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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

四 学校教育の整備

 明治三〇年代からは、産業経済の進展に即応して新しい時代が求める有用な人材の育成を目指し、逐次、各学校令が改定せられるとともに、教育の国家統制が次第に確立されていく。同三二年(一八九九)公布の「実業学校令」「高等女学校令」「私立学校令」「小学校教育費国庫補助法」。同三三年「小学校令」改定、同三四年第一五議会(衆議院)における教科書国定化への建議、同三五年広島高等師範学校の設立など次第に学校教育の整備・充実へと胎動を続け、同三六年「小学校令」を改定して国定教科書制度を確立。この制度は、翌三七年より実施して長く昭和二〇年(一九四五)の終戦まで続くことになる。
 小学校では、同三三年の「小学校令」改定、「小学校令施行規則」制定により、教授内容が明確に示された。県はこれにより、小学校経営を整備し、強い就学督励策をとり、授業料が廃止されたこともあって、同三五年には、義務教育就学率が九〇%を突破することとなった。教科書は同三七年から理科を除いて国定教科書が出版使用され(理科は同四四年より使用開始)、日露戦争後の同四〇年「小学校令」の改正によって義務教育年限を二年延長、尋常小学校の修業年限が六年となった。県の就学率は上昇を続け、同三九年以後は全国平均を上回り、同四一年には九八%台に達した。なお、国運を賭した日露戦争中は、教育界も戦時色におおわれ、戦時教育が実施された。
 師範学校は、明治三〇年に公布された「師範教育令」によって、愛媛県尋常師範学校が、同三一年愛媛県師範学校と改称され、同三三年女子部が設置された。同四〇年公布の「師範学校規程」に基づき、県では同四一年「愛媛県師範学校学則」等を定め、男女本科第一部・第二部と小学校教員講習科を置いた。更に同四三年には、愛媛県女子師範学校を開校した。しかし、小学校教育が進展するにしたがい、教員不足は深刻となり、加えて教員の待遇改善は遅々として進まず、明治四〇年ころ多くの郡市に准教員養成所が一斉に設けられたが、同四五年には廃止せざるを得なかった。
 中等学校の教育については、中学校は明治三四年「中学校令施行規則」同三五年「中学校教授要目」が制定され、男子に必要な高等普通教育をなす目的を明確にするとともに、教育内容を詳細に規定した。県では、明治三四年に、西条中学校に今治分校、宇和島中学校に大洲分校を設置したが、同三七年には県立大洲中学校に、同三八年には県立今治中学校に昇格させ、県立中学校は五校となった。また、北予英学校を基盤として北予中学会経営による北予中学校が同三三年に誕生している。高等女学校については、日露戦争後女子の進学希望者が激増したため、喜多郡立大洲、新居郡立・組合立三島実科、私立済美の各高等女学校。私立宇和島実科、私立松山技芸、私立今治技芸、私立崇徳、町立小松実用の各女学校などが、この時期に次々と誕生した。同四三年(一九一〇)、「高等女学校令」が改定されて、実科の設置及び実科高等女学校の設置が認められるとともに、翌年「高等女学校等教授要目」が制定された。これらの規定によらないものは、高等女学校とは称せず、女学校と称することになった。実業学校は、日露戦争後、南宇和郡立水産農業学校、東宇和郡立農蚕学校の開設、西宇和郡立商業学校の県立移管(県立商業学校は県立松山商業学校と改称)、弓削甲種商船学校の県立移管などが明治三〇年代後半に実施された。また、同四二年松山市立工業徒弟学校が工業関係として初めて開校した。
 このようにして、明治末期から大正初期にかけては、学校教育制度が整備され、学校体系の基本構成ができ上がり、国定教科書制度を軸として各学校の教育内容が国家的見地から統一化されていった。
 社会教育については、明治初期から日清戦争直後に、若者集団から組織され始めた青年会が、日露戦争を機として増加し、県も積極的に指導したため、明治四三年には、八〇三の青年団体があった。青年会は、会員の修養を図るため、多く夜学会を開いた。やがて、夜学会は実業補習学校に統合されていったが、実業補習学校は「実業補習学校規程」の改正(明治三五年)により、実業学校のうちに入った。この規程では設立者が地域に応じて適当に設置できることになったため、県内一二町村立校が創設された。同三六年県立商業補習学校も松山商業学校に付設された。同三九年には県内一二五校に達したが、専任教員はほとんどいなくて、県費の補助も僅少であった。