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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

六 戦時体制下の教育

 昭和六年(一九三一)満州事変勃発、同七年五・一五事件、同八年国際連盟脱退、同一一年二・二六事件と続く我が国の政治は、軍部の圧力のもとに、軍国主義的傾向を強め、昭和一二年遂に全面的な日中戦争へと発展、更に同六年、太平洋戦争突入によって第二次世界大戦の時代を迎えることとなる。当然、教育は大きな影響を受け、戦時下教育から非常時教育、更に決戦体制下の教育となり、ついに昭和二〇年五月「戦時教育令」が公布されて、教育活動はほとんど停止されるまでに至った。
 この時期の最も大きな教育改革は「国民学校令」の施行である。昭和一六年勅令公布された「国民学校令」及び「同施行規則」によって、小学校は皇国民育成を目標とした国民学校と改称され、教科編成も国民科・理数科・体練科・芸能科・実業科に総括された。徹底した皇国民の基礎的錬成が行われ、同一六年から同一八年にかけて、教科書は一変し戦時色が濃厚となった。学用品は欠乏し、教材備品も不足する不自由な学校生活の中で苦しい錬成の日々が続く。臨戦態勢下、学童疎開が強制的に行われ、全国各都市は日夜空谷にさらされて教育機能はほとんど停止の状態となった。
 昭和一八年「師範学校令」が改定され、愛媛県師範学校と女子師範学校は統合されて、官立愛媛師範学校となり、男子部・女子部が置かれた。教員の資質向上と師道の振粛のための改革であったが、戦争の拡大により、成果はあまり上がらなかった。
 中等教育もまた大きく転換した。昭和五年「実業学校諸規程」の改正で、学科目中に公民科を加え、体操に武道を含め、翌六年には「中学校令施行規則」を改正、学科を基本科目と増課科目とし、法制経済を改めて公民科を新設、基本科目中に作業科を加え、武道を体操科で必修とするなどの「中学校教授要目」を布達した。また、第四学年以上は、第一種・第二種に編制することとした。高等女学校についても同七年公民科を加え、法制・経済を削除した。昭和一二年、「中学校・高等女学校教授要目」の改定、「実業学校教授要目」の制定により、国体の本義を明確にし、国民精神を作興する趣旨が強調された。
 戦争に伴う人的資源の確保と入学志願者の増加のためもあり、地域の要望も強く、昭和九年の市立松山工業学校の県立移管をはじめ、昭和一二年から同二〇年にかけては、中等学校が続々と増設された時代でもあった。北宇和農業・新居浜工業・吉田工業・上浮穴農林・水産の各県立学校、市立新居浜・市立八幡浜・組合立越智・私立北予・私立新田・私立子安の各中学校、市立今治工業・市立宇和島商業・組合立大洲農業の各学校、市立新居浜高等女学校・町立川之石高等実科・三島高等実科・長浜家政・宇和島家政などの女学校の設置や県立移管などが次々と実施され、宇和島・八幡浜両商業学校の工業学校への転換なども行われた。この結果、昭和二〇年時県立中等学校は、中学校九、高等女学校一四、農業学校九、商業学校一、工業学校六、水産学校一、女子職業学校一の合計四一校となり、工業学校の増加が目立った。また私立女学校では、松山女学校が松山東雲高等女学校、美善が松山女子商業、松山技芸が松山高等技芸、今治実科が今治明徳の各高等女学校と改称された。
 昭和一八年「中等学校令」が勅令公布された。「皇国ノ道二則リテ高等普通教育又ハ実業教育ヲ施シ国民ノ錬成ヲ為ス」ことを目的とし、各種中等学校の修業年限を四か年とし、教科書を国定化した。また「中学校・高等女学校等ノ教科教授及修練指導要目」を訓令した。改革は主として学科内容に向けられ、教科外の行事などを組織化して修練と名付け必修とし、武道の重視、軍事教練の強化、集団勤労作業をもってする錬成などを王眼としている。県では、これに伴って「県立中学校・高等女学校学則」「県立各実業学校学則」を定め、従来の学校種別ごとの学則を廃止して画一化した。しかし、これらの改革も、戦局の緊迫に伴い、昭和一九年「学徒勤労令」、同二〇年五月「戦時教育令」「同施行規則」の公布によって、急速に決戦体制化し、授業は停止されることとなった。
 昭和一六年学校報国団を編成し、勤労作業に励んだが、同一九年の「学徒勤労令」「同施行規則」によって強化され、軍需工場への通年勤労動員が行われた。農業学校は土木作業と食糧増産に尽力した。同二〇年愛媛県も空襲を受けるようになり、松山市・今治市・宇和島市の大半の学校校舎は焼失し、勤労動員中の松山城北高等女学校・松山高等女学校などの生徒二〇数名が殉職した。
 高等教育では、昭和一四年官立新居浜高等工業学校が設立され、同一九年新居浜工業専門学校と改称、私立松山高等商業学校も松山経済専門学校と改称した。同二〇年県立松山農業学校を改組昇格、県立農業専門学校を創設した。
 実業補習学校と青年訓練所とは、昭和一〇年「青年学校令」によって一本化された。県では「青年学校施行細則」を定め、一〇月三七五校を開校した。同一一年青年学校教科用図書を定め、同一四年から義務制となり、一二歳から一九歳までの男子青年に就学の義務が課せられた。こうして青年学校は急速に発展したが、戦時下のため整備された教育は無理であった。特に専任教員が不足したので、従来の実業補習学校教員養成所を青年学校教員養成所と改称するとともに、昭和一二年県立青年学校水産教員養成所(宇和島)、同一六年女子青年学校教員養成所(女子師範学校内)を設立、同一九年には、これらを廃止統合して、官立愛媛青年師範学校が誕生した。
 昭和一六年大日本青少年団結成を契機に、県でも愛媛県青少年団が設立され、県知事を団長に興亜青少年運動と銃後奉公を展開する中央集権体制が確立された。
 昭和一二年県は、「国民体位向上対策要綱」を樹立、体育運動・体錬の奨励、学校衛生の振興の具体的方策を示した。愛媛県体育協会は教育会体育部などを併合、やがて、大日本体育会愛媛支部及び学校体育振興会愛媛支部となった。
 このように、特に日中戦争突入以後は、「国家総動員法」「国民徴用令」「学徒勤労令」「女子挺身隊勤労令」などの戦時特令のもとに、学校教育も大きな転換を余儀なくされ、青年学校就学の義務化、「青少年学徒二賜ハリタル勅語」「国民学校令」、大学・高専などの繰り上げ卒業、中等学校一括四年制、学徒出陣、「戦時教育令」など非常時体制の中で、昭和二〇年八月一五日「終戦ノ詔書」発布を迎えることになった。