データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

一 子規以前の俳句(明治前期)-明治二〇年頃まで

 子規以前の俳人たち

 年号が慶応から明治と変わったのは、西暦一八六八年九月八日のことであったが、俳句の世界は、前時代の延長であって、相変わらず、天保時代の月並調が大勢を占め、京都の桜井梅室・成田蒼虬、江戸の田川鳳朗の流れを汲む俳人が多く、このほか、芭蕉門の其角を師とする松木淡々の流派や、名古屋の加藤暁台を師とする松山の栗田樗堂門の俳人もある。この時期の俳人を東予・中予・南予の順で挙げてみよう。
 土居町 「俳諧花の曙」(後記)でも活躍している三宅棹舟(~明二〇・64歳) 新居浜市 「二名会」主宰・「月次発句集」を刊行した秋葉鳳楼(~明四二・80歳) 住友別子鉱業所支配人伊庭湖舟(~大一五・80歳) 小松町今井梅仙(~昭四・95歳) 今治市 一勺庵丹下蒼水(~明四万71歳) 村上蘆岬(~明一九・74歳) 守田北洋(~明二一・65歳) 関西俳人三十六傑に数えられた広川九圃(~明四五・93歳) 鳳朗門でその名を知られた田頭半窓(~明二七・90歳) 今治藩士丹下逸翁(~明二九・72歳) 村上陽山(~大一二・70歳) 菅松圃(~明三四・46歳) 吉海町 河野道積(~明三〇・53歳) 菊間町 田房芝香(~明一一・59歳) 北条市花叟の父・仙波赤城(~明三八・59歳) 松山市 樗堂門の黒田白年(~天保一〇・65歳)-黒田幽照(~明四・57歳)-黒田青菱(~明二七・57歳)-黒田青江(~昭三・59歳)の一家 十如庵白石六外(~明一九・82歳)武田亀柳(~明三二・73歳) 南画家天野方壷(~明二七・67歳) 箕田の父、因是の弟渡部因阿(~明二九・65歳 東方村) 佐々親応(~明ニ八・52歳) 安心庵関谷松翁(~明二六・49歳 久米三蔵院)彫刻師黒田汲泉(~明一八・49歳) 温里園二神鷺泉(~大一五・80歳) 月の本宗匠野中里水(~大九・68歳) 花の本芹舎門の崎山青葵(~昭九・79歳 能楽) 一日庵遠藤土岐古(徳善寺住職) 安永梅友(久米村) 井門春蟻(~明一七 高井村)とその妻少鸞(~明一七) 松山藩士・愛敬社主宰・鶯居門の古静庵高市冬語(~明二三) 川内町近藤林内(~明二一・70歳) 重信町 武智蘆岳(~明一二・73歳) 砥部町 時雨庵小笠原蘆葉(~明一〇・65歳 医師・寺小屋師匠)その子、百仙(~明四五・55歳 句会主宰) 阿部万世(~明四三・86歳 医師・句会主宰) 伊藤五松斎(~明四三・79歳) 伊達陶崖(~大一〇・58歳) 伊予市 陶半窓(~明六・75歳)西岡柿遊(~明九・65歳 淡々系指導者)  「俳諧名月集」編さん者の宮内角丸(~明二九・74歳 弟青芳・枝丈と俳諧三兄弟) 芹舎門の宮内木虬(~大四・86歳) 五風庵山田十雨(~昭三五・79歳 理髪業) 伊予市で「橿姿社」を興し、砥部町に移った森石山(~明四一) 松前町 仲田蓼村門の弓立木長(~明九・86歳) 松楽庵二世武智二鶴(~大一三・67歳 宮司)と玉井千蘿(~明四〇・85歳)は「永楽社」設立、月刊俳誌「松の美登里」刊行 久万町 相原如江(~明二〇・71歳 梅室門) 稲田尾白(~明三七・78歳) 大洲市 坐華庵寺尾歩月(~明二三「肱の華」選者) 内子町 曽根霞洞(~明四〇・76歳 医・製茶業) 曽根つや女(~明二〇) 八幡浜市 野田五升(~明五・70歳 宗匠) 牧野黙亀(~明三五・91歳 薬種業) 菊池半逸・半翁 (~明二四・76歳) 神野松人(~明一五・67歳) 山本ト水(~明二〇・68歳) 倭村鴎流(~明四二・86歳)近藤花兄(~明三二・76歳) 河野観海(~明三二・75歳 酒造業) 菊池鬼外(~明一九・61歳 木亭の祖父)兵藤百丈(~明一九・56歳 日土村庄屋) 梶谷南海(~明四一・76歳) 野本央鳥(~明一五・50歳) 久保見春(~明二九・59歳 医師) 米子三笑(~明二七・57歳) 谷蘭畹(~大七・79歳 藩医・宗匠 御荘町生)鍋島蘆鶴(~明四四・72歳) 野田梅室(~明四三・67歳) 梶谷杏洲(~昭三・81歳 医師)と弟栗洲(医師)谷蘭畹門の亀井得山(~大一五・66歳 医師) 荒木恕軒(~昭三・69歳 医師) 萩森一舟(~昭二・66歳)保内町 須川月並会主宰の鈴木筠圃(~明四〇・66歳) 瀬戸町 井上宜甫(~明三六・62歳) 宇和町 上甲八歩(~明一三・64歳) 渡辺公斎(~昭一五・76歳 宗匠) 広田潜龍(~昭二一・79歳 宗匠) 吉田町 高月楽園(~昭四・71歳) 静渓庵清家耕雨(慶応三~?) 宇和島市 二宮波同(~明一・60歳 宗匠) 西河梅庵(~明一七・71歳 明倫館塾舎長) 淡々系の告森幽亭(~明二六・74歳 宇和島藩大参事 静幽廬七代)大塚紫麦とその弟土居無腸(通夫)(~大六・89歳 八千房宗匠) 松浦菊翁(~明二七・75歳 静幽廬系 別号士乙) 大内一涓(元治一~?)。
 これら、いわゆる旧派俳人の中で、とくに顕著な活動を示した俳人たちについて、述べてみよう。

 大原其戎と「真砂の志良辺」

 其戎(~明二二・78歳)は父大原其沢の後を嗣ぎ四時園二世を名乗り、その子其然の四時園三世まで約八十年の間、三津を中心とする地方俳句界の宗匠であって、奥平鶯居と共に、伊予俳諧の双璧といわれた。万延元年(一八六〇)上洛して桜井梅室の門に入り、文久二年(一八六二)二条家から「宗匠」を許された。明治一三年一月自宅(伊予国和気郡三津栄町三五番地)に明栄社をひらき、全国でも三番目に古い月刊俳誌「真砂の志良辺」を発行した。発行日が毎月一二日となっているのは、「花の本大神」とたたえた芭蕉の命日(元禄七年一〇月一二日)にちなんだものであろう。先行の二俳誌は東京で発行されたもので、三番目の月刊俳誌がこの南海道の一漁港に芽生え、しかも、さきの二誌が短命であったのに比べて、明治二七年九月号まで通巻一六一号も続刊された。(以後終刊不明)なお、本誌に投句した俳人は県内・四国はもとより、東北から九州・天草にまで及び、其戎在世中で七二四人に達した。その門弟との風交の姿は、「四時園社中三十六雅花月廼志良遍」(明治五年)や古稀賀集「おいまつ集」に偲ぶことが出来る。正岡子規が明治二〇年、三津に其戎を訪ね教えを受けた事は後述する。

 内海淡節と内海良大

 淡節(~明七・65歳)は松山藩士。致仕して上洛、其戎と同じく桜井梅室に師事、花之本脇宗匠となり、梅室の養嗣子となる。明治五年松山に帰り、黒田青菱、宇都宮丹靖らの地方俳人を指導した。其戎とも、同門のよしみで親交があり、万延元年、其戎が芭蕉の句碑建立記念句集「あら株集」刊行の時には、その序文を書いている。淡節は松山に居ることわずか三年、広くは知られなかったが精練温雅な旧派の俳人であった。その娘米子(香畦女史)は入婿内海良大(~明二五・59歳)の妻となる。良大は淡節に推されて京都の芭蕉堂に入り花の本七世を継ぎ、明治一三年、『俳諧発句明治集』を刊行、四〇か国五四四人の句を載せており、うち、伊予の俳人は淡節・丹靖・可等・倡庭・其戎ら一九名で、「明治集人別表」によれば全国で第七位となっている。

 奥平鶯居と「俳諧花の曙」

 鶯居(~明二三・82歳)は松山藩筆頭家老で藩政の首班に列し家禄三三〇〇石。江戸の俳人田川鳳朗の門に入り、その中の偉才として中央の俳壇にもその名を知られた。
 明治一四年六月、週刊新聞「愛比売新報」の別冊俳誌として「俳諧花の曙」が創刊され、鶯居はその選者となった。これは週刊俳誌としては全国で最初のものと思われるが、二二号からは月二回刊となり、明治一六年一二月五日付六二号までは資料があるがそれ以後は不明。発行所は伊予国温泉郡湊町四丁目五三番地風詠舎となっている。投句者は全国各地に及び、県内だけでも五〇〇余名に達しており、さきの「真砂の志良辺」の俳人(明栄社社中)の数と合わせて考えると、明治一四~一六年頃の本県俳人の層がいかに厚かったかということが分かる。なお「愛媛新報」発行者武市英俊は子規の友人、武市幡松(後出)の伯父である。
 其戎と鶯居は当時の松山俳壇の双璧であって、二人は相提携して、ともに俳句の興隆につとめていた。

 「俳諧花の曙」と和詩

 「俳諧花の曙」に、伊予国野間郡の佳笑の「安芸の国の小鶵島大長村桃山に遊びて」と題する作品がある。「木の間を洩るゝ日影長閑に  花の色香をうつすわたつ海  もゝにあやかる己が齢の  千年ものびる心地なりけり」  (明治一六年三月五日付通巻第三〇号)
 三句目以外の終わりが五十音図の「イ段」の音に統一されていて、漢詩の絶句と同じように脚韻を踏んでいる。右の例は七言四句であるが、他に五言のものや八句形式のものなど、さまざまな形式のものがある。
 この「和詩」(仮名詩)は芭蕉の門人各務支考がはじめたもので、伊予では、道後円満寺境内に臥牛洞狂平が宝暦五年(一七五五)、支考追善の仮名詩碑を建てたのが現存しているが、「俳諧花の曙」には、この流れを汲んだ和詩が一四篇ある。西欧の詩の影響を受けて、外山正一らの「新体詩抄」が出版されたのが明治一五年(一八八二)であるが、形式の上では新体詩と異なることのない「和詩」が、「俳諧花の曙」では、明治一四年(一八八一)からすでに見られることは、近代詩の歴史を考える上で、見逃がすことのできないものといえよう。

 蜂須賀秋岳と「俳諧温岳新誌」

 県立図書館にある「俳諧温岳新誌」は明治二四年五月発行の第二一号で、月刊であるから、創刊は明治二二年九月であろうか。誌名の「温岳」は道後温泉に因んだもので、二一号は表紙とも一二枚 発行所-西京梅黄分社温岳社 発行者兼編集人-愛媛県伊予国温泉郡道後湯の町二百四十九番戸 蜂須賀兵蔵選者-西京花本不識庵聴秋宗匠などとなっていて、旧派俳諧一色の俳誌で、発行者蜂須賀兵蔵こと秋岳は京都の花の本芹舎の門人で道後の人、明治二六年、道後公園内湯釜薬師の後上に芭蕉二百回忌記念句碑を建てている。

 森孤鶴と「はせを影」

 明治二二年大原其戎没、翌年奥平鶯居没の後を受けて、三樹堂森孤鶴(~明九・71歳)が明治二四年九月五日、俳誌「はせを影」を創刊した。発行所-蕉影吟社 発行人-松山市小唐人町二丁目百六番戸 森恒太郎 一部五銭 月刊明治二五年四月第八号を発行している。その句風は旧派の域を出ていないが、第二号(明治二四年九月)に子規が「山路の秋」なる一文を寄せていることが注目される。本誌の投句者に野間一雲、叟柳父子のように、後に「松風会」や「ほとゝぎす」で活躍した人の名も見え、ここに、孤鶴が天外(失明してより 「盲天外」)と号して、後日「松風会」の会員となることへのつながりが見られる。

 俳諧光風新誌

 宇摩郡土居町教育委員会で保管中の同町山中家資料に「俳諧光風新誌」二部がある。三三号が明治三一年四月、三六号が同年一〇月発行となっているから隔月刊らしく、創刊は明治二五年一二月であろうか。編集兼発行者-愛媛県新居郡大生院村廿一番戸 高橋重義 発行所-山水社 三三号二四ページ、三六号五二ページ 一部八銭 純然たる旧派俳誌の一例で、県外からの投句者も多い。
 この時代の俳人の実態は把握しにくいが、子規以前の本県旧派俳諧時代の様子は大要以上の如くである。