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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

三 大正期

 牧水傘下に

 大正年代の歌壇は、若山牧水の主宰する「創作」の系統、今一つは窪田空穂、松村英一の拠る「国民文学」の系統によって主流を形成、これらの流れを汲む人々により、意外に華々しい短歌活動が見られた。その頃、特に中央で盛名を挙げた牧水の歌風が地方に及ぼした影響は著しく、愛媛の場合も例外ではなかった。一方、地味なうごきではあったが、空穂の温籍平明な歌柄に心を寄せた若い人々の一団があった。
 大正二年五月、越智郡岩城島に牧水を迎えた三浦敏夫は「創作」の計画に逸早く参加した一人である。郷里宮崎から東京に戻る牧水は、数日を割いてこの岩城島に滞在。三浦の厚意をうけて歌集、「みなかみ」巻を編みあげたのである。三浦家はこの島の旧本陣、牧水の亡きあと、その足あとを尋ねて、若山喜志子夫人が訪れたのは昭和二七年一〇月のことである。
 当時、愛媛師範学校にも牧水ファンが若干数えられた。彼らは卒業してそれぞれの小学校に奉職後も「創作」の会員として、自然派の流麗な歌を詠みつづけた。天野陽一郎(伊予市)・大野一柳子(大洲)・竹田千越(松前)ら、更に森下笹吉(伊予市)・永易寿男(新居浜)・渡部誠(松山)・山口夕花(城辺)らいずれも各地に於て短歌活動の先達となった。この中でも森下笹吉は堅実な詠風にその才気を認められて、牧水から激励の手紙をもらったりした。山口夕花(本名虎松)は八幡浜商業学校を出る頃から牧水に傾到、みずから短歌中心の文芸誌「橋の上」を発行して夢多き青春時代を送ったが、志なかばにして早世した。以上は大正二年から同じく一〇年に至るあいだの牧水傘下の動静である。
  みはるかすうれ麦の畑のところどころ白く輝く除虫菊の花      三浦 敏夫
  庭石の根締の石蕗の咲き揃ひ吾が目論見のはかどらぬ日日      三浦 敏夫    春の野に若草を踏みつゆを踏み思ひなやみてありにけるかも     森下 笹吉
  春さむき夜のちまたにあきなへる鉢のすみれの紫ぞ濃き       森下 笹吉    電線につばめいちれつにならびたりとほきいらかにあきの日光り   山口 夕花
  遠くみればせかせかきらきら光りたり稲刈るひとはおのれ知らずも  山口 夕花

 「幽光」の発足

 第一次「幽光」の創刊は大正八年のはじめ、相拠るは西原重敏(新居浜)・久保田樫郎(宇和島)・堀尾清(松山)・牧三郎(重信)・藤田夕葉(西条)ら、そのほとんどは県立松山商業学校の生徒である。さながら松明をかざした若者の如く意気軒昴として短歌の制作に取り組んだ。指標は空穂らの重厚な歌によって占められている「国民文学」。越えて大正九年、一〇年と継続した「幽光」は一三輯で休刊。このあとは堀尾清の「瑠璃」と、やはり「幽光」の同人であった薄井次郎の「うねび」が個人的に発行されたけれども、大正一三年に合併して第二次「幽光」の再発足を見た。メンバーは第一次と変わりなく、この上に山下陸奥(新居浜)、中井コッフ(宇和島)らの後援を得て、以前にも増して活気に満ちた作歌を展開した。
 しかし、これも中軸的存在の堀尾の病死に会い「幽光」は彼の追悼号である第一四輯を限りに終刊。住友に就職して新居浜に帰った西原重敏はその後上京、松村英一をたすけて「国民文学」を編集、その一生を終わった。また「幽光」を事実上自力で支えて来た久保田樫郎は上京して児童文学に転向、今日も多くの作品を執筆している。児童文学者久保喬と名乗るのがその後身である。

  朝の妻かやのつりてをゆりならしたためる見れば涼しかりけり    西原 重俊
  かすかにも朝の露もつねむの葉の覚めつつひらくみどりすかしも   西原 重俊    岩が根にかたく凝れる古雪を掘れば出でくる青き熊笹        久保田 樫郎
  霧ながら朝明けくれば谷床にここだく光る岩の間の水        久保田 樫郎   柿畑にあしたふきたつ風の音さやけきものに吾ききにけり      堀尾  清
  冬庭はさびれ久しきしづもりにひとむらの水仙青々と萠ゆ      堀尾  清

 歌人往来

 長崎医専(現在の長崎医大)教授であった斎藤茂吉(アララギ)は、文部省の在外研究員として離任。一たん帰京する途中、大正一〇年三月二〇日松山に立ちより道後に一泊、翌三月二一日子規の遺跡をたずねたあと香川県に向かった。また大正一五年七月、福岡の九州医大で喉頭結核の治療手当てをうけていた長塚節(アララギ)が東京に帰る道すがら松山を訪れて道後に二泊。一遍上人ゆかりの宝厳寺、更に和気の太山寺で秘仏の木像を見ている。しかし、茂吉、節ともに松山に於ける作品はない。
 「覇王樹」主宰の橋田東声は、高知県中村に帰郷の途次、大正二年三月宇和島の中井コッフを訪問一泊。次の日は、丸之内組合教会で短歌についての講演をした。