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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

1 不運な小説「崖」

 崖 白川 渥

 第一二回(昭和一五年下半期)芥川賞の候補作に白川渥の「崖」がある。授賞作は桜田常久の「平賀源内」であった。白川渥(明治四〇 一九〇七~)新居浜市生まれ。本名正美。東京高師文科卒。横光利一に師事し、「日暦」「文芸首都」等に参加。昭和一五年一二月、「文芸首都」に発表した「崖」が芥川賞候補作となった。「崖」は戦死した兄の妻みねという女を、母と姉の話し合いの結果、自分の妻に直らされた弟計蔵の身の上話である。計蔵の姉は、三〇近くで貿易商の後妻になり大連に住んでいる。兄は関東軍の工兵将校として中国奥地に出征しており、母と兄嫁みねも大陸の姉のもとにいる。計蔵は東京近郊の学校教師をしていて三つ年上の女流画家と関係がある。やがて兄は戦死。みねとの縁談がはじまると計蔵は女流画家と別れ、神戸の学校へ転任する。みねは神戸の旅館の娘で、兄と結婚する前、母と計蔵が旅館へ下見に行ったとき、みねは計蔵が自分の相手だと思う。母とみねは呼吸が合っていて、計蔵は「手頃に馴らされた妻をそのまま兄から受取った」気持ちになる。

  兄のつけた汗、兄らしいしょっぱい匂、そんなものを、計蔵は妙に寛ろいだ思ひで、も一度みねの皮膚にも感じるのである。が、それにも不拘、彼には養子ではない自分、ずぶの花嫁であるやうなみねを欲するものが、心のどこかで眼を開けてゐた。この二三日、そんな影が彼の幸福の裏にちらついてゐた。そしてそれは、みねから一挙に嫂といふレッテルを取剥がしたい気持に彼を駆り立ててゐた。兄がどのやうに現在のみねの中にたたみ込まれてゐるのか、その心の奥の襞を引き伸ばして発いてみたい感情にかられた。現に今、そのやうな眼でみねの化粧を眺めてゐた。今朝山に行った時も、みねは一ばん先に兄の墓に手を合せた。そんな彼女の素振りが、如何にも自分の夫がまだこれだと言はんばかりの執拗さに受取れて、計蔵は仏になった兄に対して何か嫉妬めいた気持さへ抱いて掌を合せた。

 計蔵は、お下がりでない幸福を打建てたい気持でいる。計蔵の家から真裏の崖上にドイツ人の別荘があり、ある日、そこのコルベ夫人から学校へ電話がある。みねが盲腸炎という知らせである。手術後、コルベ夫人が花を持って見舞にくる。コルベ夫人は、みねの身の上話を聞いて二人の結婚には愛情があったのか、家のためばかりで夫婦になったのかとずけずけ聞く。愛情だと答えると、コルベ夫人は「これから崖の方へ径がつく位仲良くしませう」という。その夜、病室でみねは「計さんなんてお呼びするの、もう止しますわ。わたし、これからはもっと旦那様らしくお仕へしなきゃいけませんわ」と計蔵に言う。
 半月目にみねは退院。二人が帰宅すると母は仏壇に火をともして待っていた。取りのけていた黒枠入りの兄の大きな写真も祭ってある。母は、みねの半分は兄のものと思っている。退院後のみねは、コルベ夫人との交渉を深めて行く。母は次第に無口になっていった。三人三様のきまずい日が続く。計蔵は母からみねを奪っているコルベ夫人の役割に腹が立ち「嫂を妻にしたこの不倫の感情さへ尚家故に許されるこの国のしきたりを、夫人にも自分にもはっきりと證したい抗議の眼で、彼は崖上を見上げ」るのであった。
 選評で、横光利一は「『崖』は現在のところ、発表不可能という材料の不運のため落ちた。この作は今までの芥川賞受賞作品のうち、最も良いものの一つと並び、さまで遜色のない重量を備えたものと思った」と評している。昭和一五年は大政翼賛会が結成され文芸銃後運動の始まった年で、出版物関係の取締強化、文芸作品の発禁処分が続出した年でもある。「崖」は不運な小説であったといわざるを得ない。
 他の選考委員の評、「中でも、一番優れていると思ったのは、白川氏の『崖』で、予選委員が集まった時から大変評判がよく、私は自分のところへ作品の廻って来るのを楽しみにしていた。読んで見ると、成程面白い。殆んど過不及ない位よく纒まっているし、描写も行き届いているし、殊に母と云い兄嫁と云い、就中兄嫁の描写などは、そこに肉体を感ずる位ヴィヴィッドに描かれている。微妙な心理、感情、官能のニュアンスが、心にくいばかりに芸術的に把握されていて、表からあらわに描いているかと思うと、クルリとうしろを向いて巧みに含蓄ある暗示を以って迫ったり、そのくせ軽佻浮薄なところは微塵もなく、短篇らしく力一杯四つに組んでいる頼もしさは、抜群の手腕だと思った。(中略)私はこの作に一番点を入れた。しかし、この作は不幸にして本誌上に再録出来ない性質を持っていると注意されて断念した(後略)」(小島政二郎)。「『崖』は、小味な感じの小説だが、この小味という点では頂点を示しているようなうまみのある作品だと思った。何だか妙に色っぽい感じの描写もあって、作者は手なれの小説家らしく思われた。この『崖』は、読んで却々面白いが、作品の主題は、戦死者の未亡人の再婚問題が扱われていて、現今の当局の忌避に触れる点もあるようで、一般には発表できない作品と思われた。一般の人に一読をすすめられないのは惜しいと思った」(瀧井孝作)。
 白川には、ほかに「村海記」(一六年)、「天人」(一七年)、「山々落暉」(一九年)などの作品があり、昭和二一年一二月には短編集『山椿』を刊行した。この中には「崖」のほか、「山椿」「別子開坑記」「蟇」「北の町」「浪人のゐる風景」が収録されている。戦後は、大衆文学に転じ、「風来先生」「風来日記」など、青年教師を主人公とした青春小説を愛媛新聞に連載した。それらは単行本としてベストセラーとなり、映画化・テレビドラマ化され人気作家となった。しかし、昭和四三年の新聞小説「適齢期」を最後に大衆文学と縁を切り、ライフワークである伊予水軍をテーマにした歴史小説を手がけている。なお、伊予水軍をテーマにして書かれた歴史小説に、三島安精(大正八 一九一九~)の『水軍』(昭和一七年・青磁社)がある。三島は越智郡大三島町生まれ。伊予水軍に関する評論もある。