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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

2 中等教育①

 学制期の地理・歴史教育

 明治五年(一八七二)の学制発布によって、下等・上等中学において地理・歴史も教育課程の中に位置づけられた。愛媛県では、同八年愛媛県英学所を設け、不完全な組織ではあったが中等教育としての教育内容を整えた。授業は一日二時間、二教科を受けることを原則とした。「課業表」によると、当時使用された二七書の中には、ミッチルの地理書、カッケンボスの米国史など地理・歴史に関するものが八書掲げられている。当時の教科書は、和本の中に適当な書物が見いだせぬまま欧米の教科書が用いられたため、その教科内容は当時として程度の高いものであった。表2ー17に示すように、「改正松山中学校規則、甲科業表」の英書と漢書の中には、多くの地理、歴史に関する書物が多く掲げられている。このように地理・歴史教育が学制発布当時から重視されたのは、外国の地理・歴史の学習が、文明開化の重要な担い手のひとつと目されていたためであろう。

 教育令期の社会科教育

 明治一三年、文部省は「教育令」を改正し、規則を強めた。翌一四年には、「中学校教則大綱」を制定し、初等中学科に修身・和漢文・英語などともに地理・歴史を習得することを規定した。これを受けて県では、「愛媛県中学校教則」を布達し、県独自の教科内容を加えた教育課程を示した。地理科については、「地理ハ学業及生業上二必修ノ学科ニシテ、初等中等科二於テコレヲ課シ」とし、地理総論、日本地理、万国地理、地文学における教授内容を指示したうえ、「……凡地理ヲ授クルニハ専ラ実用上ノ問題ヲ考究セシメ、且実地ノ観察カヲ養フヲ要ス」としている。歴史科については、「歴史ハ邦家ノ沿革ヲ知リ識見ヲ長スル所以ノ学科ニシテ、初等中学科二於テコレヲ課シ、本邦建国ノ体制ヨリ制度ノ沿革風俗ノ変遷文化ノ消長武備ノ弛張明君賢相ノ治績忠臣孝子ノ偉行等ヲ識得セシメ」と規定している。このように国家的基準に沿って、中学校での学習内容を明確に示した。

 中学校令期の社会科教育

 更に、明治一九年(一八八六)、文部省は「中学校令」を公布し、中等教育の刷新を図った。その第七条に「尋常中学校ノ学科及其程度」が示されている。
 この時期に開校した伊予尋常中学校の教則は、地理・歴史の外に、倫理・国語・漢文・英語・農業・数学・博物・物理・化学・習字・図画・唱歌・体操などの教科を定めている。更に各学校の「教旨・教程」を詳細に説明している。県では、同二一年に「中学校教科書仮定の件」を布達し、学校で採用すべき教科書として、地理科では新撰地理書・芸氏地文学、歴史科では日本略史・日本文明史略・十八史略・元明清史略等をあげている。
 学習内容は、当時使用されたと思われる「新撰地理小志」によると、四国について「四国ノ地勢ハ山嶺概東西ニ脈ヲ連ネ、中央ノ山嶺殊二高ク、石鎚、矢筈、白髪ナド名ヅクル山々此間二秀デ、吉野、仁淀ノニッノ大川ヲ出ス、……四国ノ海岸ハ出入一ナラズ、中ニモ伊豫ノ西岸ハ入江卜山嘴ト相錯ワリテ鋸ノ歯ノ如シ。……産物ハ、……讃岐、伊豫ハ砂糖卜塩二名アリ。……伊豫ノ東部ノ平野ヨリ道後ノ地方二出ツルニハ櫻三里ノ峠アリ。道後ノ温泉ハ古ヨリ名高年所ニシテ、松山ハ此地方ノ重要ナル名邑ナリ。是ヨリ宇和ノ地方二人レバ地面ノ形勢一変シテ山深ク、谷幽ニ、道路モ山坂登り降リテ嶮岨ノ処多シ。宇和島ハ此地方ノ名邑ナリ。」と記述されている。
 同二四年に開校した私立宇和島明倫館の「教旨・教程」(表2ー18)、「教科用図書」(表2ー19)によると、社会科の指導は、地理と歴史が密接な関係であることが指摘されており、合科的な取り扱いもできることを示している。このことは、総合社会科の先駆とみることもできる。
 県では更に同二八年、新たに「愛媛県尋常中学校規則」を発布し、教則の中で地理科においては、「地理学上普通ノ知識ヲ授ケテ思想ノ範囲ヲ広メ、以テ処世上二益シ、兼テ愛国ノ精神ヲ養成スルヲ以テ要旨トス……」とし、歴史科では「本邦特有ノ国体ノ発達ヲ詳ニシ、世界各国ノ変遷ヲ窺ヒ、兼テ古今聖賢俊傑ノ言行ヲ知ラシメ、以テ豊富ナル経験達識ヲ得シムルト共ニ、忠君愛国等ノ感情ヲ養成スルヲ以テ要旨トス……」とした。すなわち愛国心の成育と実用上の見地から、その教育の必要性を述べたものである。このような社会科教育の動向は、同四三年六月に開催された県立学校長会の訓示においても、「一、教育ノ要ハ善ク教育勅語ノ大旨二則リ確平タル道徳上ノ信念ト剛健ナル意志トヲ備へ、常二国家ヲ以テ念トスルノ国民ヲ養成スルニアリ。……」に始まる五項目の最後に「一、郷土二於ケル人物ノ伝記、地理、歴史、民族、産業ノ推移消長ヲ評悉シテ教授ノ資二供シ生徒ヲシテ其原因結果ヲ推究セシメ、祖先ノ恩恵二感奮興起セシムベキハ、教育上ノ必要件ナルユ中等諸学校二於テ、之ガ調査蒐輯ヲ全フセルモノナキハ甚ダ遺憾トスル所ナリ。宜ク適当ノ方法ヲ定メテ、着手セラレン事ヲ望ム。」と述べられている。
 「中学校教授要目」は、その後同四四年に改正が加えられたまま、大正期の一五年間は大きな変更もなかった。また訂正も大幅なものではなく、地理科において「地理ヲ授クルニハ必要二応シテ歴史等トノ関係二留意スヘシ」とする項目が注意の中に加わった程度である。次頁の表2ー20は、同四四年当時の愛媛県立中学校の学科課程及授業時数を示したものである。

 女学校の社会科

 明治三二年に公布された「高等女学校令」の教育目的は、「女子二順要ナル高等普通教育ヲ為ス」とあるが、明らかに良妻賢母の育成を目指すものであった。
 三三年の愛媛県立高等女学校本科の学科目は、修身・国語・外国語・歴史・地理・数学・理科・家事・裁縫・習字・図画・音楽・体操等であった。これらの教科を通して女学校での学習は、家庭生活への準備を中心とする実科的教育を重視したものである。歴史教育においても、「歴史ヲ援クルニハ我国体ヲ明カニシテ、以テ国民タル志操ヲ養成センコトヲ務ムヘシ」とあり、女子教育について意識してあげられた条項の一つといえる。県立宇和島女学校、県立今治女学校もほぼ同じような課程であった。

 実業学校の社会科

 明治三二年の「実業学校令」は、その種類を工業・農業・商業・商船学校とし、各学校別に多様な規程がつくられた。愛媛県立商業学校の課程は、前頁の表2ー22に示すように本科において「商業地理」を課している。愛媛県立農業学校では、予科において「日本及外国地理」・「外国歴史」がそれぞれ週三時間。愛媛県立弓削商船学校では、予科の地理歴史で「我力国ヲ基礎トシ我力国二関係アル世界地誌日本歴史」を週二時間、本科の機関科を例にとれば、地理のみ第一学年で「日本沿海誌地文本邦地誌」を第二学年で「日本及東洋商業地理及東洋沿海誌」がそれぞれ週一時間行われた。

 愛国心の養成と地理教育

 昭和一二年に再改正された「中学校教授要目」は、前回の改正(昭和六年)で「国民タルノ自覚ヲ促スニ資スル」と記載されていたものが、「国民精神ヲ涵養シ国家ノ興隆卜民族ノ発展トユ資スルコトヲ要ス」と改められ、国家主義的色彩を一段と強めた。更に、愛国心の涵養に資するため、「我が国土ノ情勢及国勢発展ノ由来ヲ詳ニシ」、加えて愛郷心の養成を図るため、「学校所在地及之卜関係ノ密接ナル地方二就キテ特二詳細二教授」する必要を強調している。
 教育における戦時体制の強化は、同一八年の中等学校令において、「国民ノ錬成ヲ為スヲ以テ目的」とする教科目の統合が行われた。すなわち、修身・国語・国史・地理の四科目が合併して、一種の分科統合的教科としての国民科を形成した。中学校の地理教育は、国民科地理となり、目標・内容において大きな変更が加えられた。文部省訓令(中学校教授及修錬指導要目)は、「国民科ハ我ガ国ノ文化並二中外ノ歴史及地理二付テ習得セシメ国体ノ本義ヲ闡明シテ国民精神ヲ涵養シ皇国ノ使命ヲ自覚セシメ実践二培フヲ以テ要旨」とした。中でも地理は「皇国並二東亜及世界ノ地理ヲ一体的関連二於テ習得セシメ我ガ国土国勢ヲ明ニシテ国土愛護ノ精神ヲ涵養シ皇国ノ東亜及世界ノ地理ト我ガ国土国勢二付テ授クベシ」と規定している。また、このような体制の中で、長らく検定制であった中学校教科書にも国定教科書使用の原則が適用された。
 しかし、その反面、昭和の初め以来学問としての体系を急速に整備してきた地理学の影響をうけて、「地図ノ使用二当タリテハ各種投影法二依ル地図ノ性質二付テ知ラシムベシ地図作製上ノ意図二付テモ十分留意セシムベシ」と、現在でも生かしえる方針が打ちだされている。

 修身科・国史科・地理科の中止についての指令

 昭和二〇年、「修身、国史及ビ地理停止二関スル件」は、すべての学校において修身・日本歴史・地理の課程を即時中止すべきことを命じたものであった。この指令は、授業が中止されたばかりでなく、これまでの教科書や教師用書をすべて回収する旨のものであった。
 県では、同二一年一月九日、社寺教学課長から中等学校長、支庁教育課長、地方事務所視学、市教育課長あて、次のような通知を出している。
  一、修身、国史、地理ノ授業ヲ停止スルコト
  ニ、右教科書教授用書ハ学校二蒐集保管スルコト
  三、右授業停止ニヨリテ生ズル余剰時間ハ、国民科国語、理数科、
    芸能科、公民科、外国語、農耕作業等二充当スルコト
  四、地図、掛図等二関シテハ屢次通牒ノ趣旨二鑑ミ処理スルコト
 この通知を受けた学校の記録(宇和島南高等学校沿革史)によると、次のように記されている。
 このような動きの中で、同二一年三月三一日に出された米国教育使節団報告書は、「…地理および歴史の教科書は、神話は神話として認め、そうして従前より一そう客観的な見解が教科書の中に現れるよう書き直す必要があろう。初級、中級学校に対しては地方的資料を従来より一そう多く使用するようにし、上級学校においては優秀なる研究を種々の方法により助成しなくてはならない」との一文を日本の教育の目的および内容の中で述べている。その後、地理科については、二一年六月二九目付の政府あて連合軍最高司令官総司令部覚書「地理科再開について」で、日本歴史については、同年一〇月一二日付の同覚書「日本歴史の授業再開について」で、それぞれ、文部省によって編集され総司令部の認可を経た教科書のみを使用するという条件で、授業再開の許可が出された。

 新制高等学校の社会科教育

 新制高等学校の教育課程は、昭和二二年(一九四七)の学校教育法施行に基づく高等学校学習指導要領に始まる。社会科は、第一学年(第一〇学年と表記されていた)に「一般社会」が全員履修科目として、中学校の一般社会科の延長として位置づけられた。そして、第二・三学年において「東洋史、西洋史、人文地理、時事問題」の四つの選択科目が置かれた。同二四年には、表2-23に示すように「東洋史」と「西洋史」が統合されて「世界史」となり、更に『日本史』が加えられた。
 同三一年の改訂は、「一般社会」はなくなり、「社会・日本史・世界史・人文地理」の四科目となり、すべて分化社会科となった。同三五年の改訂では、表2ー24に示すように「社会」は「倫理・社会」と「政治・経済」に分けられ。「世界史」と「地理」にはA・Bの二科目が設けられた。同四五年の改訂では、「世界史」のA・Bの区分はなくなった。同五七年の改訂では、表2-25に示すように第一学年に「現代社会」が置かれ、「地理・日本史・世界史・倫理・政治経済」が選択科目となった。このように、戦後の高等学校社会科の科目構成は、融合社会科から分化社会科へ、また分化社会科は更に細分化へと向かい、現在、「現代社会」という融合社会科になっている。

 愛媛県高等学校社会科研究会

 戦後のめまぐるしい社会科教育の変貌の中で、昭和二五年ころになると教師の研究会活動も芽生えはじめた。中予においては、旧松山高等学校などを会場に地理研究会、歴史研究会今日曜日を利用しての伊豫史談会など自主的な活動がみられる。その中でも、二五年(一九五〇)に結成された南予高等学校社会科研究会は、三好清明、井伊信博、三好憲之らを中心に第一回の研究会を吉田高校で開催している。翌二六年の総会(於川之石高校)では、研究授業と広島大学教授内海厳を招いての講演を行っている。この会は、現在の愛媛県高等学校教育研究会社会部会の母体となった組織である。
 同三〇年に、野澤浩(県教育次長)、三好清明(南予高校社会科研究会長)、兵頭正らによって全県的な組織づくりが話し合われ、翌三一年四月から愛媛県高等学校社会科研究会を発足させた。表2-28は、発足時の会則を示したものである。会費は個人負担で二〇〇円とし、うち一〇〇円を本部費用に、残りを東・中・南予支部に還元する等、本部・支部・部門の主体性を重んじたものである。会費は、同三九年度から四〇〇円、四一年度から六〇〇円、同四九~五一年度まで一、〇〇〇円となっていった。
 同三七年度からは、より大きな組織として愛媛県高等学校教育研究会の一部会となった。その間の活動は、毎年東・中・南予の高等学校を会場にして焦点授業、研究発表、地域巡検、県外講師による講演等を実施してきた。中でも、小・中学校と合同で行う研究大会は特筆すべきものである。同三四年に第八回全日本社会科教育研究大会を松山市立東雲小学校で、同三五・三六年には愛媛県社会科教育研究犬会を八幡浜市立江戸岡小学校(共通主題「改訂指導要領より見た社会科の問題」)、伊予三島市立三島小学校(共通主題「考える社会科学習指導の具体的展開」)で、小・中・高等学校の教師が一堂に会しての研究大会を行った。また、同三三年からは、現在もなお継続している地理部門による共同調査も始まった。

 愛媛県高等学校教育研究会社会部会

 社会部会になってからの最大の行事は、例年一二月二一・二二日の両日開催される愛媛県高等学校教育研究大会である。この大会は、表2ー29に示すように第一日目の午前中、県民館等を利用して全体会を行い、午後から各部会に別れて松山市内の高等学校を中心に研究会を実施している。その他、部会としての年間行事は、昭和三一年以降大きな変動はみられない。同五二年度の部会行事を例にあげると、年度当初の五月に社会部会並びに総会(於松山北高校)、六月に東予支部総会並びに倫・政部門研究会(於今治北高校)、八月に地理部門砥部共同調査、一〇月に南予支部総会並びに歴史部門研究会(於宇和島南高校)・中予支部総会並びに地理部門研究会(於長浜高校)、そして一二月に教育研究大会社会部会(於松山西高校)を実施している。なお、支部総会と部門研究会は、年度ごとにその組み合わせを変えるようにしている。これらの会の運営は、社会科研究会の発足以来、県教育委員会と一体となった研究会活動を続けており、歴代の高市純徳・徳永重孝・井原康男・大内敏明・仙波令巳・三好甫明指導主事と部会役員が緊密な連絡協議、指導助言のもとにスムーズな組織活動を続けている。
 小・中学校と合同の全国社会科教育研究大会も引き続いて実施し、同三八年の第一二回大会は、道後中学校を会場に、「社会科の学力向上をめざす学習の近代化はいかにあるべきか」を主題に掲げて開催した。講師には文部省教科調査官平田嘉三、国立教育研究所矢口新、東京教育大学教授大島康正らを招いている。焦点授業は、市内の高等学校から生徒をバスで運ぶなど、盛大な大会であった。しかし、同四二年の第一六回大会からは全体会・全体講演を合同でもつほかは、小・中・高等学校が各分科会場に分かれての大会になった。第一六回大会以降の研究主題及び高校部会の全体会講師は、左記のようになっている。下の( )中は会場校である。
・第一六回(四二年)「総合的思考力を深める学習指導と内容の精選」 東京大学名誉教授海後宗臣(松山南高校)
・第二〇回(四九年)「豊かな人間性の育成をめざす社会科教育」   東京学芸大学教授佐藤武男(松山北高校)
・第二四回(五七年)「地域に根ざした社会科学習」         愛媛大学教授  横山昭市(松山西高校)
 この大会は、香川・徳島・高知・愛媛の四国四県の持ち廻りで開催している。

 地理部門共同調査

地理部門の共同調査は、夏期研修行事として昭和三三年から県下各地域を対象に実施している。第一回の青島調査には、松田俊部門長をはじめ、林英夫・宮内龍蔵・松尾義行・森正史・越智斉・三好憲之・池内長良・片上正明・武智利博・野澤善浩らが参加し、四日間にわたって島内の調査、島民との座談会を開くなど研究会として初めての調査を試みた。以後、二五年間に表2ー30に示すように一三回の調査が実施され、その都度調査報告書を出している。初めのうちは、ほとんどの教師は自費で参加し、自分の足で自転車で地域をかけめぐっての調査であった。共同調査は原則として毎回総合調査の形をとり、地域によって多少異なるが、表2-31に示すような項目で、それぞれ各人が希望する分野を担当している。また、調査期間中は、全員が公民館・学校・旅館などの大部屋で寝食を共にする合宿生活を行っている。
 特に、三八年の「四国西南開発地域の共同調査」は、県出納長松友孟も直接現地調査の指導にあたり、県教育委員会からも科学技術奨励金を受けての調査であった。この調査報告書で会長野洋浩は「感ずるままに」と題して、「いわゆる〝人間不在の地理学〟から目ざめて、人間そのものを中心とした新しい角度からその地域(宇和島地区)認識の歴史と、地域における生活の実態とを述べたものが、この書である。ここに執筆した人たちは、『人間の生きている姿を、すべて風土を背景として考えることができるのは、われわれ地理の教師に与えられた一つの大きな特権である』という勇気をもって、調査にあたったグループの一部にすぎない。業績とはいえなくても、血の通っているつもりである。新しい地理学の見方を考えていただくうえで、参考になればと願うものである。」(昭和四〇年一〇月)と記している。五五年には、会長清水敏雄、部門長石丸博の努力によって、第一回調査(三三年)から第一一回調査(五二年)までをまとめた「愛媛の地域調査報告書」(六八三頁・関洋紙店印刷所)が全調告地域のカラー航空写真を添えるなどして刊行された。

 社会部会の刊行物

 社会部会による刊行物は、昭和三二年の愛媛県高等学校社会科研究会の発足以来、本部において毎年「会報」が作られている。特に、兵頭正会長以降の第一一号・一三号・一四号・一八号・二三号・二五号・二八号・二九号は会長御退職記念号として、多くの「研究論文」が寄稿されている。左記に示す論文は、
各号における主なものである(研究論文の中で最も多いページ数のものを掲載)。

  ・一一号……一三世紀の東洋における特産物素描ーマルコポーロ「東方見聞録」を中心にー坂東梅生(松山南高)
  ・一三号……ユダヤ人迫害に関する一考察                       正岡勝英(松山北高)
  ・一四号……飛越山地の廃村ー飛騨白川郷、越中五箇山、白山麓白峰の事例―      篠原重則(宇和島南高)
  ・一八号……愛媛県下の先土器時代の遺跡について                  長井数秋(県文化課)
  ・二三号……今治藩の漁業ー椋名村を中心としてー                  山内理史(今治西高)
   ・二五号……過疎地域の人口流出に関する比較研究-生徒とともに学ぶ地域研究ー     豊田達雄(県文化課)
   ・二八号……永仁の徳政令と伊予の御家人                       山内 譲(県史編さん)
   ・二九号……長州藩天保改革と明倫館教育                       芳我明彦(野 村 高)

 地理部門においては、先にふれた「地理共同調査報告書」の外、同三三年には「人文地理ワークブック」が作られた。このワークブックは、部門長松尾義行・藤本純一によってその基礎が築かれ、教科書の副教材として県下の大部分の高等学校で使用されている。作成にあたっては、地理担当教員が一人一問題を原則として分担し、毎年全面改正または部分訂正を行い、よりよい問題作りを目指している。歴史部門では、「愛媛県歴史散歩」(四九年三月出版・二三五ページ、山川出版発行)がある。同四七年より会長高市純徳、部門長宮城鎮を中心に歴史・地理担当の教員が集まり、二か年の現地調査、編集会議のうえ、多くの写真を掲載した読み易い地域案内書として刊行した。また、倫政・現代社会部門では「現代社会ワークブック」がある。この作成にあたっては、同五七年度から実施された学習指導要領の改訂にあわせて、同五五年度に会長大内敏明、指導主事仙波令己、部門長矢野好正を中心に「現代社会研究委員会」を発足させた。まず、年間指導計画の作成にあたっては、文部省主催の講習会で発表した宇都宮一幸の案をもとに、一九名のメンバーが試行錯誤の繰り返しの中からお互いの分担領域を越えて共通理解を図った。三好甫明指導主事になった同五六年度には、全国に先駆けて現場教師の手による画期的な「現代社会ワークブック」(八〇頁)が完成した。その表紙には、米倉豊撮影による東京・新宿の高層ビル群の美しいカラー写真が使われている。その他、本部主催による海外学術調査に参加した教師全員が執筆した体験録 「韓国の旅」(昭和四八年・二五名)、「東南アジア紀行」(同五一年・二八名)、[中国訪問記(一)」(同五三年・二八名)、「中国訪問記(二)」(同五六年・三四名)などがある。
―付記―
 高等学校社会科研究会から育った高須賀康生・清水正史・村上憲市・山内譲らが「愛媛県史編さん事業」の編さん部で活躍している。

表2-17 改正松山中学校規則・甲科業表

表2-17 改正松山中学校規則・甲科業表


表2-18 明倫館規則・教則(第七条)

表2-18 明倫館規則・教則(第七条)


表2-19 明倫館規則・教則(第十一条)教科用図書配当表

表2-19 明倫館規則・教則(第十一条)教科用図書配当表


表2-20 県立中学校の学科目課程及授業時数表

表2-20 県立中学校の学科目課程及授業時数表


表2-21 県立松山高等女学校の学科目課程及授業時数表(本科)

表2-21 県立松山高等女学校の学科目課程及授業時数表(本科)


表2-22 県立商業学校学科目課程及授業時数表

表2-22 県立商業学校学科目課程及授業時数表


学校の記録

学校の記録


表2-23 昭和24年度教育課程

表2-23 昭和24年度教育課程


表2-24 昭和35年度教育課程

表2-24 昭和35年度教育課程


表2-25 昭和57年度教育課程

表2-25 昭和57年度教育課程