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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

一 政治小説 (明治前期)

 明治維新によって日本は近代を歩み始める。維新後の新しい建設をめざす自由民権運動の盛りあがりにつれて、政治の理想や見識を啓蒙的な立場で織り込んだ政治小説が流行した。この政治小説は、自由民権・国会開設・政党結成といった自由民権運動の展開を反映しながら、明治一四、五年ころから二〇年前後にかけて最も盛んに発表され愛読された。
 明治一四年(一八八一)国会開設の勅諭が発表されると、政党が次々と結成され、まず同年、板垣退助を党首とする自由党が生まれ、その翌年には、大隈重信を党首とする改進党や、帝政党などが組織された。この政党結成とともに政治小説も隆盛期にはいり、『雪中梅』で知られる自由党系の末広鉄腸、『新粧之佳人』で知られる改進党系の須藤南翠も、その代表的な作家として活躍した。二人ともに宇和島の出身である。

 雪中梅  末広鉄腸

 末広鉄腸(~明治二九 一八九八)は、嘉永二年(一八四九)二月二一日、宇和島笹町に宇和島藩士末広禎介の次男として生まれた。本名は重恭。一三歳で藩校明倫館に入学、一七歳で舎長となる。このころ、朱子学に満足せず、八幡浜の儒者上甲振洋の門に遊学し陽明学を修めた。明治二年(一八六九)明倫館教授となり、翌三年春はじめて上京したが混乱期の東京のため八月帰途についた。途中、京都の陽明学者春日潜庵に入門した。同五年帰藩して明倫館教授に再任。六月、廃藩置県により新設された神山県(前年の宇和島県を改称)の県官となる。しかし、上司と意見が合わず、同六年二五歳のとき退職して上京した。七年に大蔵省に入ったが、時運の向かうところを察して官を辞し、翌八年四月「東京曙新聞」に入社し編集長となった。当時の新聞界で論法・文章ともにすぐれ他を圧するものがあった。八月には制定されたばかりの新聞紙条例を攻撃して筆禍事件を起こし、禁錮二ヵ月罰金二〇円の判決を受けた。一〇月、成島柳北の主宰する「朝野新聞」に入社し編集長となり、社説に健筆をふるったがまた筆禍事件を起こし、九年二月に禁錮八ヵ月罰金一五〇円に処せられた。鉄腸は獄中において英語の独習に専念、出獄後も屈することなく論陣を張り自由民権運動に努力した。
 明治一四年(一八八一)一〇月、自由党結党とともに入党。常議員となり「自由新聞」の社説を執筆した。やがて板垣退助と意見が合わず一六年党を去り同志と独立党を組織した。このころチフスにかかる。のち体調をこわして療養につとめた。その余暇に、小説を通じて民衆の政治意識を高め、国会開設の期待と希望を実現する願いをこめて「夢ニナレナレ」を「朝野新聞」に連載した。一九年(一八八六)五月、それを『二十三年未来記』と改題し単行本として刊行、鉄腸の処女作となった。同年八月、『雪中梅』上編を、一一月にはその下編を刊行。翌二〇年(一八八七)四月から二一年三月にかけて『花間鶯』上・中・下編を刊行した。これらの作品は、非常な喝采を博し、政治小説の代表的作家として脚光を浴びるようになった。
 『雪中梅』とその続編とも見るべき『花間鶯』は、官民調和の思想を中心に構想を立て、作者の政治的主張と政策が反映された小説である。主人公は、作者の政治理想を体現する青年政治家国野基。その国野にひそかに心を寄せ、支援の手を差し伸べる才色兼備の元女教師富永お春。この二人の恋愛を軸に、お春の叔父夫婦の富永家遺産横領をからませ、陰険な保守派の川岸萍水や過激派の武田猛といった人物の動きを通して当時の政界における対立葛藤を描いている。お春には、親の定めた許婚者深谷梅次郎という人物がいたが幼時別れたままで消息も絶えていた。その深谷こそ国野基であることがわかり、二人はめでたく結婚する。莫大な遺産を受け継いだ国野は、それを資金にして政治活動を進める。やがて国野の官民調和論が朝野に共鳴を得て、国野の属する自由党が総選挙に大勝するといった内容である。作者は、登場人物や小説の題名に寓意を示している。深谷梅次郎は深い谷に咲く梅・『雪中梅』を、主人公の国野基は〈国家の基本〉を、深谷(国野)に春(ヒロイン)が訪れ、めでたく結ばれて花の間にうぐいすが鳴く(『花間鶯』)といった意味を含ませている。こうした寓意性には、啓蒙期における戯作的なものの影響が反映しているといえよう。政治小説は一種の宣伝文学であり、文学性において問題があるが、政治への関心・恋愛の自由・男女の平等性・社会奉仕の観念など、新しい思想が折り込まれていることに注目される。また、翻訳小説とともに、知識人の小説に対する認識を高め、やがて近代文学の台頭をうながす誘因となった功績も忘れられない。
 明治二一年(一八八八)四月、外遊の途に上り、米・英・仏国など欧米の政治事情を視察、翌年帰国した。この旅行の見聞は、翌二二年に『鴻雪録』『唖之旅行』の二著にまとめ刊行した。なお、この外遊中、フィリピン独立運動の志士ホセ=リサールを知り意気投合するが、そのことが、二四年(一八九一)に、植民地熱とフィリピン独立運動を描いた政治小説『南海の大波瀾』および続編『あらしのなごり』の二著を刊行する契機となった。のちこの二著をまとめた『大海原』(二七年)を刊行した。二五年には宇和島和霊神社の由来を小説化した『南海の激浪』を刊行。ついで二六年には『明治四十年の日本』を、二八年には『戦後の日本』前編を刊行した。この年に癌にかかり、翌二九年(一八九六)二月五日、現職の代議士のまま逝去した。四八歳であった。墓地は宇和島市大超寺奥の大超寺にあり、漢文で書かれた碑文(撰文は末松謙澄)が建っている。短い生涯で二〇数編の政治小説を書き残した末広鉄腸の願いは、自由民権を唱道しつつ民衆の政治意識の向上をはかり、官民調和を基本とする政党政治の確立にあった。それだけに政治家としての文学活動におのずと限界があったといえよう。

 新粧之佳人  須藤南翠

 須藤南翠(安政四 一八五七~大正九 一九二〇)は、安政四年(一八五七)一一月三日、宇和島郡鎌原通に宇和島藩御目付役須藤但馬の次男として生まれた。本名は光輝。幼時江戸に出て藩邸で育つ。明治三年(一八七〇)、一四歳のとき宇和島に帰り、藩校明倫館に学び、ついで松山師範学校に転じ、卒業後しばらく三津浜小学校教師となる。九年(一八七六)に上京。徴兵のがれのためとも、いとこの穂積陳重が大学南校に進学したことに刺激されたためともいわれている。上京後しばらく放浪生活を送り、一一年一月に創刊された「有喜世新聞」の活版工として入社。やがて社長に才能を認められ、編集部員として同新聞に「うきよばなし」の執筆を開始した。一六年一月。「有喜世新聞」が発禁となり、三月「開花新聞」と改題して再刊。松平外記の西丸刃傷沙汰を題材にした「昔語千代田刃傷」を連載して売り込んだ。ついで当時流行した毒婦ものと呼ばれる小説を手がけ「茨木於滝」(のち『茨木阿滝紛白糸』と改題)や「新藁阿皆心黒髪」「遠響鐘雨夜聞書」などを連載した。一七年八月、同紙は改進党の機関紙となり「改進新聞」と改題、一二月「黄金廼花籠」を発表し反響を呼んだ。
 一方、当時流行の政治小説にも目を向け「明治新説旭日美譚」(明16年)、トルコを舞台にした翻訳体の「秀才奇勲雪の下萌」(明17年)、時事風刺をこめた「遠砧音菊月」(明18年)などを発表し文名が高まった。ところが名声が世に広がると、宇和島出奔が徴兵令違反と追及され、一八年八月、宇和島裁判所から徴兵令違反で重禁錮と罰金刑を受け刑に服することとなった。その年の秋に帰京した南翠は、やがて政治小説家としての全盛期を迎える。
 一九年(一八八六)一月、明治以後の藩閥政治世相を諷刺した「慨世悲歌照日葵」を「改進新聞」に発表、ついで六月から「雨窗漫筆緑簑談」、九月から「新粧之佳人」を同紙に発表した。あとの二作品は単行本としても出版している。このころには「読売新聞」の饗庭篁村とともに明治文壇の両雄と称されるまでになっていた。当時の南翠を、幸田露伴は「能く読者心理を合点して、そしてそれに応じて物語の展開や結構を定めるだけの知を有してゐた人」で、篁村とともに「当時の小説壇の二巨星として輝いてゐた。その光に敵する星は先づ無かった」(「早稲田文学」大正一四・六所載「明治二十年前後の二文星」)と記している。
 『緑簑談』は、毎朝新聞主筆山田文治らが「政社」を設立。中央集権の弊を改め、地方自治制を振興しようとし、それに共鳴する越後出身の青年越山卓一らが、故郷で地方自治の精神を主張し、婦人矯風会を設立するに至る話を軸にしたもので、南翠の属していた改進党の政治的主張を具体化した作品である。この作品の後編序には、南翠の小説に対する考え方が述べられている。『新粧之佳人』は、題名のとおり、新時代の粧いをした佳人の物語である。政治家の夫を助ける貞淑な妻千代を中心に上流階級の婦人の生活を描き、女性の改良と向上を説いた作品である。南翠は、鉄腸ほどに政治的見識や政界内情の理解はなかったといわれるが、「政治小説を、小説として面白いものにした」(柳田泉)という功績が認められている。
 明治二一年、経済的に安定した三一歳の南翠は、矢野竜渓の姪小林シズと結婚。二二年一月、篁村や森田思軒らと「新小説」を創刊し、毎号に執筆。また新聞小説を連載し、九月には日本演芸協会の文芸委員となるなど文壇的にも幅広い活躍をした。このころの作品に、書生生活や秘密探偵の横行・保安条令の苛酷さなどを描いた「うつし絵」(二一年)、皮相的欧化主義・女性の性道徳を主題とした『雛黄鸝』(同年)、社会教育の腐敗を指摘した「濁世」(二二年)などがある。二五年(一八九二)、時勢に感ずるところがあって東京文壇と決別の気持ちを固め、一二月、大阪朝日新聞社に招かれて大阪に移住、同紙に小説や劇評などを発表した。二六年には、浪華文学会に加わり「浪花文学」にも関係した。やがて南翠は、中央から離れた関西の地で次第に「冬眠状態」(『南翠伝』)に入り、三五年(一九〇二)脳溢血で倒れた後は、しばらく創作の筆を断ってしまった。三八年退社して帰京、「東京朝日新聞」などに小説を発表。四〇年には、金尾文淵堂の依頼で「教祖伝記叢書」の執筆にかかり、『愚禿親鸞』『法然上人』『蓮如上人』『日蓮上人』などを発表して好評を得た。大正六年(一九一七)、病をおして『土居通夫君伝』にとりかかったが、同九年二月四日六四歳で不帰の客となった。墓地は東京青山にある。南翠について、猪野謙二は「要するに南翠という作家は、流行の政治小説をその恰好な足場として、旧時代の戯作者から新時代の通俗作家への道を掃い清めた過渡期の小説家」だと位置付けている。
 末広鉄腸・須藤南翠らによって代表される政治小説も、いわゆる帝国議会の開設とともに近代小説としての脱皮も遂げることなく急速に消え失せていった。