データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

1 理科教育の変遷

 「理科」は、明治一九年(一八八六)に公布された「小学校令」によって、初めて高等小学校の科目の一つとして設けられた教科である。しかし、理科教育を考えるには、その基盤となった近世後期の科学教育の芽生えと、「理科」が成立する以前の「学制」及び「教育令」期の理学教育にも眼を向けなければならない。また、教育は社会の要請や海外からの新しい思想や教育思潮の影響を受けて複雑に変化するものである。このような見地から理科教育では、近世後期から現在にいたる間を大きく次の八期に区分して、その変遷について考察した。
 第一期 江戸時代後期から「学制」頒布に至るまでの時期
 第二期 明治五年(一八七二)の「学制」頒布から同一八年までの「学制」及び「教育令」が施行された時期
 第三期 明治一九年から同三五年までの教科書検定制度’(いわゆる明治検定教科書)が施行された時期
 第四期 明治三六年「小学校令」の改定に基づく国定教科書制度への移行の時期
 第五期 大正初期から昭和初期に至る、新しい思想や教育思潮が流入した時期
 第六期 昭和六年(一九三一)から同二〇年終戦までの戦時体制下の時期
 第七期 終戦から昭和三〇年代に至る、新教育制度が確立されていく時期
 第八期 数次にわたる「学習指導要領」の改訂を経て新教育制度が充実・発展し現在に至る時期
 なお、第七・第八期については、この節では概説に止どめ、第二節「六・三・三制」下の理科教育で改めて取り上げることとした。以下、各期について概説する。

 第一期

 江戸時代後期は、朱子学を軸とした儒学や国学が興隆するとともに、近代科学が流人されて、我が国の学問や文化が大きく転換した時期である。杉田玄白(『解体新書』『蘭学事始』)をはじめ、平賀源内(エレキテル実験、技術開発)、伊能忠敬(日本実測地図)、青地林宗(『気海観瀾』)、宇田川榕庵(日本初の化学書、植物学書)、川本幸民(『気海観瀾広義』)、廣瀬元恭(『理学提要』)、福沢諭吉(『窮理図解』など、蘭・洋学者が輩出し、シーボルトの渡来と相まって、各方面にわたって近代科学の基礎が確立されていった。これらの人の中でも、青地林宗は本県に深い関係がある。彼は一七七五年伊予松山藩の藩医の子として生まれ、杉田玄白に師事して蘭学を学んだ。父の死後、松山に帰郷して開方医を開業、人々に蘭学を教え、のちに日本最初の物理学書『気海観瀾』を著した人である。また、二宮敬作は、長崎でシーボルトにドイツ流の学問を学び、帰郷して、卯之町(宇和町)で開業、医業のかたわら蘭学を教授して名声を博した人である。
 伊予八藩では、大洲止善書院明倫堂をはじめとして、すべての藩で藩校を開校したが、殊に宇和島藩では、藩士の卓見のもとで、早くから洋学・数学・医学などを藩校の教育課程にとり入れて教授し、藩校を庶民に開放したり、多数の藩士を遊学させるなど、近代科学の流人に強い関心をもっていた。伊予の藩士として、はじめて適塾に入門し緒方洪庵の教えを受けた林玄中をはじめ、松本意仙・富沢竜兆などはいずれも宇和島藩の藩士である。
 このほか、当時の伊予国に近代科学を流入した人としては、一時宇和島藩にかくまわれていた高野長英、同じく宇和島藩が懇請して招いた村田亮庵(のもの大村益次郎)などが挙げられる。彼等は、蘭学・医学・兵学などを教えるかたから、海外の事情を伝え、近代科学の重要性を説いて、科学教育の啓蒙に尽くした。
 一方、商品経済はしだいに拡大され、庶民にとっても生産活動の合理化平生産技術の向上が大きな課題となってきた。特に農業・養蚕業などでは、栽培・養蚕・暦などに関する知識への欲求が高まり、自然に対する認識も深まっていった。やがて各藩校は一般庶民にも開放され、近代科学への関心はさらに高まった。
 このように、藩校による近代科学の導入や庶民の自然認識の深まりが、先賢たちの啓蒙と相まって科学教育の基礎を培っていった。

 第二期

 明治五年(一八七二)「学制」が頒布されて、近代学校制度が発足。理学の教授も正式に行われるようになった。「学制」に基づいて制定された「小学教則」のうち、理学教育に関する課程表及びその内容は表2-36(a)のとおりで、下等小学から上等小学まで多くの時間が充てられていることに注目したい。
 「養正口授」とは「養生学・健全学等ヲ用ヒテ教師縷々口述シ」とあり、『養生学・健全学』とは書物名で、他の教授内容の中でも同様に、教師用又は生徒用の教科書名がでている。「窮理学輪講」には多くの時間か当てられ、下等小学では「窮理図解等ノ書ヲ授ケ講述セシム」とあり、上等小学になると、「窮理学輪講ハ博物新編和解・同補遺・格物入門和解・気海観瀾広義ノ類ヲ独見シ来テ輪講セシメ、教師兼ネテ器械ヲ用ヒ其説ヲ実ニス」とある。博物については、『博物新編訳解』を級を進むに従い「家畜ノ部、野獣ノ部、草木ノ部、魚鳥介虫ノ部ヲ独見セシム」とあり、化学では「化学訓蒙・化学入門等ヲ独見講究セシメ、教師兼ネテ器械ヲ以テ之ヲ実ニス」となっている。当時は適当な教科書も少なく、正規の教員も得難く、独見あるいは輪講させたり、教師が口述して筆記・暗唱させていたものと思われる。当時、使用された理学関係教科書の主なものは次のとおりであった。
  『啓蒙智恵の環』(爪生寅著)『窮理問答』(後藤達之著)「物理訓蒙」(吉甲賢輔著)『天変地異』(小幡篤次郎著)『窮理図解』
  (福沢諭吉著)『博物新編和解同補遺』(小幡篤次郎著)『植物入門和解』(柳川春蔭ほか著)『気海観瀾広義』(川本幸民著)
  『格物入門和解』(奥村精一著問答式)『博物新編』(英国合信著福田訳)「化学訓蒙」(石黒忠直著)『化学入門』(加藤宗甫著)
 なお、当時のものとして本県宇和町開明学校には、これらのうち数点のほかに、博物図(掛図)約五〇点、『具氏博物学』(文部省)『物理階梯』(片山淳吉)『地文学初歩』(文部省)『ロスコー小学化学』(文部省)などが保存されている。なお、この時期で注目すべきことは、直接理学に関係する科目の時間数が多い上に、読本読方、読本輪講などの教材となった小学読本の中に科学的な内容のものが非常に多く含まれていることである。
 明治一二年(一八七九)「学制」を廃し「教育令」を公布、翌一三年さらに「改正教育令」を公布し、同一四年「小学教則綱領」を布達した。これによって小学校は初等科・中等科・高等科となるが、初等科には理学がなくなり、中等科・高等科に理学の時間を配当した。各初・中・高等科程度にはその内容を詳しく記述している。この時期になると理学教授の方法はかなり進み、単に輪読・口述といったことではなく、「実地試験ニョツテソノ理ヲ了解セシメ、観察ヤ標本・模型ヲ利用スベキコト。」と指示している。明治一二年ころから同二〇年ころまでは、ペスタロッチの教育論が大流行した時代で、開発主義教授法令問答式教授法が行われ、教科書としては、『小学理学問答上・中・下』(志賀泰山)
 『植物小学』『動物小学』(松村任三・松本駒次郎)などが主である。前記開明学校には、これらのほか『小学中等科博物学』(南予士族山崎忠興(初代松山尋常中学校長)『初学人身窮理』などが保管されている。

 第三期

明治一九年二八八百「小学校令」が公布され、尋常小学校(義務教育)は四年制、高等小学校も四年制となり、同年施行された「小学校ノ学科及其程度」によって、「理科」が教科として初めて登場することになった。当時の教師たちは「理科とは何か」と種々論議したようであるが、文部省は「理科ハ天然物自然ノ現象ヲ教材トシ、是等ノ中人生二最モ緊切ナルモノ、日常児童ノ目撃シ得ルトコロノモノヲ取扱フベキコト」と説明し、従来の自然諸科学を教えるのではなく、教材を身近かな自然物や自然の現象を基本に
して構成するという考え方を明示した。また、同一九年「教科用図書検定要旨」を制定し、検定理科教科書が使用されることになった。このような変化に対応して、全国各地で「理科教授細目」が編成され、ヘルバルト派の教授法の影響を受けた理科教授が行われることになった。
 愛媛県では、同一九年「小学校教則」、同二一年「小学校教科用図書」を制定したが、当時は教育に対する住民の意識や経済状態も低く、教員の資質の問題もあり、制度の改善に伴う内容は不十分であった。明治二〇年、自主的な教育研究団体として愛媛教育協会が設立され、師範学校をはじめ、小学校・中等学校の教員が参加した。その活動の一つとして『愛媛教育協会雑誌』(同三三年『愛媛教育雑誌』、同四一年以降『愛媛教育』と改名)が発刊された。この時期では理科教育としての研究は少なく、大半の教師は、明治二五年刊行された「高等師範学校附属小学校教授細目」(茗渓会刊)をよりどころにしていたようである。
 一方中等教育については、明治五年「学制」とともに「中学教則略」が公布されたが、愛媛県では「中学教則略」には従わない変則中学校が、同九年東・中・南予に設立された。その後県立中学校と改称されたが、明治一九年の「中学校令」の公布によって、尋常中学校は各府県立、一県一校となったため、愛媛県では第一中学校(松山)のみとなった。その後財政難のため一時廃止され、私立校となるが、明治二五年、県立愛媛尋常中学校として再発足。同二九年には東予(西条)南予(宇和島)の両分校が開設され、同三四年には松山・西条・宇和島の三中学校と今治・大洲の二分校とになった。明治二九年制定された「愛媛県尋常中学校規則」の中で理科に関する教授要旨は次のとおりである。

一、博物 応用上及学理上正確ナル知識ヲ授ケ兼テ観察ノ技能ヲ訓練シ天然物二対スル愛情ヲ養成スルヲ以テ要旨トス。最初二通常ノ植物動物鉱物ノ大要ヲ授ケ更二植物動物ヲ授ク。即植物二於テハ観察解析記述分類ノ大意及植物ノ生活上ニ緊要ナル現象等ヲ授ケ、動物二於テハ観察記述分類ノ大意諸部類ノ相互及外物トノ関係ノ生理衛生等ヲ授ク。
一、物理及化学 主トシテ自然界ノ現象二就キテ推理ノカヲ養ヒ思想ヲシテ正確緻密ナラシノ兼テ生活上二有用ニシテ殊二生業二必要ナル知識を与フルヲ要旨トス。物理二於テハ総論力学物質論音響学熱学光学越歴学及磁気学ノ要略ヲ授ケ、化学二於テハ総論緊要ナル諸元素及化合物ノ製法性質等ヲ授ケ、傍ラ鉱物学ノ要略ヲ知ラシム。

 なお、同三四年に制定された「愛媛県立中学校規則」に示された学科課程では、理科は、第一学年植物・動物、第二学年動物・鉱物、第三学年人体ノ構造・生理及衛生、第四学年物理・化学、第五学年物理・化学となっている。後の愛媛理科教育に大きな影響を与えた郷野基厚は、このころ愛媛県尋常師範学校に在職していた。

 第四期

 明治三三年「小学校令」を改定、「同施行規則」が制定されて国家統制を確立し、同三六年の改定によって同三七年から小学校国定教科書制度が成立した。しかし、理科は児童用教科書の使用を禁止され、それは同四四年『国定小学理科書』が出版されるまで続くことになる。この間、小学校教師は、教科書を使わない教授を強いられることになり、その苦労は並大抵のものでなかったようである。全国各地では、「教科書にあらざる教科書」を自主編集しようとする動きも現れた。同三八年、長野県信濃教育会では自主編集による『小学理科生徒筆記代用』を刊行した。本県では、教科書自主編集までには至らなかったが、愛媛同窓会によって『愛媛県理科教授細目』が編集され、郷土の自然教材の活用、実験・観察中心の理科、野外学習などを強調した。この時期を契機として、理科の学習教材の開発、郷土教材の活用などの研究が盛んになり、愛媛教育協会編集の『愛媛教育雑誌』(後の『愛媛教育』)には、当時の愛媛県師範学校をはじめ中等学校・小学校の教師による実践研究・教材紹介などの投稿が目立っている。愛媛女子師範の天野甸之は「現今の理科教授が只前提より直ちに結論と言ふ風に進み、真に理科の主眼たる科学的訓練を養成し、自発的研究心を奮起せしめると云う取扱いでない」と断じ、ドイツ・イギリスなどの小学校理科の在り方を紹介して、学校備品の開放、学校園の設置、野外観察の必要性を強調し、「実習カード」の作成を呼び掛けている。この時期の愛媛県には、松山中学校の教諭であった梅村甚太郎・奥平幹一、及び「ヤッコソウ」の発見者で初めて「愛媛県産植物目録」を著わし、戦後まで愛媛県の中等学校教師として理科教育に大きな貢献をした山本一など数多くの教育者が輩出している。このように教科書使用禁止は、反面、教師自身の研究や教材開発への意欲をかり立て、理科教育は大きく進展することとなった。
 明治四一年度から尋常小学校は六年制の義務教育となるが、同年の「愛媛県師範学校附属小学校学則」によると、理科は尋常科五年から高等科三年まで各学年毎週教授時数二時間が課せられているが、明治初期の理学関係の授業時数からみれば極めて少ないものである。同四〇年、東京高等師範学校附属小学校では『小学校教授細目』を刊行した。
 中学校については、文部省は、明治四四年「中学校教授要目」を改定した。それに基づき同四五年「愛媛県立中学校規則」が制定され、理科の課程表は、第一学年植物動物二時間(週当たり)、第二学年植物動物二時間、第三学年動物生理及衛生二時間、第四学年鉱物博物通論ニ時間及び物理化学四時間、第五学年物理化学四時間と規定した。本県では、同三七年に大洲中学校、同三八年に今治中学校が設立され、県立中学校は五校となった。明治四二年九月に発行された県立今治中学校の『教授法概要及訓育ノ状況』によれば、理科関係の教授法は次のように示されている。

博物科 一、本科ハ便宜上区分シテ教授スト雖モ、鉱物、植物、動物三界相互ノ関係二留意シ、博物科全般二亘リ統一的概念ヲ得セシムペシ。
    ニ、標本、模型、繪図ハ本科教授ノ基礎ヲナスモノナレバ、常二之ガ完備二務ムベシ。
    三、本科ノ教授ハ実地ニヨリ得ベキモノナルヲ以テ、生徒ヲシテナルベク実地研究ヲナサシメ、観察カヲ鋭敏ナラシムベシ。
    四、下級二在リテハ、教科書中ノ術語、其他説明ヲ要スル箇所アルベシト雖モ、読書的二傾カザル様注意スベシ。
    五、解剖及ビ野外実習ハ、時間ノ許ス限り務メテ之ヲ行フベシ。
物理及化学科
 化学 一、化学ハ実物実験ノ科学ナレバ、之ヲ授クルニハ出来得ル限リ多クノ実験ト標本トヲ示シ、以テ生徒ノ知識ヲ確実ニスベシ。
    二、日常生活上二於テハ無機化学ヨリハ寧口有機ノ方密接二関係アルヲ以テ、第三学期二於テハ充分ノ時間ヲ配当シ、而シテ日常生活二関係深キ事項ヲ多ク授ケ、生徒二興味ヲ喚起セシムルコトニ務ムベシ。
    三、生徒ノ学ビ得ル範囲内二於テ理論ヲ授ケ、箇々分離セル事項二科学的説明ヲ与へ、以テ生徒ノ脳裡二其印象ヲ深クシ且其応用ヲ容易ナラシムベシ。
    四、時々計算問題ヲ課シテ既得ノ知識ヲ確実ナラシムベシ。
 物理 一、法則其他諸現象ヲ説明スルニ当リ、ナルベク卑近ノ実例ニヨリ且実験ニヨルハ勿論、其物理的意義ヲ了解セシメタル後、更二数量的ノ点二説キ及ボシテ、自然界ノ法則ヲ理解セシムベシ。
    二、計算問題ヲ解クニ当リ、始メヨリ公式ニヨリ云々卜云フヲ禁ジ、ナルベク其物理的根本ノ意義ヲ確認セシムベシ。
    三、既得ノ知識ヲ確実ニセンガタメ宿題ヲ課シ、之ヲ「ノートブック」ニ浄書セシメ置キ時々之ヲ検スベシ。
    四、機械的二暗記スルノ弊ヲ矯メ、必要ナル事項ハ出来得ル限リ暗記法ヲ授クベシ。殊二化学二於テ然リトス。

 第五期

 大正時代から昭和初期にかけては、第一次世界大戦・関東大震災・経済不況・恐慌など世界的社会的大動乱の時代にもかかわらず、西欧諸国からの新しい思想や教育思潮が流入して、いわゆる大正デモクラシーのもとでの教育となる。小学校低学年の理科特設是非論議や自由教育・個別教育など諸種の教育方法の試行、中学校・師範学校の実験設備に対する国庫補助金の公布など、理科教育改革の気運が盛り上がった時期である。
 小学校では、明治四四年国定小学理科書(児童用)の使用が開始され、全国一斉にこれを使用することとなった。しかし、児童用教科書がない時期に独自の教授細目を作成し、郷土理科教材の開発や野外学習・観察・実験等を主軸に実践研究に取り組んできた指導者や現場教師の間では、国定教科書に対する批判が大きく、小学校低学年理科設置論争と相まって、大正初期の教育雑誌をにぎわすことになる。
 愛媛教育協会の機関紙『愛媛教育』第三七八号(大正七年)には、当時愛媛県師範学校長であった山路一遊が「理科教育の革新」と題する一文を寄せている。彼は「現今の理科教授は、分析的論理的に偏して児童の興味に適合せず、又自然を愛するの心を阻害す。故に改めて発達段階の順序に依り自然的興味に適合して観察研究の能力を陶冶し、併せて自然を愛するの心を涵養し敬虔の念を啓発せんとす」と述べ、スタンレー・ホールの説を引用して「科学教授の主目的は自然に対する愛の涵養にあり、凡そ自然研究はただに知的要求を充すべきのみならず感情上の必要即宗教的熱望を満足せしむべきものにして、児童をして自然に帰り、自然に接し、自然を愛する心を養はざるべからず」と当時の国定理科教科書及びそれによる小学校理科教授の在り方を痛烈に批判、また「現時の科学教育殊に中等学校のそれに在りては、専ら分析・解剖・分類等に没頭し、精密なる観察及記憶を尊重し徒に顕微鏡の使用、科学公式の暗記に是腐心し、之がため自然に対する真の生きたる興味を滅却し、自然を愛するの地位を去りて無頓着なる傍観者の位置に立たしめ、遠く自然を離れて之を死物視するに至らしむ」と中等理科教育にも頂門の一針を下している。さらに小学校低学年理科設置を要望する帝国教育会主催全国小学校教員大会の決議や全国的な気運に対しても、「現今の如き分析的解剖的教材を強いんとする理科ならば、甚だ不可なり。断じて許すべからず。」と断じた。そして、理科教授上一貫する所の真理として、「理科教授においては児童をして環境自然に接触せしむるを以て根本義とす」とし、「校地を利用して植物の栽培、動物の飼育に従わしめ、公園郊外山河海浜に誘引して自然のままに森羅万象を観察し造化の大観を窺わしむべし」と述べ、植物の栽培、動物の飼育、物理・化学・地文に関する教授の在り方について詳しく述べている。また、中等学校の理科にっいても「博物学者が徒らに材料の収集に没頭し、浅薄なる説明に満足しややもすれば造化の玄妙を回避蔑視し、理化学者が精確なる法則を教うるに汲々として、造化の不可思議に想到せざるは甚だ悪し」と言及して、「現今理科教授の分析的論理的編成を改め、徒らに多くの知識を知らしむるの弊に陥るべからず。要は、発達段階に即して、全体の観察研究より始め、次第に科学的方法に進ましめ、それらを通して科学的知的陶冶と共に情意の陶冶をなすべし」と結んでいる。この山路一遊の論説は、当時の理科教育全般の実態を端的に表したものであり、傾聴すべき論説である。また、愛媛師範学校教諭小松崎三枝も常に理科教授法・理科教材等について投稿し、愛媛の理科教育に人きな足跡を残した。
 大正初期から昭和初期までの間には、大正四年の全国小学校第一回理科訓導協議会、同八年理科教育研究会の発会など、全国的な研究会が開催され、会誌『理科教育』が創刊された。同八年には、尋常小学校四年から理科を課し、物理及び化学を中学校三年から課す規則の改正がなされた。一方、自由教育思潮に基づく諸種の試みとして、千葉県師範附属小学校の「自由教育」、奈良女高師附属小学校の「合科学習」、東京女高師附属小学校の「作業主義全体教育」などが行われた。
 本県でも、大正一○年前後、愛媛県女子師範学校附属小学校の「自由教育」、新居郡泉川小学校の「個別教育」愛媛県師範学校附属小学校の「ダルトンプランの採用」など諸種の試みがなされた。また、大正一〇年には、第一回愛媛教育研究大会が開催され、自由教育問題が討議されている。昭和二年の第七回大会では「郷土教育」を討議し、翌同三年には西条町大町小学校で全国個別教育研究大会が開催された。このように、県内の教育研究意欲は非常に高まり、各種の研究大会の討議の中で、理科教育に関する教材研究や教授法の研究も深められていった時期である。
 なお、大正八年の「愛媛県立中学校規則」及び大正一一年の「愛媛県立高等女学校規則」による中学校・高等女学校の理科に関する課程表は次のとおりである。( )内は週当たり時間数を示す。
  中 学 校  第一学年植物動物(ニ) 第二学年同上(二) 第三学年動物生理及衛生(ニ) 物理化学(ニ) 第四学年
         鉱物博物通論(ニ) 物理化学(四) 第五学年物理化学(四)
  高等女学校
    五年制  第一学年植物動物(ニ) 第二学年動物生理及衛生(ニ) 第三学年鉱物博物通論(三) 第四学年化学
         (三) 第五学年物理(三)
    四年制  第一学年植物動物(ニ) 第二学年動物生理衛生鉱物(ニ) 第三学年化学(三) 第四学年物理(三)

 第六期

昭和六年(一九三一)満州事変、同一二年日中戦争、同一六年、第二次世界大戦へと突入する時局の急転回のなかで、理科教育も大きく変化することになる。
 大正一二年「国民精神作興二関スル詔書」、昭和三年「教育振興二関スル御沙汰」の発布に伴う国民精神作興教学刷新の動向のなかで、理科教育は一時疎外されて停滞し、改革への気運もしだいに低下していった。
 しかし、戦争の拡大、特にノモンハン事件(一九三九)における日本軍の劣勢は、政府に科学や理科教育の重要性を再認識させることになった。小学校教育では、理数科教育を重視し、低学年から理科を課すべきであるとの意見が台頭して「国民学校令」に反映、中等・高等教育では、理科系・技術系の諸学校が急増設されることになった。
 この戦時体制下の理科教育で最も注目される改革は、昭和一六年勅令公布の「国民学校令」である。同一三年教育審議会が答申した「国民学校二関スル要綱」に基づいて、国民学校の教科は国民科・理数科・体錬科・芸能科・実業科の五教科となり、理数科は算数と理科に分け、第一学年から第三学年までの低学年にも「自然ノ事物現象ノ観察」を課すこととなった。また、理科の要旨として「理数科理科ハ、自然ノ事物現象及自然ノ理法卜其ノ応用二関シ、国民生活二須要ナル普通ノ知識技能ヲ得シメ、科学的処理ノ方法ヲ会得セシメ、科学的精神ヲ涵養スルモノトス」と規定した。この改訂の特徴は、低学年に自然の観察を課したこと。及び、自然の理法と応用、技能、科学的処理の方法、科学的精神の涵養などの語が出現したことである。このことは、明治後期以来長年にわたり論議され、研究された教育現場の成果を取り上げたもので、戦後の理科教育にも大きな関連をもつ重要な改革である。
 文部省は急ぎ教科書の編さんに着手、同一六年『自然の観察』IⅡⅢⅣ、同一七年『自然の観察』Ⅴ及び『初等科理科』I、同一八年には、『初等科理科』ⅡⅢを発行した。『高等科理科』ⅠⅡも発行し、八か年の義務制を指向していたが、同一九年「国民学校等戦時特令」により無期延期となり、実現せず終戦を迎えた。
 昭和二(年「国民学校令」に基づく「愛媛県師範学校附属国民学校学則」による理数科の内容および時間配当は表2-37のとおりである。
 一方、中等学校は、昭和六年「中学校令施行規則」「中学校教授要目」などの改定によって、「作業科」「公民科」が新設され、中学校では第四学年以上に第一種、第二種の課程を編制し、生徒にそのいずれかを選修させることになった(表2-38)。また、教科目を基本科目と増加科目に分け、理科については、「従来の博物・物理及化学は之を総合して理科となせり。是れ理科においては、必ずしも専門学的学術の体系に泥むことなく、実際生活上有用なる理科的知能を与ふるを旨とし、一般理科より始め、進んで博物的事項・物理的事項及び化学的事項を課し、又応用理科を授くるに適せしめんがためなり」として従来の「博物」「物理及化学」のほかに「一般理科」及び「応用理科」を設けた。しかし、この「一般理科」「応用理科」は、上級学校入試の妨げになり、あるいは科学の体系的な教育をこわす、などの理由をあげられて、全国的な反対を受けることになる。その後、昭和一八年「中等学校令」が公布されて中等学校は一括四年制となり、従来の「教授要目」にかえて、「中学校(高等女学校)教科教授及修錬指導要目」を訓令した。この改正によって理科は「物象」「生物」の二科目となったが、そのころからほとんど通年勤労動員となり、授業はほぼ停止状態のまま終戦を迎えることになった。
 なお、戦前・戦後を通じて、愛媛県理科教育に大きな足跡を残した教育者として八木繁一がいる。

 第七期

昭和二〇年(一九四五)八月一五日終戦。教育の戦時体制を解除し、平和国家建設を目標に、すべての物資が不足するなかで、戦後の学校教育は出発した。愛媛県では、同年九月「終戦二伴フ教科用図書取扱
ニ関スル件」を通達。省略・削除など全面改訂の応急措置として、いわゆる「墨ぬり教科書」の作成から始まる。同年一二月、GHQ(連合軍最高司令部)は従来の教科書の回収・破棄を指令。翌二一年、文部省は「新教育指針」を発表、続いて「男女共学制」「六・三・三制」の実施を決定した。同二二年「教育基本法」及び「学校教育法」を公布して、明治一九年以来の「学校令」下の教育は終わることになった。
 「六・三・三制」の新教育制度は、同二二年四月から、新制小・中学校、同二三年四月から新制高等学校が発足して、以後しだいに整備されていった。
 同二一年、GHQはコース・オブ・スタディの編集を指示。文部省は、同二二年「学校教育法施行規則」で教科を定め、教育課程の基準は「学習指導要領」によることとした。小・中学校の教育課程及び学習指導内容については、同二二年「学習指導要領一般編(試案)」を発表、続いて「同各教科編(試案)」を発表したが、戦後急拠作成されたこれらのものを補足・修正して、昭和二六年「学習指導要領一般編(試案)」を改めて発表した。高等学校については、同二二年「新制高等学校の教科課程に関する件」で基準を定め、翌二三年「高等学校学習指導要領(試案)」を発表、同二六年「学習指導要領一般編(試案)」で全面修正した。
 これらゐ「学習指導要領」の大きな特徴は、単元学習と高等学校における選択教科制及び単位制の採用であった。理科においても、小・中学校では特に「生活理科」の色彩が濃く、生活単元の作成・問題解決学習方式を重視したものであった。しかし、この単元学習は、内容があまりにも広範で、しかも漠然としていたため、教師にとっては大きな負担となり、やがて基礎学力の低下という問題も生じて、机上の理想案の運命をたどることになる。

 第八期

敗戦後の困難な条件のもとに急きょ発足した新教育制度も、昭和二八年以降の学校の施設設備、あるいは教員の給与・定数などについての国庫補助または国庫負担の立法化が進み、同二八年には「理科教育振興法」その他が成立して、次第に整備されていった。また、その後の我が国経済の高度成長や技術革新の波は、理科教育に大きな影響をもたらすことになる。
 昭和二〇年代の教育の潮流となっていた経験主義や生活単元学習に対する教師の不満や反省、及び基礎学力低下を懸念する社会の不安は、学習内容や指導方法に向けられたため文部省は「学習指導要領」の改訂を告示、同三六年度から小学校、同三七年度から中学校において全面実施。高等学校は同三八年度から学年進行により実施することとなった。理科でもこの改訂によってこれまでの単元学習は消滅し、指導内容の精選が図られ、系統性や構造性が重視されるとともに、授業時間も大幅に増加することになった。
 この「改訂学習指導要領」も、やがて昭和四三年に始まる改訂告示により、小学校は同四六年度から、中学校は翌四七年度から「新学習指導要領」に全面改訂され、高等学校についても、同四八年度新一年生から学年進行により実施されることになった。この学習指導要領改訂の背景となったものは我が国の国際的地位の向上、社会の要請などであるが、科学教育については特に経済の高度成長、科学技術の革新が大きな要因となり、理科・数学などの教育内容の現代化が重点となった。
 昭和五〇年代に入ると、高度情報化社会、高学歴社会の到来となり、義務教育終了後の高等学校進学率は九五%を越え、大学進学率も三八%台に上昇し、高等学校は大部分の青少年を教育する国民的教育機関としての性格を強めるに至った。そのため、小・中・高等学校を一貫して教育内容を精選・集約し、豊かな人間性の育成をめざして、ゆとりある学校生活を送らせるよう、文部省は学習指導要領の全面改訂を行った。
 愛媛県教育委員会は、これらの変化に即応して、毎年度小・中・高等学校別にそれぞれ理科の指導目標や指導上の留意点などを掲げて、全県下に印刷配布するとともに、研究指定校や推進校を設置して理科教育の発展向上に努めた。また、昭和三八年には、理科担当教員の資質の向上を図るため、施設・設備ともに充実した県立理科教育センターを設立し、本県理科教育は更に充実した。

表2-36(a) 理学教育に関する課程表と内容

表2-36(a) 理学教育に関する課程表と内容


表2-37 愛媛県師範学校付属国民学校則1

表2-37 愛媛県師範学校付属国民学校則1


表2-37 愛媛県師範学校付属国民学校則2

表2-37 愛媛県師範学校付属国民学校則2


表2-38 昭和六年の愛媛県立中学校規則

表2-38 昭和六年の愛媛県立中学校規則