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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

五 戦記

 戦 記

 戦記と総称されるものは、軍事史の研究をも含めてその範囲は広い。ここでは軍政・軍制・戦略術などを除き、県民が直接に体験した戦場での経緯・戦後の中国東北部満洲からの、あるいはシベリアからの抑留引揚記などを略述する。明治初期、農民の生活苦や政治闘争として農民騒動がおこった。野村・松柏・津島・三間・貢米俵制規則・久万山・大洲・郡中・徴兵令誤解騒動など約二〇件を数える。征韓論に破れた江藤新平は明治七年佐賀の乱を起こし、追われて鹿児島に西郷を訪ね、大隅垂水港から日向戸浦を経て八幡浜に上陸し宇和島に潜入、滑床渓谷を通り松野町吉野に至り高知に逃げるが土佐甲浦で逮捕され、直ちに佐賀に護送されて梟首の極刑に処せられる。松本清張の『梟示抄』に描かれている。ときに大久保内務卿の側近岩村通俊、実弟佐賀県令岩村高俊。重松一義(昭6~ 松山市出身・東京在住行刑吏)の『明治内乱鎮撫記-岩村通俊の生涯と断獄史上の諸群像-』がある。

 西南騒擾

 明治九年一〇月、熊本神風連の乱・福岡秋月の乱・山口萩の乱の武力反乱は短期間に鎮圧され局地的暴動に終わる。翌一〇年二月一五日西郷隆盛は鹿児島を発し、二一日熊本鎮台を襲撃、三月二〇日田原坂の激戦に敗れ、九月二四日鹿児島城山で自刃。八か月にわたる西南戦争は終わりを告げる。県は沿岸線を監視警戒し、旅行者を取締り、情報を収集するとともに士族の動向に注目、とくに危険物の取締りを厳にする。西郷に呼応して蜂起しようとしてひそかに武器弾薬を収集した旧大洲藩士武田豊城・永田元一郎、旧吉田藩士飯渕貞幹、旧宇和島藩士鈴村譲は山口県平民松岡新太郎に謀られ一斉検挙され四二名が県初の国事犯として処分され温泉郡藤原懲役で服役した。この戦役に丸亀営所第12聯隊第1大隊40隊左小隊1分隊伍長代理・新居郡黒島村加藤亀三郎の弟加藤常松は父と兄宛の書簡を残している。書簡を認めたこの日、肥後で戦死した。

 去月十三日御報知申陳直チニ丸亀営所ヲ発シ同夜多度津一泊。十四日社寮丸ニ乗込同港ヲ発シ、十五日馬関エ着、暫時碇泊。同日午後下ノ関出港、十六日肥前長崎エ着上陸、□地町渡辺藤三郎方ニ一泊、十七日地理検査トシテ午後二時迄散歩、同四時□□丸エ乗組出発ノ用意ス。十八日早天軍艦四艘陸軍兵乗組ノ汽船五艘、東京警視乗組ノ同三艘計十二艘ノ汽船何レモ船長七拾間斗リノ大艦斗。同港ヲ同時ニ発シ、天草洋ニテ人夫三名誤テ海ニ落入、二人助命一人死体不分此日風雨強ク、同日肥後大島ニ着ス、時間若干各艦ヲ待合ス。十九日肥後国雛古ヱ諸軍上陸、我隊再ヒ同船ニ乗込ミ八ツ代ロニ進ミ、同日八ツ代エ上陸、同所一泊、二十日払暁同所ヲ発シ近村行進之間保安等勤務シテ里程六里進ミ宮ノ原エ着、油屋某方ニテ午食ス。歩行セントスルニ村離川ヲ隔テ賊見ハル。時刻ハ午前十一時ナリ。本日初メテ発砲、弥々実地戦争トナル。然ルニ此日我輩ノ一中隊ノミハ八ツ代ロヨリ出兵ス。我大イニ勝利。別働隊モ我輩ノ砲声ヲキクヤ否宮ノ原エ出張河ヲ隔テ官賊大ニ射撃ス。同夜保安勤務大小兵ヲシテ夜ヲ明ス。二十一日モ同所ニテ戦フ。同夜我隊赤山油谷ヲ保守ス。二十二日同所赤山油谷川尻ニ戦ヒ、二十四日綱堂小川マテ進撃ノ所我隊戦続ニ付休戦。二十五日綱堂ニテ大小兵夜ヲ明ス。二十六日南山川ヨリ北里ヱ前顕ノ如ク進撃、此日モ勝利ヲ得午前十一時迄ニ賊ノ塁若干ヲ乗取ル。賊五人ヲ生捕分取品多シ。二十七八日休戦。二十九日中山西ノ郷砂川東山ヲ乗越シ上ノ崎松橋マテ大進撃、都合ニヨリ保安ヲ小川村ニテ勤メ夜ヲ明カス。同三十日早天進撃ス。午後四時三十分マデュ松橋賊ノ台場ヲ乗取ル。大砲小銃及ヒ弾薬大刀ヲ分取ス。此日別働隊第一第二第三第四旅団一同手足ヲ動カス如ク一線二進ミ大愉快々々。賊軍日々ニ不利ノ色ヲ顕ス。本日ハ雨中ニシテ山里ニ靄ヲ掛ケ頻リニ雨強ク降リ、我軍困却恐怖ノ色少シモナク先ニ廻り豊木ニテ夜戦シ夜ヲ明カス。三十一日松橋ヲ本陣トシ、同夜休戦。然ルニ賊大砲ヲ取ラント鶏鳴ノ頃哨兵隊エ大刀ヲ揮テ五拾人斗切込ム。我隊ヘ報知アルヤ直チニ出戦、宇土町木原山及桂原営理村諸々ノ小村ヲ得テ緑川ノ尻マデ進ム。四月一日午前マデ進撃ス。此日モ里程壱里半余乗取ル。此夜々営入山ニテ哨兵夜ヲ明ス。同二日正午十二時他中隊ト交代シ、宇土町ヲ本陣トシテ休戦ス。同三日緑川ニテ大ニ哨兵務ム。四日正午十二時哨兵引上ケ、宇土町ニテ休戦、同夜俄ニ宮ノ原エ我隊出張ヲ被命、五日十時宮ノ原エ着、夫ヨリ経線ノ為要害ノ赤山油谷迄ヲ巡察シ。帰兵休息スルヤ又八ツ代ロエ出兵ヲ達セラル。則時同所ヲ発シ、同夜十二時八ツ代ロニ着若干ノ間休息ス。六日午前二時猫谷山二登ル。琴古ノ峰ニ賊在ル、官軍声高ヲ発シ一時ニ砲撃シ進ントスルニ利無ク依テ萩原ニ下ル。七日早天大勝利、我輩五日ヨリノ戦続ニテハツ代ニ帰シ休息、同八日浮柳ニ賊ノ本陣有ルヲ聞キ熊川ヲ越エテ進ム。弾薬六百発人拾五箱大砲一門小銃四拾余挺大刀及ビ荷物等ヲ分取又賊七名ヲ生捕、其夜萩原ニテ大小兵夜ヲ明ス。同九日萩原ニ残賊アリト土民上申シ生捕ニセント欲ス。壱人遁レテ熊川ニ入り浮柳エ渡ラントスルヲ後ヨリ各兵射撃ス。他ノ賊山ニ遁ケ去ル。我隊モ亦午前十一時各小兵ヲ引上ケ他中隊ト交代シテ八ツ代ロニ帰シ休戦ス。同十日宇土町エ出張ノ命アルヤ同町ヲ発シ宇土ニ着、同夜同所ニ泊ス。十一日熊ノ庄エ繰出ス。即時熊ノ庄光徳寺エ着、同夜休戦、同十二日大進撃ヲ緑川ノ上名東町千間町マテ進撃シ川ヲ隔テテ賊ノ砲台エ大砲ヲ屢々打ツ、小銃ヲ打ツ事故麻ヲ煎ルカ如シ。賊利ナラスシテ逃去ル。官軍寺ニ帰リ休戦ス。十四日前顕緑川ヲ越エ大進撃、川尻賊ノ本陣ヲ抜キ大愉快、続テ熊本城ニ進ム。本日大勝利、同夜熊本城鎮台ニ入、十五日休戦。十六日ハ高橋へ出張被命、午前十一時高橋ニ於テ賊徒四拾七人ヲ生捕小銃弾薬及大刀器若干ヲ分捕ス。同夜道路ニ泊ス。十七日宇土町エ出兵ヲ被命、直チニ宇土ニ行ク。同夜休戦本日モ休戦。明十九日ハ吉野山ニ出兵ノ筈ナリ。先ハ右御報告申送ル。我隊ノ内傷疵二十人戦死十二人アレドモ我輩無事ナリ御安心可致下尚一層勉強大勝利手柄ヲ得テ又々御報知可申乍憚諸親類工御致声祈候 恐惶敬白 肥後国宇土町ニ於テ 別働隊第一旅団第二聯隊第一大隊第四中隊近藤常松 四月十八日 父上様兄上様  再白本日休戦ノ遑ヲ得認メ候得共、又々二時出発ノ筈ニテ再読致サス。乱筆ノ儘郵送仕候 御推読被下度候也

 二二聯隊始末記

 回顧ば明治一九年 秋八月の一七日 仰ぎ奉りし我軍旗 過ぎし幾多の聖戦に 弾丸つん裂け雨に朽ち 光は増して弥高し …陸軍歩兵第二二聯隊歌である。明治一七年二月六日兵備表制定で「松山営所設置」命令、六月二五日編成業務完了し歩兵第二二聯隊第一大隊創立、一九年六月一七日聯隊本部松山に設置、八月一七日宮中において明治天皇は第二二聯隊軍旗を勅語とともに陸軍卿大山巌に親授、二八日軍旗は少尉藤田邦親に奉持され松山堀之内練兵場に到着し奉授式。そして、この軍旗は昭和二〇年六月二三日沖繩戦の組織的抵抗停止後奉焼された。下賜されてから五九年である。愛媛新聞は客野澄博執筆による「二十二聯隊始末記」を連載(昭44・1・1~45・12・20)しその栄光と苦闘の歴史を綴った。のち単行本として発刊された(昭47・5・1)。その目次の概要。
一、国軍誕生(富国強兵 最後の内乱 天皇の軍隊 おらが聯隊 ああ、内務班) 二、日清戦争(成算のない〝大バクチ〟火筒の響き 雪の進軍 くれない染めて 露営の夢) 三、われら一等国(愛国心の昂揚 万朶の桜) 四、日露戦争(征衣上途 旅順へ 屍山血河 旅順開城 奉天戦の勝鬨 凱旋)五、一将功成り(統帥権独立の前後戊申詔書の頃)六、シベリヤ出兵(革命干渉の軍) 七、軍縮時代(兵営の暗雲) 八、第一次上海事変(江南の戦歴) 九、軍国行進譜(政権、軍の傀儡へ) 十、第二次上海事変(永津部隊戦記) 十一、戦線、泥沼へ(独混第十五大隊戦記) 十二、行けど進めど(凱旋なき部隊出陣 沢田部隊の戦歴 松久部隊の戦歴 〝鯨〟部隊出陣 〝歩一二二〟の戦歴) 十三、軍旗の最後(歩二二の玉砕)。なお、愛媛新聞には「第二十二聯隊の最後」(昭37・6~ 嘉陽安男)もある。

 日清戦争従軍秘録

 編者地主愛子、著者濱本利三郎(昭47・11・1青春出版社)。編者は法務省久里浜少年院・横須賀刑務所篤志面接委員で著者の三女、著書に「とべない翼」「お母さん なぜ僕を生んだのですか」がある。作家浜本浩は著者の長男。…隣りの体操教師は黒づぼんで、ちゃんとかしこまって居る。体操の教師丈に、いやに修業が積んで居る…と漱石の「坊っちゃん」に描かれた体操教師は著者をモデルとする。明治元年徳島市生、陸軍教導団卒、松山中学へ赴任(体操・国語明26・8・19)、日清戦争従軍(明27・6・13 松山歩兵第22聯隊召集 第五中隊第三小隊付明28・7・28凱旋、29日除隊 功七級金鵄勲章は22聯隊初の金鵄受章者)、松中復職、高知県立第一中学校へ転任(明29・3・28)。目次概要ー明治27年6月~9月(戦況1)明治27年10月~12月(戦況2) 明治27年12月~28年2月(戦況3) 明治28年3月~5月(戦況4) 明治28年6月~7月(戦況5)-。高浜出発-元山-京城-仁川-平壌-鴨緑江戦闘―九連城・鳳凰城占領-草家嶺戦闘-崔家房戦闘-攀家台遭遇戦ー牛荘城・田庄台攻撃-営ロー大連-高浜着-凱旋。編者が語る父の想い出の一駒…私の家では毎年十二月十日を父の日と定めていました。それは攀家台の戦いで父が一時空腹と疲労で失神、気がついた時父の横に清国兵が息たえていました。父はその清国兵のカバンにあったダンゴ三つをもらい、力を得て無事下山出来たことからです。まい年その日の夜の食事は塩入りのメリケン粉のダンゴ三つきりですごすのです。清国兵に感謝して戦争のない平和な国を祈ったものです。

 坂の上の雲

 ―まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。その列島のなかの一つの島が四国であり、四国は、讃岐、阿波、土佐、伊予にわかれている。伊予の主邑は松山。城は、松山城という。城下の人口は士族をふくめて三万。その市街の中央に釜を伏せたような丘があり、丘は赤松でおおわれ、その赤松の樹間がくれに高さ十丈の石垣が天にのび、さらに瀬戸内の天を背景に三層の天守閣がすわっている。古来、この城は四国最大の城とされたが、あたりの風景が優美なために、石垣も櫓も、そのように厳くはみえない。この物語の主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれないが、ともかくもわれわれは三人の人物のあとを追わねばならない。そのうちのひとりは、俳人になった。俳句、短歌といった日本のふるい短詩型に新風を入れてその中興の祖となった正岡子規である。…(略)…「信さん」といわれた秋山信三郎好古は、この町のお徒士の子にうまれた。(安政六年)…(略)…明治元年三月にまた男児がうまれた(真之)。-冒頭の章「春や昔」の書き出しである。サンケイ新聞に連載(昭和43・4・22~47・8・4)されたこの小説は終章「雨の坂」の末尾に、秋山真之・秋山好古の死を叙して終わる。作者司馬遼太郎は「あとがき・一」につぎのように書いている。

  …子規について、ふるくから関心があった。ある年の夏、かれがうまれた伊予松山のかっての士族町をあるいていたとき、子規と秋山直之が小学校から大学予備門までおなじコースを歩いた仲間であったことに気づき、たゞ子規好きのあまりしらべてみる気になった。小説にかくつもりはなかった。調べるにつれて妙な気持になった。このふるい城下町にうまれた秋山真之が、日露戦争のおこるにあたって勝利は不可能にちかいといわれたバルチック艦隊をほろぼすにいたる作戦をたて、それを実施した男であり、その兄の好古は、ただ生活費と授業料が一文もいらないというだけの理由で軍人の学校に入り、フランスから騎兵戦術を導入し、日本の騎兵をつくりあげ、とうてい勝目はないといわれたコサック騎兵集団とたたかい、かろうじて潰滅をまぬがれ、勝利の戦上で戦いをもちこたえた…(略)…そういうことを、書く。どれほどの分量のものになるか、いま、予測しにくい。(昭和44年3月)
 明治維新によって国民国家の祖型を持った日本は、これまでの日本の歴史には見ることのできない国民戦争として日露戦争を遂行した。子規は文学において、秋山好古・真之兄弟は日露の海と陸との戦いにおいて、のぼってゆく坂の上の青い天にもし一柔の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼっていった。桜井忠温『肉弾』、水野広徳『此一戦』、山路一善「日露戦争秘録」、濱部永太郎「明治三七、八年征露従軍私記」などの戦記を位置づける概説としてこの『坂の上の雲』をあえて戦記に挙げた。なお、才神時雄「松山収容所」、河野春庵「松山収容露国俘虜」も日露戦争の一断面である。

 無名の師

 赤化の防止のみに限定したならば、列強との提携もあるいは可能であったろうが、北満へのわが進出、門戸の閉領は、列強に日本の野心として、いたく猜疑の念をおこさせ、共同出兵は支離滅裂に終わった(大本営陸軍部)のがシベリヤ出兵である。二二連隊にシベリヤ派遣軍としての編成が下令された(大正8・6・24)。二八日軍装検査。軍旗と将兵は七月二日高浜港発、五日ウラジオストク着。氷雪地獄の討伐行がはじまり野中支隊は凍土を進撃し難行軍をつづけた。西伯利出征軍はまず寒さと戦わねばならなかった。…第五師団の兵士は目下西伯利守備として寒気の強い西伯利で任務に就て居る。其の中には云ふ迄もなく松山聯隊の兵士も居るので家族では今頃は嘸寒いであらうが、今後厳冬の候になったら何の位寒いであらうと気遣ふであらふが。西伯利方面に出征しつゝある軍人軍属の使用する防寒被服は零下五十度の沍寒に対し少しも寒さを感ずる事がないと云ふ事である、今此防寒服着装の順序を示すと(一)普通の冬襦袢袴下の上に防寒メリヤス襦袢袴下を着用す(二)足部には先づ防寒靴下を穿き其上に普通に普通の綿メリヤス靴下を穿用す(三)軍衣袴着用の上に又は外套着用の上に防寒胴着を着用す(四)乗馬者は軍袴の上に防寒半袴を着用す、但し極寒地にては徒歩者も使用することあり(五)防寒胴着に防寒袖を附着し更に極寒地に在りては外套袖口を附着す(六)外套又は防寒胴着に防寒襟を附着す(七)乗馬軍は普通軍靴の上に防寒靴を穿用し徒歩者は軍靴に替へ穿用す(八)頭部には防寒覆面又は防寒帽子を冠る、尚ほ吹雪又は積雪日光反射の為眼眩き場合は眼簾を使用することあり(九)手には防寒手套を嵌め更に防寒大手套を襲用す而して此防寒服全部の合計重量は約二貫七百匁であるが、全部を着用する場合と然らざる場合とがあるさうである(愛媛新報大正8・11・17)…。機関銃第二小隊長陸軍歩兵中尉徳本光信(松山市出身)は文才溢れる武人であった。「第廿二聯隊出征の歌」を海南新聞に寄せる(大正8・9・5~6掲載)。ついで、愛媛新報に〝当隊兵士の父兄におかれても殊更に御心配せらるゝ事なきやの感有之候間不文をも顧みず当地の近状を縷述仕り候間希くは貴紙の余白により之を父兄に御報道する事を得ば〟-として軍事郵便「過激派の巣窟の跡 蘇城進軍記」を寄稿し、その末尾に〝蘇城派遣の歌〟を付す。(10月30日発信11・16~18掲載)。
 一、時は大正八年の 八月十有七日に 浦汐港を後に見て 新高丸は船出せり  二、蘇城派遣の大任を受けて乗込む益 良夫は第九中隊其他に 我が精鋭の機関銃  三、アメリカ湾に夜を明し チニューエ港に上陸し ウラジミロに宿営し スウチャン河を渡渉して  四、百数中台の馬車の群 蛇艇長く原を縫ひ夕靄罩むる二十日の夕 蘇城炭坑に着にけり 五、火薬庫歩哨に立つ身には 右手の小銃腰の剣 試さん時の来れよと 脾肉の歎にも打たれつゝ 六、或は静けき星月
 夜 仮寝の床にまとろみて いとしき我子の愛らしと 思へば寝めて夢なりし  七、山には青葉の生茂り 野辺には秋草 咲き乱る 緑の里のシベリアも やがては冬の来るらん 雪白砂の銀世界 野辺に一つの緑なく 吹雪の空に物凄く 大海凍る時の来ん されどされどああされど 胸に燃ゆる報国の 血潮は如何でか凍るべき 予州男子の意気高し

 徳本は、のち大洲・宇和島中学校配属将校。宇中短艇部応援歌「佐田の岬」作詞 大佐・独立混成第31連隊長終戦後広東で処刑死 遺稿集に「茘枝の蔭」がある。
 村上順一 (明24~昭56 吉海町出身)に「西比利亜出動の思出」がある。池田亀市(明30~昭55 砥部町出身)は大正六年入隊、シベリア出兵、その自叙伝「滅死の歩み」に、無名の師(大義名分なき戦い)と呼ばれたシベリヤでの体験見聞を綴っている。

 昭和の戦線

 昭和六年九月一八日、柳条溝で満鉄の線路爆破を機として満州事変が勃発し、陸軍はたちまち奉天を占領した。翌七年一月海軍陸戦隊は上海に上陸、陸軍も二個師団を増派し本格的攻撃を展開した。上海事変は五月に停戦協定ののち撤退する。昭和六年の三月事件・十月事件、翌七年の血盟団事件、五・一五事件、昭和一一年の二・二六事件を経て次第に軍国化した日本は、昭和一二年七月七日北京郊外の蘆溝橋付近での日中両軍の衝突に端を発し日中戦争に突入した。再び上海に戦闘が起こり戦線は華中にも拡大、南京・武漢占領、広州攻略と長期戦化した。海南島占領(昭14・2)・北部仏印進駐(昭15・9)・南部仏印進駐(昭16・7)は太平洋戦争の布石となった。昭和一六年一二月八日、真珠湾攻撃による開戦後およそ半歳にして、日本の占領地域は中部太平洋から東南アジヤ・ビルマにかけての広大な地域にひろがった。ミッドウェー海戦(昭17・6)・ガダルカナル撤退(昭18・2)・アッツ島玉砕(昭18・5)・サイパン島玉砕(昭19・7)・硫黄島玉砕(昭20・3)・沖繩戦組織的抵抗の停止(昭20・6・23)・原子爆弾広島投下(昭20・8・6)を経て、日本はポツダム宣言を受諾し、昭和二〇年八月一五日戦争を終結する。しかし将兵の復員、在留邦人の引揚、ソ聯邦シベリアにおける抑留労働は戦争の惨禍を長びかしめ、中国残留孤児日本訪問は戦争の辛酸終結の程遠きを思わせる。県人はそれぞれの地域で戦い、いくつかの戦記を書き、あるいは部隊史を綴り、さらには抑留・引揚記を出刊する。

 中国戦線

 「戦盲記」は揚子江沿岸上陸作戦において両眼失明した原田末一(明29~ 今治市)の、「軍隊行程記」は魚田勝(明44~ 明浜町)の、「戦場を駆ける犬」は海南新聞に戦場通信を寄せた本田瓢太(明42~今治市)の、「硝煙の中に生きて」は河村竹市(大10~ 伊予三島市)の、「六百の精兵地下を征く」「戦場の片隅で青春をささげつくして 鯨歩兵第234聯隊第12中隊史」は豊田宏作(大11~ 吉田町出身、松山市)の、「鯨大地を征く」「隠密挺身隊」は大森茂(大10~ 松山市出身、東京都)の、「遙かなり歩砲の青春」は中川啓(松山市)の、「従軍回想画譜」は武智成彬(大2~ 重信町)の戦記である。
 二塘・雨母山地区の死闘(昭19・8・5~8・12)ー(湘桂第一期作戦昭19・5・27~9・21)…「第234連隊第12隊史」(豊田宏作)の記事の節をかかげる。

  八月八日夜半より射撃準備を周到に行なったわが三十七粁速射砲は、直距離百三十米に標止した線に侵入した先頭戦車に対し、班長木村伍長の沈着冷静な射撃指揮により、初弾必中砲塔直下に徹甲弾をたたき込み、擱挫した戦車は公路を横向きになり閉そくして、二両目の戦車はこれに乗り上げ、そこを第二弾を以て擱挫させて撃破し、これを望見した三両目の戦車は後進して退り、二塘部落やゝ東方より残置した二両と共に火力支援に当り、ここに速射砲小隊によって二塘方面陣地の崩壊を見事に防止した。…(略)…八月十日、敵は連日の如く攻準射撃の後全戦線に亘り、再び激しい攻撃を開始し、中隊正面もその洗礼を受けたが、この日の攻撃は執拗を極め、片岡小隊陣地は終始敵と格闘する激しさで、特に昨夕交代した香月大隊の一ヶ小隊が持つ突角陣地は、迫撃砲の集中火に膚接した大部隊により玉砕するに至り、血まみれの伝令一名が中隊陣地に急を告げて、陣地は敵手に渡った。この状況を看取して香月大隊に連絡、豊田少尉は香月少佐に帯同し、片岡小隊陣地に登はん中、奪取された陣地より背射を受けて、香月少佐は大腿部貫通の負傷を受けた。この時、片岡小隊陣地は敵の近接攻撃を受け、山頂は敵手榴弾の弾幕に覆われ、僅か五名の守備兵は敵手榴弾を拾っては投返し、特に高橋岸太郎一等兵、牟礼芳夫上等兵の働きは目覚ましく、反斜面よりの掃射と突進剣突により約一時間後これを撃退したが、数個の遺棄屍と共にチェッコ機銃の残骸が放棄されていた。それより先、突角陣地に蝟集攻撃中の敵兵に対し、高橋・牟礼の両名がこれを狙撃(軽機・小銃)し、突角陣地斜面には約六十の敵屍がころがり、如何に多くの優勢な敵の攻撃を受けたかがうかがわれた。…(中略)…八月十日午後九時、中隊は第一小隊(横田曹長)の主力を片岡小隊陣地に移動させ、横田曹長指揮のもとに軽機・擲弾筒を集中して火力支援の準備を行い、配属工兵松本少尉の指揮下に工兵小隊による破壊筒の投射による支援等の部署をして、香月大隊某准尉の指揮する一小隊を以て、集中火の直後突入を発起し奪回攻撃を実施したが、喊声を挙げての突入で企図を暴露し、陣前における手榴弾攻撃を受け、殆んどの突撃隊員がたおれて第一回の攻撃失敗し、再び新編成瀬准尉以下の一小隊の攻撃隊を編成し、中隊長豊田少尉の陣頭指揮により、第二次攻撃を準備し、中隊も残弾を残らず使用しての集中射撃を事前に実施し、突撃小隊は陣前に近迫後無喊声を以て突入、一挙に陣地後端まで突進して陣内の敵を刺殺又は組伏せて捕虜とする等、十一日零時頃陣地を完全に奪回し、三十余名の遺骸も完全に収容して突角陣地を奪回確保したのであった。翌十一日午前七時、第五十八師団の交代部隊が到着し、第一線各陣地をその場交代し、二塘東南方地区に集結し、ここにおいて中隊全兵員の掌握を行なったが、将校(豊田少尉) 一名、下士官(横田曹長・片岡曹長)三名、兵長以下合計二十余名で、そのうち負傷者が半数以上に達し、一小隊に満たない兵力であった。

 ※愛媛新聞(昭59・3・4)記事 鯨友ら集う 松山234連隊600名 昭和十四年松山で編成された歩兵第二百三十四(鯨)連隊の元兵士らが四日、松山市に集まり、慰霊祭や懇親会を開いた。同連隊は二十二連隊の留守部隊として編成され、中国中南部で転戦、二十一年復員した。同連隊のOBで結成している「二三四会」(会員約二千五百人、豊田宏作会長)は、四年ごとに集まっており、この日も県護国神社で戦死した約二千五百人の戦友の霊を慰めたあと、戸田義直元連隊長(九二)らも出席して県民館で第六回総会と懇親会を開いた。参加者は和気あいあいと思い出話などに話を咲かせていたが、宇和島市のある会員(六五)は「私の中隊は三分の一が戦死した。軍隊はキライじゃないけど、戦争はいやだ」と話していた。

 真珠湾の間諜

 文芸春秋(昭29・6増刊号)に「真珠湾の日本間諜」が載った。著者は愛媛新聞記者の石田晃(大13~昭55 宇和島市出身)で、重信町在住の〝間諜〟本人である吉川猛夫より資料を得た(「大戦秘話殉難の乙女」あとがき)、とある。吉川猛夫(明45~ 海兵61期 少尉候補生・潜水戦隊旗艦軽巡由良暗号士 霞ヶ浦航空隊飛行学生・胸部疾患二年間自宅療 任海軍少尉、即日予備役編入、軍令部嘱託、第三部勤務)は日本外務省一等書記生森村正として昭和一六年三月二〇日午後二時日本郵船の新田丸に乗船し、二七日午後一時ハワイオアフ島のホノルル桟橋に到着した。真珠湾の米艦隊の動向を情報として打電するのがその任務であった。吉川は「東の風、雨」(講談社)を書いているが、真珠湾攻撃を必須とする戦記、たとえば阿川弘之「山本五十六」、朝日新聞社「太平洋戦争への道」などに登場する。豊田穣『燃える怒濤』(集英社文庫781)には〝森村正こと元海軍少尉西川武男〟として物語られる。

 西川の打電は次の通りである。一、六日午前、真珠湾在泊艦船左の通り 戦艦九隻、ほぽ二列にA地区に繋留 軽巡三、潜水母艦三隻、駆逐艦十七、C地区にあり。他に軽巡四、駆二入渠中 二、艦隊には異常の空気を認めず。臨戦準備態勢にあらず 三、阻塞気球なし 四、空母二、重巡十は出動して港内にあらず 五、ホノルル地区はこのところ灯火管制を実施しあらず 六、艦隊航空兵力による航空偵察は実施しおらざるもののごとし… これがホノルルに潜行した密使森村書記生こと西川武男海軍少尉が打った最後の情報電報で、大本営直属の大和田通信隊はこれを受信し、軍令部はさらにこれを赤城に転電した。赤城の艦橋がこの電文を受けとったのは、七日(日本時間)午後十時四十分。攻撃隊発進まで約三時間という瀬戸際まで西川は情報を送り続けた。そして、彼自身はこれが最後の電報になるとは知っていなかった。翌日も真珠湾を偵察して、電文を打とうと考えていたのである。赤城の艦橋がこの電報を受信したとき、機動部隊はすでに真珠湾の北方二百六十マイルに迫っていた。艦橋で懐中電灯を手にして西川の最後の情報を確かめあった南雲長官と草鹿参謀長は、思わず闇の中で顔を見合わした。「長官とうとう来ましたね」「うむ、うまく見つからずに来れた。敵の戦艦は港内にいるらしい。奇襲はまず成功だな」 南雲中将は、艦橋のガラスをすかして南、ハワイの方をのぞみ、「天祐だ…」と呟いた。だがしかし彼らは知らなかった。これらの貴重な情報が、健康を害して予備役となった一海軍少尉の苦心の果ての送信であったことを……。彼らは単に大本営が何らかの方法で、おそらくホノルルの総領事館等を利用して、逐次真珠湾の情報を入手し、これを機動部隊へ送っているので、それは大本営情報班の当然の仕事だと考えていた。かくて、西川の苦心の情報活動は終った。そして、情報活動の終ったときから、西川元少尉の真の悲劇が始まるのである。

 神風特別攻撃隊

 台湾沖海戦戦果として大本営は、(轟撃沈)航空母艦10・戦艦2・巡洋艦3・駆逐艦1 (撃破)航空母艦3・戦艦I・巡洋艦4・艦不詳11 と発表した(昭和19・10・16)。陸軍はこの〝赫々たる戦果〟を信じ、この誤認のもとにルソン島決戦をレイテ決戦に変更し、海軍は最後のZ旗を揚げてのレイテ沖海戦=捷一号作戦に出撃(10・18)。栗田艦隊をレイテ湾に突入させ敵艦隊を徹底的に叩くためには敵空母の飛行甲板をつぶし敵航空機の発見を不可能にする必要があるーそれには零戦に250キロ爆弾を抱かせて体当たりするよりほかにないーと判断したのが一七日にマニラに着いた第一航空艦隊司令長官海軍中将大西滝次郎であった。特別攻撃隊敷島隊長海軍大尉関行雄、本籍地宇摩郡松柏村大字村松334番地、出生地西条市栄町下組(大町1684番地)、(海兵70期・艦爆。タクロバン85度90マイルで空母キトカン・ベイを捕捉し甲板に突入、空母は自爆10・25・15時)。連合艦隊司令長官豊田副武は―悠久の大義に殉ず、忠烈万世に燦たり仍て茲に其の殊勲を認めー全軍に布告した。この敷島隊には松柏村出身の大黒繁男上飛もその名をとどめている。以後、太平洋戦争終戦までに二五三〇名、二三六七機が特攻として散華した。いま西条市大町楢本神社境内に慰霊碑が建てられ神風特攻奉賛会(石川梅蔵宮司)が慰霊の儀を執行している。草柳大蔵は…決死と特攻とはまったく性質をことにしている。決死は死を主観にゆだねている。しかし特攻は死を客観にゆだねている。当事者は死を覚悟しているのではなく、死でしか任務を遂行できないのである。もうひとつの大きな相違点は、決死はある局面にのみむけられるが、特攻はいわば制度として採用された持続的な組織である。(特攻の思想-大西滝次郎伝)…という。

 「関、今日長官が直き直き当隊に来られたのは捷号作戦を成功させるために、零戦に二五〇瓩の爆弾を塔載して敵に体当りをかけたいという計画を諮られるためだったんだ。これは貴様も薄々知っているだろうと思うが、ついてはこの特攻隊の指揮官として貴様に白羽の矢を立てたんだが、どうか?」 と涙ぐんで訊ねた。関大尉は唇を結んで、何の返事もしない。両ひじを机の上につき、オールバックにしている長髪の頭を両手で支えて、眼をつむったまま俯向き、深い考えに沈んでいった。身動きもしないー。一秒、二秒、三秒、四秒、五秒……。と、彼の手が僅かに動いて、指が髪をかき上げたかと思うと、静かに頭を持ち上げて云った。「是非私にやらせて下さい」 少しの澱みもなかった。明瞭な口調であった。玉井中佐もただ一言、「そうか!」と応じて、じっと関大尉の顔を凝視していた。急に重苦しい雰囲気が消えた。雲が散って月が輝き出た様な爽々しい感じだった。それから三人は今後のことを語り合った。多くを語らぬ口数少ない談話ではあったが、そういう話の中にも彼の確固とした決意の程がうかがわれたのであった。こうして列機も指揮官も決定したのである。そこで私は玉井副長に「これは特別のことだから、隊に名前をつけて貰おうじゃないか?」と云って、二人で考えた。その時、ふと思いついて、「神風」というのはどうだろう?」と云った。すると玉井副長は言下に、「それはいい、これで神風を起さなくちゃならんからなあ!」と賛成した。私は編成決定の報告と、隊の命名希望を持って、二階の長官の所へ上って行った。昭和十九年十月二十日午前一時を過ぎた頃であった。(猪口力平・中島正著「神風特別攻撃隊」)
なお、安岡敏雄(大14~ 城辺町)に特攻隊員としての青春の手記を綴った「雲を翔ける悲願」がある。

 三四三空最後の勇戦

 大本営航空作戦主務参謀源田実が紫電改を使用機とする第三四三海軍航空隊司令として松山基地に着任した(昭20・1・20)。昭和二〇年三月一八日、空母一五隻からなる敵第五八機動部隊から発進し呉軍港に向かうグラマン・ヘルキャット約四〇〇機を、松空の鴛淵大尉(海兵68期)の701戦闘飛行隊16機、林大尉(海兵69期)の407戦闘飛行隊16機、菅野大尉(海兵70期)の301戦闘飛行隊24機-維新・天誄・新選組の「剣部隊」紫電改57機が松山市上空で激撃した。この空戦で三四三空はヘルキャット48、コルセア戦闘機6、カーチス爆撃機4、計58機を撃墜した。わが方の損害16機であった。

 午前七時に全飛行機隊を発進させホッと一息した。七〇一・四〇七両飛行隊は鴛淵大尉誘導の下に、大きく右に旋回しながら隊形を整えつつ高度をとって行った。この分ならば、敵が当基地の上空に来るまでには、必要な高度もとり得るであろうと思いつつ、指揮所の作戦室に入った。入って間もなく、七時十分頃、「上空に大編隊」という見張員の報告を聞いて、直ちに外に出て見ると、基地の殆んど上空、若干東北よりの所を数十機の編隊が北北西の針路で、呉軍港の方に向っているのを発見した。始め、ほんの一寸、「味方機かな」とも思ったが、次の瞬間には紛れもないグラマンF6Fであると断定した。紫電改とF6Fは、遠望すると見分けがつかない位似ているところがあった。この翌朝、第二艦隊の旗艦大和が、ほの暗い内に松山沖を通って南方に進出した際、折柄黎明哨戒のため離陸した紫電改数機が、F6Fと見間違えられて同艦の射撃を受けた程である。「鴛淵一番、鴛淵一番、敵編隊飛行場上空、高度四〇〇〇」対空交話員の声が響く。情報を伝え終った頃には、我が戦闘機隊も既に敵を発見していた。基地の南西方約二浬の海上高度三〇〇〇米附近では、彼我約六〇機の戦闘機が入乱れて巴戦を展開し始めた。この頃の敵機動部隊は、丁度我々がポートダーウィンやセイロンの空襲でやっていたように、攻撃隊の本隊が突入する少し前に、戦闘機三〇機ばかりを先行させて、前路掃蕩を行うのを例としていた。我が紫電隊が捕捉したのは、この「露払い組」であった訳だ。群がる蝿のような黒点が、中天で或は近づき或は離れ、或は昇り或は降り、まんじ巴の激戦に入った。距離があるので充分に彼我の識別がつかない。戦闘開始後三十秒も経つたかと思う頃、真先に引導を渡された一機が、くるりくるりと錐操み状態になって墜ちて行った。良く翼端を見れば切削いである。グラマンに違いない。続いて火を噴くもの、空中分解をするもの、墜落する飛行機の数は殖えて行く。基地では全員が、飛行場の上空に展開せられる両軍戦闘機隊の死闘を、固唾を呑んで観戦していた。墜ちて行く飛行機を指さしては、「グラマンだ」「又グラマンだ」「紫電らしいぞ」というささやきも私達の耳に入って居た。傍に居た中島副長は、私に話しかけた。「司令、絶対優勢です」「うむ、そうらしいな」南西海面上空の空中戦闘も十数分後には殆んど友軍機ばかりになって末期に近づいていた。
 (源田実 「海軍航空隊始末記 戦闘篇」より)

 或る飛行機野郎の生涯

 藤田武明(明40~ 松山市 大15津田沼伊藤飛行場入所・昭5一等飛行機操縦士・昭10朝鮮総督府平安北道警察部特採航空要員国境警備飛行・昭13新開嶺山塞潜伏鮮匪討伐飛行・昭19朝鮮軍司令部陸軍宙第03部隊航空班 藤田時計精機KK代表取締役 県航空連盟監事)は民間飛行士。…僕らは生を明治の末に享け、其の節を曲げず、飛行機野郎よろしく国境の空を翔け、昭和に生き、常に想いは空に至る。航空事故多発の昨今、諸々の禍事を払拭して原点に還れと叫ぶ。怒ってはいけない。老婆心からの発想なんだよ。僕らは大正時代から飛び始めた。二十年間飛行して一回の人身事故もなかった。欲もなかった。飛行だけに生涯を賭けていた…飛行機野郎で、いまでは珍しい丁髷を結って暮らしている。

 占守の春

 占守島は北千島列島最北端にある周囲約七〇粁ほどの蚕豆形の小島である。対岸はカムチャッカ半島で、占守島の向い側には今ではロシア名。パラムシュロ(幌筵)島があり、南には北千島富士と呼ばれるアイラド島がぽっかりと浮かんでいる。この孤島に、昭和一九年、満州独歩590部隊が北方守備のため転出して来た。兵長松浦正志(大10~宇和島市出身、松山市)は昆布飯と塩魚で空腹を満たし対戦車壕を掘り、夜は千島桜と呼ばれるガンコウランの根に針金を焼いて芯を通し薬莢を輪切りにした口金をつけたパイプ造りに無聊を慰めた。松浦兵長は宇和島商業学校で音楽部に属し、管楽器吹奏に秀であわせて弦楽器に巧みであった。

  「兵長はヴァイオリンが巧かったの、満州では記念祭とか演芸会でやったじやないか。北千島ではさっぱりだのう、然し俺は考えたんだ、ヴァイオリンを作れや」と、私は「何っヴァイオリンを作れ、どうして作るんだ」と思わず答えた。「なあに出来るぞ大工の村田と長谷部一等兵に頼めや。弓の毛は俺が山砲隊に公用連絡があったとき馬さんの尻から鋏で切って来てやるぜ。」「うーん」と私は思わず唸った。「ほんとうだぞ、ヴァイオリンの弓の雌馬の尻尾の毛も手に入るぞ。やれば出来るかも知れん」と作ってみる気分が私に湧いてきた。二枚の胴板の縁に膠をたっぷりかませてその側面に例の乾燥かぼちゃの空缶のブリキ板を切って短冊型に切り廻し取り付けた上に小釘を打ちつけてやっと胴が出来上がったのであった。絃は通信隊で使用していたピアノ線の古いのを代用として張り、駒も置きぴんと張った。私は祈る心地で夢中で絃をはじいた。鳴る、鳴るではないか! ヴァイオリンの音に似た可愛いい音だ。翌日竹田上等兵が十二キロ程離れた山砲隊に臨時に公用連絡を兼ねて出張し、帰りに一握りの馬の尻尾の毛を掴んで帰ってくれたのである。私は作っていた弓らしきものに早速この黒い雌馬の尻尾を取りつけた。「あっそうだ松樹脂がないぞ、松樹脂をさがさねば音が出ないことに気がついた。幸いなことに樹脂の出る松板が一枚あった。これをストーブの火で灸りこの板に弓の毛を当て、ごしごしとこすりつけた。そして私はこの弓でヴァイオリンの絃をちょっとこすった。「鳴った鳴った。万才」と、とんきょうな声で叫んだのは日頃流行歌の上手な沖縄出身の長嶺一等兵であった。私の胸は高鳴った。何年振りかで手にしたヴァイオリン! 胸を張ってホーマンの姿勢をして! 早速その頃歌われていた流行歌である「いとしあの星」「支那の夜」「上海の花売娘」等を弾き続けた。長嶺始め班の全員が歌った。小さい音ながらよく鳴るではないか。

 ビルマ戦記

 太平洋戦線の最前線、連合軍の大反攻を大陸で正面から受けたビルマの戦場。三〇万の将兵が補給を断たれて、二〇万が朽ち果てた事実。インパール作戦に代表されるように、ほとんどは戦闘でなく、敗走にともなう飢餓と疫病による死である。この地獄の戦場を往来し帰還した県人兵士の戦記に、河村勇(大2~ 土居町)の「ビルマ戦記」「ビルマ戦線の想い出集」、只信一市(大8~ 松山市)の「ビルマの敗走兵」、菅野烈山(保夫大10~ 川内町出身、松山市)の「極限を超ゆるものービルマ戦記」、杉本伝蔵(松野町)「戦歴を回顧して」などのほか、「ああ ビルマ」(愛媛県ビルマ会発行)がある。インド作戦に失敗し北部ビルマ平地に出るジビイ山系での酒井伍長との別れを、菅野はその「ビルマ戦記」につぎのように綴っている。

  三日目の晩、酒井をそばに置いて、今まで口にしたことのなかった大隊長の命令を暗闇の中で天幕を睨んだまま相談した。大隊長の命令があろうと無かろうと、これ以上駐まることは三人の生涯をここでうち切ることになる。置きざりにして殺すのは忍びないが、手を下すことはもちろん出来ない。かといって連れて帰ることも出来ない。意識が不明なのを幸い、明朝黙って出発しよう。酒井は私の隣り村の男で中隊はもちろん、聯隊でも郷里は私に一番近い男である。星空を眺めて故郷の話などよくしたものだが、自分が村へ帰ったら何と挨拶しよう。出来れば死ぬまでいてやりたいが。色々考えているうちに朝が来た。小橋と二人で酒井の髪を切り、爪をつみ、装具の整理をして自分の背嚢に収め、いよいよ出発しようとしても、このままだれにもみとられずに、死んで腐って白骨をさらさせるのかと思うと、腰が上がらない。小橋も同じ思いだろう。酒井の眼をじっとみつめて立っている。「おい、行こう。」小橋に声をかけると、酒井の眼がちらっと動いた。続いて、「行くんですか。」これが酒井の声であった。三日間言葉をかけても一度もまともな返事をしたことのなかった酒井がものをいった。そうして天幕を見つめたまま、「自分は迎えの自動車が来てから出発しますから、早く来るようにいって下さい。」正気とは思えないが、こんなまともな言葉を聞いたのでは、捨てて行くことは出来ない。「酒井、酒井。」と二人でゆすぶったが、それ以後石像のようにじっと天幕をみつめたままである。逃げるようにしてそばを離れた。そうして振り返りながら山を下った。

 ニューギニヤ戦記

 今井敏市(大8~ 西条市 南海支隊楯八四二五部隊衛生隊本部大行李班 昭16・10・3丸亀西部32部隊入隊~21・5・22鹿児島港着)に「ニューギニヤ戦争体験記」がある。餓死寸前の苦しい正月(昭18)の記事。

  敵の攻撃は正月とて容赦はなかった。司令部より特配の鰯の罐詰、それもたった一匹づつであった。三勺ほどの米、洗えば減ると云って其のまま水を入れ気長に焚いた。道路向こうの野戦病院の方角へ砲の集中攻撃があり、危険を感じ全員海岸方面の小さなジャングルに移動したらしいので、その後へ薪を拾いに行くと、小屋に蚊張を吊るしたままの所がある。「おや」と思い覗くと寝たきりの病人が蚊の泣くような声で「迎えに来てくれたのか」と云うので、「ちがう」と云うと、「迎えに来てやると云って皆行ってしまって今日で二日待っている。寂しいので早く衛生兵に来るよう頼んで下さい」と、とぎれとぎれに哀願している。広いジャングルに夜は暗闇に一人寝ているのだ。これほど寂しい事は又とないだろう。余命いくばくもなさそう。これが若い同じ日本人かと思うと胸が熱くなる。「よしよし頑張っとれよ。連れに来るよう伝えとくぞ」と嘘でも励まして、そっとその場を離れる。今度は細い道に毛布で巻いた死人が担架の上にそのまま置いてある。これはと横を通り抜ける。前方に大きな長い広い浅い穴があるので見ると、中に六人並べたまま土もかぶせていない。皆痩せ細り白い歯をむき出し、目を丸く開いたままだ。もうこれ以上此処におると何だか仲間入りをせよと云われそうな気がするので吾が小屋に急いで帰る。足首を握ってみると今は指先が余るようになった。
 割木を並べた上で寝るのも骨にこたえる。敵の攻撃も日に日に増し我が方は人数は毎日少なくなる。

 金本腸(本名・林造 大5~昭46 松山市)は「ニューギニヤでの彷徨」を書いた。伊藤義一(明44~松山市)は〝金本さんの戦記を読む〟と題して次のように書いている(「愛媛」7巻7号 昭42・10)。のち、金本は「ニューギニヤ戦記」を刊行した。

  昭和一八年一月、ニューギニアのブナ地区で七名の部下をつれた小隊長が、敵の優勢な飛行機と迫撃砲弾に追いまくられて、わずかに肩にかけた双眼鏡と拳銃一つという敗残の姿となる。敵陣から遠ざかろうとして篠つく雷雨の夜、妖しく光る稲妻を頼りに胸まで水につかりながら、ジャングルを音立てずにくぐる。東の空が白んできて見ると、南無三。真正面に敵陣があるではないか。方角を誤って空腹と緊張で夜通し敵陣に向って歩きつづけていたのだ。絶望、みなヘタへタと坐りこんでしまう。なだめ、すかし、励ましてまた苦しい前進がはじまる。水がない、食べ物がない。降伏か、玉砕か、人間力の限界までくると人間対人間のむき出しの憎悪も出てくる。部下もいうことを聞かない。小隊長自身偵察に出るが、帰ってくると部下がいない。道を誤ったのか、見捨てられたのか。日本の何倍も広いニューギニアのジャングルの中に敵陣間近かで独りぼっちとなる。激しい孤独感、泣きたくも声を立てることも出来ない。水もたべ物もない中で、しかも投降もせず何とか生きのびようとする。敵前二〇メートルの草原に匍いつくばりジリジリと体を焦がす太陽の下、身動きもせず一日を過す。夜のおそろしさ、暗さの中を、手さぐりで一歩でも敵陣から遠ざかろうとする。死霊におびき寄せられたのか、辿りついたのが十字架の打ちこまれたま新らしい敵の戦死者墓地だとわかった時毛髪も逆立つような激しい恐怖に、あらぬ声でわめく。孤独のための発狂寸前、ただ敵陣突破中という緊張感一つが人間以上の力を振い起させる………「オール関西」八月号に載った金本林造氏の「ニューギニアでの彷徨」は、こんな生ま生ましい戦場の手記である。金本小隊長はいま、今治南高の教頭さんで国語の先生。あの深い叡智をたゝえた、おだやかな人柄のどこに、この強靭な精神力が蔵されているのだろう。私のような生死のギリギリの関頭に立たされた経験のない者は、この迫力に満ちた文章に接すると、たゞもう圧倒される。ペンをへし折りたいような人間としての未熟さを感ずる。こゝ数年同じ学校で親しみ合ってきた金本さんを改めて見直すとともに、金本さんがこの言語に絶した経験をしていたとき私は何をしていたか、召集令状が来なかったからとだけではすまぬ、何か心の痛みを覚える。
 陸軍中尉高津岩雄(新居浜市)は対豪州作戦に従事、豪州軍スパイを利用しての逆無電作戦を実施した。追悼随筆集に「チモールの逆無電」がある。菊池武美(明32~ 三瓶町)に、シンガポール渡航(大2)、南洋鉱業公司(石原産業)勤務、戦争勃発ニューデリー・バリックパパン抑留、戦後マラヤ駐在員(昭36)、郷里引棲(昭38)の記録「私の敗戦記」がある。東大教養学部助教授白石隆の「インタヴュー記録 日本とアジヤ 6菊池武美 特定研究〝文化摩擦〟」につづく回想集である。

 海の戦記

 昭和一九年七月三一日未明、バシー海峡で、南方戦線に向かう補給船団27隻のうち20隻が米潜水艦に撃沈され一万五千の将兵、乗組員が地獄の海に散った。竹内勇(大3~岡山県生、松山市 商船無電技士・海上保安庁六管本部通信所長)が乗組んでいた福寿丸は奇跡的に助かり、過酷な戦時下の任務を果たしながら決死の航海を続けていたが故国を目前にして撃沈された(11・23未明)。大船団壊滅を目撃した歴史の証人として福寿丸の最後の航海を記録し戦争の姿を語り伝えたのが「戦記 最後の輸送船」である。昭和一九年四月、香川県豊浜町で陸軍船舶兵特別幹部候補生隊が創設され、一八九〇名が四ヵ月の教育終了後海上挺身特別攻撃隊として前線に配属された。船尾に120瓩爆雷二個を装備、先端を敵艦船に激突させその衝撃を後部に伝えて爆雷を投下する、長さ約五メートル、幅約一・八メートルのベニヤ板製の小型船艇で〝人間魚雷〟ともいえる部隊である。終戦時、約六百名が生還したにすぎない。その記録が三浦覚(大13~ 新居浜市)の「陸軍海上挺進特別攻撃戦隊」である。また門屋忠孝(大9・3松山市)に「海行けば」がある。

 総員起シ

 吉村昭(昭2~ 東京都)の小説に「総員起シ」がある。イ号第33潜水艦の沈没・引揚げ記である。
 吉村昭は「総員起シ」の冒頭でその執筆の動機をつぎのように書いている。

  …私が一隻の潜水艦に強い関心をいだいたのは六葉の写真を眼にしたからだった。遺体という言葉が私の心をとらえた。遺体はなにも語らない。それは、死の領域の深い安息の中で静止した物体にすぎない。それに課せられた変化といえば、硬直し弛緩してからはじまる腐敗。肉体は液化し気化して、土中や空中に融けこみ、その生きてきた証跡のように骨格だけが残される。が、それもやがては朽ちて、土砂に同化してゆく。写真の中の世界は、時間の流れが或る瞬間から完全に停止していることをしめしていた。男たちは、熟睡しているようにみえるが、その姿には深い静寂がにじみ出ている。印画紙に映し出されたかれらの姿には、生きている者が発散する生気といったものが失われている。かれらは、死の訪れとともにはじまる腐蝕作用にはおかされていないが、死者であることに変わりはないのだ。その写真の中に、私は他の男だちと異った姿勢をしている一人の男を見た。かれは、背筋をのばして正しい姿勢で立っていた。ズボンがはずされて下半身が露出し、その太腿の付け根から突出しているものがみえた。隆々と勃起した陰茎だった。若い男性の激しい生命力がそこに凝結しているような、逞しく力感あふれた陰茎だった。かれは、鎖を首に巻いて溢死している。鎖は、九年間かれの首をとらえてはなさなかったのだ。

 『伊号第三三潜水艦』…基準排水量二、一九八トン。全長一〇八、七メートル。速力二三・六ノット(水中速力八ノット)。備砲一四センチ砲一門。五三センチ魚雷発射管六門、魚雷数一七。昭和一七年六月一〇日、神戸三菱造船所で竣工。完成後第六艦隊第一潜水隊に編入され、八月一五日、司令潜水艦としてソロモン諸島方面の作戦に従事したが、整備・補給のため九月一六日トラック島泊地に入港した。故障修理中、海水が浸入し、二六日午前九時二〇分すぎ沈没し三三名が殉職した。水深三六メートルのサンゴ礁海底から浮揚作業によって引き揚げられたのが翌昭和一八年一月二九日。伊33はトラックから呉海軍工廠に曳航され、一年二ヵ月間の修理工事ののち昭和一九年五月の末、連合艦隊に引き渡された。そして、月余をいでずして伊予灘の海底に沈没してしまう。
 事故ノ概要 本艦ハ、昭和一七年九月一六日トラックニ於ケル沈没後引キ揚ゲラレ呉ニ回航、大修理ノ後完工ヲ見、第一一潜水戦隊編入前ノ単独訓練ノ目的ヲ以テ伊予灘ニ出航セリ。而ルニ昭和一九年六月一三日○八四〇、急速潜航ノ際右舷機械室給気筒ヨリ浸水セシタメ沈没セリ。司令塔内ニイタ者ノウチ一○名が艦橋ハッチョリ脱出セシガ、救助セラレタル者僅カニ二名、艦長以下乗組員一〇二名殉職。
 伊号第三三潜水艦は、修理工事と公試を終えて訓練のため出動し、由利島と青島との中間海域で沈没事故を起こした。この海域は潮流がはげしく水深は六一メートル。以後、昭和二十八年の夏まで伊号第三三潜水艦はこの海底で眠りつづける。伊33の浸水していない魚雷発射管室と前部兵員室が、完全浮揚作業を終えた温泉郡興居島村御手洗海岸で開かれたのは七月二三日のことであった。愛媛新聞は『まるで生きているような 潜艦真空の部屋』と白抜き見出しをつけて、鬼気せまる写真をかかげている。…皮膚に弾力性がある以上これはミイラではなく、例えば冷蔵庫に冷凍物を保存しておいたと同じ状況になっていたものだろう…と玉置日赤院長談が掲載されている。
 殉職者兵曹長藤本辰男の遺児藤本辰昭(松山市)は伊33引揚当時の記録をまとめ「偲父」を発行した(昭 )。

 抑留・引揚記

 日ソ中立条約(昭16・4)が有効期限内にあった昭和二〇年八月八日、ソ連は対日宣戦し満州・朝鮮に侵入した。将兵は抑留されてシベリヤで労働に従い長期にわたる辛酸をなめ、開拓団や市民婦女子は逃避引揚行の悲劇を体験する。その深刻さは残留孤児の日本訪問にみるが如く、戦後四〇年のいまもなまなましい。

 シベリヤ抑留記

 和田義夫(新居浜市)は応召(昭16・7・20)後、関東軍に配属され満州東寧で国境警備についた。部隊本部のあった完勝山は戦車二百輛に包囲され壊滅、和田は左肩を撃ち抜かれて意識を失う。地元住民に助けられ命を保ったがハバロフスク地区ビギン収容所に連行され、舞鶴帰国(昭22・7)まで強制労働に耐えた。「シベリヤ抑留者の証言」にその体験を綴る。仙波頼政(新居浜市)は満鉄建設部に勤務中応召(昭20・5)、終戦後ソ連コムソモリスクで強制労働三年間の厳寒飢餓の体験を「シベリア捕虜収容所」など六冊にまとめた。常盤晴信(大7~ 松山市)は戦後の三年半、抑留されて寒さと飢の強制労働に耐えた。昭和五八年の夏、孫文を連れて戦友の墓参をした。その記録「シベリヤ報告」を出版した。極寒・飢餓・収容所内組織・思想教育など、人間生活を極限に追いつめる日々を耐え抜いた者だけが祖国日本の土を踏み得たのである。厚生省援護局はこの抑留期間を〝外国鎮戌〟とする。正しくは〝鎮戌〟〝しずめまもる〟意である。呉志、陸凱傅に「宜シク名将ヲ選ビ以テ之ヲ鎮戌スベシ」とある。高橋賢市(大9~ 新居浜市 住友化学工業株式会社新居浜製造所に勤務中、昭和一九年五月七日召集令状を受け、輜重兵として善通寺部隊に入隊、町内の小学校に於て教育を受け、多度津・岡山・博多・釜山・京城・元山を経て満州に入り、牡丹江を経由虎林の部隊に編入され、昭和二〇年二月東安部隊に転じ、更に平陽の部隊に移動し、八面通の山地の陣地構築輸送部隊に参加中、日ソ開戦に突入、その後ソ連軍のためシベリアに抑留され、捕虜生活四年にして、昭和二四年九月末舞鶴に帰還、数日間舞鶴に滞在、その一〇月懐しの故郷に帰り、再び応召前の職場住友化学新居浜製造所に復職、昭和五二年三月まで勤務停年退職。)は「シベリヤ抑留回想記」に次のように書く。

 上の段の私の隣の寝台では、バンツ一枚になった三十五、六才の同志が、料理の折を前に広げてあぐらをかき、むしゃむしゃ喰っている。割合良い体をしていて腹が出ている。まるで乞食が久し振りにご馳走にありついた様に、あたりをキョロキョロ見乍ら口を動かしている。もう折の中には、料理がどれ程も残っていない。大抵の者は半分も食べれば、後は残して仕舞ってある。天井には方々の梁から、白く青く光った凄く塩からい魚のニシンが何匹もぶら下っている。あまり塩からいし、他にご馳走があるから食べ様とせず、一人がやると真似をしてこうしてみんなつるして乾しているのである。私の丁度前の床の上に鉄製のペーチカが据っていて、火がチョロチョロと燃えている。ペーチカの上には、まるい缶詰めの空缶や飯盒で茶を沸かしているが、或る一人がペーチカの焚き口を開け様とすると「もう薪をくべるなよ」と誰かがどなる。屋内は多勢の人いきれでむせ返る様に暑いのだから、もう暖房は不要である。而し冬ペーチカの側に居る者は、少しでも燃えている限り扉を開けて火をつつき度いのは人情である。言われた人は、火を一寸いじってだまって閉めた。このどなった人に促がされた様にペーチカの後に、土足で立っていたここの収容所長代理をやっているマダムが、あたりの日本人をぐるりと見回した。と、ふと二階の寝台にいる私を見付けて、さも驚ろいた様に「何故こんな所に」と言ってニコリとした。私は、だまって唯微笑しただけだった。マダムの所長代理は、「向う(本所)の方が良い、此処は悪いのに」と真面目くさって言う。他のロシア人が一斉に私の方を見て、「誰だ」とマダムに聞く、マダムはしきりに私の事を他のロシア人に説明している。(収容所長や、プララーブの当番をしていたのだと)みんなはふふんとうなずいていた。

 赤い夕陽

 愛媛の満州開拓団については愛媛新聞記者三根生幸也(昭8~ 八幡浜市出身、松山市)が同紙に「赤い夕陽」を連載(昭47・8~ 100回)し、のち『赤い夕陽 愛媛の元満州開拓団記録』として出刊した(昭48・6・5)。その概要… 一、国策を信じて(愛媛村開拓の胎動・不況の農村・五百万の大量移民・四国の混成開拓団・愛媛村の誕生・伊方の分村・青少年義勇軍の誕生・創設期の義勇軍・初の郷土中隊・少年の日記手紙から・第二陣岡田中隊)二、満蒙を開く(愛媛村のその後・戦時色の教科書・岡田中隊のその後・少年の日記から・郷土中隊の第三陣・転業者の開拓団・その他の一般開拓団・食糧増産隊の渡満・終末期の義勇軍・指導者の養成機関) 三、流亡の果てに(自刃した開拓団長・県人二百人が眠る撫順・南へ逃げる学徒たち・思いとどまる玉砕)…。開拓団では男は現地召集されていた。ソ連侵人後は状況は悲惨であった。『赤い夕陽』の巻末に近く〝井戸に投身する若妻〟の記事は痛恨哀切である。

  満州東部の東安省宝清県の第一次頭道義勇隊開拓団。小高い盆地で山あり、川あり…日本によく似た地形だった。約二百八十人が平和な生活を送っていた。入植当時は四十人を超す県人がいたが、次々と召集され、開拓地の県人男性は上岡重則(松山市平和通六丁目)だけ。応召した夫の帰りを待って、数家族らが残っていた。二十年八月六日、県公署から、「直ちに勃利の町へ避難せよ」という命令を受けた。事情はよくのみ込めないが、危険がせまっているのであろう。婦女子二十人、上岡ら第一次の義勇隊開拓団員十一人、補充で入植していた五次の若い義勇隊員二百五十人らは、馬車に荷を積んで開拓地を出発した。軍用道路に沿って進む。上岡の妻、菊子は臨月。出発して一週間目、終戦の八月十五日に男の子を生む。避難の列はやがて川岸に出た。川を渡ることになった。上岡は、生まれて間もない、赤ん坊を抱いて川に入る。深みに達する。赤ん坊の顔を水につけないよう、必死で泳ぐ。やっとの思いで対岸に着く。赤ん坊は無事だった。ところが行く手に、また川が横たわっている。再び渡河。力のかぎり、赤ん坊を川面にさしあげて泳ぐ…しかし、渡り切った時、わが子は息絶えていた。道は丘陵地帯にさしかかる。八月十六日。菊子や合田一利(川之江市川之江町)の妻、静子と二歳の長男、田村俊夫(松山市水泥)の妻、敏子ら婦女子二十人を、ひとまず先行させることになった。補充の若い義勇隊員三十人が、婦女子の護衛についた。上岡が妻を見たのは、この時が最後になった。勃利の町へ着いた婦女子たちは、そこでソ連軍の襲撃にあう。開拓団長の妻と菊子は、「もうこれまで…」付近にあった井戸に身を投げた。そのほかの婦女子一行は、四散して南の牡丹江の町へ落ちのびる。合田静子、田村敏子らは命からがら、勃利を脱出した。上岡らは、勃利をめざしたが、すでにソ連軍に占拠されていることを知り、牡丹江へと針路を変えた。勃利へ向かった妻の身が案じられたが、どうしようもない。ところが、牡丹江への途中、先発した田村敏子らに遭遇したのである。妻の最期を聞かされた。

 満蒙開拓義勇軍愛媛県人編成、昭一五年渡満門田中隊に「朔北に君の子を焼く」が、一六年渡満岡田中隊に「ハラバの狼」、一七年渡満若田中隊に「凍土に果てた青春」の手記集がある。石田武(松山市 中国清南独歩111大隊臨時召集、シベリヤ連行途中で逃亡、吉林省懐徳で王起富という大家族の農民に救済され、公主嶺を経る)の「大陸の足跡」、鴻農武(明40~ 松前町)の「無蓋列車 敗戦―満州からの引揚げ」、桧垣光憲(明43~ 生名村)の「満州引揚避難手記」、網本タネヨ(明44~ 松山市)の「死線を越えて祖国へ」など人生苦難の時を回顧追想する。

 大栗子のすずらん

 中国残留日本人孤児の肉親捜しに触発されて和田紀久恵(旧姓・佐伯 昭10~ 重信町)は『大栗子のすゞらんーある小学生の満州引揚記』を書いた。生後百日にして満鉄に入社した父に連れられて親子五人で川内町から満州へ。昭和二〇年七月母死亡、二週間後父召集。一三歳から一歳の兄弟は父母のいない家で身を寄せ合って眠る。敗戦、満人暴動掠奪、末弟衰弱死。逃避行途中末妹死亡。小学校四年生の和田は煙草工場や中国軍野戦病院で下働きをする。〝忘れてはならないこと〟ではあったが〝語る〟には余りにも痛切にすぎた。自分だって、ちょっと間違えば残留孤児と同じ境遇になっていた、ただ運が良かっただけではないか…と思う。日本人が戦争の苦しみを忘れ去りつつある今こそ、苦しみの記憶を新たにしなければとその体験を書いた。まず巻頭に「四つの遺骨を胸に轉々一年の逃避行」と見出しがつけられた南海タイムス(昭21・10・23)に掲げられている。そして、執筆の動機を綴り、弟憲坊の死を悼む。

 まえがき ある夜、夢を見ました。物置を掃除していると、ガラクタの箱の中から可愛い小さな手がのぞいていました。「あっ、律ちゃんの手だ!」モミジのような手のひらを、精いっぱい広げ私の方へさしのべていたのです。戦後、旧満州より引揚船〝興安丸〟に乗船する直前に亡くなり、満州の地に埋めて来た妹律子です。三十数年も過ぎ、妹のことなどすっかり忘れていたのになぜあの手が「律ちゃんの手だ」とたしかに思い出せるのでしょう。私はその時、妹の冥福を祈るような気持ちで、あの重苦しかった終戦前後の体験を綴ってみようと思いたちました。当時、私は国民学校(いまの小学校)の四年生でしたが、終戦直前より一変した私達の生活、あの頃の苦境を忘れてはいけない。よく覚えて語りつがなくては……と、私に課せられた使命のように感じいつも心にかけておりましたが、三十数年もの歳月の流れに記憶は薄れ、そのうすれた記憶を呼びもどすことは容易なことではなく、そのまま月日が去っていきました。最近になって、旧満州の残留孤児の話題が新聞やテレビで報道され肉親さがしのニュースに、私、いや日本国中の人々がテレビの前に釘づけになりました。肉親が確認されればわがことのように喜び共に泣きました。まだまだ戦後が終っていないことを私は痛切に感じました。その時、場所・日時は違っても、その一喜一憂が私の記憶を呼びもどしました。そうだ。この肉親さがしには、当人同志だけでなく、私達みんなが、何か手がかりを少しでも見つけてあげなくては……。私に出来ることは引揚体験を綴り、帰国されている人はもとより、残留孤児の方々にも、戦後に生き抜いた私たちは、略奪・伝染病・飢えと、このようにたたかってきた。そのことを何等かの形で伝えたい。忘れた記憶の一かけらでも思い出すことができ、肉親捜しにつながればと願う気持でいっぱいです。
 憲坊の死  小さい子ども達は、だんだんと身体が弱り、一番下の憲坊も頭とお腹だけが大きく見え、髪の毛は抜け、アバラ骨がガツガツと数えられ、手足は針金のように細くなりました。毎日何回か下痢をしだしました。栄養失調になってしまったのです。十月二十八日、夜中のことです。「哲ちゃん、妙ちゃん、紀久ちゃん、はよう起きて、憲坊がもうあかんみたいや。はよう起きて!」伯母の声でいそいで憲坊の所へ行って見ました。ローソクの光に、ひきつけを起している憲坊の姿が浮んでいます。ひきつけといったら黒目をつり上げて白目になることと思っていましたら反対で、黒目を下げて白目になっているのです。私は苦しそうな憲坊を見ているだけで、何もしてあげることは出来ませんでした。可哀そうな憲坊……。人の死、憲坊の死、恐いとは思いませんでした。不思議でした。伯父は憲三の目に手を当て、そっと目をつぶらせました。「可哀そうな憲坊。クニさん(死んだ母)がつれに来たんやな。お母さんの所へ行って可愛いがってもらいや。」伯母は、泣きながら憲坊の身体をふいてやっておりました。伯父が「憲三、来年の春にはな、まきを集めておいて火葬にし、遺骨を日本に持って帰ってあげるから待っとるんやで。お母さん所へ行きや。」と声をつまらせました。一年八ヶ月の短い生命でした。憲坊はかあちゃんがつれに来た。私もつれて行って、私もつれて行って!幾度も心の中で叫びながら泣きました。次の日、小さな棺を作り、墓を掘りに行きました。伯父が「春になって、よくわかるように大きい墓標を建てておこうな。」と言って大きい墓標を建てておいたそうです。憲坊は、この家からいなくなりました。大陸の冬は早く、十一月に入れば雪がちらつきます。憲坊と同じ年の照ちゃん。それに広ちゃん(四才)律子(四才)誠之(六才)達の体力もだんだんと衰えてきました。窓の下には主のいないニワトリ小屋があります。その屋根の上で日なたぼっこをするのが弟誠之の日課です。一年生ですから、普通でしたら走りまわる年頃です。でも誠之は毎日おすねをかゝえてじっと日なたぼっこです。走れないのです。自分の体をささえるのが精いっぱいなのです。伯母が「誠之も、もうだめだわ。」つぶやくように言っていました。「いや、そんなことない、そんなことない。かあちゃん、子ども達のこと見守ってくれてるんでしょう。だったら誠之を助けて……。誠之を元気にさせて!」私は誰もいない所で一心に祈りました。満州は、南京豆やクワーズル(ヒマワリの種)が豊富で、十円あれば一升ぐらい買えます。伯母がよく買って来てくれました。伯父、兄、英雄さん、好信さん達は、仕事から帰ると一冬中のまきを取りに雪の中へ出かけます。それに火葬用のまきも沢山いるのです。家を取りこわした後の雪にうもれた角材を掘り出すのです。毎日、二、三本づつ持って帰ります。中央軍の弾丸が当らないようにと窓の下へ積み上げられました。