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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

3 来遊の詩人たち

 西条八十(明25~昭54)は大阪朝日新聞「民謡の旅」に「伊予の民謡」を書き、「伊予はよい国」を作詩した。新居浜市船木池田の船木神社境内に詩碑がある。赤松月船(藤井卯七郎明30~)は新居浜市瑞応寺で禅修行を積んだ。北条市下難波大通寺の水子地蔵に詩を刻んでいる。野口雨情(明15~昭20)は土佐より伊予に入り各地に音頭・小歌詞をのこしている。大洲・長浜・八幡浜・今治・西条などの町を作詞し、松山節はレコードが発見された。詞碑四基が建てられた。森繁久彌の火山の詩碑は波方町宮崎に二基。この地を踏んではいないが、サトウ・ハチローはテレビでみた新宮村金藤小学校児童たちの石ころ橋に感動し「このくりかえしこそ大切なんだ」を作詞した。全詩は刻されて、詩碑は金藤にある。
 県外出身者で愛媛にしばらくの歳月を送った詩人はそれぞれの足跡をのこしている。秋岡学(昭24~ 広島-愛大卒-岡山)は野獣に属し詩集「投影」を書き、水落博(昭9~ 広島ー三島高校卒-高松市)は「荒野」を創刊、詩集に「眠っているお前に」がある。医師浜崎美景(大11~ 三重-岡大医学部―別子住友病院・松山市民病院ー高松市)は、タッチの会・樫の会にあって、詩歌集「薔薇運河」・詩集「メランコリックな薔薇」たちを刊行した。
 有馬敲(昭6~)は昭和五七年から五八年にかけて松山に在住した。京都にあって詩活動をつづけ、すでに「海からきた女」ほか十数冊の詩集を持つ有馬は、詩作・朗読などを通じて松山詩壇にじゅうぶんな刺激をあたえて去った。有馬の初期の詩を掲げ、愛媛の詩を祝し前途を寿ぐ。

   海からきた女
 かの女は海からきた/頭にこんぶを生やし/口にはさんごをくわえて/かの女の腹のなかに/生まれたときの海の水が/そのまま揺れていた/恥部のてんぐさ/両耳の貝がら 深海の底から脱けてきたかの女の記憶の奥に/とこやみで低温の怖るべき圧力の世界があった/何千年のあいだ/かの女はそれにたえて陸にあがったのだ/灼けつく陽の下で/肌はうろこ色にかゞやき/潮のにおいがのこった/くびれた腰のうしろに/退化したひれの跡があった/核爆発と境界線を拒否した海/かの女の羊水のなかに/みずみずしい胎児は浮んでいた/かってかの女が持ってあがった潮水のなかに   (「海からきた女」昭42・7・1 思潮社発行)