データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

4 県外作家の作品

 県外作家の作品

 県外の作家が、愛媛に一時居住したり、旅や取材に訪れたりして、その経験をもとに愛媛の風土や人間を描いた作品は、県人にとって興味深いものがある。国木田独歩の『忘れ得ぬ人々』、徳冨蘆花の『思出の記』『黒い眼と茶色の目』、夏目漱石の『坊っちゃん』、小泉八雲の『怪談』などがある。

 忘れ得ぬ人々  国木田独歩

 国木田独歩(明治四 一八七一~明治四一 一九〇八)は千葉県銚子生まれ。本名哲夫。『忘れ得ぬ人々』は、明治三一年に雑誌「国民の友」(四月号)に発表された。武蔵野の風物を新鮮な感覚で描いた『武蔵野』とともに、独歩の自然観や人生観を示した代表作として有名である。作品は、東京多摩川近くの溝口という宿場の「亀屋といふ旅人宿」からはじまる。季節は三月上旬、みぞれの降る夜。この宿屋に偶然落合った二人の青年、一人は無名作家大津辯二郎、もう一人は秋山という無名画家である。大津は、持っていた半紙十枚ばかりの「忘れ得ぬ人々」という未定稿の作品を秋山に見せ、やがてその内容を話しはじめる。大津のいう〝忘れ得ぬ人〟とは「親とか子とか又は朋友知己其ほか自分の世話になった教師先輩」のような〝忘れて叶ふまじき人〟ではなく、「恩愛の契もなければ義理もない、ほんの赤の他人であって、本来をいふと忘れて了ったところで人情も義理をも欠かないで、而も終に忘れて了ふことの出来ない人」のことである。その一人は船上から見た瀬戸内海の小島の磯に何かを漁っていた男。次の一人は、九州阿蘇山のふもとの村で空車に乗って馬子唄を歌っていた「屈強な壮漢」。そして三人目は、四国の三津ヶ浜で見かけた一人の琵琶僧である。

  四国の三津ヶ浜に一泊して汽船便を待った時のことであった。夏の初めと記憶してゐるが僕は朝早く旅宿を出て汽船の来るのは午後と聞たので此港の浜や町を散歩した。奥に松山を控えてゐる丈け此港の繁盛は格別で、分けても朝は魚市が立つので魚市場の近傍の雑沓は非常なものであった。大空は名残なく晴れて朝日麗らかに輝き、光る物には反射を与へ、色あるものには光を添へて雑沓の光景を更らに殷殷しくしてゐた。叫ぶもの呼ぶもの、笑声嬉々として此処に起れば、歓呼怒罵乱れて彼方に湧くといふ有様で、売るもの買ふもの、老若男女、何れも忙しさうに面白さうに嬉しさうに、駈けたり追ったりしてゐる。露店が並むで立食の客を待ってゐる。売ってゐる品は言はずもがなで、喰ってる人は大概船頭船方の類にきまってゐる。鯛や比良目や海鰻や章魚が、其処らに投げ出してある。腥い臭が人々の立騒ぐ袖や裾に煽られて鼻を打つ。

 このような三津の朝市の雑踏を見た主人公大津は「其処で何となく此等の光景が異様な感を起させて、世の様を一段鮮かに眺めるやうな心地」がし、「殆んど自己を忘れて此雑沓の中をぶらぶらと歩るき、やゝ物静なる街の一端」に出る。すると琵琶の音が聞こえ、ある店先に一人の琵琶僧が立っているのが目に入る。

  ……歳の頃四十を五ツ六ツも越たらしく、幅の広い四角な顔の丈の低い肥満た漢子であった。其顔の色、其眼の光は恰度悲しげな琵琶の音に相応しく、あの咽ぶやうな糸の音につれて謡ふ声が沈んで濁って淀むでゐた。巷の人は一人も此僧を顧みない、家家の者は誰も此琵琶に耳を傾ける風も見せない。朝日は輝く浮世は忙はしい。

 しかし、大津は、じっと琵琶僧を眺め、その物悲しげな琵琶の音に耳を傾ける。そして「一道の清泉が濁波の間を潜ぐって流れるやうなのを聞いてゐると、嬉れしさうな、浮き浮きした、面白ろさうな、忙しさうな顔つきをしてゐる巷の人々の心の底の糸が自然の調をかなでてゐるやうに」思う。この琵琶僧が、大津にとって〝忘れ得ぬ人〟の一人となった。画家の秋山は、その後に続く話をうながすが、大津は夜も更けたからと話を打ち切る。
 大津が、こうした人々を思い浮かべるのは「生の孤立を感じて堪え難いほどの哀情を催ふして来る」ときである。そのとき大津の「主我の角がぼきり折れて了って、何んだか人懐かしくなって来」て心に浮かべるのである。孤独な人間を見つめる大津の眼はそのまま作者国木田独歩の眼といえよう。独歩の孤独は人懐かしい孤独であり、その孤独は、あたたかい人間愛に裏打ちされている。
 この三津ヶ浜の話は、独歩が大分県佐伯の鶴谷学館の教師を辞して、山口県柳井の両親の家に向かう途中の、明治二七年八月二日の体験をもとに書かれたものである。その日の夕方、松山を見物している。

 思出の記 黒い眼と茶色の目    徳冨蘆花

 徳冨蘆花(明治元 一八六八~昭和二 一九二七)は熊本県生まれ。本名健次郎。長編小説『思出の記』は、蘆花の出世作『不如帰』が出版された直後の、明治三三年三月から翌年三月にかけて「国民新聞」に連載された。初出題は「おもひ出の記」である。完結の年、民友社から単行本として刊行された。
 熊本の山峡の町妻寵の造酒家に生まれた菊池慎太郎が、父の死後、「非常に気象の烈しい」母の手で育てられ、苦学しながら明治という新時代の変遷の中で、さまざまな体験を重ねて明るく成長していき、やがて親友の妹で相愛の松村敏子と結婚し文学の道を歩み続けて行くという物語である。蘆花自身が言っているように、英国の作家ディッケンズの代表作で自伝的長編『デヴィッド・カッパーフィールド』(一八四九)に刺激を受け想を構えたものである。主人公菊池慎太郎は蘆花自身ではないが、形式において自叙伝的な立志伝小説となっており、蘆花のいう「自己の或物」が語られている。明治前半期に生き、時代の精神を呼吸しながら、近代的自我を自覚して行く一青年の理想的典型をみることができる。
 この『思出の記』で、本県が舞台となるのは宇和島である。主人公の慎太郎は、明治一六年、故郷を出奔、東京へ向かう。「路筋は、先づ豊後の国別府の港へ出て、其れから汽船で大阪に渡り、其上は旅費の加減で、横浜まで汽船で行くか、若くは東海道を膝栗毛にうたすか、其は其時の都合として置ゐて、兎に角別府まで出ること」に決める。ところが、別府で商人風の男と道連れになり、その男に慎太郎は「六円未満」の全財産のうち五円を盗まれてしまう。「母に告げず、伯父に計らず、学校の諸友をも欺ゐて出奔」したその罰ではないかと落胆するが、育英学舎の恩師で土佐の須崎に帰っている駒井先生(馬場孤蝶の兄辰猪がモデルという)を思い出し、四国へ渡ることにする。宿の主人の世話で着物を金に換え、宇和島への夜行便に乗ることになるが「船は八九反の此れで豊予海峡の波を截るのかと思ふと心細い位のもの」で「舟子と云っては船頭夫婦に乳呑子一人。何かの乾魚を積んで居るらしく、乗り移ると芬と腥い鹹臭い臭が」する船であった。途中、風雨に襲われたり、船頭夫妻の喧嘩の中に割って入ったりするが、二夜を船中に送り無事宇和島港に着く。埠頭に立つ慎太郎の袖には「船賃と飯料を払って剰す所は僅七十銭未満」しかない。ところが、師走の波止場の雑踏の中で、またもや全身代を掏摸に盗られてしまう。仕方なく綿入れ羽織や帽子、それに書籍まで売り払い「懐中僅かに二十八銭」で宇和島を出発し、山越えして土佐へ向う。しかし、途中で空腹と大雪のため山道に倒れてしまう。そこへ通りかかった金貸業の西内平三郎に助けられ、その家の小僧としてしばらく働くことになる。そうした或る日のできごとである。

  或日僕は主人の要を帯びて宇和島警察署に行くと、六尺ゆたかの赤髯蓬々たる、併し人相のいゝ西洋人が警部巡査を相手に何か頻りにー無論英語でー言って居る。警部は一葉の名刺を手にしたるまゝ呆然として居る。巡査も皆茫然、唖然として、頻りに動く洋人の口もとを眺めて居る。蓋し一方は日本語が通ぜず、一方は英語が通ぜず、分からぬ同志の問答に果しなく、双方困り切って居るのだ。洋人は絶望と云ふ態で、頭を掉ってにやにや笑ふ。警部は髯を撚りながら左右を顧みて、
   「困ったなあ」と云って、また、
   「誰か通弁が出来る者は居らんかな」と頭を掻た。
   「彼先頃開業した医者は如何ですか」と巡査の一人が口を出す。惟ふに宇和島唯一の外国語に通ずる人であらふ。
   「彼は昨日大阪に行った様です」とまた一人が云ふ。頼の綱は切れてしまった。
   「困ったなあ。此れから一人通弁の出来る者を置いて貰ふ様に上申しなけりあならぬ」
  と警部はまた頭を掻いた。
   僕はうっかり此一幕の見物に吾要も忘れて居たが、あまり気の毒で堪らず、吾を忘れて洋人の傍へ寄り、「何の用ですか」と怪しげなる英語で尋ねた。場内の視線は忽ち僕に集まった。洋人は地獄で仏に会った顔つき、流水の如く舌をふるって、云々の事を述べる。

 慎太郎は、たどたどしい英語ながら、その外人が米国のキリスト教宣教師で、宇和島の伝道師に会うため松山から来たが会えず、船で大阪に帰るので世話をたのむと言っていることがわかり、それを巡査に伝えてやる。その事件が縁となり、兼頭一道という県会議員から、宇和島の私設英語塾の教師のロを与えてもらうことになる。
 しかし、蘆花自身は、慎太郎のように宇和島の地で英語教師をしたことはない。蘆花が英語を教えたのは今治である。明治一八年三月、満一七歳の蘆花は、熊本三年坂のメソジスト教会で姉光子とともに受洗。今治に赴いて伊勢(横井)時雄宅に寄寓した。時雄は蘆花の従兄である。蘆花はこの今治教会で一年数力月の間伝道に従い、かたわら英語教師として町の青年たちに英語の初歩を教えた。翌一九年の六月、同志社神学部教授となった時雄に従って京都に出、同志社に再入学する。この年、同志社女学校に在学中の山本久栄(新島襄夫人の姪)の都会的で勝気な〝茶色の目〟に魅せられ、恋愛関係から婚約にまで至るがやがて周囲の反対にあって破約を余儀なくされてしまう。傷心の蘆花は学業にも興味を失い、〝黒い眼〟である新島襄にあてて京都訣別の手紙を書き残し、西下して熊本・鹿児島に放浪の旅を続けることになる。
 この傷心の思いを四六歳のとき告白したのが、大正三年一二月に、妻愛子との確執の末に刊行した自伝小説『黒い眼と茶色の目』である。この作品は、過去を清算する気持ちで書かれたものであったが、愛子夫人(本名藍子。明治二七年五月蘆花と結婚。実家は熊本県隈府の酒造家)は、その心労から入院したほどであった。
 蘆花(健次郎)-小説では敬二が、今治にやって来た時の模様を作品中で次のように記している。

  郷里の洋学校で逸早く耶蘇教を信じ、劇しい郷党迫害の中に火の様な信仰を輝かした青年殉道者の一人として、ローマンチックな色彩に彩られた又雄さんの名が敬二の耳に初めて響いたのは、敬二がまだ七八歳の頃であった。十一二歳の敬二は、帝国大学の前身開成学校から京都協志社英学校に転じ別格聖書級の二三を下らぬ秀才として校長飯島先生から殆んど下へは置かぬ待遇を受けて居た又雄さんを見た。それから唯七年、敬二の身長が一尺余伸びる間に、又雄さんは燧灘の波ひたひたと寄する予州の浜辺に、数百の信者を作り、大きな会堂を建て、其教会の評判は遠く海外に騁せ亜米利加から祝意を表してわざわざ音の好い大きな鐘を贈って来た程の成績を挙げたのである。十八の春、又雄さんに連れられ、郷里の熊本から伊予に往って、日曜の朝夕、水曜金曜の夜毎に、其好い鐘の音を敬二は聴いた。

 この文章の敬二は蘆花(健次郎)、協志社英学校は同志社、校長飯島先生は新島襄、又雄は従兄の伊勢時雄、それに予州の浜辺に今治をあてると、自伝作品のモデルがはっきりしてくる。若き日の蘆花は、今治教会で一年数力月の間、アメリカから贈られた「音の好い大きな鐘」の音を聞いて信仰生活を送ったわけだが、その「鐘」は戦時中に鉄くずとして供出され、また教会も昭和二〇年八月六日の空襲で焼失してしまった。

 坊つちゃん  夏目漱石

 夏目漱石(慶応三 一八六七~大正五 一九一六)に東京生まれ。本名金之助。松山を舞台に書かれた漱石の『坊っちゃん』は、「ホトトギス」(明治三九年四月号)に発表された初期短編の一つである。虚子のすすめにより書いたもので、同じ年に発表された「草枕」「二百十日」とともに、翌四〇年(一九〇七)一月、小説集『鶉籠』として春陽堂から出版した。漱石の松山での生活は、日清戦争が終わった年-明治二八年四月上旬から翌二九年の四月上旬までの約一か年間である。その一か年の教師生活を素材として一一年後に書き上げられたものである。
 作品の中で、天麩羅四杯食った坊っちゃんが生徒にひやかされた時、二時間あるくと見物する町もない様な狭い都に住んで、外に何にも芸がないから、天麩羅事件を日露戦争の様に触れちらかすんだらう。憐れな奴等だ」という文章があり、「日露戦争」ということであれば、一一年前の経験をずらして作品の背景を執筆当時にしたとも考えられる。『坊っちゃん』は、あくまでも創作であり、作者は主人公より一段高い所におり、松山を背景にはしているが、それは田舎町の典型としての松山で、作中人物も、松山人という特定の地域人ではなく、明治中期の洗練されていない田舎的俗物一般とみることができよう。
 漱石と松山の関係は、漱石と子規の関係にはじまる。二人の交遊の始まりは、明治二二年一月のことで、二人ともに二三歳、第一高等中学校に在学中であった。その後、三五年九月に子規が他界するまで二人の充実した友情は続く。漱石が、二八年四月に東京の生活から逃げだした理由は、家庭の不和説・失恋説など諸説あるが、松山を選んだという点では子規との関係を抜きにしては考えられまい。漱石はすでに一度松山を訪れているからである。それは明治二五年八月上旬のことで、三津浜に上陸、松山市湊町一丁目一番地の正岡子規(五度目の帰郷をしていた)宅を訪れている。城戸屋に宿を取り、毎日のように子規を訪ね、そこで子規に紹介されて高浜虚子に初めて会っている。その時の印象を、虚子は「十七八の私の目から見た二人の大学生の遥かに大人びた文学者としてながめられた」と書いている。
 明治二八年四月、愛媛県尋常中学校(松山中学校・現在の四国電気通信局の位置)の嘱託教員として就任するため東京を脱出した漱石は、九日午後三津浜港に着き、軽便鉄道(いわゆる〝坊っちゃん列車〟)に乗り、午後二時頃松山市に到着、前に泊まったことのある城戸屋にひとまず落ち着いた。

  ぶうと云って汽船がとまると、艀が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめてゐる。野蛮な所だ。尤も此熱さでは着物はきられまい。日が強いので水がやに光る。見詰めて居ても眼がくらむ。事務員に聞いて見るとおれは此所へ降りるのださうだ。見る所では大森位な漁村だ。人を馬鹿にしてゐらあ。こんな所に我慢が出来るものかと思ったが仕方がない。威勢よく一番に飛び込んだ。続づいて五六人は乗ったらう。外に大きな箱を四つ許積み込んで赤ふんは岸へ漕ぎ戻して来た。陸へ着いた時も、いの一番に飛び上がって、いきなり、磯に立って居た鼻たれ小僧をつらまへて中学校はどこだと聞いた。小僧は茫やりして、知らんがの、と云った。気の利かぬ田舎ものだ。猫の額程な町内の癖に、中学校のありかも知らぬ奴があるものか。(中略)停車場はすぐ知れた。切符も訳なく買った。乗り込んで見るとマッチ箱の様な汽車だ。ごろごろと五分許り動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三銭である。夫から車を傭って、中学校へ来たら、もう放課後で誰も居ない。宿直は一寸用達に出たと小使が教へた。随分気楽な宿直がゐるものだ。校長でも尋ね様かと思ったが、草臥れたから、車に乗って宿屋へ連れて行けと車夫に云ひ付けた。車夫は威勢よく山城屋と云ふうちへ横付にした。

 四月一〇日、教員としての辞令が発令され、新学期の授業が始まる。この時、漱石は二九歳、月給八〇円。英語教師として四、五年生にアービングの『スケッチ・ブック』などを教えており、教え子の中に桜井忠温や松根豊次郎(東洋城)、晩年漱石の主治医となった東大物療科の開祖真鍋嘉一郎などもいた。
 一方、『坊つちゃん』の主人公は、物理学校を卒業したばかりの数学の先生で、年齢は「二十三年四ヶ月」、月給は四〇円、授業の様子は次のようなものである。

  愈学校へ出た。初めて教場へ這入って高い所へ乗った時は、何だか変だった。講釈をしながら、おれでも先生が勤まるのかと思った。生徒は八釜しい。時々図抜けた大きな声で先生と云ふ。先生には応へた。今迄物理学校で毎日先生々々と呼びつづけて居たが、先生と呼ぶのと、呼ばれるのは雲泥の差だ。何だか足の裏がむづむづする。おれは卑怯な人間ではない、臆病な男でもないが、惜しい事に膽力が欠けて居る。先生と大きな声をされると、腹の減った時に丸の内で午砲を聞いた様な気がする。最初の一時間は何だかいゝ加減にやって仕舞った。然し別段困った質問も掛けられずに済んだ。控所へ帰って来たら、山嵐がどうだいと聞いた。うんと簡単に返事をしたら山嵐は安心したらしかった。
  二時間目に白墨を持って控所を出た時には何だか敵地へ乗り込む様な気がした。教場へ出ると今度の組は前より大きな奴ばかりである。おれは江戸っ子で華奢に小作りに出来て居るから、どうも高い所へ上がっても押しが利かない。喧嘩なら相撲取とでもやって見せるが、こんな大僧を四十人も前へ並べて、只一枚の舌をたゝいて恐縮させる手際はない。然しこんな田舎者に弱身を見せると癖になると思ったから、成るべく大きな声をして、少々巻き舌で講釈してやった。最初のうちは、生徒も姻に捲かれてぼんやりして居たから、それ見ろと益得意になって、べらんめい調を用ゐてたら、一番前の列の真中に居た、一番強さうな奴が、いきなり起立して先生と云ふ。そら来たと思ひながら、何だと聞いたら、「あまり早くて分からんけれ、もちっと、ゆるゆる遣って、おくれんかな、もし」と云った。おくれんかな、もしは生温るい言葉だ。早過ぎるなら、ゆっくり云ってやるが、おれは江戸っ子だから君等の言葉は使へない、分らなければ、分る迄待ってるがいゝと答へてやった。此調子で二時間目は思ったより、うまく行った。

 このあと、小説は、天麩羅事件・団子事件・温泉遊泳事件・バッタ事件と生徒の〝悪戯〟が続くわけだが、実際の漱石の教え子たちは、小説ほどに乱暴ではなかったようだ。明治二八年七月二六日付の斎藤阿具あての手紙の一節には、次のように記されている。

  当中学校は存外美少年の寡なき処其代り美人があるかと思ふと矢張り払底に御座候。何しろ学校も平穏にて生徒も大人しく授業を受け居候。小児は悪口を言ひ悪戯をしても可愛らしきものに御座候。

 また、赴任一週間後の近況を、恩師である神田乃武(東京第一高等中学校の英語・ラテン語教師)に送った手紙の一節には、次のように記している。

  教授後未だ一週間に過ぎず候へども地方の中学の有様などは東京に在って考ふる如き淡泊のものには無之小生如きハーミット(注=隠者)的の人間は大に困却致す事も可有之と存候。くだらぬ事に時を費やし思ふ様に強勉も出来ず且又過日御話の洋行費貯蓄の実行も出来ぬ様になりはせぬかと竊かに心配致居候。

 なお、校長の狸・教頭の赤シャツ、その腰巾着の野だいこ・英語教師のうらなり、正義派の山嵐、それに坊っちゃんまで、学校内の人事的葛藤をめぐって、そのモデルがいろいろと穿さくされているが、文学作品としての『坊っちゃん』を読む場合、それはあまり意味のないことであろう。『坊っちゃん』を発表した直後の明治二九年四月二一日付、村上霽月あて漱石書簡の一節に「赤しゃつも野田もうらなりも皆空想的の人間に候。津田の所は少々かき候が過半はいゝ加減なものに候。実歴譚でもない様に候」と、はっきりモデルを否定し、『坊っちゃん』が実歴譚でないことを明記している。
 「湯の中で泳ぐべからず」と貼り杜を出された坊っちゃんは「おれはこゝへ来てから、毎日住田の温泉へ行く事に極めて居る」ほどの温泉好きで「ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉丈は立派なものだ」と惚れ込んでいる。漱石も「道後温泉は余程立派なる建物にて八銭出すと三階に上り茶を飲み菓子を食ひ湯に入れば頭まで石鹸で洗って呉れるといふ様な始末随分結好に御座候」(明治二八年五月一〇日付狩野亨吉あて書簡)と書き送っている。漱石もまた温泉好きだったのだろう。道後温泉は、漱石が松山へ赴任する前年の夏ごろ新築されたばかりの建物であった。
 この手紙の末尾には「当地下等民のろまの癖に狡滑に御座候」とも書いている。これは手紙だから「当地」とは松山を指しており、大へん手厳しい批判である。『坊っちゃん』の中でも、その背景となった風土や人間について次のように記している。さきに記した天麩羅事件に続く文章である。

  小供の時から、こんなに教育されるから、いやにひねこびた、植木鉢の楓見た様な小人が出来るんだ。無邪気なら一所に笑ってもいいが、こりやなんだ。小供の癖に乙に毒気を持ってる。

 また、次のような一節もある。

  廿五万石の城下だって高の知れたものだ。こんな所に住んで御城下だ杯と威張ってる人間は可哀想なものだ……
  こんな卑劣な根性は封建時代から、養成した此土地の習慣なんだから、いくら云って聞かしたって、教へてやったって、到底直りっこない。こんな土地に一年も居ると、潔白なおれも、この真似をしなければならなく、なるかも知れない。

 坊っちゃんは、最後に中学生と師範生との喧嘩(松山で実際に事件があったのは、明治二八年七月一三日。このとき漱石は師範生になぐられている)に巻き込まれ、赤シャツの策略で、山嵐と二人で生徒を煽動し暴行をほしいままにしたと新聞に書きたてられてしまう。そして赤シャツとの対決ののち、校長の狸に辞表を郵送し、山嵐と二人で「この不浄な地」を離れるのである。読者は、この一種勧善懲悪的な物語を読み終わって、少しおっちょこちょいで正義感にあふれ、直情径行の快男子〝坊っちゃん〟の自在な生き方に共感をおぼえ、漱石一流のユーモアや反俗精神に小気味よいものを感じるであろう。一方、物語の中で、常に坊っちゃんの心の支えとなっている〝清〟とのさわやかで暖かい愛情も忘れることができない。
 漱石が約一か年間滞在した松山での生活を見てみよう。漱石は下宿を三度かわっている。最初は前記した城戸屋、次いで松山地方裁判所の裏手、城山の中腹にあった愛松亭。そして最後は、二番町の上野義方の離れで、そこを「愚陀仏庵」と名付け、自らを愚陀仏とも号した。従軍中の病気を須磨で療養していた子規が、帰郷後この下宿へ転がり込んだのは明治二八年(一八九五)八月二七日のことである。階下の二間を子規の居室と定め、漱石は二階に起居した。のちに明治の文豪と称される二人の共同生活は、子規がふたたび上京する一〇月一九日まで五〇余日間続いた。二人ともに二九歳であった。
 漱石は、明治二二年五月ごろから俳句をはじめているが、子規と同居するようになって句作も急に熱心となり、愚陀仏庵で盛んに行われた松風句会の運座にも参加した。子規『散策集』 一〇月六日。漱石と二人で道後界隈を散策し、帰途大街道の芝居小屋(新栄座)で「てには狂言」を見物したことが記されている。その二週間後の一〇月一九日、子規は三津浜港より上京の旅に出、それがふるさと松山との永遠の別れとなった。
 子規が松山を去ったあと、漱石は語るべき友もなく、この年一一月七日、子規に宛てた手紙の一節に、次のように書いている。

  十二月には多分上京の事と存候 此頃愛媛県には少々愛想が尽き申候故どこかへ巣を替へんと存候 今迄は随分義理と思ひ辛防致し侯へども只今では口さへあれば直ぐ動く積りに御座候 貴君の生れ故郷ながら余り人気のよき処では御座なく候

 子規に続いて漱石もまた明治二九年(一八九六)四月一一日、同じく三津浜港から第五高等学校講師(七月教授)として熊本へと去って行き、二度と愛媛の土は踏まなかったのである。

 怪談 小泉八雲

 イギリス人々日本に帰化した小泉八雲(嘉永三 一八五〇~明治三七 一九〇四)の短編小説集『怪談(KWAIDAN)』に松山市の桜を素材にした作品が二編収められている。八雲は、ギリシャのリュカディア島生まれ。島の名にちなんでラフカディオ・ハーン(ヘルン)と命名された。一八六九年アメリカに渡り、新聞記者として独自の分野を開き文筆家として名が知られた。明治二三年四月、四一歳のとき「ハーパース・マンスリー」誌の特派員として来日。やがて同誌と関係を絶ち、九月より松江中学の英語教師となる。翌二四年二月、旧藩士の娘小泉セツと結婚。一一月には熊本第五高等中学に転任。二九年二月帰化して小泉八雲となる。同年八月上京、東京帝国大学文科の英文学講師となった。
 『怪談』は、明治三七年四月、アメリカのハウトン・ミフリン社から刊行。この年九月、八雲は狭心症で急逝している。『怪談』は、平家滅亡にまつわる哀話「耳無芳一の話」をはじめとする一七編の怪奇物語と、虫の研究と題する三編が収められている。怪談の多くは、夜窓鬼談・仏教百科全書・古今著聞集・玉すだれ・百物語など、日本の古い書物から採っている。松山と関係のあるのは、一七編中の二編。第四話の「姥桜」、第一三話の「十六日桜」である。
 「姥桜」は、松山市大宝寺のうば桜を素材にしたものという。作品では「伊予国温泉郡朝美村西法寺」となっている。長者の一人娘が大病にかかり、お袖という乳母が西法寺の不動明王に願をかけ、娘の身代わりに死んで娘は全快するという話である。お袖は臨終間際に、不動様へのお礼に桜を一株奉納してくれという。その桜は翌年の二月二六日-お袖の命日に見事に咲き、それから「二百五十四年間-毎年二月二十六日にー続いて花が咲いた。その花は紅色と白とで、丁度乳で湿った女の乳房のやうであった。それで人はそれを乳母桜と呼んだ」という。
 「十六日桜」は、松山市龍穏寺の十六日桜を素材にしたものという。作品では「伊予国温泉郡山越村」とあり、寺の名前は記されていない。十六日桜と呼ばれる桜の名木が、毎年陰暦の正月十六日の日だけに花を咲かす由来が話の内容である。伊予の国に一人の武士がいた。年老いて身寄りもなく、先祖代々伝わっている庭の桜を愛することだけが生きがいであった。ところがある年の夏、桜は枯れてしまう。やがて老人にふとよい考えが浮かび(それは一月十六日であった)、庭に出て桜の樹の前に平伏し、自分が身代わりになるからもう一度花を咲かせてほしいと願をかけ、樹下に白布を敷いて武士の作法通りの切腹をする。「それで一月十六日、雪の時節に、毎年今もなほ花が咲く」のだという。なお、この「十六日桜」には、八雲の話とは別の話がある。親孝行な息子の願いで時ならぬ季節に桜の花が咲き、病み伏していた父親をよろこばせたという〝孝子感桜説〟である。『愛媛の文学散歩(一)』(秋田忠俊)に概要が紹介されている。