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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

一 評論

 概観

 愛媛県出身の人々による評論活動は、すでに早く明治期以来、正岡子規の短歌俳句革新の運動をはじめとして末広鉄腸・片上天弦・安倍能成・河東碧梧桐・高浜虚子・竹内仁・水原秋桜子・古谷綱武・矢内原忠雄・中野好夫など、中央評壇においてそれぞれの分野で活発に行われた。特に俳論に関してはその創作活動とあわせて本県出身者によって明治以来リードされて来たといっても過言ではない。
 各時期を概観すると、明治二〇年までの第一期は、前時代に続いての漢学者・国学者たちの活躍が主流を成している。近藤篤山の流れをうけた鷹尾吉循・遠藤石山・矢野玄道とその流れをうけた山中幸忠・原田時只・常磐井精戈、また心学の丹下光亮らがそれである。これらの人々の多くは野にあって塾を開き子弟の教育にあたったが、また一方、明治新政府のもとで活躍した三瀬諸渕・都築鶴洲らの業績も新時代に益する所があった。
 明治期後半の第二期は、前半に末広鉄腸と正岡子規の活躍がある。鉄腸は早くに上京して各種新聞の編集長となって政府批判の論陣をはり政治に奔走、またすぐれた政治小説を書いた。子規も東京にあって古典研究を土台に短歌と俳句の革新に没頭し新境地を拓いた。前途有為のこの二人はともに、業半ばにして夭折したことは惜しまれる。明治末期には、片上天弦と安倍能成の間の自然主義論争があり、天弦の個性的な主張とともに、能成の誠実な取り組み方も注目されるところである。河東碧梧桐の新傾向俳句運動もこの時期であった。
 第三期の大正時代には、前期の片上天弦・安倍能成に加えて、天弦の弟で社会主義者の竹内仁の阿部次郎批判があり高浜虚子の活躍も目立った。仁は阿部次郎らのいわゆる大正期教養主義に鋭い批判を展開したが、二四歳で夭折したのは惜しまれる。虚子と碧梧桐は子規門の二俊秀として子規没後の俳壇を支配したが、碧梧桐の新傾向運動で両者は分裂した。この時期、俳壇に復帰した高浜虚子は、雑誌「ホトトギス」によって伝統的な定型俳句の再出発をはかり自由律運動への批判を展開した。
 昭和二〇年までの第四期は、経済不況とそれに続く戦争の時代であった。こうした時代を反映して、本県出身者の評論活動も谷間の時期に入り、わずかに古谷綱武の作家研究から女性論・児童文学に及ぶ広い評論活動があったことと、東大の矢内原忠雄の筆禍事件が注目されるところである。
 戦後の第五期は、前記古谷綱武・矢内原忠雄のほか、矢内原伊作・中野好夫ら学者たちの発言が活発となり、研究者・作家・教育者等それぞれに専門にとらわれない幅広い評論活動が活発に行われた。

 第一期

 明治新政府のもとで、欧米諸外国に学ぶ急速な近代化が、政治・経済・教育その他広い範囲で進められた。一〇年代には自由民権運動の高まりもあり、総じて天地を揺がす華々しいものであったが、一方評論活動の分野ではまだ旧時代の流れが主流にあった。県内においても、東予では近藤篤山の流れをうけた漢学者たち、中予では矢野玄道とその流れをうけた国学者たちがそれである。
 近藤篤山は明和三年(一七六六)宇摩郡小林村に生まれ、大阪に遊学して川之江出身の尾藤二洲の門に入り、更に江戸に出て学問を磨いた。享和二年帰郷して小松侯に仕え子弟の教育に励んだ。門人に伊予郡中山町出身の鷹尾吉循・周桑郡小松町出身の遠藤石山らがいる。吉循は文政九年(一八二六)に生まれ、篤山の学徳に学んで戸長となり、私塾を開いて子弟の教育に努め、また尊徳の思想にも傾倒した。明治二六年(一八九三)没。著書に『読書全遺』『教導雑事全集』がある。石山は天保三年(一八三二)に生まれ、藩儒篤山に学んで、更に江戸に出、昌平黌に入った。幕末維新に国事に奔走したが、のち新居浜・竹原・風早の各地に私塾を開き門弟の教育に専心した。経書を講じ、酒を愛して書画詩文をたのしんだ。明治四〇年(一九〇七)没。著書に『大学定綱』『石山遺稿』がある。
 矢野玄道は通称茂太郎、文政六年(一八二三)大洲に生まれた。長じて昌平黌さらに平田篤胤門に学んだ。明治新政府のもとで大学大博士心得・宮内省御用掛・皇典講究所文学部長などを歴任、『皇典翼』『国史私記』など著書七百余巻、古典を論じ神祇の道を究めて明治二〇年(一八八七)没。門人三五〇人余と言われ、県下はもとよりその残した影響は大である。中でも上浮穴郡小田町出身の山中幸忠、東宇和郡明浜町出身の原田時只、大洲市出身の常磐井精戈らは、いずれも玄道に師事して国学にいそしんだ。幸忠は明治一六年(一八八三)没。著書に『敬神大意』『通俗皇国伝』などがある。時只は明治一一年(一八七八)没、「時只講本」『神魂帰着説』などの著がある。精戈は明治二六年(一八九三)没。玄道の「平田篤胤全集」作成を補佐するとともに神道の大八洲協会を設立し、また『形勢意見番』などの著書を残している。
 この他に、今治出身の丹下光亮がいる。光亮は文政四年(一八二一)生、心学を学んで京阪に遊び、帰藩後は県内各地で講じ、晩年は越智郡大島に塾を構えて門人の教育に専念した。明治一一年(一八七八)没。著書に『心法要語集』『教諭録譬諭之分』などがある。
 さて、これら旧時代の残流の中にあって洋学を学び新しい時代に即応した道を模索した人々があった。蘭学の三瀬諸淵がその一人である。名は周三、天保一〇年(一八三九)大洲に生まれた。卯之町出身の蘭医二宮敬作は母の弟で、叔父にあたる。周三は敬作について早くに蘭医を志し、敬作から更にその師シーボルトから教えを受けた。開明藩主伊達宗城のもと多くの俊秀に伍してその才を磨いた。桜田門外の変など尊王攘夷運動の高まりの中で周三は幕府顧問となったシーボルトに従って江戸に出、通訳として周旋、また慶応元年(一八六五)帰国して宇和島藩に通訳として仕えた。慶応三年(一八六五)以後は専ら医学に専念し、明治新政府のもとで医学教育・病院経営に努めた。明治一〇年(一八七七)業半ばにして病に倒れ三八歳の若さで没した。周三は、英文典・蘭文典の翻訳という業のみならず『日本国民文化的発達史』『幕府建設史』を著し老壮その他を論じ、また尊王開国論者として時代の開拓者としての役割を果した。惜しむらくは三八歳、これから本領を発揮すべき時に死を迎えたのは無念である。その一生は、歴史に華々しく名を残すものではなかったけれども佐久間象山・吉田松陰・橋本左内らの思想につながる明治の新時代を支えた思想家の一人といえるであろう。
 また、宇和島市出身の都築鶴洲も新時代に生きた一人である。鶴洲は弘化二年(一八四四)に生まれ、若年にして幕末維新の国事に奔走し、維新後は外国官権判事・県会議員・南予中学校長・宇和郡長等を歴任しまた私塾を開いて子弟の教育に力を注いだ。『婦女訓戒』『小児教育論』などの著書がある。

 第二期

この時期、本県出身者の中央評壇における活躍には目覚ましいものがある。明治二〇年代には末広鉄腸、三〇年前後には正岡子規、そして四〇年代には片上天弦・安倍能成・河東碧梧桐らがいた。
 末広鉄腸、名は重恭。嘉永二年(一八四九)宇和島市に生まれ、藩校明倫館に学んだ。再度上京して後、東京曙新聞、朝野新聞の編集長として政治批判の論陣をはり、また政治結社国友社・自由党、更に独立党に加わって活発な政治活動を行った。明治一九年以後、病気と政治的行き詰まりから小説にも筆を染めるようになり、『二十三年未来記』『雪中梅』『花間鶯』などの政治小説を書いて成功を収めた。欧米外遊の後、東京公論・関西日報・大同新聞・国会等の主筆を歴任し、また明治二三年第一回衆議院議員選挙に立候補して当選するなど政治活動の分野にも再び活発に活動したが、明治二九年二月、癌のため四七歳で急逝した。鉄腸の活躍舞台は広く、ジャーナリスト・政治家・小説家等多岐にわたるが、鉄腸自身の意図したものは恐らく穏健な自由主義思想に基づく国民の政治思想の啓蒙にあったわけで、文学もまたその政治的啓蒙の手段とする考え方であった。鉄腸が『花間鶯』上編緒言・中編序等において述べている文学観は写実主義である。この点坪内逍遥が早く注目したところであったが、鉄腸のそれは政治的寓意としての空中楼閣を支えるための写実性であり人情小説的構成であった。そこに政治家鉄腸の素顔があったわけで鉄腸にとって文学は遊戯以上のものにはなりえなかった。
 鉄腸と同じく、宇和島出身の二人も忘れることができない。西河通徹と憲法学者の穂積八束である。通徹は安政三年(一八五六)生、慶応義塾に学び、末広鉄腸に兄事して新聞人となり、海南新聞社長・松山中学校長を歴任した。明治二七、二八年の日清戦争には従軍記者として戦場をかけ、『露国虚無党事情』を書いて、初めてクロポトキンを日本に紹介した。
 穂積八束は万延元年(一八六〇)生、藩校明倫館で国学を講じた穂積重樹の三男。長兄重遠・次兄陳重と共に法律家三兄弟。東京大学に学び、ドイツに留学して明治憲法学の権威となった。貴族院議員・宮中顧問官などを歴任すると共に、『憲法大意』『憲法提要』『愛国心』などを著して、天皇絶対主権論を唱え、法曹界はもとより国民各層に多大の影響を与えた。
 また、西山禾山・村井知至も見落すことができない。西山禾山は天保八年(一八三七)、八幡浜市穴井に生まれ、一三歳のとき八幡浜の大法寺で得度し禅鉄の名をもらった。のち西山の姓を継ぎ、禾山と号した。各地を廻って修業し、三〇歳のとき大法寺一八世となり、八八歳まで四四年間住持を勤めた。この間、各地の寺・仏教会さらには一般にも招かれて講話すること多く、また明治二三年には『金鞭指街』『臨済宗檀徒安心章』を著した。大正六年(一九一七)、八一歳で寂。その秀れた学徳と活動に対して臨済宗妙心寺派管長圓山元魯より「本山再住持」を追贈された。禾山は、長く臨済宗の住持であったがその学徳を慕って集まる人々も多く、高村光太郎をはじめ櫛田中・河野廣中・河野玄要らも師事し、その没後にそれぞれ追悼の一文を残している。
 松山出身の村井知至は、文久元年(一六六一)生まれ、同志社神学校に学び更に渡米してアントバー神学校・アイオア大学に学んだ。キリスト教の社会運動家として活躍し、明治三一年には片山潜らと社会主義研究会を結成して、その会長となった。著書に『蛙の一生』『閃光録』を残している。
 さて、俳句和歌革新の道に情熱をもやした正岡子規は慶応三年(一八六七)に生まれ、俳句分類、芭蕉・蕪村の研究を土台に明治二五年『獺祭書屋俳話』、三二年の『俳諧大要』、三三年の「叙事文」によって従来の月並調俳句を排して、俳句における写生説を提唱するとともに、文学としての俳句を高唱した。子規の写生説は近代俳句の出発点となったが、その中味は子規において未だ必ずしも明確ではなかった。子規はまた、明治三一年、「歌よみに与ふる書」を一〇回にわたって発表し、短歌革新ののろしを上げた。近代短歌への台頭はすでに早く明治一〇年代に始まり、二〇年代に入って佐々木弘綱・佐々木信綱・落合直文・与謝野鉄幹らにょって進められて来たが、この新派和歌への流れを背景に子規は万葉集を模範とし古今・新古今さらに桂園派を非として万葉調による写生主義を主張した。子規の批判は痛烈で正鵠を射たものではあったが、子規派が歌壇に力を得るのは子規没後一〇年、大正期まで待たねばならなかった。
 明治三五年、子規の没後、河東碧梧桐と高浜虚子は共に子規門の双璧として写生説を受け継いだが、次第に両者に懸隔を生じていった。碧梧桐(俳句の項参照)の特色は純客観的・印象明瞭と子規に評されていたが、明治末期、自然主義の影響を受けて、いわゆる俳句の新傾向運動を展開し独自の道を拓き、やがて俳壇の主流を形成した。碧梧桐は「新傾向大要」(明治四一年)「俳句の新傾向について」(同上)『新傾向再論』(明治四二年)によってその主張を明確にするとともに、明治三九年から四四年にいたる三千里行脚によって、新傾向俳句を全国的なものにした。碧梧桐の主張は伝統的な季題観念を排して実感を重んじ、個性発揮を眼目とするものであった。この時期、雑誌「ホトトギス」を主宰した高浜虚子は写生文・小説に傾倒し、俳壇は専ら碧梧桐らの新傾向派に支配されていた。(詳細は俳句の項参照)
 明治三九年、島崎藤村が『破戒』を発表し、翌四〇年に田山花袋の『蒲団』が出るに至って日本の自然主義文学の進路は決定的となった。この時期以後、自然主義文学は創作と評論相共に車の両輪のごとく調和して盛り上がり、四三年頃までの文壇を支配した。自然主義文学評論は、雑誌「早稲田文学」を中心に雑誌「太陽」「文章世界」「趣味」さらに読売新聞において長谷川天渓・島村抱月・金子筑水・片上天弦・相馬御風らによって華々しく展開された。この中で本県出身者は天弦である。
 片上天弦は本名伸、明治一七年、今治市波止浜に生まれた。松山中学・東京専門学校に学び、明治三九年七月早稲田大学文学科二回生として優秀な成績で卒業した。この年、早稲田文学社の記者として復刊「早稲田文学」の編集に携わり、島村抱月と結んで活発な評論活動を展開した。明治四〇年早稲田大学講師となった天弦はこの年、自然主義擁護の立場から、「英国の自然派」「無解決の文学」「人生観上の自然主義」を発表し、翌四一年には、「フローベルの自然主義」「未解決の人生と自然主義」「田山花袋氏の自然主義」、四二年には「文芸批評と人生批評」「印象批評について」、さらに四三年に「国木田独歩論」「自然主義の主観的要素」などを矢継ぎ早に発表して論壇を沸騰させた。天弦の文学論は純客観本位、無理想無解決を唱える時流の中にあって、真を写す認識主体としての我を重視し、経験主体の我との二者抱合の表現こそ自然主義文学の本領とした。したがって天弦の考え方は、人生論的傾向を強く持ち、主観的・理想主義的傾向を根底に秘めていたといえる。苦悶的主観の表白から来る情味が自然主義文学の特色であるとした。浪慢的新体詩人として出発した天弦の本質がここに生きていると見ることができよう。
 自然主義論の高まりとともに、明治四一年頃から、反自然主義の立場の人々の発言も多くなった。これらの人々は、雑誌「新小説」「帝国文学」「ホトトギス」「明星」「スバル」「三田文学」さらには国民新聞、朝日新聞によって、後藤宙外・泉鏡花・夏目漱石・安倍能成・阿部次郎らが多彩な議論を展開した。この中で本県出身者は安倍能成である。安倍能成は明治一六年(一八八三)松山市に生まれた。松山中学校・東京帝国大学哲学科を卒業、慶応・法政・一高・京城大などの講師・教授を勤め、一高校長・勅選貴族院議員・文部大臣・帝国博物館長・さらに学習院院長として皇太子殿下・浩宮様の御教育に努めるなど、学者・教育者として活躍した。能成は漱石門下のカント学者で、綱島染川に私淑し早くから文芸評論に健筆をふるった。
 明治四二年「『近代文芸之研究』を読む」で自然主義に対する疑問を述べ、続いて「空疎なる主観」(四二年)、「自己の問題として見たる自然主義的思想」「自然主義における浪慢的傾向」「自然主義における主観の位置」(以上四三年)などで、自然主義における主観的理想主義的傾向について考察を加えている。能成の批判は主として島村抱月、次いで片上天弦に対してなされたものであった。
 自然主義の主張は当初すでに長谷川天渓がそうであったように、フランス自然主義に学んで科学主義・物質主義・客観主義を標榜するものであったが、次第に科学主義が失われ体験にこだわる現実主義の方向に進んでいった。この中にあって天弦の主張はとりわけ主観主義・理想主義的傾向を持っていたわけで、この点を特に能成は問題にした。能成と天弦は同郷旧知の間柄であり、能成のその誠実な人柄もあってこれらの自然主義批判は単に批判というよりも、能成自身が「自己の問題として」対処し、打開を模索している切実さがこめられていた。能成の天弦に対する批判の中心は、要するに自然主義において天弦のように主観的要素を重視することが果して自然主義本来のものと言えるかどうかという点にあった。この時期、両者には自然主義対反自然主義という名目上の対立があったにもかかわらずその本質は相似たもので、単に現実観の相違が表面上の大きな対立を生んでいたわけで、やがて天弦は「生の要求」を重視する方向へと進んでいった。

 第三期

 大正時代は、外に第一次大戦はあったものの一応平和と安定の時代であり、いわゆる大正期教養主義の流れが支配的であった。安倍能成がそれである。しかし、末期は大きな転換期を迎える。ロシア革命の影響、そしてプロレタリア文学運動の高まりであった。片上天弦・竹内仁・山口孤剣らはその中にいた。
 明治末期に反自然主義の論を書いた安倍能成はこの時期、「哲学叢書」の編集、西洋哲学史刊行、ヨーロッパ留学などの研究活動のほか、大正一三年『思想と文化』を刊行した。内容は明治末から大正にかけての評論・エッセイで、大正期教養主義思潮の一翼をになう能成の主張がうかがわれる。
 さて、明治末に能成と自然主義論争を展開した片上天弦は、大正二年に第一評論集『生の要求と文学』を刊行し、四年には第二評論集『無限の道』を出した。この時期、天弦はすでに自然主義を脱して唯美的芸術至上主義的傾向を帯びていた。大正四年、すでに早稲田大学文学部本科教授であった天弦は、早稲田大学に露文科を設置する必要性を痛感し、大学から派遣されて大正六年のロシア革命をはさんで大正七年三月までの二年半ロシアに留学し、かの地でロシア文学研究に励んだ。大正七年帰国の年には恩師島村抱月を喪い、その点でも彼の文学思想上に大きな転機をもたらした。大正八年、第三評論集『思想の勝利』、第四評論集「草の芽」が出た。そして大正九年早稲田大学にロシア文学科が開設されるとともに主任教授としてプーシキンを論じ、またトルストイ研究を発表したりした。この時期の天弦はいわゆる大正デモクラシーの思潮を鋭敏にとらえてその啓蒙に努めるという理想主義・人道主義の立場が明確に表されている。大正一三年、天弦は、突然に早稲田大学教授の職を棄てて再びロシアに旅立ち、翌年帰国した。「無産者階級評論」を書き、また第五評論集『文学評論』(昭和元年)、「露西亜文学研究」(同三年)を刊行した。大正一三年、雑誌「文芸戦線」の発刊に象徴されるように、時代はようやくプロレタリア文学運動の興隆期を迎え、天弦もまたその中にあって唯物史観に立つ文芸理論の体系化に努めつつあった。しかし業半ばにして、昭和三年三月、四五歳という若さで天弦は脳いっ血のために急逝した。彼の業績は明治末の自然主義に始まり、大正末・昭和初のプロレタリア文学運動まで常に文学的潮流の先端に身を置いて時流とともに歩み、その鋭敏な先見性によって啓蒙的発言を行った。例えそれが「過渡期の道標」(宮本顕治)、「文壇測候所長」(大宅壮一)と評されようとも、常に時代とともに生き、時代をリードした詩人的評論家であった点は高く評価されなければならないであろう。
 片上天弦の実弟竹内仁は、明治三一年松山市に生まれた。早く母を失い、兄天弦のもとから小学校・中学校に通い、仙台の二高・東京帝大法学部、さらに転じて文学部倫理学科に学んだ。大正六年竹内氏の養嗣子となり、竹内姓を名のる。大学では「ポルシェヴィズムの研究」に専念し、コミュニストとして阿部次郎の人格主義批判を行い、さらには土田杏村の理想主義の観念化を攻撃して論争するなど大正末期の評壇に厳しい主張を展開した。しかし大正一一年秋、婚約者との関係に悩みその両親を殺して自殺するという痛ましい最後を遂げた。
 阿部次郎との論争は、大正一〇年阿部が「人格主義と労働運動」「人生批評の原理としての人格主義的見地」を発表したことに始まる。後者の中で阿部は「人格主義とは人格の成長と発展とに至上の価値を置くものである」とした上で、時流の物質主義さらには物質的享楽主義が現代社会の根本的な欠陥となっていると断じ、ぜいたく心の抑制と生活の単純化によって、われわれの経済生活の進歩をはかって精神的創造の生活を回復し、同時に犠牲的労働者の犠牲を取り除いて労働における人格主義を実現しなければならないと主張した。
 これに対して竹内は「阿部次郎の人格主義を難ず」(大11)を書いた。その主張するところは、阿部の人格主義はブルジョアジーに現状維持の口実を与えるものであるとした上で、具体的に三つの問題提起を行っている。第一に、生存・保健・教養の権利は人間に共通の権利であるが、これに対して外部的階級的特権者は阿部の言うように自ら進んでその特権を放棄したりするものではない。第二に、ぜいたく心の抑制と生活の単純化こそが今日の経済生活を進歩させ、私達の良心に安静を与えると阿部は主張するが、もはや今日以上にぜいたく心を抑制して生活を単純化できない無産者は、いかに良心の安静を得たらよいのか。第三に、今日の階級的対立の状況の中で阿部の人格主義のとろうとする赤十字的態度はーそれは愛と公正の精神から生まれるものだがー無産者の労働運動を抑制するものでしかない。
 これに対して、阿部の反論、竹内の再批判があったが、その内容は必ずしも両者の論点がかみ合わず、竹内の論理的な主張にもかゝわらず両者の考え方を浮き彫りにするだけで、深まりのないままに終わってしまったのは残念である。
 大正一一年一一月、竹内は婚約者の両親を殺して自殺した。婚約者の裏切りが耐えられなかったのであろう。
遺書には「何事につけても此の様に打ち込んで考へずにはゐられない僕の様な人間は、生存に適せぬらしい」とあった。没後六年にして『竹内仁遺稿』が出た。
 宇和島市出身の木村鷹太郎は明治三年(一八七〇)に生まれ、東京帝国大学文学部哲学科を卒業して、陸軍士官学校教官・新聞記者となったが、明治三〇年、井上哲次郎・高山樗牛らと共に日本主義を唱え、大日本協会を創設して機関誌「日本主義」を刊行した。仏教・キリスト教を攻撃して日本古来の精神を高唱し、東洋西洋の倫理思想史・日本太古史の研究に没頭した。大正五年に日本民族協会を組織して日本古代史に関する研究を進め、アジア・ヨーロッパの古代神話伝説との比較研究を行って奇抜な論をたてたりした。
 さて、大正期の俳壇は、高浜虚子を抜きにして語ることはできない。虚子は明治七年(一八七四)松山市に生まれ、仙台二高を中退して上京、明治三一年以後は「ホトトギス」の経営にあたった。明治三五年の子規没後、その俳句は、同郷で旧知の碧梧桐と虚子によって受け継がれたが、明治末期に碧梧桐が「日本」・「日本及日本人」によって新傾向俳句運動を進めて俳壇の主流を形成したのに対し、虚子は小説・写生文に力を入れて、二人は次第に別れていった。虚子が再び俳句に力を注ぎ、「ホトトギス」経営の刷新にのり出して定型復帰を主張し始めるのは、大正二年一月の「ホトトギス」巻頭言からで、「俳句管見」「所謂『新傾向句』雑感」などによって、新傾向句、自由律俳句を批判し、自ら守旧派を宣言して、定型と季題の拘束を喜んで、俳句の天地に安住したいと書いた。「ホトトギス」の雑詠欄が読者の投句でにぎわい、また水原秋桜子・山口誓子・川端茅舎・中村草田男らの俊秀が門下に輩出して、ホトトギス派が全盛を極め、虚子は大正・昭和の俳壇に君臨するようになった。虚子は、子規の写生説をうけて客観写生の説を唱え、俳句を「花鳥諷詠」の詩と規定して、俳句の伝統の道を守ることに努めた。

 第四期

 昭和期前半の二〇年間は、不況とそれに続く戦争という不幸な時代で、評論活動においてもプロレタリア文学運動とその挫折、そして年ごとに強まる政府の言論統制の中で個性ある主張は次第に影をひそめていった。この時期、本県出身者の評論活動も低調で、わずかに古谷綱武の幅広い活動と筆禍事件で東京帝大を追われた矢内原忠雄の気骨ある主張が見られるくらいである。
 古谷綱武は明治四一年、外交官であった父の任地ベルギーで生まれ、間もなくロンドンに移って、六歳までイギリス人の乳母の手で、イギリス風に厳しく育てられた。小学校入学を機会に、単身父方の祖父母の住む南予宇和町に帰り、一年間、祖父母と共に農村の生活を体験した。その後転校をくり返し宇和島中学・青山学院・成城学園と移り、成城高校を中退して文筆の道に入った。多くの文人と交わり、昭和一〇年頃から古谷サロンを形成するようになった。
 昭和一〇年、横光利一は、「純粋小説論」を発表して大きな反響をよんだが、この頃、古谷の最も尊敬する作家は、この横光利一と川端康成であった。昭和一一年、古谷はこの二人について作家研究をまとめ、『横光利一』『川端康成』として出版するとともに『批評文学』を書いた。さらに昭和一七年以後には女性論・児童文学論にまで筆を染めたが本格的な活動は戦後である。
 矢内原忠雄は明治二六年(一八九三)今治市に生まれ、神戸一中・二高を経て東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。初め住友別子鉱業所に勤めたが、大正八年東京帝大経済学部助教授、同一一年に教授となり、植民政策を講じた。矢内原は昭和一一年に『民族と平和』を出版したが、印刷中に二・二六事件があり、時局を心配して一時公刊を見合わせていたが、「時勢が時勢ですから此書の頭の上にも何時屋根の瓦が落ちて来ないとも限らない」今のうちにと判断して刊行された。この著書の基本理念にたって時局批判をしたのが翌一二年、雑誌『中央公論』九月号に発表した『国家の理想』である。ここで矢内原は「現実国家の行動態度の混迷する時、国家の理想を思ひ、現実国家の狂する時、理想の国家を思ふ」として時局批判の必要性を述べ、国家は正義を基底として、対内的には社会正義、対外的には国際正義を貫き、主権・人民・領土を外に向けて拡大するのではなく、弱者保護、正義と平和こそ国家の理想として追求しなければならないと「イザヤの予言」を引きながら説いている。この時局批判は発行と同時に発売禁止となり、さらに時局便乗の風があった大学側からも批判されることとなった。この年、一一月の東京帝大経済学部教授会において、土方成美学部長はこの『中央公論』九月号を手にして、大学教授にあるまじき論文と批難した。京都帝大の滝川事件から四年、時勢はすでに戦争への道を足早に進み、無教会的キリスト教の平和論さえ自由に論ぜられる時代ではなかった。さらに続いて講演記録『神の国』(昭12・12)、『民族と国家』(昭13・1)が出版と同時に相次いで発売禁止となるという状況の中で、矢内原は、遂に東京帝大経済学部教授の職を退いた。暗い谷間の時期を経て、矢内原の真価が発揮されるのは、戦後においてである。
 この時期に活躍した県人には、国語教育の古田拡(東予市・一八九六~)、郷土史では西条の高橋彦之丞(一八七四~一九四六)・松山の松本常太郎(一八九三~一九六〇)・伊予史談の西園寺富水(一八六四~一九四七)・大洲の城戸通徳(一八八六~一九四七)・宇和島の兵頭賢一 (一八七二~一九五〇)らがいた。

 第五期

 敗戦とそれに続く諸改革は、明治以来の国家体制・思想・伝統その他あらゆるものの根幹を揺り動かす一大事であった。混乱の中で戦争責任論をはじめとして、様々な問題が様々な分野において論ぜられ、再生への道を模索してすでに三〇年、情報化社会・大衆社会といわれる新時代に入って、評論活動もいよいよ活発に多彩になり、それぞれ専門領域についてのみならず、文芸・社会・政治・人生等々、評論の幅を広げて百花争鳴の観を呈する時代となった。本県出身者の評論活動も、先の古谷綱武・矢内原忠雄に加えて、中野好夫・矢内原伊作・大江健三郎らが中央評壇において華々しい活動を展開し、また、哲学・文学・歴史・教育・宗教・地方史研究などの分野でも、多くの人々の個性的な発言がみられた。
 古谷綱武は昭和一〇年代にすでに女性論・人生論・児童文学評論の分野にまで筆を染め、活動の幅を広げていたが、戦後はさらに活発な活動を進めた。『宮沢賢治研究』(昭23)、『評伝川端康成』(昭35)等の文芸評論を書いた。女性論については、『女性のために』(昭21)、『若き母のために』(昭26)、『娘の生きかた』(昭29)、『妻の生きかた』(昭29)、『母の生きかた』(昭29)、『働く女性のために』(昭29)、『母の歴史』(昭40)などを次々に刊行、女性の生き方について、実感的でわかりやすい話を書いている。例えば『母の生きかた』の中では、「一般に母親は息子を持つと、それをあたかも夫の身代わりのように考え、母子べったりのかわいがり方をするのが母親の愛情と考える傾向がある。そして息子の独立とともに母親業を失って途方にくれる。さらに息子の結婚ともなると大事な子供を取られたとさえ思うようになる。母親は母親であるとともに一人の人間として自らの道を持たねばならない。」ということを、具体的にわかりやすく説いている。また人生評論については、「人生随筆」(昭21)、『暮しのなかの人生論』(昭25)、「日々の幸福のために」(昭27)、『生活を愛して』(昭28)、「生きるということ」(昭29)、『自分を生きる』(昭31)、『日々の心得』(昭46)など、肩のこらない滋味に富んだ人生論を書いている。古谷は『私の中の日本』(昭47)では、「ぼくの人生への関心はときどきに移ってきたようでもあった。しかしいつも根底にあったのは、自分というものを考えることであった。…………自分の年少の日の育ちから自分を考えることが日本人というものを考えることになり、日本人を考えることが自分を考えることになっていった。自分を考えることが日本の風土とその風土に育てられた日本人の生活の歴史と伝統を考えることにも広がっていった。」と書いている。すべて自分の問題として自分の生活にひきつけて考えるいかにも古谷らしい発想である。また児童文学評論の分野でも、『児童文学の手帖』(昭23)のほか『現代児童文学辞典』(昭30)を共編で刊行し、さらに児童文学者協会の理事として活躍するなど幅の広い活動をしている。
 矢内原忠雄は、昭和一二年に筆禍事件によって東京帝大経済学部教授を辞任したが、昭和二〇年一一月、東京帝大教授に復帰し、翌二一年東京帝大社会科学研究所長、二三年に経済学部長、二四年に教養学部長を経て二六年から東大総長となり、日本の代表的論客として戦後の時事問題に多くの鋭い発言を残している。矢内原は、内村鑑三の無教会的キリスト教・新渡戸稲造の人格主義・吉野作造の民主主義を受け継いだと評されるが、昭和二○年敗戦後の混乱の中を、早くも全国各地を廻って講演した。「日本精神の反省」(昭20・10、長野県)、「平和国家論」(昭20・11、長野県)、「日本の運命と使命」(昭20・12、山形)、「日本の傷を医す者」(昭20・12、東京)、「国家興亡の岐路」(昭21・2、大阪)、「基督者と日本の復興」(昭21・2、名古屋)など、日本国家のあるべき姿を説いて、敗戦と米軍占領下に基督教の信仰をもって日本を復興せしめんとの熱誠をもって国民に訴えた。昭和二四年、「近代日本における宗教と民主主義」が日本太平洋問題調査会編『日本社会の基本問題』の中の一編として書かれたが、これが戦後における日本人の最初の声として国の内外に大きな反響をよんだ。昭和二五年に講和問題が起こるや、『講和問題と平和問題』・『相対的平和論と絶対的平和論』・『平和を作る道』・『自由と平和』を書いた。矢内原はいかなる政党的立場にも立たず一個の自由人として、日本民族の復興と発展を平和の理想維持と結びつけて両者を不可分とする絶対的平和論を説いた。矢内原は更に、『大学について』(昭27)、『教育と人間』(昭36)など、教育問題にも発言し、そのあるべき姿を説いたが、昭和三六年、ようやく戦後復興が平和のうちに一つの成果を見出そうとする時期にこの世を去った。六八歳であった。
 中野好夫は、明治三六年松山市道後で、伊予鉄道勤務の中野容次郎・しんの長男として生まれた。翌年、父が徳島鉄道へ転勤したために徳島市に移り、徳島中学・京都三高を経て東京帝国大学文学部を卒業した。昭和五年に、土井晩翠の娘信と結婚、中学の英語教師・東京女高師教授を経て、昭和一〇年東京帝大文学部助教授となった。中野は戦前すでに専門の英文学の研究・翻訳のほか、日本文学についても研究を深め、『漱石と英文学』(昭9)。
『武者小路実篤覚書』(昭16)、『露伴と史伝小説』(昭17)、『森鴎外』(昭18)などを発表し、さらに第一評論集『文学試論集』(昭18)を刊行している。しかし、中野の華々しい活躍はやはり戦後になってからである。昭和二三年に東大文学部教授になったが、戦前に続いて英文学の研究・翻訳のほか日本文学について、『秋声の描く女』(昭21)、
『私小説の系譜』(昭23)、『平林たい子論』(昭24)、『嘉村礒多』(昭33)等を書き、文学論にっいては『文学試論集二』(昭22)、『近代文学の運命』(昭22)、『文学試論集三』(昭27)、「文学的人間像」(昭29)を書いた。『近代文学の運命』は戦後初期の啓蒙的な評論であるが、ここで中野は「近代小説は、近代市民社会の成立と運命をともにして発達し、その探究の対象は……市民社会における人間の社会的性格と、他方には自然存在としての人間の位置の変化と、この二つの動因からして、ひとすじに平凡・中等なる人間への興味へと集注されていった」と規定し、新聞の社会面に毎日数行で書かれる市井の瑣事から永遠の性格像の典型が彫り上げられるようになったとする。その近代小説も今や一九世紀後半のフローベル・トルストイ・チェホフらを頂点として下降、頽廃に向かいつつあり、二〇世紀の今日何を描くかについては、もはや何一つ新しいものを加える余力もないとして、近代小説は終末の時を迎えようとしている。これに代わる文学は「多分に事実性を含むルポルタージュ的なものの中に、あるいは新しい可能性をはらんでいるのではあるまいか」と大胆な予想を述べている。
 さて、中野の戦後の評論活動を特徴づけるものは、時々の大きな政治課題に対する明確な発言である。中野は昭和二八年、四九歳の若さで大学の在り方に対する不満と経済的不遇についての反発から、自ら東大教授の職を棄てて世論に大きな波紋を投げかけた。この年中野は、雑誌「平和」の編集長となり、従来にもまして社会批評・文明批評そして政治批評に活発な発言をするようになった。時評集として『良識と寛容』(昭26)、『平和と良識』(昭32)、『問題と視点』(昭34)がある。中野は、漱石ばりの正義派的性格とイギリス流の合理主義や良識を土台として平和問題に取り組み、文学者の社会的責任を自覚して、市民的意識を視点にすえて広く時事問題について発言した。とりわけ昭和三〇年代半ば以後は、憲法と沖縄問題に精力的に取り組み、『日本人の憲法意識』(昭36)、『日本国憲法の成立』(昭40)、『沖縄問題二十年』(昭40)、『日米共同声明と沖縄返還』(昭45)、『沖縄70年前後』(昭45)、『沖縄と私』(昭47)などを次々に発表した。
 矢内原伊作は、大正七年(一九一八)新居浜市に生まれた。元東大総長矢内原忠雄の長男である。一高を経て京都帝大文学部哲学科に学び、一六年に卒業して軍隊に入った。戦後は学習院大・大阪大・同志社大で教鞭をとり、更に法政大学に移って文学部長となった。田辺元・小林秀雄・ヴァレリーの影響を受けたが、戦後はもっぱら、サルトル・カミュらの実存主義に傾き、数多くの翻訳のほかエッセイや美術評論にも筆を染め、また『京都の庭』(昭37)、『室生寺』(昭39)、『石との対話』(昭41)、『サルトル』(昭43)など幅広い評論活動をしている。矢内原は、昭和二三年に「小林秀雄論」を雑誌『綜合文化』に発表した。これは矢内原の評論の代表作の一つであると同時に、また彼の最も尊敬する先達に訣別をつける記念すべき作品であった。この中で矢内原は「戦争は小林秀雄にとって何であったか。或は、戦争に対して小林秀雄は何であったか」と問いかけ、小林秀雄の『戦争について』の文章を引いて、「小林においては戦争と平和、或いは政治と文学との間には矛盾・対立を見出すことはできない。なぜなら彼は最初から政治とは全くかかわりのないところにその文学的現実を設定していたからである」と断定する。更にこれは政治にとどまらずあらゆるイデオロギーをも小林は否定するとする。これによって小林の立場は、現実とその中での行動とを抽象する世界に生きることを意味するわけで、戦争という不幸な体験を通して、矢内原自身が小林から決定的に離れていることを自覚し訣別する理由となった。そして、小林について「この鋭敏で精確な、健康で誠実な、批評的であると共に創造的な精神が、我が国の余りにも未熟な社会に、余りにも未開な文化に、余りにも狼雑な文壇に生みつけられた、といふことのなかに既にあるフランス近代文化が其の爛熱の頂点で生み出した象徴主義の批評精神は、恐らく彼に於て東洋の一角に、其の正当な種子の一つを見出したのだが、其の種子が正当に育つ為には我が国の思想的文学的土壌は余りにも貧しかった」という評価を下している。
 さて、本県が生んだ戦後日本の代表的作家大江健三郎にもふれておかなければならない。大江は昭和三三年、『飼育』によって第三九回芥川賞を受け、石原慎太郎・開高健・江藤淳らの中にあって、新しい文学の旗手として話題作を次々に発表した。また大江の文学評論・社会評論等は全エッセイ集として、『厳粛な綱渡り全エッセイ集第一』(昭40)、『持続する志 全エッセイ集第二』(昭43)、『鯨の死滅する日 全エッセイ集第三』(昭47)があり、更に自らの戦後をより確実に認識することを目指して書かれた『同時代としての戦後』(昭48)などがある。大江は時々の文学的課題を追求するとともに、矢内原忠雄・中野好夫らと同様戦後政治の大きな課題であった沖縄問題・原爆についても発言し、『ヒロシマ・ノート』(昭40)、『沖縄ノート』(昭40)、季刊誌『沖縄経験』(昭46創刊)、『原爆後の人間』(昭46)などを書いている。(詳細は小説の項参照)
 また、牧師で『永遠の探求』などを書いた赤岩栄(喜多郡肱川町出身 明治三六年~昭和四一年)、『小泉八雲の社会思想』を書いた穂積文雄(宇和島出身 明治三五年~昭和五四年)、鴎外研究の重松泰雄(大正一二年~)、現代の老子と評され自然農法を提唱する福岡正信(伊予市出身 大正二年~)、『武士道と商道』などを書いた大塚通広(大洲出身 大正四年~)、郷土史家で『海武士の歌-瀬戸内水軍連歌考』などを書いた松岡進(大三島出身 大正二年~)、児童文学者で若き日に太宰らと活動し、『太宰治の青春像 人と文学』を書いた久保喬(宇和島出身 明治三九年~)らの活躍も忘れることはできない。
 教育問題については、八代昌一(東宇和郡宇和町出身 明治三九年~)、松岡覚(大洲 大正七年~)、黒田敏男(宇摩郡土居町出身 明治四二年~)、石川石造(青森県出身松山在住 大正一四年~)、石田颯々子(上浮穴郡久万町出身明治二八年~昭和四一年)、玉井通孝(松山出身 大正七年~)、北沢清(富山県出身松山在住 明治四二年~)、伊藤恒夫(松山出身 明治四五年~)、曽我静雄(越智郡上浦町出身 明治四四年~)、篠木重徳(松山出身 大正六年~)らがそれぞれ個性ある発言をしている。
 大西貢は『近代日本文学の分水嶺-大正期文学の可能性』(昭和五七年)を書いて広津和郎・菊池寛らを論じ、特に安倍能成についてその活躍を四期に分けた上で、その創造的な活動は第一期のみであり、「緻密・誠実・滋味」といった従来の安倍への評価に疑問を投げかけ、細かい分析を行っているのが注目される。