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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

1 初等教育

 学制期の国語教育

 明治五年八月、文部省は「学事奨励に関する被仰出書」によって、学校設立の基本理念とその政策を明示した。つづいて「学則」を公布し、新たな教育制度を発足させ、まず庶民的・実用的教育である初等教育を軌道に乗せることが最も重要であるとの見解を示し、ここに近代教育の誕生を見た。
 さて、学制に示す教科の中で、「国語」という教科の確立は見られないが、「綴字・習字・単語・会話・読本・書牘・文法」等は、現代の国語科に関連する課目と言えよう。
 同年九月には「小学教則」が制定された。それによると、小学は上下二等とし、各八級に分け、下等八級(六歳)から上等一級(一三歳半)に至る毎級の期間を六か月間とする。毎週日曜日を除き、一日五時、一週三〇時の課業とした。なお、学制の示す教科を各学級に配当し、教科用図書と教授方法の大要を示している。そのうち、下等八級(現在の小学一年)の教育内容のうち、今日の「国語科」の領域と見なされるものを挙げると、
  綴字 一週六字即一日一字 (※字は時の意。左の文章中、かなづかいは原文のまま、漢字は新字体使用。)
   生徒残ラス順列二並ハセ知恵ノ糸口・うひまなび・絵人知恵ノ環一ノ巻等ヲ以テ教師盤上二書シテ之ヲ授ク。前日授

 ケシ分ハ一人ノ生徒ヲシテ他生二見エサルヤウ盤上ニ記セシメ他生ハ各石板子記シ、畢テ盤上卜照シ盤上誤謬アラハ他生ヲシテ正サシム。
習字 一週六字即一日一字
 手習草紙・習字手本・習字初歩等ヲ以テ平仮名・片仮名ヲ教フ。但数字・西洋数字ヲモ加へ教フヘシ、尤字形運筆ノミヲ主トシテ、訓読ヲ授クルヲ要セス、教師ハ順廻シテ之ヲ親示ス。
単語読方 一週六字即一日一字
 童蒙必読・単語篇等ヲ授ケ兼テ其語ヲ盤上二記シ、訓読ヲ高唱シ、生徒一同之二準誦セシメ、而シテ(後)其意義ヲ授ク、但日々前日ノ分ヲ諳誦シ来ラシム。
  単語諳誦 一週四字
   一人ツ、直立シ前日ヨリ学フ處ヲ諳誦セシメ、或ハ之ヲ盤上二記セシム。

以上の要領である。ほかには「洋法算術」(一週六字即一日一字)、「修身口授」(一週二字即二日置キ一字)があったが、国語関係の比重が圧倒的に大である。全学年を通しても、全教授時数の二分の一に達する状態で、寺子屋時代の遺風とも見られる。参考までに、教授配当時間を表にしたものを掲げる。
 表2ー1の通り、「単語」は、更に「単語読方・単語諳誦・単語書取」となり、「会話」も同様に三分されている。「読本」の内容には、修身・地学・史学・理学に関する事項が含まれており、今日の国語科の領域概念とは、著しく異なる。なお、「綴字」・「文法」の学科は、学制の規範としたフランスの教則を模倣したものと見られる。明治初期、就学八か年の小学校に、全国民の子弟を学ばせるのは、至難のことであった。校舎は整わず、力量のある教師数少なく、適切な教科書も質量とも不足する段階で、果たしてどれだけ学制・小学教則が、各地方で実施されたか、多分に疑問がある。愛媛県もまた例外であり得ない。

 単語篇の発行

明治五年、文部省は「単語」の教科書として、「単語篇」を出版した。下級小学八級~五級(現在の小学校一・二年)用として使用された。県下にも、この書が少数ながら各地に残存している。本文91頁の内容は、首部を含む三篇からなり、初めに「いろは図」(平仮名)、「五十音図」(片仮名)、「四種活用図」(文語動詞)等を掲げたあと、多少難易を考慮して漢字単語を一~三篇に分類記載している。単語の学習は、上級で「地学読方・理学輪講・史学輪講」等に置き換えられるため、単語篇による初級の教授が、比較的今日の国語科指導に近いもので、将来各分野に亘る読書のための基礎楷梯と考えたことが明らかである。
 さて、単語篇とは従来例のない書名であるが、「そのころ欧米に長く行われた入門書スペリングブックの類にならったもの」(井上赳)とか、「貝原益軒が『和俗童子訓』巻三『随年教法』に述べているところと、この書の組織とには通じている一面がある。」(古田東朔)との論がある。ともあれ、単語篇は、明治初期の国語教科書の典型となり、明治一八年ころまで多くの入門書が模倣した。教科書編纂史上「単語篇時代」とも命名される。(井上赳)

 二種の小学読本

 文部省は、単語篇発刊のあと、新教科書発行が急務となり、明治六年に田中義廉編「小学読本」を、翌七年に榊原芳野・那珂通高・稲垣千穎共編の「小学読本」を相次いで出版した。共に文部省編である。が、田中義廉編「小学読本」は、各府県で多数翻刻出版する際、中には「文部省編纂・師範学校彫刻」または「師範学校編輯・文部省刊行」と記載されて、師範学校が同書の編集・出版に深く関係した事実を示している。
 ところで、初等教育振興のための師範学校は、明治五年旧昌平学校内に設立されたのを初めとする。この東京師範学校は、文部省と密接に連携し、米人スコット(M.M.Scott)の指導を受け、新教育指導法を身につけた教員養成を目指すほか、独自の「小学教則」案の策定や図書・教材類の編集・刊行に当たった。前出の田中編『小学読本』の前に学習するのを通常とした『小学入門』(明治7)や「単語図」・「連語図」等を多数刊行した。東宇和郡宇和町教育資料館「開明学校」には、これら読本・掛図類が全国的にも珍しいほどよく保存され、往時からの旺盛な教育熱をうかがわせている。
 田中編『小学読本』四巻は、米国ウィルソン・リーダーを模倣して、直訳部分の多い翻訳調の編集であった。内容的には、実学的・教訓的・一面宗教的・注入主義的と評されている。これに対して、榊原等編の『小学読本』六巻は、寺子屋風の指導内容をも継承する、いわば日本調の編集であった。内容の注入的・教訓的傾向は、田中編とほぼ同じで、前者に比べ新鮮さに欠けた。そこで、次第に多府県で田中編(師範学校編)が普及し、本県も大多数これを採用した。
 だが、旧風早郡に残存する『小学読本』巻五の巻末に愛媛県御用製本所開文舎と刻されており、一部に併用されたことを物語っている。

 地方教育状況と国語教育

 明治四年七月の廃藩置県直後、地方にあっては、矢つぎ早に県の統廃合が行われた。本県では、当初伊予八藩を引き継ぐ八県で発足したものを、松山県(のち石鉄県)と宇和島県(のち神山県)とに整合され、さらに六年二月両県は合併して愛媛県が誕生した。だが、愛媛県新設後の約一か年余は、行政改革業務に忙殺され、「学制」による教育制度の改新の作業は遅れ勝ちであった。六年八月県庁内に学務課を設置し、教育施策へ積極的な姿勢が見られるようになるが、何よりも学校開設・教師確保が急務であり、とりわけ就学督励に努力が払われた。そのため、この段階では学制・小学教則に示す教科課程実施、教科書完備、指導法改善など、どれ一つをとってみても地方では容易なことではなかった。
右表の教科のほかに、第八大区の場合洋法算術(一日一字間)、修身口授(二日一字間)があり、他の大区にも同じ教科が見られる。が、細かく検討すると、各地域で異なり、文部省の教則に沿いかねた点が散見される。
 当時、各学区取締から県学制掛に対し、教科書不足の対策について、「伺い」が再三提出されている。教科書も完備しない状態で、教則に従わせることは困難である。県当局は、文部省の小学教則の程度を下げた課程(特に低学年)の「下等小学校教科変則課程」を定め、同時に書籍は学制掛で一括取り寄せることを各学区取締に通達した。しかし、この措置だけでは問題解決にならなかった。

 師範学校編小学教則と愛媛県小学校規則

明治七年八月、愛媛県は、東京師範学校版の『小学読本』『小学教授書』『地理初歩』『小学算術書』各一万部の木版翻刻の認可を文部省に申請した。同年一二月、本県第六大区学区取締内藤素行が、「東京師範学校編小学教則を区内一・二の小学校で採用したところ、指導法など適切で、結果良好、適用度も高い。よって八月一日から区内四一校でこの教則を使用したい」という主旨の伺いを提出した。県当局はこれを認めて、文部省の小学教則とは別に、東京師範学校が策定した小学教則(明治六年五月印刷公表)
と教科書を採用する方針を決定した。
 師範学校編小学教則の学科目は「読物・算術・習字・書取・作文・問答・復読・体操」の八科目であり、読物以下五科目は、従来寺子屋教育でも重視されたものである。いわゆる読み・書き・算術の三教科構成の伝統を生かし、「問答」によって、近代教科の性格をもつ修身・歴史・地理・理科を含めて、近代的教科課程への中間段階と見なし得る組立てとした。このように時宜に適しか教則であったため、これを採用する府県が増加し、文部省もこの実情を認めて、これを小学教則の基準として普及する方針をとったのである。
 愛媛県権令岩村高俊は、教育振興に力を注ぎ、有能な学区取締内藤素行を学務課に登用するとともに、文部省視学官の勧告に従って、明治九年八月県立師範学校を設立した。初代校長は、東京師範学校卒業の松本英忠である。このころ県当局は、県内共通の規則の必要から同校長に県独自の「小学校規則」の作成を命じ、成案を得た。内藤素行らが若干の加筆修正をして、同年一〇月「愛媛県小学校規則」(県布達番外)として公布した。参考までに下等小学校各級・教科別(国語関係)に教材を示すと、表2ー3のようになる。
 下等小学校では、このほか「問答・算術・口授・体操」の教科があり、中で「問答」か国語科に近い推察があるが、内容的には、地理・歴史・理科等で、今日の国語科と著しく異なる。上等小学校の「読書・論講」でも、この傾向にあり国語指導的機能は乏しい。わずかに作文(日用文・書治文)と習字(細字楷行草)とがある。

 読書入門と検定教科書

 明治一九年小学校令が発布され、尋常四年、高等二年(のち三~四年制も認可)とし、尋常を義務教育とする。「学科」は、一二年教育令では「読書・習字」の二科であったが、新たに作文を加え、三科となる。更に教科用図書検定条例を定め、検定出願を自由とし、ここに検定教科書第一期に入る。それには模範的な本の作成が必要と、文部省は、湯本武比古編集の『読書入門』(明治19)、『尋常小学読本』(同20)の二書八冊を刊行した。
 単語篇以来、巻頭に「いろは図・五十音図・濁音」等を置く形式は、日本の庶民教育の伝統である。また、当時外国の入門書も同形式が多かったが、『読書入門』は、この形式を大胆に打破した。即ち、単語は四課九語、句は二課四句にとどめ、直ちに文に移行する。この単語・連語の羅列との訣別は、「国語教科書の革命であった。」(井上赳)と評価された。続いて、『高等小学読本』八冊(明治21・22)が、同じ方針で編集され、初めて尋常・高等八年の教科書が整い、系列読本が完成した。
 明治二三年(一八九〇)「小学校令」を改正し、翌二四年「小学校教則大綱」を設定して、近代学校としての小学校制度が整い、その運用面でもよく機能を発揮し得る基礎が固まった。この「小学校教則大綱第三条」には、
  「読書及作文ハ普通ノ言語並日常須知ノ文字、文句、文章ノ読ミ方、綴り方及意義ヲ知ラシメ適当ナル言語及字句ヲ用ヒテ正確二思想ヲ表彰スルノ能ヲ養ヒ兼ネテ智徳ヲ啓発スルヲ以テ要旨トス」
とあり、更に尋常・高等の別に、従前より詳しく程度・方法を示して、以後明治の国語教育の指針とされた。
 すでに述べたように、明治二〇~三六年は、民間読本の時代である。『新体読方言』(塚原苔園)、『帝国読本』(学海指針社)、『尋常国語読本』(金港堂)等多数刊行され、県内でも使用された記録がある。
が、これら検定教科書の入門期の教材は、湯本編苦心の改革を無視するばかりか、その単語・句教材の簡略化が性急にすぎるとして、「ハ」「ハナ・ミ」「ナシ・クルミ」「ニ・ウシ・クルマ」(国民読本)のように、単綴音の語から次第に数を増していく傾向ー単語篇時代への逆行現象ーが定着した感がある。

 小学校令改正と国定第一期読本

 明治三三年八月「小学校令」が改正され、「国語科」が誕生する。これまで読書・習字・作文と分立していたものを、初めて「国語」の一科に統合し、読方・書方・綴方の三分科を有することとした。また、漢字を制限し、字音仮名遣を簡易に(いわゆる棒引仮名に)したことなどは、国語教育史上特筆すべきことである。この法改正に続き、同三六年に「国定教科書制度」が成立し、第一期国定教科書(吉岡郷甫編)『尋常小学読本』八冊、『高等小学読本』四冊が編集刊行された。
 吉岡本は、整然たる言語々法の組織をもち、一見して論理的で緻密な構成の教科書である。入門は、発音指導から出発し、巻一を三部に分け、その第一部は挿画により「椅子」「枝」を示しながら「イ」「エ」の仮名を提出し、専ら訛音の矯正につとめる。第二部では主語と述語から成る単文を、第三部は修飾語・補足語を有する単文と共に転呼音を指導する。巻三に平仮名を、巻六以下に文語を提出する。漢字は尋常小学で五百字に限り、字音は棒引仮名を用いた。この本は、『イエスシ読本』と称され、編者の苦心にもかかわらず、あまり興味のない読本との世評が高かった。愛媛教育協会の機関誌『愛媛教育雑誌』第二〇七号(明治37・9・25)学説実験欄に。
  「(前略)国定教科書に認めて以て主要目的とせる訛音矯正は、(比較的訛音少なき)本県の如きは実際上犠牲に供せられ
  つつあるものと断言してよろしかるべし、何となれば訛音矯正を目的とせざれば、今少し児童に容易なる教科書を編纂
  せられ得べきを信ずればなり。」(国定小学読本研究・附属訓導山野井亀五郎・教生宮田佐伊衛・島川詮季・野口正明)
と、論理的側面に偏したと見られる編集を鋭く批判している。

 国定第二期読本と国語観の変遷

 明治四〇年三月「小学校令」が改正され、尋常小学の年限を六か年に延長、それが義務教育となった。更に翌年には、三三年判定の字音仮名遣及び漢字等に関する規定が削除された。そこで国定第二期読本として、『尋常小学読本』一二冊(明治42・43年)が刊行された。入門は「ハタ・タコ・コマ」で始まる読本で、芳賀矢一・乙竹岩造・三土忠造共編である。この本では、旧読本(吉岡郷甫編)が、「文学的趣味
ノ低減ヲ犠牲トシテ、専ラ言語ノ練習二力ヲ用ヒタル」(編纂趣旨書)方針を改め、学齢児童の生きた談話の実態に着目し、彼等はすでに「随分複雑ナルロ語ヲ話シ得、綴リ得ルコト」を実証して、「寧ロ自然言語ノ形体ヲ採ルノ優レルニ如カザルヲ信ジ」(同前)、児童に興味ある教材を取材しようとした。内容的には、日露戦役後たかまった国家主義思想を反映し、国民的童話・軍神物語(詩)・神話・伝説等が多く加わるとともに、趣味性に富んだ文学的教材も豊富になった。だが、巻一では、単語・句の提出が相当数あり、この点民間時代の編纂に近く、六年間の漢字数が一三六〇字に増し、字音仮名遣も復活した。このことの影響もあって、この読本を教授する教育現場では、文字・語句の辞書的意義を追求するという、古くからの訓詁注釈的指導が継続された。西尾実は、論考『国語教育問題史』の中で、当時の状況を、「文学を文学として教育するなど思いもよらぬ実状であった。いかに文学的教材を採用していても、それは、語学的国語教育の域を超える何ものでもなかった。」とし、明治時代の国語教育を総括して、「語学教育的教授法時代」と呼んでいるのである。(西尾実)

 大正期国語教育に新しい息吹き

 大正初期に入って、教科用図書は一応整備され、国語教育界では、理論研究・教材研究・教授法改革に関心がもたれるようになった。芦田恵之助著『読み方教授』(大正5)には、「ニ○年の非を悟った。」とし教授法に対する腐心を否定し、「教材研究こそ真に教授を有力にする唯一の動力である」旨主張しているが、後年は更に「教式」を樹立し、教材研究と教授法の一元化を図っている。彼の研究実践は、全国的に多大の影響を及ぼしたが、本県は最も感化を受けた地域の一つである。芦田の年譜には、大正一三年(52歳)で公的生活に終止符をうち、翌年より全国教育行脚を始むとある。芦田と愛媛国語人との交流は、昭和に入って活発になるので後述することとし、ここではその主な著書を列記するにとどめる。
 『小学校における今後の国語教授』(明治33)、『綴り方教授』(大正2)、『読み方教授』(大正5)、『朝鮮国語読本』(大正11)、『南洋群島国語読本』(大正13)、『第二読み方教授』(大正14)、国語教育雑誌『同志同行』(昭5初刊、一時廃刊後、昭7再刊)、『国語教育易行道』(昭10)、『教式と教壇』(昭13)、『恵雨自伝(上)』(昭25)等。没後『遺著・共に育ちましょう』(昭27)、『回想の芦田恵之助』(昭32)がある。

 愛媛の国語教育記録

大正期の愛媛の国語教育状況を知るためには、明治二〇年設立された愛媛教育協会の機関誌『愛媛教育』(愛媛教育雑誌改題)を通覧して、国語教育関係の論文を抽出してみるとよい。
  ①『愛媛教育』第三〇五号(大1・10・25)「読方教授の一手段として不審読の研究を望む」
                                          女子師範 文野庄七
  ②  同右  第三〇六号(大1・11・25)「読方教授の一手段たる試読の研究を望む」  女師附属  同右
  ③  同右  第三〇七号(大1・12・25)「読方教授進程の研究を望む」         同右   同右
 ①では、▲読書の際一読して其の意を知るの習慣能力を得しむるを要す。▲教師は児童の知識の程度を知るを要す。▲教授に於ては児童の自発活動を重視す。▲教授には変化を要求す。の四項目を立て、「発音的の読方」即ち「空読」を戒め、「器械的読方ー然たる通読」の弊を突いている。不審読とは「児童が教科書を読むに当りて、自己の不審とするところを発見すべく(意味を考えつつ)読むこと」として、自発的な読みの強調である。
 ②は、「蓋し自己の理解の程度能力の進歩如何を試みるの為に、読方又は解釈をなすを意味する」と定義し、読みの「自己評価」の必要を説く。授業中いかなる時期に行うか、実施上の注意事項を付記する周到さも見える。
 ③は、後年の読方教授過程(学習指導過程)であって、「時代遅れの時間上の画然主義」を廃して、「並行的に或は交錯的に」児童の注意力を顧慮して、弾力的に教授すべきだとの主張で、先覚者としての提言である。
  ④『愛媛教育』第三三九号(大4・8・25) 「一日一文の経験」           師範附属 明日  勝
  ⑤  同右  第三五三号(大5・10・25) 「国語解釈法の欠陥」     愛媛県師範学校教諭 大関菊太郎
  ⑥  同右  第三七八号(大7・11・5) 「読方教授の研究」      愛媛県師範学校訓導 佐伯伊之助
  ⑦  同右  第三八八号(大8・9・1)  同 右            同   右    同 右
 ⑥は、「(一)読み方教授は形式内容の密接不離なるを要す。(二)読方教授は、読本中の文字語句文章に物を云はせるにある。(三)語句文章の解釈説明の方法如何の研究にあること。」以上三項の提言で、文字語句文章の扱いの偏りをなくするよう、「絵画や教師の口舌や、其の他の直観物に」頼り過ぎぬよう注意を喚起している。
  ⑧『愛媛教育』第四〇〇号(大9・9・7) 「国語無駄話」(一)(綴方)        男師   赤塚 浜荻
  ⑨  同右  第四〇一号(大9・10・1)  同 右 (二)(文学・霊感)       同    同 右
  ⑩  同右  第四〇二号(大9・11・1)  同 右 (三)(綴方問答)        同    同 右
  ⑪  同右  第四〇三号(大9・12・1)  同 右 (四)(入試作文・綴方)     同    同 右
 ⑧~⑥「国語教育無駄話」講座は、単なる「無駄話」ではない。特に⑩は、八波則吉の課題作文と芦田恵之助の随意選題の両論を対比、長短を述べたあと、自ら「課題を含める随意選題」(芦甲王張)に加担する根拠を明らかにする力作である。
  ⑫『愛媛教育』第四一三号(大10・10・1)「国語科補充教材の創作的取扱」           石田佐々雄
  ⑬  同右  第四二八号(大12・1・10)「国語教授研究法状況」 男師附属小学校国語部(大野静・石村寛逸)
  ⑭  同右  第四二八号(大12・1・10)「中等学校入学試験(国語科)に就て」   愛師附牛国語研究部
 ⑫は、国語教授に於て教材の分量を多くすることの必要性を説き、その教授法は、「読方綴方聴方話方書方をうって一束とした国語教授が真に生命ある自然な方法」であり、創造的発動的に取り扱うのがよいと述べている。
 ⑬は、詳細な教授案と批評会の意見交換を記録し、個人レポートと異なり、「附属小学校国語部」記録としている点が目新しい。⑭では、当時すでに入試問題中の難問、中学校側の小学校教授内容の理解不足が指摘されている。
  ⑮『愛媛教育』第四二九号(大12・2・10)「文章尋究の出発点到達点」       男師附属小学校国語部員
  ⑯  同右  第四三一号(大12・4・10)「尋一の国語教育」         女師附属小学校 石田佐々雄
 ⑯では、(一)児童の国語生活と教育の出発点、(二)言語の教育的価値と聴方話方教授、(三)文字文章の基礎教授と書き方の問題、(四)補充教材の取扱及綴方の問題の四項目を立て、内外の文献による「幼児の語彙発達状況」をとらえたうえでの近代言語教育論を展開している。(なお、①~⑯『愛媛教育』は、愛媛大学附属図書館蔵書である)

 大正時代の国語読本

 大正七年から国定本第三期の「黒表紙・白表紙併用時代」に入る。すなわち、「黒表紙読本」とは、明治四二、三年発行の芳賀矢一・乙竹岩造・三土忠造共編の教科書を改訂したものである。他方、『白表紙読本』は、今回八波則吉・高野辰之が担当着手した新本である。大正九年以降この読本の編集者は、武笠三・高木市之助に交替し、一〇年に井上赳、一一年に佐野保太郎が加わり、一二年に全一二巻が完成を見た。なお、この教科書作成過程で、芦田恵之助・友納友次郎等の実際家も、嘱託として編集に参与した。
 『尋常小学国語読本』(白表紙)巻一は、巻頭の単語を大幅に削減した。「ハナ」「ハト・マメ・マス」「ミノカサ・カラカサ」の三頁七語ですませ、四頁から「カラスガ ヰマス」の文に移った。編纂趣意書では、
  従来ノ読本二於テハ片仮名新字ハ専ラ名詞、形容詞、動詞ニヨリテ語ヨリ句二進ミ、句ヨリ文二移ルコトトシ巻一第十九頁二至リテ始メテ完全ナル文ヲ提出セリ。サレド是等ノ語卜句トハ教授ノ際文ノ形二於テ問答セラルルコト多キニ鑑ミ、本書ハナルベク早ク、文中ノ品詞ニヨリ片仮名ノ提出ヲナス方針ヲ採リテ第四頁ヨリ文二人レリ。
「従来ノ読本二於テハ」とあるが、それは明治二〇年代から民間読本が踏襲して来た形態である。明治一九年の文部省湯本編『読書入門』では、単語九語、句は二句のみで文に移り、それまでの単語篇的編集を一挙に覆す大英断を行った。「白表紙が今七語に単純化したのは、ただ明治十九年への復古であって、それ以上の何ものでもない。」むしろ、「これほど文学化に力こぶを入れながら、一体どうして巻一の巻頭だけに昔の語学編纂の名残りを、盲腸の虫様突起のように残しておく必要があったのか。」と、井上赳の厳しい指摘もある。恐らく、「白表紙本」の後期編集に参画しながら、すでに自らの責任による読本編集構想が胎動していたのであろう。
 なお、『尋常小学読本』(黒表紙)と『尋常小学国語読本』とを対比分析した吉田裕久の論考、「『尋常小学国語読本』の研究(1)(2)」は、両者の編纂状況や方針、教材内容や特色をよく把握している。また、長谷川孝士『国語教育の源流』の一章「『赤い鳥』の綴方運動」は、大正七年創刊の児童雑誌『赤い鳥』に人選した作品中特に本県児童作品を対象にして論究し、愛媛県作文教育史研究の有意義な資料を提供している。師範男・女附小・越智郡富田・波方小等の作品が目立つ。なお、指導者として渡辺宮平・村瀬文雄・森光繁・小林清光等の名が挙っている。

 芦田恵之助と林・古田の出会い

 昭和初期になって、芦田の「皆読皆書皆話皆綴」という人間尊重の教育主張に共鳴し、自ずと人脈をなした人々として、愛媛で最も代表的な人物を挙げれば、古田拡・武内好将・大野静・梅本新吉・池田鷹一・二宮弥助等であろう。また、県人ではないが、同時代の愛媛県師範学校教諭・林傅次(東京高師卒・のち県視学官・愛媛県師範学校長)も深いえにしで結ばれている。特に芦田と林・古田の出会いは、いずれも劇的でさえあり、印象的で、記念すべきことであった。まず、出会いその一。
 林伝次(一八九一~一九五九)は、亡くなる二年前刊行された『回想の芦田恵之助』に、「持ち味を生かせ」の一文を寄せ、「大正五年一月、教生実習で附属小五六学年複式学級に配属され、直接芦田先生の指導を受けたこと、実習授業のあと批評を求めると、多くを言われず、持ち味を生かせとだけ言われたこと、それが深い意味を持つ言葉と知ったこと」などが記されている。同書には、旧愛媛師範三宅武夫教諭(のも岐阜県中津川第二中学校長)寄稿の「芦田先生から学んだもの」の挿話があり、その舞台は、旧師範学校校長室で、芦田・林の対談の場である。別に、林が県視学官時代「愛媛教育」に連載した巻頭言の一つに次の文章がある。
     一貫の道   (「把翠」・林傅次先生遺稿集・井上敏夫・古田払編集に転載)
 旧臘初等教育部門主催の国語講習会に於ける芦田講師の講演は、其の一語一語がひしひしと心に喰ひ入るの感があった。聴者の心に肉迫する一語一語のあの力は何処から来るのだらうか。勿論力強い物の言ひ方にもよるのだらうが、私はそこに三十年間、一貫した道を傍目もふらずに精進し来った人のみの持つ力を、それから尊さを感じた。
 芭蕉は四十幾年の生涯を回顧して「笈の小文」にいってゐる。(中略)「無芸無能にして只此の一筋につながる。」と悟ってから、芭蕉の俳諧はまさに一進境を示したのである。
 「十年一日」といふ語がある。然ししよう事なしの十年一日や、惰性で生きた十年一日や、左顧右眄の十年一日では何の役にも立たぬ。これに反し若し一大勇猛心を以て精励するならば、たとへ其の業務は猫の目の様に変った所で、十年の月日はその人を練磨してくれる。況んや一貫の道に精進する事、十年二十年三十年に及べる人は確固不動の渾然だる人格が出来上り、其の一言はよく人の肺腑を貫くに至るであらう。若し「無芸無能にして只此の一筋につながる」と真に悟って、人の子を教ふる事に精進する事十年二十年なる人があるならば、これこそ本当の教育者というべきであらう。(昭和三年一月号)
出会いその二。年も同じ昭和三年一二月二五日芦田・古田の会合を記録する文章がある。
 昭和三年、愛媛にとりましては、忘れられない老師五十五歳のときでありました。三島国語講習会。教式は、随意選題というのは(と、)かまびすしい時代であり、そして教壇に変化を求めて、師弟共流の教壇にしようとする時代でありましたから、この三島国語学習は、愛媛にとって、まことに画期的なものであったと思います。当時、芦田先生は、古田拡先生と初めて三島で会われました。この出会いが、愛媛の国語教壇に大きな影響をもつとは、(当時は)だれもはかり知ることはできませんでした。尊い出会いであったと、今更思うわけでございます。(「遺稿集・梅本新古先生」・昭和55・8・20発行、越智郡大西町教育委員会内遺稿集刊行会)※( )内は筆者補注
 右書はなお、芦田(55歳)と古田(33歳)の八時間に及ぶ熱っぽい対談の中で、小学六年教材「鳴門」の主題把握が話題となったこと、後日談として昭和五年梅本訓導は芦田恵之助から、今治研究会で「鳴門」の授業を請われたこと、その教材研究のため夏休みに鳴門海峡の渦潮を見に行ったことなどが記録されており、当時の国語人の研究態度並びに親密な、いわゆる「同志同行」的な人間関係がうかがえるのである。ともかく、この出会い以降、芦田・古田両者の知友が急速に一体化し、愛媛国語教育界に一大潮流を形成する時期が招来するのである。古田拡の第一冊『復習』は、同志同行社から発刊され、武内好将の「大川」の授業記録など掲載されている。

 サクラ読本

 昭和八年から一三年にかけて、画期的な『小学国語読本』が刊行された。編修者井上赳は、大正一〇年文部省入りし、同一四年六月から一年間欧米に在留、教科書研究をし、帰国後数年間構想を練ったうえでの会心の作と言えよう。国語教育学者、実践家の反響も、一般世評も共に好評であった。
 編集者自身「特に苦心されたのは第一期の言語である。」としたうえで、
 『小学国語読本』巻一は、全体を三部に分け、第一部には(ドイツの)ハンザフィーベルに学んだ児童の叫び声に目標をおき、アメリカのプリマの文章及び日本童謡の反復方法を利用した児童の主体的な言語表出を掲げ、第二部では児童生活の客観的な言語表出に移り、第三部にはアメリカのプリマに学んで二篇の童話を掲げた。巻頭は五十年来の範語をすてて、「サイタ、サイタ、サクラガサイタ。」で始まるので、世にサクラ読本といわれた。
と、述べている。
 この三部構成を二巻以後次第に分化展開すべき教材の萌芽胎生と見立て、「今後各巻の教材はすべてこの三部から発生し分化するという発生体系を打ち立てよう」というものであり、編修者の自負する「読本編纂のコペルニクス的回転が来たのである」(『小学読本編纂史』)も、誇張ではない。垣内松三は、自著『形象と理会』(昭8)で、新教材の解説に持論の展開をからませて、そのコペルニクス的回転なる理由を解明した。
 編修者は、色刷りのさし絵により話し合いをさせ、最後に文章を読ませる入門指導ーー言語的指導ーーを「健康的である」とし、サクラ読本を文学読本と言われるのを必ずしも本意ではないとした。その主張を肯定して、「『サクラ読本』には、単なる文学教育だけでなく、いわゆる言語教育的な面もすでに芽を出していたといってもよい。そして、昭和一六年の「国民科国語」の中にさえも、それがはいっていき、そして、戦後の国語教育の言語教育的な面につながっていくものと考える」と、石井庄司(元東京教育大学教授)は述べている。
 『サクラ読本』出現前後の愛媛県教育研究大介記録のうち、国語科が主対象となったものを左に特記する。
○第九回愛媛教育研究大会  昭和四年一一月七日~九日  会場 愛媛県師範学校附属小学校
  研究教授 尋六読方 児童作品鑑賞 高島訓導 / 高二綴方 児童作品鑑賞 崎山訓導
  研究問題 綴方における個別指導の実際案
  右発表者 南宇和郡平城校 黒田権三郎 /温泉郡余土校 加藤栄安 /新居郡西条校 村上朋也
       温泉郡三津浜第二校 石川寛平 /女師附属校 高島義彰 /男師附属校 重見貞一
○第一五回愛媛教育研究大会 昭和一〇年一一月一四日~一六日 会場 愛媛県女子師範学校附属小学校
  研究教授 尋三読方 軍旗 西田訓導 /尋二読方 山がらの思い出 横田訓導 /高一読方 猫の垣巡 波頭訓導
  研究発表 読方教育の実践態度  女師附小 西田信衛
        1序言 2読方教育形相の反省 3読方教育実践の基調 4念願する読方教育 5結語
  研究問題 読方教育上の諸問題(大会第二主題)
  右発表者 西宇和郡伊方校 西本三郎 /男師附属校 武内好将 /宇和島明倫校 国村三郎
       伊予郡中校 沖明夫 /新居氷見校 真鍋寅勝
○第一六回愛媛教育研究大会 昭和一一年一一月一三日~一四日 会場 愛媛県師範学校附属小学校
  研究教授 尋二綴方 伊台実訓導 /尋四綴方 武内好将訓導 /尋五綴方 赤瀬隆義訓導
  研究発表 綴方教育上の諸問題 今治第三校 宇高文雄 /綴方教育の態度 男師附属校 赤瀬隆義
       綴方教育に於ける個人指導の問題 宇和島九島校 大野利文
  会員提出問題に対する意見交換 綴方指導の目標、系統案、綴方指導の実際(観察力養成、自己批正等)

 国民学校読本

昭和一六年「国民学校令」が公布され、長年の懸案であった義務教育期間が二年間延長され、初等科六年、高等科二年、計八年の義務教育となった。これに伴い、戦局の進展に合わせて、皇国民錬成を目標に、大胆な教科の統合が行われ、国語は、修身・国史・地理と共に国民科に統合され、「国民科国語」と呼称された。これに即して、新たに国民学校読本『ヨミカタ』『初等国語』が編集された。「神国日本」「聖戦完遂」の立場から、戦時色の濃い教材が多数登場するが「当時の編集者としては、「国語の教材は、低学年では童謡・童話・児童の遊戯生活の表現が中心であること、上級に進むに従って文学でなければならぬこと」を論拠にして、当時の軍部関係者説得に努力したと、井上赳は述べている。一方、国語に「話方」が分科として加えられた。この機会に、用紙事情の厳しい中、在来の『読方』の外に『ことばのおけいこ』を編集し、国語教科書を二本立てとした。この言語事項への関心の高まりから「言語活動指導期」(西尾実)とも呼ばれる。
○第二〇回愛媛教育研究大会 昭和一五年一一月一四日~一六日 会場 愛媛県師範学校附属小学校
  国民科国語部会 研究発表 (※教科統合を先取りした形で、部会構成している。)
  国民科国語に於ける語法指導 女師附属校 西田信衛/国民科国語「話方」指導要領 男師附属校 兵頭義高
  綴り方指導系統案 男師附属校 白石正雄/国語教育上必要なる語法基準の研究 上浮穴久万校 黒田英雄
  話方教育の体系的研究 温泉南吉井校 武井義雄/国語に生きる(話方教育に就いて)八幡浜千丈校 川上数視
  国民学校に期待するところ 温泉郡五明校 加藤典三郎
右の研究発表の題目で、文学的な主題よりも語法・綴り方・話し方に視線が向けられている点が、注目される。

 戦後の国語教科書

敗戦直後、全国の国民学校では、戦時中の教科書教材のうち、軍国主義的、超国家主義的な色彩の濃いものは、墨を塗り、はさみで切り取ったのも使用した。教科書学習の比重が大きい国語科は、特に痛ましいものであった。余りに無惨な教科書に変えて、早急に国語教科書を編集することが決定したが、深刻な紙不足と悪化した印刷事情のため、一六頁、折畳み式の「暫定本」発行が、やっとであった。不評の中、二一年一月から翌年三月までの使用である。その教材内容については、吉田裕久「暫定国語教科書(昭21)の研究」の論文に詳しい。
 文部省は、暫定本に続いて、直ちに「本格的教科書」(国定第六期)の編集に取りかかった。当時の文部省教科書局第一編集課長は林伝次(元愛媛県師範学校長)であり、国語担当は石森延男図書監修官が主任をし、その直属に篠原利逸(愛媛県師範学校卒・川之江市出身)が勤めていた。GHQ内のCIE(民間情報教育局)の厳命で、二二年四月の新学期までに、小・中学校、高等学校同時に、計三四冊(他に文法教科書二冊・習字教科書三冊)を強行作製するのである。多くの障害、重なる悪条件の中で、児童生徒のため心血を注いだという。「みんないいこ」の最後の国定本が誕生し、焼土のバラック建ての校舎にも、明るい読み声が響くようになった。この後、同年一一月『学習指導要領国語篇』(二二年度試案)が作成された。本来ならば、教科書作成以前にあるべき性格のものであるが、当時の状況では止むを得なかった。教育界では、一般にCIEのサゼッションによって、アメリカ直輸入で作成されたものとして、批判の声も少なくはなかった。
 これに対し、石森延男は、『国語教育の回顧と展望三』で、「言語技術を重んじる面が、大写しになっているが、けっして実際の機能を軽んじてはいない。また児童・生徒の人間形成を見失ってはいない。「サゼッション」による骨格であるが、その肉附は、われわれの身に近い日常現場をもってした。その調和と組織には、なみなみならぬ努力がはらわれた。」と、述べている。
 二三年秋二年生の国語学習こそ重要。新教科書編集を。」とのサゼッションがあり、最後の国定本のうち、『こくご』(一)(二)の代わりに、第一入門書『まことさん、はるこさん』(32頁)、第二入門書『いなかの いちにち』(73頁)、第一読本『いさむさんの うち』(137頁)が作成・刊行された。
 二四年に教科用図書検定制度が制定され、検定基準も決定を見た。西原慶一編著の『こくごの本』を第一陣として、種々の検定教科書が出揃うのである。また、二六年度には学習指導要領一般篇・教科篇が、それぞれ改訂された。こうして、西尾実国立国語研究所長説の「言語生活学習期」の最盛期となるのである。(言語教育後部)

 愛媛国語研究会の発足

戦後の本県国語教育の実際を誌すには、「愛媛国語研究会」の存在とその活動を抜きにしては考えられない。会発行の研究誌『愛媛の国語』創刊号(第四号以後『国語研究』と改称)所収の、初代会長和田茂樹の文章は、発足当時の経緯を余す所なく表現している。

    会のなりたち          和 田 茂 樹
 戦後一切が混乱に陥った。虚脱、虚無、頽廃と人々はただずるずると深い渕にひっぱられていた。
 国語教育に関しても同じだった。新しい用語は氾濫したが、我々はどうしていいか手のつけようのないままに茫然としていた。しかし真に国語を熱愛する人達によって、同好のつどいが県下の各地に生れた。或は郡市を単位とした研究会ができ、毎月会合しては国語の本格的研究と同時に国語教育の実践に志した。
 「県として統一した研究会ができたらなあ」「かつての『愛媛の国語』を再び我々の手で育てあげたいものだ」などという声が各地からおこってきた。さてとなると全く容易なことではなく、一年の月日は無為に過ぎてしまった。若い人達はもうじっとしておれなくなって、ゲキをとばした。
 昭和二十三年十一月七日師範学校女子部附属、同十二月十一日同男子部附属の両研究会に、各地から参集した人達と熟議をこらし、各郡市から準備委員会が選ばれ会の準備をすすめた。
 昭和二十四年二月十二日、師範学校女子部附属に於て国語研究授業並びに発会式。折からの雨天にもかかわらず集った会員三百余。その瞳の輝きに準備委員は全く感激した。こうして愛媛国語教育研究会は生れた。
 この熱誠が認められて、県教育委員会、県教員組合の協力をえたことは誠に感謝すべきことであった。
 だが、いたずらに形式の整ったことを喜んではおれない。問題はむしろ今後に残されている。国語教育、国語国文学研究の新しい開拓はすべて我々の手に托されているのではないか。
 終戦後四年目の春!「限りなきもの」への憧れが、着々と実を結んで行くことを祈りつつ。 (本会会長)

 発足当初の正式名称は、「愛媛国語教育研究会」で、会員には小・中学校教師ばかりでなく、高等学校・大学からも多数参加があった。以後、毎年愛媛(県)国語教育研究大会を開催すると共に、研究誌『愛媛の国語』(昭24・4第一号)を年三回発刊することを決定した。研究誌は第四号以後「国語研究」と改題すると同時に、会名も「愛媛国語研究会」となった。

 研究組織の基盤を固めた人々

昭和二六年三月、国立学校設置法の改正により愛媛大学愛媛師範学校が廃止され、七五年の歴史を閉じ、初等中等教員養成の事業は「愛媛大学教育学部」が継承することとなった。この際、和田会長が文理学部に所属するに至って、会長を辞任し顧問となる。その後を受けて、二六年四月から、教育学部の仲田庸幸が、第二代会長に就任した。
 仲田会長は、就任早々愛媛大学に第二回全国国語教育学会を誘致し、なお関係団体の協力を得て、第一回全国国語教育研究大会を、同二六年五月四目から三日間開催した。これを契機にして、中央の国語・国語教育学者から直接指導を受ける機会が多くなり、県下の国語研究活動は日増しに旺盛、会員の結束も強固になった。この中央と愛媛の国語教育界との有形無形の連係には、仲田会長の不断の努力と、これを助けて、在京の古田拡(法政大学)篠原利逸(文部省)(ともに本県出身者)の尽力がまことに大であった。
 ①愛媛国語研究会活動(第一期)研究活動の「期」を画するには種々検討を要するが、一案として仲田会長の任期満了の昭和四〇年三月(第一七回大会昭39・9)までを第一期とし、第一回からの講師名を列挙すると、
 西尾実(3)・時枝誠記(2)・石井庄司(1)・倉沢栄吉(7)・篠原利逸(2)・古田拡(6)・石黒修(2)・西原慶一(6)・小泉苳二(1)・遠藤嘉基(1)・国分一太郎(2)・滑川道夫(1)・輿水実(1)・斎藤清衛(1)・石森延男(2)・阪本一郎(1)・白石大二(1)・大村はま(2)・重松信弘(6)・飛田隆(1)・武智正人(1)・金田一春彦(1)・小川利雄(1)・仲田庸幸(2)・沖山光(1)等である。(氏名下の()内数字は、本大会講師となった回数。但し、第三七回(昭59)までを通算した。)
 ②その他の講演会・研究会 前記の本大会とほぼ同時期に、愛媛国語研究会が主催・共催した夏季研修会など県内各地域での国語(ローマ字・書写を含む)・国文関係の講師名は、西尾実・篠原利逸・輿水実・藤原与一・栗原一登・斎藤清衛・清水文雄・古田拡・仲田庸幸・沢潟久孝・遠藤嘉基・三尾砂・石森延男・国分一太郎・佐藤信衛・上甲幹一・青木幹勇・佐伯勇哲(ローマ字)・波多野完治・寒川道夫・金子鷗亭(書写・書道)等。
 ②のうち、昭和二四・五両年度を特記すれば、西尾実(松山・西条)、篠原利逸(松山)、輿水実(川之江・西条・松山・久万・宇和島)、沢潟久孝(松山)、遠藤嘉基(松山)、栗原一登(松山)、藤原与一(八幡浜・宇和島・城辺・松山・久万・今治・新居浜)と、地域別に講演会が開催されており、特に藤原与一(本県出身)は、六月後半旅行日を除く連日、七会場で異なる主題につき講演し、会員の研究意欲をひきだし、大きな感銘を残した。

 愛教研結成後の国語研究組織

 昭和三五年九月、研修団体「愛媛県教育研究協議会」が結成され、その組織下に国語部会が誕生した。同部会は、三七年から四六年までの呼称で、四七年以降は新規定により「国語委員会」と改称される。ともかく、国語部会の発足により、研究組織が、愛教研国語部と愛媛国語研究会との二本立てになったのである。が、会長以外は、両組織の役員・会員ともほとんど重複しているため、早急にその整合が必要となった。そこで、両組織の統合を図るとともに、小・中学校関係と高校・大学関係とを分離する運びとなり、長年愛媛国語研究会の発展に寄与して来た仲田会長が辞任した。
 四〇年度より石田精二が会長となり、以後愛教研国語部長(委員長)が、愛媛国語研究会長を兼任することが確定した。記録によると、翌四一年(第一九回大会)から、愛媛県国語教育研究大会と呼称するようになり、組織の一本化を示している。この際、第○回の大会ナンバーは継続使用し、研究誌「国語研究」は「愛媛国語研究会」発行で続刊することが確認された。組織整備を完了し、四二年一一月に第三回四国国語教育研究大会を松山市で開催した。なお、同会長は、四六年までの任期中、愛媛の国語科学習資料等の編集・出版に力を注いだ。

 県教委関係の指導

昭和三〇~四〇年代の実践的理論として注目されたのは、愛媛県教育研究所長村上芳夫の「主体的学習」(昭33・明治図書)であり、国語科では、所員の新居田正徳・大原輝夫・上野卿之らが協力学校などを中心に指導した。松山市番町小・清水小・御幸中、温泉郡西谷小、西条市神拝小、新居浜市泉川中、宇和島市住吉小・城東中・九島中などが該当校であった。
 同四三・四四年度に、県教育委員会は、「自主創造の教育」――ひとりひとりを生かす指導ーーの具体策の一つとして、「個人記録票の活用による学習指導法改善」を、各学校に呼びかけた。国語科では「観察指導法」が導入され、伊予三島市中之庄小、西条市西中、周桑郡壬生川小、越智郡玉川中、松山市余土小、伊豫市伊豫中、八幡浜市松蔭小、大洲市新谷中、北宇和郡岩松小、宇和島市清渓中の各校が、研究指定校として先導的役わりを果たした。それらの実践報告で『個人記録票の活用』(小・中学校別冊・昭43)・『個人記録票等の活用』(同・昭44)の集録がある。理論構想では、藤内勲・河野正夫・玉井思・鴻上信彦・飯尾日出夫等、実践では越智正義・森岡(しめすへんに豊)二・村上清人・安野伊津雄・山本正治・松田尚子・岡田千寿子・吉田久子等が、指導法改善に成果をあげた。なお、『ひとりひとりに生きる国語教育』(楠橋猪之助著・昭50)には、同主題の研究当初の基礎理論と各校実践事例、実施後の検証が記録されている。

 研究活動の充実する愛媛国語

昭和四九年一一月、愛媛国語研究会(会長藤内勲)は、永年に亘る堅実な研究活動が高く評価されて、(財)博報児童教育振興会より第五回博報賞並びに文部大臣奨励賞を受賞した。翌五〇年一一月には、本県として二度めの全国大学国語教育学会と同時期に、第二四回全国国語教育研究協議会愛媛大会並びに第七回四国国語教育研究大会が開催された。この際、研究推進面で、愛媛大学長谷川孝士の協力が大であった。研究会場校は、松山市余土小・たちばな小・勝山中・鴨川中で、それぞれ充実した実践活動を展開した。この機会に、これまでの『国語研究』(研究誌)の中から、重要な論考十数篇を選び、『国語教室の伝統と創造』(明治図書)として刊行した。西尾実・時枝誠記・古田拡・藤原与一・仲田庸幸等の論文が収録されている。この企画は長谷川孝士、編集は藤内治・村井義昭・渡部平人が担当した。
 ほぼ同時に編集された『研究紀要ーー自ら学ぶ力を育てる国語教室の創造ーー』(「国語研究」別冊)は、会場校の実践と県内国語人の研究を集録したもので、牟田米生・村井義昭による編集である。
 五五年九月、『双書・国語科関連的指導法』全三巻(明治図書)が刊行された。五〇年の全国大会以来の研究主題「表現と理解の関連指導」の実践研究を、全県的な取り組みで、集大成したものである。この双書の基調をなしたのは、「関連的学習のための指導法の改善」正・続(『国語研究』第75・80号)・牟田米生の論考であり、更に言えば、この中で引用された越智郡盛小学校森岡(しめすへんに豊)二の実践――「初等教育資料・昭51・4」(文部省)掲載――等が、契機となり、研究が深化発展して、記念すべき業績となった。なお、同双書は、監修藤原宏(文部省視学官)、企画牟田米生、編集委員宇都宮宏嗣・栗田忠士・住田正勝・清家満夫・土居茂男・兵頭史彦・村井義昭・森田章夫で担当し、全国的に大きな反響があった。
 同時期に愛媛県教育センター(木村悠所長)では、新学習論の研究を共通課題とし、国語科を中心に「教材研究法の開拓」を目ざし、楠橋猪之助・江戸昌宏・白石信一・森田章夫・大野純一郎等の実践があるが、この研究は「新単元構成論」と考えられる。そこで「新単元学習論」とも見られる「関連的学習」と、軌を一にすると言えよう。
 昭和五八年一一月、第一二回全日本中学校国語教育研究協議会、第一一回四国国語教育研究大会、及び第四回四国書写教育研究大会が、同時開催された。なお、第三六回愛媛県国語教育研究大会が兼ねられたことは先例の通りである。研究主題は「確かで豊かな表現力・理解力の育成」であり、大会実行委員長牟田米生(国語)、副委員長妻鳥尭寛(書写)であった。国語会場は、松山市新玉小・西中、書写会場は伊予郡松前小・中学校であった。大会記念講演は、和田茂樹(松山市立子規記念博物館長)が、「人間・正岡子規」の演題で行った。部会別講師は、(小)長谷川孝士(兵庫教育大学教授)、(中)野地潤家(広島大学教授)、(書)冨田恒夫(愛媛大学教授)であった。
 愛媛の国語研究活動は、今後も大いに発展が期待されるので、昭和四〇年から現在までを、後期と呼ばず、活動第二期と考えたい。この時期、終始献身的に本県国語を指導育成されたのは、前出の藤原与一・倉沢栄吉・藤原宏・長谷川孝士・野地潤家等である。
 紙面の制約で、戦後の愛媛大学教育学部附属小・中学校の国語(書写を含む)実践を割愛したが、(小)光田比公・(中)武智信八州も歴とした国語人であり、附小『八十年史』(編集委員代表・上岡治郎・水田寿)、『百年史』(執筆黒田一幸・大野純一郎)は、貴重な研究資料である。

 各地域における国語研究活動

愛媛国語の研究基盤は、各地域の自主的活動にある。実績のあるサークルを挙げると、新居浜国語同好会、東予・周桑国語同好会、今治・越智国語同好会、越智・今治「うしお」(作文の会)、松山小学校国語同好会、上浮穴国語同志会、大洲ことのは会、八幡浜国語同好会、東宇和国語同好会等(昭58・3(財)愛媛県教育会調査)が、教材研究・指導法研究に励んでいる。他に読書会・俳句会・川柳会・短歌会・詩サークル等も多数挙げられる。先に愛媛国語研究会が、第五回博報賞を受賞したことを記述したが、右の地域同好会の中にも同賞を受賞した団体がある。同賞は、昭和四五年国語教育・障害児教育の振興を目的とし、業績をあげた団体・個人を顕彰するもので、本県では国語関係で次の団体・個人が受賞した。
 (団体)第三回松山市久枝小学校(校長佐伯盛一)昭47、第六回越智今治「うしお」の会(代表渡辺淳)昭50、第八 回新居浜国語同好会(代表松浦馨)昭52、第一三回東宇和郡城川町土居小学校(校長高原嘉信)昭57(個人)第八回仲田庸幸昭52、第一三回新居田正徳昭57、第一五回楠橋猪之助昭59、他に県外居住の、本県ゆかりの方々で、第四回野地潤家、第六回古田東朔、第七回古田拡、第一三回三浦東吾等が該当している。
ここに挙げた団体及び個人のほとんどは、「愛媛国語」を育て、あるいはそれに育てられた人々である。

表2-1 小学教則による国語関係教科の教授配当時間数

表2-1 小学教則による国語関係教科の教授配当時間数


表2-2 石鉄県各大区教則の内下等八級比較表(国語関係抄記)

表2-2 石鉄県各大区教則の内下等八級比較表(国語関係抄記)


表2-3 明治九年 愛媛県下等小学校教則表(国語関係抄記)

表2-3 明治九年 愛媛県下等小学校教則表(国語関係抄記)