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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

二 近代詩の成熟(大正期)

 日露戦争を境にして日本の文学は新しい局面を迎え、自然主義が勃興し、耽美主義思想が登場し、人道主義的風潮が興隆する。これらの思潮は大正的個性の多様な発現を促す。近代詩の歴史もまたこうした文学趨勢と軌を一にする。「明星」の廃刊(明治四一)と「スバル」の創刊(明治四二)はその転換の如実なあらわれであった。「明星」の浪漫精神と自我解放運動の発展上に、頽唐享楽的デカタニズムの色彩を加え反自然主義運動の牙城としての耽美主義運動が展開される。白秋・露風の象徴詩を承けた高村光太郎は近代的自我形成の軌跡を示して大正ヒューマニズムの一つの成果を示す。また、明治四〇年代にはじまる口語自由詩運動は広く詩と生活との交流を求め、詩の社会化を目ざした民衆詩派を形づくる。さらに大正一〇年代から昭和のはじめにかけての時期は、詩のみならず小説・批評等をも含めて、日本文学全般の転換期であった。第一次世界大戦後の経済不況・関東大震災の社会不安・資本主義による物質文明の流入・都市化社会構造の変容は、詩においても新しい時代に即応する言語表現を迫り、大正初期~中期の詩人たちの閉鎖的日常性を揺るがし、その個体的倫理や美意識を解体に向かわせた。現代詩の幕明けともなるものは「日本未来派宣言運動」(大正10年)、「ダダイスト新吉の詩」(大正12年)、「赤と黒」(大正12年)、「亜」の創刊(大正13年)などである。この頃、松山市で愛媛新報の記者たちが中心となり詩誌「赭土に哭く」(大正一一年発行)が刊行され、二号まで発行されているというが、終刊・内容などは不明である。

 悩める森林 多田 不二

 多田不二(明治二六 一八九三~昭和四三 一九六八)。茨城県結城市に生まれ、松山市で生を閉じた。本籍地松山市。四高・東大心理学部卒、時事新報学芸部記者を経てNHK。昭和一九年松山中央放送局長。二一年退職。松山観光協会再建・愛媛県観光連盟創設に参画した。大学在学中、「卓上噴水」にタゴールの詩を翻訳、「帝國大学」に詩を発表、「感情」同人として作詩しデメールを訳詩、詩話会結成に参加、「日本詩集」「日本詩人」に作品を掲載。大学卒後、第一詩集『悩める森林』を刊行し優美繊細な感覚を観念的に象徴化し、自詩誌「帆船」に拠りデメールの新神秘主義を主張、第二詩集『夜の一部』に自己観念を表出する。

  〈暗い路〉 影といふ影は殆んど忍辱の影だ/犬のやうに、たまらなく餓ゑた淫欲の影だ。/私はいつもそれを索きずって歩いてゐる/野山に充ち充ちた強い青葉の香ひさへ/この限りなく放縦な私の欲念をそそりたてている ああ一切は悩ましさの長い夜である/私の拒絶され壓迫された性欲の全部は/かくして遂に/海底のやうな静かな響音を生む日はないのか。 おお幼い私の生命/すべてに虐げられ鞭れた欲念のあとに輝き出づる芽生よ、/おまへは何時私を訪れる?/この苦しみのさなかにと、おお、私はおまへを待つてゐるのだ。/永い永い暗夜の彷徨のはてに。 -一九一八・一-(『悩める森林』大正9・2・5、感情詩社発行、四六判並製、装幀恩地孝四郎。献辞1頁、序詩(室生犀星)7頁、本文187頁、自序3頁、目次6頁。定価1円50銭。に所収)
  〈夜の一部〉 都会には毎日歩いてゐても/まるで初めて見る様な気のする街がある 時をりその街のいろんな物象が/私の記憶のうちで/どうにも掴めないぼんやりした形で浮び出す なぜか私はさういふ街が好きだ そこには寂しい劇場があったり/暗い樹蔭があったり/もしかひょっとすると白い襟巻した得体の知れない女が居る (『夜の一部』・現代詩人叢書19。大正15・4・20、新潮社発行。菊半截判紙装。序詩及び目次6頁、本文160頁、後書6頁。定価60銭。に所収)

 天上の砂 渡辺  渡

 渡辺 渡(明治三二 一八九九~昭和二二 一九四七)東予市出身、萩原朔太郎門下。「太平洋詩人」を主宰。詩集に『海の使者』(大正11・3・1中央文化社)、『天上の砂』(大正12・10・15抒情詩社)がある。筆名・芝崎街二ともいう。

 〈海の使者〉 私は曙に海から来た使者だ/だから私の性格に藻の匂ひが滲みついてゐる/私の頭に蓴い貝殻が填ってゐて/絶えず蒼い息を吹き出してゐる/胸に赤い珊瑚樹の枝を飾り/腋の下には生々しいうろこが四五枚残ってゐる/私の中には里い波がいつも打ち寄せて居り/私の心は健康な岸邊だ/波を受け取り波を返して/いつも寂しく笑ってゐる/暗い瞳をもつ陸地の住民に/明るい眼玉を送りとどけるために来た/海の心を売り捌くために/夜のままの黒い身装で唄いながら/曙の海から出て来た (『海の使者』 大正11・3・1中央文化社発行。四六判布装上製函入。序(山村暮鳥)1頁、自序2頁、挿絵1葉(恩地孝四郎)、本文118頁、目次4頁。定価1円50銭。に所収)
 〈小曲〉 詩人の手で ばらは折れまい/ばらには とげがあって/ゆびを刺す/とげをつかんで/詩人の手はこのとほり血まみれた 血まみれの手を青空にかざし/指と指とのあひに白雲を挾んだ/指のまたに咲いたのは天上の花だ/これはおもしろいことではないか/血まみれの紅珊瑚のゆびに/ぽつりぽつりと/純情の野ばらの花が咲き出した(『天上の砂』 大正12・10・15抒情詩社発行。四六判布装上製函入。著者小照1葉、序(萩原朔太郎)3頁、目次5頁、本文132頁。定価1円50銭。に所収)

 ダダイスト新吉  高橋 新吉

 高橋新吉(明治三四 一九〇一~)伊方町に生まれる。大正一一年九月「改造」に〝ダヽ詩三ツ〟を発表、翌一二年『ダダイスト新吉の詩』を出版、その強烈な破壊的精神と本能的絶叫は注目を集めた。「私のダダは仏教の擬装したものであった」と後年述懐するように、新吉のダダイズムは第一次世界大戦後の欧州に起こった前衛芸術運動に触発されたとはいえ、根本的には東洋の虚無思想に発するものといわれる。人間および事物の本質を究極の「無」にまで追いつめねばやまない思弁性と、それに自分の体験を合一させようとする原始的エネルギーの故に精神の危機にさらされ狂人ともみなされたが、戦後は焦躁と怒りをしずめて闊達な詩法により人間の生死・時間・宇宙を主題にするにいたる。
 『ダダイスト新吉の詩』は辻潤によって編された。佐藤春夫は「序」のなかで〝高橋の芸術と生活とはアカデミシャンの様子ぶった芸術に対する、又、平俗的幸福のなまぬくい生活に対する徹底的反抗と挑戦である″といい、辻潤は「跋」のなかで〝彼はダダの精神を最初に最も強く、深く把握した日本における先覚者だ〟という。中原中也・壷井栄治などへ影響を与える。その壷井は〝今までの詩の概念に囚われている人々にとって、全く一個の怪物のように見えるであろう。それは鋭利なるヒ首であり、ピストルであり、爆弾である〟と衝撃を語っている。以後、詩集『祇園祭』(昭和元年)、『高橋新吉詩集』(昭和3年)、『新吉詩集』(昭和11年)、『高橋新吉の詩』(昭和24年)、『高橋新吉詩集』(昭和27年)、『胴体』(昭和31年)、『高橋新吉詩集』(角川文庫・昭和32年)、『鯛』(昭和37年)、英訳詩集『残像』(昭和46年)、『定本高橋新吉全詩集』(昭和47年)、『残像』(昭和51年)があり、『高橋新吉全集』全四巻(昭和57年・青土社)が刊行された。

 〈ツンボ〉 蝸牛は外聴道を歩いてゐた/鼓膜の中から誰か出て来た/去年亡くなった筈の蚯蚓だった/前庭ヘヒッコンで了った/遇ふのが恥しかったんだらう 拙者は生れた事もなければ/太陽舐った事もない (「改造」大11・10「ダゝ詩三ツ」より)
 〈49〉 皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿/倦怠/額に蚯蚓這ふ情熱/白米色のエプロンで/皿を拭くな/鼻の巣の黒い女/其處にも諧謔が燻すぶってゐる/人生を水に溶かせ/冷めたツチューの鍋に/退屈が浮く/皿を割れ/皿を割れば/倦怠の響が出る。(『ダダイスト新吉の詩』大正12・2・15中央美術社発行 所収)
 〈雀〉 焼け焦げたやうな雀が 草っ原を歩いてゐる。/此の生物を一掴みにして/ロに入れたい衝動と/大空に、砲弾の如く投げ飛ばして/再び墜ちて来ないやうにしたい欲求とが/僕の腕を顫はせた。 (『新吉詩抄』 昭和11・8・20所収)