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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

二 歌舞伎

 君臣船浪宇和島   河竹 能進

 和霊神社祭神事跡は、諸種の縁起・由来・由緒・実伝・神霊記として伝えられている(資料編「文学」157)が、歌舞伎に「君臣船浪宇和島」がある。河竹能進(文政八 一八二五~明治一九 一八八六)の脚本により、明治六年一〇月、大阪築後芝居での所演が最初とされる。その後は「晴行天浪宇和島」「神霊宇和島物語」(別名題「南海激浪・和霊神社勧請記」)「神霊宇和島実記」などの題でたびたび上演され、昭和五三年には、大阪道頓堀中座で、奈河彰輔補作脚本にもとづき、市川猿之助の五役早変りによって公演された。五幕一三幕のお家騒動ものである。

  宇和島藩主伊達遠江守が大阪在番の留守中、家老の大橋右膳が殿の愛妾お辰の方と密通し、お家横領を企て、一味の和気三右衛門に命じ、用金護送の役目で出発した忠臣山辺清兵衛を三津ヶ浜の宿屋で殺害させて用金を奪う。山辺の下僕胴助は主人の妻初音と母千寿を故郷へひきとり養ったが、小鮒の源五郎のため迫害され、ついに源五郎を討つ。清兵衛の亡霊は遠江守の前に現れて悪人の謀反を報じ、お辰の方は自害する。胴助は清兵衛の悴清之助に助太刀して敵を討たせる。

 雪中梅高評小説  勝  諺蔵

 黙阿弥は江戸の作者であり東京の脚本家であったが、京阪における明治の狂言作者はその高弟河竹能進と、能進の子である勝諺蔵であった。能進は大阪に招聘され(明4)〝上方の河竹〟と称され世話物を得意とし、諺蔵もまた世話物をよくし、父子合作が多い。創作よりも小説・新聞記事を劇化した。脚本出版が上方に多かったのは、読物として鑑賞する層が京阪に厚かったからであり、明治二〇年代に、上方作者の新旧の時代物・世話物・散切物の台帳が仮装中本の体裁で多く刊行された。『雪中梅高評小説』(四幕一一場)も大阪版散切物脚本として出版されている。末広鉄腸の政治小説『雪中梅』を勝諺蔵が脚色し、明治二〇年四月、大阪角之芝居で初演された。鴈治郎は地あたま素面で出演したので一般からは〝発狂した〟と罵られたが、道具・衣装も新味を出した。公演中の五月二六日、帰省中の鉄腸は同座で「大阪人民諸君に告ぐ」と題して演舌した。

 純正な政治青年国野基に資産家の可憐な女性富永お春を配し、お春の伯父である藤井権兵衛が川岸青萍と共謀して財産横領を企むという筋書でチョボ入りの散切物である。二幕目の「警視庁内未決監の場」…囚人金太郎 さうしてあの先生は何だろう 囚人熊太郎 何だといって国事犯よ。然し調べが長いと見えてまだ下って来ねえのう。 囚人三次 モウ下って来るだろう 皆々 差入物が来ればいゝねえ 卜後ろにて、巡査 三十号騒々しいぞ、静かに致せ。皆々 ヘヱヽイ。浄るり 哀れ古語にもある如く禍福は人意の及ばすとは宜なる哉、身の濡衣の国野基言解く事も楢の葉に身は厄運の解けやらず、しほしほ、として下り来る。 獄丁 お這入り被哉。 国野 御苦労に存じ升る。 浄るり 獄の潜りへ押這れば獄丁しまりも厳重に錠前びつやり打おろしあたりを見回し立去れり。囚人共は打見やり……

 江戸自慢 男一匹  須藤 南翠

 第一次伊藤内閣の欧化主義による社会改良策のひとつとして、明治一九年、末松謙澄による「演劇改良会」が発足し、ついで田辺蓮舟を会長とする「日本演劇矯風会」が、さらに、二二年九月、「日本演劇協会」が結成され、脚本改良がすすめられる。土方久元が会長となり須藤南翠(安政五 一八五八~大正九 一九二〇 宇和島出身。)は岡倉天心・坪内逍遥・森鴎外・山田美妙・饗場篁村・尾崎紅葉らとともにその文芸委員となった。しかし、会の目的とした脚本改良は、焦眉の問題であった新脚本の制作が思うにまかせず、二四年末、なすことなく終わった。明治二〇年代における新聞社派劇作家は条野採菊と南翠であった。南翠の第一作は「江戸自慢男一匹」(『都の花』 明24・2連載)であった。男達三谷の助六の作りかえで、すべて台帳仕立の世話物として作者自慢の名台詞が目立った。助六の後日譚というべきもので、小森美作守の世継ぎをめぐるお家騒動をからませた筋書きである。揚巻との情話・華やかな郭の達引を中心とする従来の侠客ものに対し、一身を犠牲にして忠臣長田に主家を再興させる武士道的正義を主点に据えたのが特色である。明治三〇年五月の「英一蝶」(「新作文庫」)は団十郎のために書いたが上演されず、却って上方の中村鴈治郎によって所演され好評を博した。樗牛は、南翠をしてリットンに擬する理由のひとつに〝脚本作家となりたることあるの点に於て〟(「明治の小説」高山林次郎明治6「太陽」)を挙げている。南翠はこのほかにいくつかの脚本を書いたが、採菊・篁村・思軒らとともに劇評をも書いた。「最も真面目なる吾党同志の、而も更に最も公平なる衆議評」を企図した意欲的な試みを行った。

 大森彦七  福地 桜痴

 砥部を領した「大森彦七事」は『太平記』巻二三の記事によって知られ、楠正成をして湊川において自刃せしめた勇士彦七が正成の悪霊に苦しめられる経緯は、西鶴が『好色一代男』の第一話に〝化物が通るとは。誠に是ぞかし。それも彦七がかほして。願くは咀ころされてもと“と記したのを一例として『太平記』のうちでも広く親しまれた物語である。謡曲・浄瑠璃・草子・読本・歌舞伎などによって取りあげられた「大森彦七」(資料編「文学」→167~168)を、福地桜痴が改めて歌舞伎としての脚本に書き、九代目市川団十郎の彦七・市川女寅の千早姫・市川寿美蔵の道後左衛門によって、新作「大森彦七」として、明治座で初演されたのは明治三〇年一〇月であった。その脚本の冒頭の部分はつぎのとおりである。

 茲は伊予国松山近傍の山道にて、向う正面には連山の峨々たるを望み、半ば朽ちたる古き地蔵堂(舞台上寄)には地蔵尊としるしたる額の左右に奉納の面ニツづつを懸けたるを掲げありて其一面は鬼女の面なり、堂の傍には古き石の手水鉢、青面金剛の碑等ありて、後は樹木生茂り、頃しも三月二十五日深更(午前三時頃)の景色なり。(幕明く) 武士菊間五郎太(編笠、四布袴、道服、腰帯、大小) 郎党猿又(太刀附、一刀) 供男新太郎(大曲物と白木箱を天秤棒にて荷ふ) 百姓男寅彦・熊六松明を持て立掛途中にて出会ひ話の体なり。
菊間 イヤ其方共は久米村の百姓ではないか。此深更に打連れて何れへ参る? 新太郎 是は是は久谷の御領主菊間五郎太様で御座りまするか、暗さは暗し思ひ掛無きお渡りゆゑ。寅彦 お会釈も致しませず御無礼の段。熊六 何とぞお許し。 三人 下さりませい。 (ト三人一同下座すれば、)菊間 其挨拶には及ばぬ事だが何で是へ罷り居るな? 新太郎 ヘイ外でも御座りませんが明日から三日の間は御堂の御庭に舞台を掛け猿楽とやらのお催しがあるとの事。 寅彦 私共の御領主大森彦七様も其猿楽の役者になりお舞ひなさると聞き及び。 熊六 どうか拝見したいと存ぜしゆゑ中合せて三人が。 新太 夜中に村を立ちまして是まで参って。 三人御座りまする。 菊間ムヽ扨はさやうであったか、何にも明日よりして三日の間は御堂の猿楽、去々年五月大森どの湊川の合戦に南朝方の張良孔明九郎判官義経の再来と迄言はれたる楠正成と言ふ大将に詰腹切らせて大手柄、その恩賞にはあまたの知行所を下し置かれて身の誉れ其祝ひとして今度の猿楽、大森殿は言ふに及ばず大井今治越智丹原其外の大小名皆招かれて参る程に殊の外なる大賑ひ。猿又 おらが所の殿様は大森様とは取別けて日頃からの御懇意ゆゑ此中よりしてお手伝ひ、楽屋の世話はお持切で是から御堂へのお越の所だ。菊間 其方共も早う参って詰掛なければ見物致す芝居は無いぞ。新太 ヘイ左様なわけで御座りまするか、それぢや殿様何とも以て恐れ入りまするが。寅彦 どうぞ私共三人を。熊六 お供にお連下さるよう。 新太 お願ひ申し。 三人 上げまする。