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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

六 連句

 愛媛の連句の源流

 昭和五八年六月一一日、東京・芝・増上寺の増上寺会館に全国連句人一六〇余人が集まり、第二回全国連句大会と第一回「連句懇話会賞」の授与式があり、この日、参加連句人によって二一巻の連句が巻かれた。昭和の現代に「連句壇」が出来たともいえよう。-(宇咲冬男の文による。)この大会には、本県から六名参加し、鈴木春山洞は「捌き」をつとめた。本県にも「連句壇」が出来たともいえる。このように隆昌を来した現代の連句の源流は芭蕉一門の「俳諧」(五・七・五の句を発句とし、次に七・七の句〈脇句〉を付け、さらに五・七・五の句〈第三〉に七・七の句と交互に連ねて、百句、五〇句又は三六句に及ぶもの。三六句形式のものを「歌仙」といい、これが最も多い。)であり、古くは「俳諧の連歌」と呼ばれ、さらにその源は、中世の「連歌」、ということになる。このことは本書の、第三章中世・第四章近世の記述に譲り、ここでは、明治初期から現代に至る「連句」―古式の呼び方では「俳諧の連歌」(俳諧)の流れを見てゆくことにする。
 明治初年の本県の俳誌「真砂の志良辺」・「俳諧花の曙」の中には、「俳句」(当時の人の言い方では「発句」)の外に、「俳諧の連歌」の作品が数多く見られ、明治二三年頃まで、「俳諧の連歌」ということばが生きていて、これを楽しむ人人がたくさんいたのである。
 今日われわれが使っている「連句」という語は、『現代俳句大辞典』(明治書院刊)によれば、「高浜虚子により明治三七年、「ホトトギス」九月号(第七巻・第一二号)で始めて用いられた…」とある。〈ただし、子規は「俳人蕪村」(明31)、「隋間隋答」(明32)の中で「連句」という語は使っている。〉彼の意見は、「連句論」という題の、二段組み・四六ページにわたる長い作品で、「余が今爰に連句といふのは所謂俳諧連歌の事である。」ではじまり、「俳諧の連句といふべきを略して連句といふ方が俳句に対して截然と区劃が立つやうに覚えられる。…余は、今迄世間に用ひ来つた俳諧の名を取らず、敢て連句の二字を選んだのである。」と言っている。しかし、これよりも二二年前の明治一五年三月二〇日発行の、本県の「愛比売新報俳諧集」(別名・『花の曙』)第三〇回の中の「舎告」によると、作品の掲載料として、「連句 表六句 金拾銭、連句 一折 金二五銭、連句 一巻 金五拾銭」という記事が既に見えている。虚子はその連句を新しく見直そうとしたのである。

 俳体詩

 この連句とは別に、虚子は「ホトトギス」明治三七年八月号(第七巻第一一)の「俳話(六)」で、「稍連句を変化さした一新体を創めて見るのも善からうと思ふと漱石子にいふと、漱石子は、それは善からう、俳体詩とでもいふものか、といはれしより暫く俳体詩の名を冠することとする。但し俳体詩は未生児である。」といっているので、この「俳体詩」は連句の一新体として生まれた詩形で、その提案者は虚子、その名づけ親は漱石だったということになる。これは、連句の場合、隣り(前・後句)との間だけで別々の世界が成り立っているのに反して、一連の詩のようにしようとする試みであって、筋が首尾一貫しているところが、連句と違う点である。新体詩とは別の発想で、それと相似た詩形が考えられた点は注目されてよい。その一例、
「俳体詩」寺三題のうち「富寺」  (「ホトトギス」・明治三七年一〇月・第八巻・第一号所載) 漱石・作

  秋風の頻りに吹くや古榎    御朱印附きの寺の境内
  老僧が即非の額を仰ぎ見て   餌を食ふ鹿の影の長さよ

 子規と連句

 講談社版「子規全集」別巻三(575ベージ~592ページ)によれば、明治二三年から同三一年にわたって、子規が連句を作って楽しんでいたことがわかる。但し、その表題は「席上俳諧連歌」・「連歌」・「歌仙行」・「歌仙」・「半歌仙」・「聯句」などとなっていて、「連句」という用語は、子規はまだ実作面では使っていない。右の585ページには、明治二八年、子規が愚陀仏庵にいた時、その北隣にいた宇都宮夢大(丹靖・亀石・丹騎鶴とも)という宗匠と二人で巻いた歌仙二巻がある。(同全集第二一巻・547ページ以下も参照)
 この年、子規は、「芭蕉雑談」(同全集第四巻・258ページ以下)で、「発句は文学なり、連俳は文学に非ず、―」と言っているが、この年及び、その前後には、子規は十分にこれを楽しんでいたようである。

 「大正」の連句

 大正時代に「連句」を大きくとり上げたのは松根東洋城である。彼は、芭蕉に真の俳諧の境地を認め、また、真の俳句の骨髄にまで突き入るのには、芭蕉の「連句」を味解しなくてはならない、として、「渋柿」(大正一二年七月号以降)に「日本文学の諸断面(其一)連句」を連載して注目を引き、この「連句研究」の上に、寺田寅彦らとの連句(歌仙)の実作をも、数多く発表している。

 「昭和前期」の連句

 昭和前期の連句について、まず取り上げなければならないのは、昭和一三年四月、高浜年尾の編集・発行で、俳誌「俳諧」が創刊されたことである。はじめは年二回発行で、一部二〇〇ページ前後。同一七年三月号より月刊となったが、同一九年六月号より、雑誌統合のため「ホトトギス」に合併した。本誌は、虚子が、俳諧文芸の中で俳句ばかりが盛んで、連句(外に、俳文・俳画・俳諧詩など)が振るわないことを残念に思い、特に連句の創作・復興を目的として、長男の年尾に出させた雑誌である。
 高浜年尾は、さらに、戦後の、文化に飢えている社会に対して、昭和二一年六月、『俳諧手引』(創元社・百花文庫)という、連句の啓蒙的な著作を刊行したことも、特記すべきことであった。
 この『俳諧手引』発刊の背景としては、昭和一八年が芭蕉の二五〇年忌に当たるため、日本文学報国会によって記念行事が行われ、その中の連句委員会(高浜虚子・柳田国男・深川正一郎ら)によって、「昭和俳諧式目」が制定されたこと、昭和一九年一二月八日に、日本文学報国会俳句部会の連句委員によって、一〇月以来四回にわたって作り上げられた歌仙一巻を、明治神宮に献詠したことなどがあった。

 「昭和後期」の連句

 昭和四五年六月創刊の「すばる」誌上に安東次男の「芭蕉七部集評釈」が連載されたり、この年、信州大学教授・東明雅らによって、「昭和連句復興運動」が提唱されたりして、連句に光があたりはじめ、その盛り上がりを見せはじめたが、昭和五〇年に入っていよいよこの気運は高まり、全国的に連句研究が盛んとなり、『連句入門』(東明雅著・昭53)・『芭蕉連句評釈』(星加宗一著・昭50)など多数刊行され、専門誌には、「連句研究」(昭和五〇年創刊・阿片瓢郎)などがあり、昭和五六年秋には、全国的組織として、「連句懇話会」、同五七年、「全国連句大会」がそれぞれ発足し、連句見直しの気運がいよいよ高まって来た。

 本県連句界の現状

 以上のような全国的な状況のもと、本県には、現在、連句会が次々と誕生し、それぞれ、独自の活動を活発につづけている。(代表者はすべて松山市在住)
O「草茎」松山支部(俳句・連句) 昭和一八年結成 師系ー宇田零雨 代表者-松永静雨 会員-五〇名
○松山連句会 昭和四三年八月結成 師系ー星加帚木(宗一)・富田狸通 代表者-永田黙泉 会員-一五名
○東松山連句会 昭和五三年四月結成 師系ー阿片瓢郎・永田黙泉 代表者-重松冬楊 会員-五名
○南海放送学苑連句教室 昭和五三年一〇月結成 代表者-永田黙泉 会員-一五名
○松山連句教室 昭和五三年一〇月結成 代表者-松永静雨 会員-一〇名
○芭流朱連句会 昭和五五年一一月結成 師系ー松根東洋城 代表者-鈴木春山洞 会員-七〇名 (「バルシュ」はドイツ語で、「鱸」のこと。代表者名「鈴木」に因む。)
○三如会 昭和五六年三月結成 世話役ー渡部伸居 会員ー七名
 なお、昭和五七年一〇月一六~一八日の三日間、松山市で「俳文学会第三四回全国大会」が開催された時、俳文学会会員・鈴木春山洞らの斡旋により、「俳文学会第三四回全国大会記念歌仙」の会が、昭和五七年一〇月一七日午後五時半より、道後国際ホテル大和屋で盛大に挙行された。出席者八一名。歌仙五巻、半歌仙四巻、十八公三巻、計一二巻の連句が巻き上げられた。これは、五四〇年前の「伊予・大山祇神社・法楽連歌」に脈々と流れる伊予の人々の連歌の心のよみがえりともいうべく、又、俳句のメッカ松山が、古来、「俳諧の連歌」流行の地でもあったことを示したものでもあり、連句ブームを反映した大会であった、ともいえよう。なお、半歌仙は歌仙(三六句)の半分の意味で、一八句の連句で未完成のもの。一八公は松にちなんだもので一八句ではあるが完成した連句のことをいう。
 この日の席での発句はすべて、正岡子規の俳句で、句碑となり、よく知られているもの一二句をたてた。この会での捌きは、俳文学会をバックに、地方では考えられない豪華メンバーで、清水瓢左・大林杣平・岡本春人・今泉忘機・東明雅・石原涼・宮脇昌三・大畑健治・高橋香吟・三好龍肝、それに地元から、永田黙泉・松永静雨が加わった。席名は、松山地方名物尽くしで、それぞれ「松山城・伊予絣・いよのゆ・ていれぎ・五色そうめん・三津の朝市・薄墨桜・坊っちゃん団子・紫井戸・こかきつばた・挿桃・緋の蕪」と名づけられた。
 本会は、愛媛の連句史上に、新たな時代の到来を示したものであり、全国的にも大きな影響を与えた。  当日の歌仙の一例・「いよのゆ」席  脇起付勝歌仙・「松に菊」の巻  岡本春人・捌

  松に菊古きはもののなつかしき  子規居士     添水間遠にひびく闇なり  久  三日月かかる城の白壁      春 人      打ち寄する波のかたちも冬らしく  珠
  鳴きわたる雁に更けゆく宴にして 春山洞      千六木に刻む大根   津夜子

 外国から強力な文学が入って来ると、しばらくは、わが国固有のものが息をひそめ、約一〇〇年を周期としてまたよみがえる。平安初期の和歌対漢詩文がそうであり、明治初期の連句(俳文学)対西洋文学についても同様のことがいえる。-という説がある。(季刊「連句」創刊号-昭五八・六・一発行-の「連句の復活とその将来」・東明雅) それはともかく、新たな「連句の時代」が再来したことは確かなことであり、この面での、本県連句人の一層の活躍を心から期待したい。