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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

三 伝記・ノンフィクション・評論・民話

 伝記

 昭和四一年講談社から(伝記シリーズ)『この人に学ぼう』が発行された。秦敬の「にじ色の光を追って」が第三巻に収められている。西条市立郷土博物館の基礎を築いた町の博物学者田中大祐伝である。被伝者として嘉納治五郎、松下幸之助、榎本健一、岡潔など有名人の並んだ中に、四国の片田舎に生きた無名の人の伝記をあえてとりあげたところに、筆者の一つの姿勢がうかがわれる。
 昭和四九年、古田足日は『コロンブス』(三十書房、のち盛光社)を従来のヨーロッパ中心の世界観をくつがえす視点で書いた。アメリカ大陸は新世界であり「発見」されたという認識は、白人中心の考え方であり、コロンブス以前に土着の人々が居たという自明のことに、われわれは目をふさがれていた。戦後の伝記は、被伝者を美化して、偶像化するのではなく、長短あわせ持つ人間として描かれるようになった。『コロンブス』も、もちろんそのように描かれており、すぐれた文学者の目が、至るところに感じられるが、やはり最も特徴的なところは、この転回した視点の鋭さにある。必読の書であろう。
 昭和五五年、大西伝一郎の『ネパールにかけるにじの橋』(小学館)は、ノンフィクション童話として小学校低学年対象に書かれた。宇和島市出身で「ネパールの聖医」と呼ばれた岩村昇医師の献身を描いた作品で、低学年向きの良い伝記が少ない中で、伝記として読まれてもいい。日本キリスト教海外医療協力会をはじめ、県内の日本赤十字社、教会、学校、青少年赤十字、南海放送などの支持をえて、県内のベストセラーにもなった。
 昭和五六年、和田茂樹監修『子規さん』(子規記念博物館友の会)が発刊された。さきに愛媛文学研究会の手になる『伝記正岡子規』が出ているが、これは子規の文学上の仕事や、すぐれた人がらについて、小学生が読んで理解できるものをと、同じメンバーの共著によって発刊されたものである。
 昭和五八年、愛媛県教育会から『愛媛子どものための伝記』の第一巻『十河信二・二宮忠八・山下亀三郎』がそれぞれ、秦敬・岩本義孝・柴田博の執筆で刊行。愛媛県教育委員会・和田茂樹愛媛大学名誉教授の監修になり、編著は「愛媛子どものための伝記刊行会」全二〇巻が予定されており、一冊ごとに三名の被伝者がとりあげられることになっている。
 俳句人として正岡子規・内藤鳴雪・柳原極堂・学界から児島惟謙・穂積陳重・重遠及び安倍能成が、といった組み合わせで、産業界・芸術界・宗教界・教育界・野球界等々、県の各界の先覚者が網羅された子どものための膨大な伝記集となる。執筆者は被伝者を生んだ地域の教育現場の教員であることも大きい特色だろう。

 ノン・フィクション

 子どものためのこの分野は、県人関係では数少ない。
 昭和三三年、周はじめの『原野の四季』が東京理想社より上梓され、その後発行所を理論社に移し、昭和五五年にはフォア文庫版として刊行されている。長期にわたり読み続けられ、子どもたちばかりでなく大人の心をもしっかりとらえた作品である。今でこそ、文章と写真で綴る、こうした出版物は珍しくなくなったが、周の詩情あふれる文章と美しい写真とは商業主義的出版物と一線を画し真の自然愛に裏づけられて常に新鮮である。作品の舞台は北海道根室原野だが、筆者は今治市出身東京在住。
 愛媛子どもと教師の文学の会編「先生のとっておきの話」が二冊出ている。ポプラ社の同シリーズ〈愛媛編〉で、昭和五二年『ぼっちゃん先生』(井上基行・はたたかし・鈴木友子・岩本義孝・高田きょむ・若月真作・潮みち・大西伝一郎共著) 昭和五五年 『十さいの赤ちゃん』(糸井通浩・三好常喜・蒲池恵美子・宇和川喬子・石田ヒサ子・阿部雅子・おおざわふみお・宮野英也共著)それぞれの筆者自身の体験見聞や教え子のことなどに題材をとり、読者の子どもにとって身近い、あるいは意外な、ほんとうにあったお話が盛りこまれている。
 県人ではないが、昭和四六年、たかしよいちの『日本発掘物語全集』(国土社)中の第一〇巻『岩かげの女神石』、「上黒岩の夕陽」の章は、上黒岩岩陰遺跡発掘の線刻礫女性像をとりあげている。

 評論

 文芸評論、女性評論など多面的に活動している古谷綱武は、同郷の友人久保喬の影響で、昭和一七年「児童文学の理想」を書き、児童文学の分野を新しく切り開いた。さらに戦後、昭和二三年『宮沢賢治研究』(日本社)などを発表。古谷が師とする谷川徹三は世に埋れていた賢治の真価を見出した一人だが、劇団東童による日活映画『風の又三郎』でようやく世評高まったとはいえ、今日ほど賢治ファンのいなかった大戦突入直前の時期に、古谷もまた、近代童話の主流の外に置かれていた賢治の特質に目をそそいだ。同年『児童文学の手帖』(芸林新書)も、古い童心主義的童話で占められていたその時点で、新しい現代児童文学の方向を示唆するものであった。そのころ、日本児童文学者協会理事にも就任している。
 久保喬 昭和一六年、古谷綱武らと同人誌「昭和文学」に評論「童話の本質」を発表。昭和三四年には「児童文学評論」誌に「近代メルヘンの設計」を、昭和四五年「日本児童文学」誌に「今後の児童文学の課題」を、昭和四七年「児童文学評論」に「土着性と近代性の統一」等々を発表して、児童文学界に重要な発言を続けている。特に、「童話の本質」は、従来の情緒的童心主義童話に代わる新しい思想と方法で現実をとらえ、そこに生きる子供をどう描くかという課題に触れたものとして特筆される。伝統否定論争は、「少年文学宣言」の出た昭和三〇年代になってようやく盛んになるわけだが、太平洋戦争の始まった年に、いち早く現代児童文学の問題を提起したのである。だが、その当時この評論の価値に気づく人は少なく、その先見性が明らかになるには、しばらくの時間が必要であった。
 古田足日 昭和二九年「象徴童話への疑い」(『少年文学』)「近代童話の崩壊」(『小さい仲間』)、昭和三二年 「『くもの糸』は名作か」(『小さい仲間』)などを謄写印刷の同人誌に発表しはじめた。やがて、それらを集めた処女評論集『現代児童文学論』が昭和三四年、くろしお出版から刊行されるころ、論壇は、昭和二八年、鳥越信・古田ら早大童話会の「少年文学の旗の下に!」以後の「伝統否定」をめぐっての論争の渦が巻いた。この「少年文学宣言」は従来の近代童話の系譜を否定、少年文学の樹立を志向したラジカルなもので、児童文学史上の大きいエポックとなった。
 これら論争の中でも衝撃的であったのは『現代児童文学論』の巻頭にすえた書き下しの「さよなら未明」であっただろう。日本のアンデルセンと呼ばれ、童話界最高の権威とあがめられてきた小川未明を否定するところから現代児童文学が始まらなければならないという叫びであった。もっとも、古田自身は、自分が未明の全面的否定論者であるように受けとられているのは誤解があると言う。昭和三三年、図書新聞に書いた「小川未明の永遠-アジアを描く可能性をはらむその原始心性」(『児童文学の思想』 昭40・牧書店所収)や、先述の「さよなら未明」にしても、古田は未明作品の中にある「原始心性のうちにこめられているエネルギー」に目を向け、それを継承することを現代児童文学に課して行こうとする姿勢を示している。『現代児童文学論』は昭和三五年、日本児童文学者協会新人賞を受賞した。
 『児童文学の旗』(昭44・理論社)は、新しい児童文学の方向を「変革の意志に基づいて、現実世界を書くリアリズム」ととらえている。昭和五六年には久しぶりの評論『現代日本児童文学への視点』(理論社)を発表、一九八〇年代の新しい過渡期の混迷にまた発言を加えようとしている。現代の日本児童文学界は、彼に同調するにせよ対立の立場をとるにせよ、古田を意識せざるを得ない。古田はここにオピニオンリーダーの位置を占めるに至った。
 県内在住者では、まず阿部真人が児童文学研究者として、一筋に「椋鳩十」にとり組み、「動物児童文学」を追求しているのが注目される。昭和五二年「椋鳩十文学における『野性』-『愛情』から『闘争』への系譜」(「国語科教育」)、昭和五四年「児童文学作品の教材論的研究-『大造爺さんと雁』の場合」(「国語教育研究」)、昭和五五年「椋鳩十文学の研究-動物文学の原点を探るー」(「国語教育研究」)、昭和五六年「椋鳩十文学の研究-『死』の物語を中心にー」(「愛媛大学教育学部紀要」)と、学会や各誌への発表をつづけ真摯なレポートを提出している。愛媛大学教育学部での国語科教育担当教官として、授業との直接結合を求め、かつ文学と教育の接点としての立場を深めている。登場者(人間も動物も)へのヒューマニステックな観察が根底にある。
 秦 敬 雑誌「ぷりずむ」などに少数の評論を発表している。「〝白い花〟の系譜-今江祥智小論-」(昭41。「ぷりずむ」)は、同年「日本児童文学」に転載され、さらに『資料・戦後児童文学論集』(昭55・偕成社)第三巻に収録された。今江祥智のリリシズムと「戦争」の問題に触れ、未だ書かれていなかった今江の『ぼんぼん』(昭48・理論社)『兄貴』(昭51・理論社)などの作品が『白い花』の系譜とつながるであろうことを予見している。解題で細谷建治は「当時の評論のひとつの水準を示すものといえる」と評価している。昭和五七年『愛媛県児童文学史覚え書き』(「桃山学院短大紀要」)に着手、最初に「押川春浪と父方義」(未完)をとりあげ、現在郷党人からも忘れ去られようとしている春浪を史的に位置づけようとしている。
 藤田茂 二四歳で日本童話協会の懸賞で「リスと蜂」「涙を流した泥棒」が入選。以来、昭和四〇年ころまでの四〇余年の間に童話の口演一千回をこえるベテラン。昭和四二年『童話の上手な話方』(新紀元社)を発刊。口演童話の理論と演出の実際を、豊富な経験をもとに述べている。口演童話家は数多く、台本としての童話も多く、理論についても述べられているはずだが、活字化されることが少ないためか、資料が散逸しており、ここではほとんどとりあげることができない。

 民話

 民話・伝記は全国的な流行現象さえみせているが、その中で子どもを対象としたものをとりあげてみよう。昭和五〇年『愛媛のむかし話』、昭和五二年『愛媛の伝記』が愛媛県教育会から刊行された。愛教研国語委員会編で、前者は「ひっつこかすいつこか」(再話・福島郁夫)ほか五五編、後者は「衛門三郎」(新居田正徳)ほか九〇話。県下の教員がそれぞれの地域の古老から直接採話し、再話している。
 昭和五五年、日本児童文学者協会の『ふるさとの民話』全四七巻中の『愛媛県の民話』が偕成社より出た。大西伝一郎ほか県在住の児童文学関係者に、日本民俗学会員の秋田忠俊、森正史が協力している。文学的な再話と、秋田忠俊の民俗学的な解説が大きい特色となっている。