヲ快活ニシ筋肉ヲ和暢シ、以テ健康ヲ保全スル所以ノ学科ニシテ、各等中等科二之ヲ課シ、初ハ徒手運動ヨリ器械体操二及ホスヘシ

 明治一九年(一八八六)四月一〇日に中学校令が公布され、中学校は尋常中学校と高等中学校に分けられた。この尋常中学校が戦後の新制度確立まで続いたいわゆる中学校である。同一九年六月に「尋常中学校ノ学科及其程度」が制定されている。それによると、体操は必修科目の中に加えられ、第一年から第三年には毎週各三時間、第四・五年には各五時間の体操が課せられることとなった。この体操の内容は、「普通及び兵式体操」となっている。
 愛媛県には当時、県立中学校はなく、明治二一年八月に私立伊予尋常中学校が松山に、同二三年一二月に明倫館が宇和島に開校され、それぞれ学校規則を設けている。その中で体操科の要旨及び教程については両校とも次のように規定している。

  要旨 精神ヲ活発ニシ動作ヲ静粛ニシ身体ヲ健康ナラシムルヲ旨トス。
  教程 普通体操ハ矯正術、徒手、唖鈴、球竿、木環、棍棒、遊戯運動、兵式体操ハ柔軟体操、生兵学、中隊学、行軍演習等トス.

 その後、明治二五年四月に私立伊予尋常中学校は県立に移管された。同二七年三月一日に尋常中学校の「学科及其程度」が改正され、中学校の体操時間は各学年毎週三時間となった。同二八年四月九日に全文改正された尋常中学校規則では、各学年に兵式体操を毎週三時間課している。当時は、中学校における体操科の指導目標は各県ないしは各学校ごとに断片的に示されたに過ぎなかった。
 明治三〇年代の初頭には、初等教育から中等教育までの教育制度の全面的再編成が行われた。明治三二年(一八九九)二月七日、「中学校令」が改正公布され、戦前における中学校教育の基本類型が制度化された。これに付随して「中学校令施行規則」(同三四年三月五日)が定められ、教育法規の上で体操科の目的や内容が初めて次のように明確に規定された。

  体操ハ身体ノ各部ヲ均斉二発育セシメ、四肢ノ動作ヲ機敏ナラシメ、精神ヲ快活剛毅ナラシタ兼ネテ規律ヲ守リ協同ヲ尚フノ習慣ヲ養ウヲ以テ要旨トス、体操ハ普通体操及兵式体操トシ、普通体操二於テハ矯正術、徒手体操、唖鈴体操、球竿体操及棍棒体操ヲ授ケ、兵式体操二於テハ柔軟体操、器械体操、各個教練、小隊教練及中隊教練ヲ授クヘシ

 明治三五年二月六日に中学校教授要目が公布された。この要目では、体操科の授業時数は各学年三時間以上となっている。また体操の内容は、普通体操と兵式体操の二本立てによる単調な教材で構成されており、スポーツ教材は片鱗さえみせていない。愛媛県では、これをそのまま踏襲し、県立中学校と商業学校に毎週三時間、農業学校に毎週二時間の普通体操・兵式体操を課している。
 愛媛県立今治中学校の教授法概要(明治四三年)は、体操科指導上の留意事項を次のように列記している。

  普通体操ハ生理的条件ノ下二組立テラレタルモノナレバ、身体的万面ノ修練二於テハ殆ンド間然スル所ナキモ、精神的修練二於テハ稍足ラザルベク、兵式体操ハ生理的要件二多少缺クル所アレドモ、精神的方面二得難キ美點ヲ有スルガ故ニ、事情ノ許ス限リ同一時間内二混交教授スルヲ可トス
  第一・二学年二於テハ生徒心身ノ発達未ダ不十分ノ時期二在ルヲ以テ、可成簡易ニシテ身体発育二適切ナル材料ヲ課シ、漸次意志ノ修練二適切ナルモノヲ授クルヲ可トス、即チ第一・二学年二於テハ普通二兵式一、第三・四・五学年二於テハ兵式二普通一ノ割合ヲ以テスベシ
  兵式体操教授ノ際ハ、特二規律ヲ守リ協同ヲ尚ブノ習慣ヲ養成センコトニ留意スベシ

 明治四四年(一九一一)中学校令施行規則を一部改正、普通体操は「体操」、兵式体操は「教練」と改称された。また、このときから、わが国古来の武道である撃剣と柔道が初めて学校の正科体育教材に加えられた。これは日露戦争後の国家主義風潮を反映したものであった。愛媛県では、同四五年から体操科を一時間増し、撃剣または柔道を体操・教練とともに指導することにした。

 高等女学校の体育

高等女学校の体育は、明治二八年(一八九五)高等女学校規定が制定され、尋常中学校から独立し、体操の要旨が初めて明らかにされた。それによると、高等女学校においては、「普通体操若くは遊戯を授
く、体操を授くるには精神を快活にし、身体を健康ならしむることを務むべし」と定められた。教授時数は一~四年生は毎週三時間、五・六年生は毎週二時間となっている。
 明治三二年(一八九九)二月八日「高等女学校令」が公布され、中学校令・実業学校令と並んで女子のための中等教育制度が確立した。その後、同三四年の高等女学校令施行規則によって体操科の教授目標が明確になった。なお具体的な教授内容については、同三六年の高等女学校教授要目によって定められた。それによると

  第一学年及び第二学年 毎週三時
   普通体操……準備法、整容法、呼吸法、矯正術、徒手体操  遊戯……行進運動及び遊技
  第三学年及び第四学年 毎週三時
   普通体操……矯正術、徒手体操、唖鈴体操  遊戯……行進運動及び遊戯
  体操は凡そ普通体操二遊戯一の比を以て之を課すべし。
  土地の状況により遊戯において便宜遊泳、氷滑りの類を加うることを得。

と、教授内容を具体的に示している。また、教授上の注意では特に女子の立場からの注意が目立つ。その中で女教師が指導に当たること、月経の際は体操を休止させること、服装に留意すること、毎週六回行うなどは注目を引くものである。
 愛媛県における県立女学校は、明治三三年に松山・宇和島・今治に各一校が設立され、これらの学校では毎週二時間の授業が設けられた。その内容は、普通体操が主で徒手体操や唖鈴体操が行われ、ダンスも行われていた。当時のダンスは「草履の音を揃えて地面をこすりこすり回り進んだ」ということである。服装は着物のままで、長いたもとに赤いたすきを掛けて行い、靴もなく麻裏草履をはいていた。女学校の体操は、同四五年に至り、時間数が一時間増加されて週三時間となっている。